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聖職者からジャーナリストの道へ  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

前後
1  アタイデ 神学校を去り、リオデジャネイロにやってきてからは、壊れていないオルガンは少なく、演奏する機会もなくなりました。ずっと後になって、オルガンを購入する余裕ができ、自作の曲を公開演奏したりしました。
 その後には、ジャーナリストとしての仕事とブラジル文学アカデミーの主宰の仕事のために、音楽の勉強はほとんどできなくなりましたが、そのおかげで即興の作曲をするようになり、数多くの曲を作曲しました。
 池田 “一芸に秀でる”と、それだけでこぢんまりとまとまってしまう場合がありますが、総裁はエネルギッシュに、ご自身の多様な可能性を発揮してこられた。今でも作曲をなさるのですか。
 アタイデ いいえ。時とともに、感興はわかなくなり、今では、オルガンの前に座っても、インスピレーションがほとんどわきません。私の演奏を聞き、喝采してくれた妻を失ってからは、オルガン奏者としての私の経歴は、永遠に幕を閉じました。
 池田 深く胸を打つお話です。ところで、神学校をやめ、聖職者への道を断念した理由は何ですか。
 アタイデ 私自身、司祭の道を断念した理由を一言で説明するのはむずかしいことですが、私は別の人生を歩むことに決めたのです。
 神学校で旧約と新約の二つの聖書の問題にも取り組んだのですが、何ごとにも懐疑的であった私は、聖なる三位一体の神秘性に疑問を投げかけ、司祭になろうとする使命感を断念してしまいました。また、キリスト教の歴史に、大きな矛盾も感じていました。このことは、八年間の課程を通じて、私を迷わせました。
 それからずっと後のことになりますが、聖職者や宗教に対する私の考え方、さらに子どもの移り気が、聖職者への失望につながったということを、短い物語にして記事にしたこともあります。
 私は、聖職者になることが必然的であると思われる状況にいました。しかし、それが正しい進路なのかという疑問が、私に聖職者になることを断念させたのです。
 池田 具体的に決断する出来事があったのですか。
 アタイデ ええ。その一つの理由が、十二歳のときの出来事でした。当時、月一回、学生たちが文化センターに集まり、集会が開かれました。
 そのとき、私は演壇に立ち、ルイ・バルボーザを支持し、エルメス元帥に反対する演説をしたのです。その演説を聞くや否や、校長である司祭は、私に演壇から降りることを命じました。そして大声で「神父は政治活動をしないものだ」とどなられました。
 人道主義の立場から物を言うことがなぜ悪いのか――私には理解することができませんでした。
 池田 後年の「自由と人権の闘士」を彷彿とさせるエピソードです。
 アタイデ 私はつねに物事に疑問をもつ人間でした。あるとき、私が生まれながらにしてもった宗教、すなわちカトリックでは、だれもが、「普遍的で最高位の立場」とされるローマ教皇の座につけるわけではない、ということを知りました。なぜなのか――との疑問が、私の頭にわいてきました。
 ともあれ、私は裏切られたわけです。軍職が聖職よりも優れたものではないかとも考えました。ヘラクレス橋を渡り、世界を征服するために出陣したナポレオンのように、自由を求め、夢を見ていたのです。
 池田 ジャーナリストとしての道を歩まれるきっかけは何だったのですか。
 アタイデ 神学校の校長であったキリェルメ・ワッセン神父に別れを告げにいったときのことです。そのとき、神父から私に驚くべき言葉があったのです。
 「神学校からお前が出ていくことは、高貴な聖職者になれるであろう人を失うという意味で損失であると思う。しかし、お前はジャーナリストに生まれついており、公開の場における演説者としての天賦の才能をもっている」と。
 これが、ジャーナリズムと演説を業とする私の人生を決定づけた運命的な言葉となりました。
 池田 総裁は、その後、リオデジャネイロに移り(一九一八年)、旧首都の法科大学(現在のリオデジャネイロ連邦大学)の法律・社会学科に入学され、学位を受けられています(二一年)。どのような青年時代だったのですか。
 アタイデ 私には、わが国の将来のために尽くし、その発展に積極的に参画できる機会があるかもしれないという、青春時代の夢がありました。その夢は、ルイ・バルボーザによって具体化されました。彼の演説は、当時の自由主義運動に多くの若者をひきつけました。私は、その運動に協力するために、ジャーナリズムに大きな可能性があると思いました。
 二十二歳のとき、「コレイオ・ダ・マニャン」紙の文学評論家であった私に、社主であった有名なエドムンド・ビッテンコウト氏から、ダンテの没後六百年を記念する寄稿を、一ページにわたって書くように依頼を受けました。
 池田 私も若き日に、ダンテを愛読しました。トインビー博士と、ダンテについて語り合った懐かしい思い出もあります。
 アタイデ 彼の人生の最高の名言は、フィレンツェ共和国が、彼に祖国へ戻ることを許可したときに発した、あの神聖な言葉です。「私は決して戻りはしない」と。最高の詩人ダンテは、高貴さをもって、不滅の言葉を叫んだのです。
 池田 彼は、自分を追放した悪しき権力者に決して屈しなかった。そして、みずからの悲劇を、偉大なる芸術を創造しゆく力に変えていったのです。その崇高な生涯は時を超えて光を放っています。
 総裁は、青年時代から今日まで、一貫してジャーナリストの道を歩まれていますね。
 アタイデ すでに七十五年間、勤め上げたことになります。ジャーナリストの世界においては、一つの会社で働きつづけた論説記者としては、疑いなく私が、世界で最長老でありましょう。その会社は、有名なアシス・シャトーブリアンが創設したディアーリオス・アソシアードス社です。三十年間にわたり、私は、国際政治についてのコラムを書きました。通信社でも論説委員として働きました。
 池田 シャトーブリアン氏は、サンパウロ美術館の創立者としても有名ですね。氏の言葉に「私の使命は、自分が人々をリードしていくことではない。人々をリードしていく指導者を育てることである」とあります。氏もアタイデ総裁の活躍を喜んでいることでしょう。
 アタイデ ありがとうございます。

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