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日蓮大聖人・池田大作

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後記 「池田大作全集」刊行委員会  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
2  「生命の世紀」への探求』は一九九〇年(平成二年)十月に読売新聞社から発刊され、副題として「科学と平和と健康と」が付されている。同書はその後、九六年(平成八年)五月に聖教文庫にもおさめられた。
 一方、『世界市民の対話』は月刊誌「潮」(潮出版社)に一九九〇年二月号から十一月号まで連載され、その後、九一年五月に毎日新聞社から出版された。「平和と人間と国連をめぐって」との副題がそえられている。
 今回、全集に収録するにあたり、両書とも翻訳上、表現上の正確さを期して若干の修正がくわえられ、さらに新たに注を付した個所のあることを、ご了承願いたい。
3  ライナス・ポーリング博士は、一九〇一年生まれ。九十四歳で逝去。まさに激動の二十世紀を、グローバルかつ多彩な活動で駆けぬけてきた感のする人生であった。よく知られるように、五四年にノーベル化学賞、六二年にはノーベル平和賞を受賞し、アインシュタイン博士らとならび称される二十世紀最大の科学者の一人である。とくに今世紀の構造化学の創始者であり、「現代化学の父」と呼ばれる。
 そうした化学上の業績はあまねく知られているが、同時にノーベル平和賞を受賞していることでわかるように、戦後、反核兵器を中心にした平和活動を精力的に進めてきた。核戦争の脅威を訴えた歴史的な「ラッセル=アインシュタイン宣言」(一九五五年)にも、現代世界を代表する十一人の科学者の一人として署名に参加している。
 さらに博士の研究は化学という狭い分野にとどまることなく、生物学、医学、健康の分野で顕著な業績をあげている。日本ではビタミンCの研究がよく知られているが、博士の関心はよりはば広いもので、その業績は三つ目のノーベル賞(生理学・医学賞)に値するという評価もされているほどである。
 その九十四年の生涯を大別すれば、博士は「科学の人」「平和の人」「健康の人」といえるかもしれない。
4  池田名誉会長との対談集では、こうした博士の多彩な活動のほぼ全貌が、数々の興味深いエピソードとあいまって明らかにされている。
 そこでは少年時代の思い出から始まり、勉学のこと、読書、教育、家庭、結婚などの身近な問題に話が広がり、さらには信仰と理性、幸福の条件等、博士の人となりが浮きぼりにされる。
 そして、テーマは「人類に貢献する科学」という視座から、宇宙と生命の起源、科学者の社会的責任、科学の発達と精神の開発、道徳科学などにおよぶ。つづいて医学、健康論にむかい、博士の専門である分子矯正医学、ビタミンCから、健康法、ストレス解消法、死ぬ権利、「脳死」問題等の現代的課題にいたるまで、縦横に論じられている。
 最後に、両者が最も力点を置いた世界不戦、恒久平和へのさまざまな提言でしめくくられている。
5  ここに論じられている多角的なテーマに明らかなように、博士は通例の「科学者」という枠を大きく超えた存在である。博士は「だれもが幸せになりうる世界を見たい」と願う真の人道主義者といってよい。かつてポーリング研究所の所長をつとめたズカカンドル博士が、ポーリング博士を評して「真の人道主義者かどうかを示すいくつかの特徴があります。それは『あたたかい心』と『強固な精神』、そして『勇気』です」と述べているが、まさに博士の生涯は科学者であるとともに、堅忍不抜の精神と勇気をもって権力と戦う人道主義者のそれであった。
 博士への迫害は、はげしいものであった。数十年にわたる努力でカリフォルニアエ科大学を一流校にしたものの、熱心な平和活動ゆえに当の大学首脳からも迫害される。はげしい反核兵器運動のため、国務省の妨害でパスポートがおりず、ノーベル化学賞授賞式への出席が危ぶまれたこと。五〇年代、共産主義者追放のマッカーシー旋風が吹き荒れるなかで、平和のためソ連との協調の必要性を説き、抑圧されたことなど。どんな非難にも博士は動ずるところがなかった。権力を信用せず、権力の支配に抵抗する姿勢を生涯つらぬいた。
6  さらに博士が真の人道主義者である理由は、生あるかぎり「人間の苦悩を最小限にする」ために働きたいとした生き方にある。それは仏法の「抜苦与楽」の精神に通ずるものであり、博士の深い人間愛の実践を思わせるものである。博士にとって「健康」の探求といい、「平和」の探求といい、人間の苦悩を小さくするためという点では同じ軌道にあるものであった。
 こうした人道主義の生き方は、まさにそのまま仏法者としての池田名誉会長の生き方にオーバーラップ(二重うつし)するものといえよう。それゆえに、両者の対談はみごとにかみあい、そこにさわやかなヒューマニズムの世界が現出している。
