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日蓮大聖人・池田大作

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人権闘争のモデル――不軽菩薩の実践  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 真の人権の実現には、「世界人権宣言」が志向しているような、国家などの枠組みを超えた人類の「連帯」が不可欠です。ユネスコ人権平和部の部長であったK・ヴァザックも「連帯の権利」を「第三世代の人権」として掲げています。
 フランス革命の三原理、「自由」「平等」「友愛」のうち、「連帯の権利」は「友愛」にもとづく権利とされます。つまり、国家、民族などを超えた、「人間」への友愛という立場に立つものです。
 ルソーは、自然状態では、人間は「自己愛」とともに「憐れみの情」をもつと説きました。この「憐れみの情」は「友愛」の現れです。彼は、それを「人の不幸をできるだけ少なくして、汝の幸福を築く」振る舞いをすることであると説明しています。
 これはまた、仏法の「慈悲」に通じゆく思想です。人々の幸せを離れて、自身の幸せはありません。
 仏法者の行動の基盤は、慈悲の精神です。「慈悲」の「慈」は、パーリ語(古代インドの口語)の「メッター」、すなわち「友情」であり、「悲」は「憐れみ」「共感」を表す「アヌカンパー」です。
 「慈」とは「抜苦」、「悲」とは「与楽」であり、「慈悲」とは人々の不安や恐怖を除き(抜苦)、喜びと安心と希望を与えること(与楽)です。
 人々の幸福のために戦うのは、仏法者として、否、人間として当然のことでしょう。だが、簡明なことほどむずかしい。仏の教えの真髄は簡明です。“一人の人間を大切に”です。仏とは、“一人”の幸福のために、間断なく精進する者、勤め励む者なのです。
 アタイデ 二十一世紀は、完全なる平和と完全なる倫理の時代であり、「精神の力」がはかりしれないほどの働きを示す世紀になるでしょう。
 池田 二十一世紀を開く「精神の力」は、自他ともに具わる尊厳性の自覚によって開花していくでしょう。
 仏法では、利他の精神から行動していく人を、菩薩と呼びます。仏典には、文殊菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩など、さまざまな菩薩が登場します。
 これらの菩薩は、その特性を生かして、衆生のために献身し、苦悩・災難から救う働きをします。たとえば、文殊は智慧、普賢は学理、弥勒は慈悲心、観世音は世音(世の中の状況)を観じる力をもって、衆生の苦を救います。薬王は名のとおり、医薬を用いて病気を治します。
 日蓮大聖人は、多くの菩薩のなかでも、実践の模範として、『法華経』に登場する不軽菩薩に注目します。「不軽(軽んぜず)」という名にも示されているように、どのような人も軽んずることなく、最高の敬意を示しました。
 『法華経』には、彼が次のように語って人々を敬ったと説かれています。
 「私は深くあなたがたを敬います。決して軽んじたり、思い上がったりしません。それはなぜなのか。皆さんは、菩薩の道を修行して、やがて成仏することができるからなのです」と。ここに、『法華経』の人間尊厳の精神が凝縮しています。不軽菩薩は、このように、すべての人に合掌礼拝したのです。
 日蓮大聖人は不軽菩薩の行動を「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(「崇峻天皇御書」)と、仏法の実践の要諦として位置づけています。
 不軽菩薩の振る舞いは、“一切衆生には仏性があるゆえに尊厳である”という信念にもとづいています。いかなる人間であっても、内在する「仏性」――普遍的な尊厳性を発揮していけば、最極の人生道を開くことができる。その道を自他ともに進むのが、菩薩道の実践です。
 アタイデ あらゆる偏見を取り除き、厳密に洗練された平等観は、妙なる宗教的感覚と崇高な法理に則るものです。
 池田 会長が提示する二十一世紀への路線と指針は、人類を恐怖から解放し、新たなる世界へと覚醒させるでしょう。反差別と平等の尊重こそ、この尊き世界を守ることになるにちがいありません。
 池田 菩薩道こそ、「第三世代の人権」の展開のなかで、集約されていった人権――“自己実現によって幸福になる権利”を達成しゆく人間道を提示しているのではないでしょうか。
 不軽菩薩は、みずからを嘲笑し、迫害する人にすら、非暴力と慈悲をつらぬき通し、菩薩道を全うしていった。
 不軽を嘲笑した人とは、彼の“自己実現”の姿を目のあたりにして、ついに不軽とともに、苦悩の人々を救う菩薩道を行うことを決意するのです。不軽菩薩の行動は、まさに二十一世紀の「人権闘争のモデル」といえましょう。
 その特徴を要約すれば、
 ①絶対的平等への信念
 ②「非暴力」「慈悲」による対話の持続
 ③自他ともの自己実現への挑戦
 となるでしょう。
 「絶対的平等への信念」とは、すべての人は、平等に「仏性」という究極の尊厳性を具えていると信じることです。
 「“非暴力”“慈悲”による対話の持続」とは、決して暴力的な手段に訴えることなく、あくまで「対話」を機軸として、瞋恚(怒り)や貪欲(貪り)、愚痴(愚か)等の悪心を打ち破り、慈悲と正義の精神を覚醒する戦いです。それは偉大なる「魂の力」「精神の力」による悪への挑戦であり、善を呼び起こす道なのです。
 「自他ともの自己実現への挑戦」は、菩薩の勇敢な戦いによって可能になります。仏法でいう「自己」とは、人間生命に内在する「仏性」にほかなりません。「仏性」を開くことによって、すべての人々が、それぞれの特有の個性を開花させるところに、自他ともの幸福境涯が築かれてゆくのです。
 「不軽品」の展開は、まさに自他ともに“幸福の権利”を満喫しゆく理想社会を志向しています。
 アタイデ 池田会長の思想・行動の志向性は、どこまでも未来に向かっています。人間を生きとし生けるものの支配者であるとの慢心から目覚めさせ、人間が人間たるゆえに、もたなければならない、信仰という高次元から、新しい人類の歴史を開くための価値観を教えられています。

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