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アタイデ総裁の生い立ち  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 それでは、まず最初に、日本の青年のために、アタイデ総裁の人となり、ご家族のことなどについて、いくつか質問させていただきたいと思います。まず、総裁が生まれたのはどちらですか。
 アタイデ 私はペルナンブコ州カルアル市で生まれました。大西洋に突き出した、ブラジルの角にあたる部分です。家族の健康のために、空気の澄んだこの街に、転地療養で移り住んでいたのです。
 一八九八年九月二十五日、私は生まれました。九十五歳になろうとする今日まで、人生のすべてを、この発展途上国ブラジルで過ごし、一個の“生の証”を立ててきました。私たちの人生と同じように、私たちの子どもたちもまたブラジルを理解し、その発展に尽くし、貢献することを願っております。
 池田 恩師戸田先生は、一九〇〇年の生まれでした。存命であれば、総裁と同じ年代です。私には、総裁の足跡が恩師の人生と二重写しに思えてならないのです。恩師の誕生日(二月十一日)を、リオの地で総裁とご一緒に迎えることができ、私は感慨深く思っております。
 総裁がお生まれになったのは、お国が連邦共和制に移り、新しい時代を迎えて、約十年後のことでしたね。
 アタイデ そうです。私は生まれたとき、六キログラムもあったそうです。取り上げた助産婦が驚いて、町中に言ってまわったので、多くの人が大きな赤ん坊を見に、押しかけてきたということです(笑い)。陸軍士官であった祖父は、身長が二メートル近くもあったのですが、私の足をつかんで持ち上げ、「何と大きな子だ」と言ったそうです。もし、私にそのときすでに思考能力があったならば、偉大な誕生の日であったと感じていたでしょう。(笑い)
 池田 おおらかな、また、ほほえましい情景が、眼に浮かぶようです。
 アタイデ 私が一歳のとき、家族とともにセアラ州に移りました。フォルタレーザ市のプライーニャ神学校に入る前まで、生まれてからの数年間は、十九世紀終わりの、家父長主義にもとづく純朴な時代と生活のうちに過ぎていきました。
 池田 そのころの最も印象深い思い出は何でしょうか。
 アタイデ 父のことをよく覚えています。私の父は、この地で、検事、判事を歴任したのです。三十一歳で高等裁判所判事として、州都フォルタレーザに転勤となり、公立図書館の館長も務めました。父は文化水準の非常に高い人で、七、八カ国語を話し、子どもたちの教育にも熱心でした。たとえば日露戦争のことも、父の説明を通して知ることができました。
 池田 日露戦争の勃発は、一九〇四年(明治三十七年)二月のことです。総裁が五歳のころですね。父上は地球の反対側で起こった出来事を、わが子に語り聞かせていた。
 かつて、駐日英国大使であったフレッド・ウォーナ夫妻と懇談した折、氏が、子どもをつねに一個の人格としてあつかい、わかってもわからなくても、複雑な国際問題を話して聞かせている、という話をうかがったことがあります。こうした父から子への対話は、子どもの心の世界を大きく広げていくのではないでしょうか。
 ところで、いちばん悲しかったことは。
 アタイデ 非常に小さいころから、愛する人を失うという、子どもにとっては恐ろしい経験をしました。
 まず第一に、まだ四歳だった兄弟の死でした。ある日のこと、日が暮れようとしているとき、彼は祈祷室の前で遊んでいました。キリスト教徒の家には、普通、祈祷室があり、いつも、ロウソクが灯っていました。彼は、火遊びを始め、そのうちに服に火が燃え移り、下半身に大火傷を負ってしまいました。結局、二十四時間後に亡くなってしまいました。
 池田 総裁の悲しみを察します。
 仏教では、人間の根本苦の一つとして、「愛別離苦」をとりあげています。すなわち、愛する人と別れなければならない苦しみです。少年期のそのような体験は、とりわけ深く生命に刻まれるものです。
 アタイデ そのときの様子は、今もありありと思い出されます。
 父は最後の力をふりしぼり、みずからの手で死んだ息子を金箔の柩に納め、墓穴の奥に息子が消えていくのを見送っていました。しかし、墓地から家に帰った父は、力も失せ、深い悲しみにうちひしがれていました。たとえどんなときにも落ち着きを失わないと思われた父でしたが、部屋に閉じこもり、息子の悲劇的な死に、ほとんど遠吠えのように泣いていました。
 池田 子どもに先立たれた親の心情は、私にも痛いほどわかります。しかし、総裁はその後、兄弟の分も長生きをされ、行動しておられる。総裁の力強き人生のなかに、すべての悲しみが今、昇華されているように思えてなりません。
 アタイデ それ以外に、死の悲しみに遭遇したのは、私が六、七歳のときのことでした。そのころ、いつも一緒に遊んでいた一人の年上の少女がいました。彼女はチョコレートの小箱を抱えていました。そのチョコレートの匂いは、今でも思い出されます。