7  さらに興味深いのは、対談のタイトルとなっている「生命の世紀」に対する両者のとらえ方である。
 博士は、二十一世紀を「生命の世紀」に、との名誉会長の主張を「すばらしい考え」と高く評価したうえで、その意味するところは「人間生命そのものに今まで以上に焦点が合わされ、人間の幸福と健康が大事にされる時代」と述べている。そして二十一世紀は分子生物学がさらに大きく発展し、生命の実体への詳細な理解が得られる時代という。近代の化学、生化学、分子生物学の基礎づくりから体系化まで深くかかわり、偉大な業績をあげた博士の言だけに重みが感じられよう。
 これに対し、池田名誉会長は「人間生命の尊厳性がますます重視され、幸福な人生と生活を享受できる世紀」とし、「そのためには『生命とは何か』という根本命題がいちだんと探求され、そこに開示されゆく生命の実相に即しての新しい世界観の創出が不可欠」と主張している。すなわち一方では、分子生物学等による物質的側面からの探求、他方には、人間精神に光をあてた深い内面の探求が、ともどもに協調しあい、相互の知見に学びあうとき、「生命の世紀」を開きゆくための″生命学″が輝ける雄姿を見せるのではないか、としている。
 科学者と仏法者との違いを超えて、ともに生命を究極の価値にすえ、その尊厳を説く姿勢は対談全体をつらぬく基調音ともなっている。
8  両者が初めて会ったのは一九八七年二月。博士はサンフランシスコの自宅から空路、千キロ近く離れた創価大学ロサンゼルス分校(当時)へ。「平和について真剣に話しあえる人のところへは、どこへでも行く」との信条の表れであった。
 当時、博士は八十五歳。なお平和、医学、健康などへの関心は衰えを知らず、両者は年齢の差を超えてたちまち意気投合した。読者は容易に察知されると思うが、平和のために権力に抗した博士の勇気ある戦いの人生は、そのまま名誉会長のそれと軌を一にする。
 初めての出会いで、博士は言う。「とくに世界平和を達成するために、たいへんな努力をされている方とお会いできたのを喜んでおります。その努力が実るように私にできることは、なんでも喜んで協力させていただきます」と。読者は読み進むほどに、こうした世界平和のために戦う同志的絆を行間から感じとるにちがいない。両者の感情は深いところで強く結びあっている。
 八七年の初の会談以来、両者の出会いは四度におよぶ。九三年一月におこなわれた米国クレアモント・マッケナ大学での名誉会長の講演に、博士はコメンテーター(講評者)として出席。「池田氏が示している菩薩の精神こそ、人類を幸福にするものです」と高く評価した。さらに同年の三月に再会したさいには、博士の業績を広く紹介する「ライナス・ポーリング展」の開催を名誉会長が提案。今秋(九八年)九月からサンフランシスコで、「ライナス・ポーリングと二十世紀」展のタイトルで開催される運びとなっている。このように、名誉会長の約束が実現することはまことに喜ばしい。
 「ポーリングは、ニュートン、ダーウイン、アインシュタインとならび、すべての時代を通じての『二十人の最も偉大な科学者』の一人」(英国のコュー・サイエンテイスト」誌)と評されるほど巨きな存在だが、博士の平和、科学、健康などに対する生の声がまとまったかたちで明らかにされたのは、この対談集が初めてである。本対談集は日本語版のみならず、現時点で英語・スペイン語・中国語・ベトナム語・韓国語・フィリピン語版でも出版されており、その意義は時代とともに輝きを増していくであろう。
9  一方、ノーマン・カズンズ氏は米国ジャーナリズム界の巨人と評される。一九一五年生まれ。コロンビア大学を卒業後、ジャーナリズムの世界に入り、総合評論誌「サタデー・レヴュー」の編集長に。三十年におよぶ編集長時代に、同誌を発行部数六十五万部の一流総合雑誌に成長させるとともに、自身も活発な評論活動を展開。人類的視野に立ったユニークな発想と深い見識は、多くの人々の心をとらえた。
 七七年、氏はジャーナリズムの世界からカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部教授に転身するという大きな決断をし、同校の脳医学研究所に所属した。
 池田名誉会長との対談は、UCLAで精神神経免疫学という医学の最前線の研究を進める多忙ななかで、時間をこじあけるようにしてなされたものである。
 対談は主に平和論に焦点をあてておこなわれた。カズンズ氏といえば、日本では両親を原爆で亡くした孤児たちのために米国で里親を見つける事業を進めたり、被爆した若い女性たちの渡米治療のために奔走したことで知られる。対談はそのヒロシマの体験から始まり、平和教育、希望の哲学、民間外交等におよび、さらに国連をめぐるさまざまな課題を論じ、具体的提言がなされている。国連の問題をはじめ、こうした問題にかねてから深い関心をいだいてきた名誉会長との対談は、きわめて示唆に富み興味深いものとなっている。