 ある日、母は私にこう告げました。「もうこれからは、エディスフォルツーナ――彼女の名前ですが――と遊んではいけません」と。理由は教えてはくれませんでした。そのときの深い失望は忘れられません。
 少女は結核にかかっていたのです。当時、結核は、手の施しようがない病気でした。少女が与えてくれたあの優しさを、私は永遠に失ってしまいました。その嘆きのなかで、私は、死というものは取り戻すことのできない不幸な事実である、ということを知ったのです。
 池田 私も小学校に入学する前、結核を患ったことがあります。病気がちであったせいか、いつも脳裏から、生死の問題が離れることはありませんでした。
 「死」と直面することは、その悲しみ、不安を乗り越えることによって、生命そのものへの洞察を深めるものです。私自身は、「生死」への探究が、青年時代にめぐりあった仏法哲理の確かな体得へと結びついていきました。仏法では、この「生死」を「本有の生死」、すなわち、「生」と「死」は、生命本来にそなわるものであり、生命の二つの側面であるととらえています。
 戸田先生は、人間にとっての生死を、「眠り」と「覚醒」に譬えてわかりやすく説明していました。人間にとっての「死」とは、一日の活動を終えて、眠りに入るようなものである。そして、睡眠中に疲れをいやし、朝、目覚め、次の新たな活動に入るように、この世での「生」を終えて、「死」という“眠り”に入った生命は、疲れをいやし、生命エネルギーを充満させて、ふたたび蘇生してくるのだ――と。
 仏法の「本有の生死」という考え方は、私の生死観の基調となっています。
 総裁の少年期における悲しみの体験も、人生観、生死観の深化、確立へと強い影響をおよぼしていったのではないでしょうか。
 アタイデ はるか昔の出来事ですが、鮮明に記憶しています。
 彼女の最期の日のことです。司祭が教会の四人の人とともに危篤の少女のもとへ行き、終油礼(カトリックの信者の臨終に際し、身体に香油を塗る儀式)を授け、聖餐式(イエスの血と肉とをあらわすパンと葡萄酒とを会衆に与えるキリスト教の儀式)を行いました。私は自分でも説明のつかない衝動にかられながら、その一行に加わり、司祭が少女に最期の慰めを与えるのを見ました。
 池田 聖職者の道を志されたのは、こうした体験からですか。
 アタイデ ええ。そのとおりです。
 家に帰った私は、将来、神父になるという強い意思を母に告げました。この事件がきっかけとなったのです。この思いが、私がプライーニャ神学校で、八年におよぶ寄宿生活をつづける原動力になりました。
 池田 総裁が、神学校に入学されたのは何歳のときでしたか。
 アタイデ 十歳のときのことです。私は聖書の解釈について学ぶため、アラム語、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、英語、サンスクリットを学習する必要がありました。また、宗教面だけではなく、世界への視点という観点からも、非常に豊富な知識を蓄積しました。
 十二歳のときには、すでに神学校の文学討論会で演説をしていました。天文学、幾何学、物理学、化学に関心をもっていました。その後、教職課程を修了し、二つの高校で教えました。
 池田 総裁はたいへんに優秀な学生であったとうかがっております。
 アタイデ すべての科目において、いつも首席でした。しかし、多くの場合は、“学ぶ喜び”を味わうよりも、首席をとることに喜びを見いだしていました。
 その反省をこめて、在学中のわが子らに、こう忠告しました。「首席をとるためだけの目的で勉強するな。それでは、ある意味で、教育を不毛なものにし、学生の情緒的な発達を妨げてしまう」と。
 池田 お子さんたちはホッとされたのではないですか(笑い)。勉強以外では、何に興味をおもちでしたか。
 アタイデ 音楽です。じつは、私が音楽愛好家であることを知る人は、あまりおりません。私は合唱団のリーダー格でした。オルガンの前で、多くの時間を費やしたものです。
 池田 主にどんな曲を弾かれたのですか。
 アタイデ 「フーガ」などです。神学校の校長は私の演奏のファンでした。(笑い)
 こんなエピソードもありました。セアラ州のある高校を訪ねたときのことです。神父たちは、賛美歌を歌った後、早く床につきます。私はしばらくの間、一人になりました。私は礼拝所に行き、オルガンの前に座り、バッハの曲を弾きたいという衝動にかられました。赤いランプが灯るだけの、ほとんど暗闇の礼拝所でしたから、オルガンを弾けば、夜の穏やかな沈黙を乱すことになってしまうという危惧がありました。しかし、ほとんどの修道僧が、私のオルガンを聞くために礼拝所にやってきたのです。それは、私の無邪気な誇りを満たしてくれた一時となりました。
 池田 素人ですが、私も時折、友人に請われるまま、ピアノを演奏することがあります。いくつかの曲を作曲もしています。故郷や、恩師を偲んだ曲です。
 アタイデ それはすばらしい。

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