 ここでは、対談の随所に見られるカズンズ氏のユニークな発言をさらによく理解するために、その人物と思想の特質についてふれておきたい。
10  その特質の第一は、池田名誉会長が氏を「行動的思想家」と評しているように、そのユニークな発想と、それにもとづくたくましい行動力が、ジャーナリストの枠をはるかに超えるものだったということである。まさにグローバルなスケールの大きさは特筆に値する。活発な言論活動のかたわら、ある時はケネディ大統領やローマ法王ヨハネス二十三世の依頼でフルシチョフ首相をモスクワに訪ね、東西間の協調と平和のために尽力。またある時は、広島の被爆女性たちや、ナテスの強制収容所で生体実験に供せられたポーランドの女性たちを、治療のためアメリカに招くために奔走。あるいは世界連邦協会の会長として国連強化運動をリードするなど、その活躍はめざましいものであった。
11  その行動力の裏に、驚くべき先見性があった。それは「世界市民」としての人類的自覚に立ったものであった。
 一九四五年八月六日をもって人間は新しい時代を迎えた、とカズンズ氏は言う。すなわち、核兵器の出現によって、国家がおこなう戦争は国民を守るどころか、自国をふくむ全人類を破滅させうるものとなった。したがって、核時代において最も時代遅れなのは国家主権である、と考える氏は、国民としての人間から、世界人としての人間に変わらなければならないと主張する。
 国家主権から人類主権へ。国家益から人類益へ。競争的人間から協力的人間へ。世界戦士から世界市民へ。氏がこうした主張をおこなったのは、じつに四五年八月、広島、長崎への原爆投下からまもなくであった。時にカズンズ氏、三十歳。その先見の明はきわだっていたといってよい。
12  第二に、人間へのひたむきな信頼、すなわち人間のもつ潜在的可能性への揺るぎない確信である。氏の一生は、その可能性を追いつづけた一生であったといえよう。あきらめるな、やればできる、だから力を振りしばって行動するのだ――その理想主義的楽観主義に、氏の特質がよくあらわれている。
 さらに、その人生を読みとくキーワードは「希望」の二字である。対談集の第三章で、その「希望」の哲学を両者が縦横に語りあっている。
 「希望こそ私の秘密兵器」と言うカズンズ氏にとって、「希望の力」は人間をささえる根本の力であり、同時に平和への根本の力でもあった。
13  なぜ人間にとって「希望の力」がそれほど重要なのか。それを氏は、みずからが膠原病、心筋梗塞という二つの大病を奇跡的に克服することによって実証した。希望、信念、意欲、信頼、愛情、快活さ、安心感、楽観、使命感といった肯定的感情が、体内の治癒力を高めることを実証したのである。
 人間には、神経系、免疫系、循環系などのほかに、二つの重要なシステムがある。治癒系と信念系である。治癒系は病気と闘う、身体の総力を動員する機能をもつ。これと共同して働くのが、精神の信念系である。信念系における前述したような肯定的な感情が、治癒系を活性化し、身体を回復させる。
 「人間の脳が、考えや希望や心構えを化学物質に変える力ほど驚嘆に値するものはありません。すべては信念から始まります」と。
14  そして、なぜ平和にとって「希望の力」がそれほど重要なのか。それをカズンズ氏は被爆四年後の広島の復興のなかにいて実感する。「まさに地上の最大の力、戦争のためのいかなる装置や爆発物よりも偉大な力、それは、生きぬく意志であり、希望を受け入れる人間の能力である」との言葉に、氏の思いが率直にあらわれている。
 希望の力は無力感と対極にあるものであり、無力感こそ平和の敵である。だからこそ、無力感、絶望感におちいっていた広島の被爆女性や、ポーランドの女性たちを、希望の大切さにめざめさせる試みに、氏は全力をあげたのである。
15  名誉会長はカズンズ氏と三度会談している。アメリカの最も良質なヒューマニズムの体現者といわれるカズンズ氏だけに、会談の雰囲気はきわめて人間的なあたたかさに満ちたものだったという。そして、最初の会談のなかで氏は「結論的に言えば、人間の可能性を尊重することこそが最も重要だということです。人間はいまだかつてなされたことのないことをやれる、大きな能力を秘めている。この力をわれわれは尊敬しなければならない」と強調した。これに対し、名誉会長は、氏の思想には仏法の見方に通じる点が多いとし、深い共感の思いを吐露している。さらに名誉会長は最初の会談の思い出を後日、「カズンズ博士の目が、鷹のように鋭く、それでいて菩薩のように深くあたたかかった」と述べている。
 氏はみずからの宗教的信条を深く胸に秘めて、ふだんは決して、それをストレートに語ろうとはしなかった。しかし、誠実無比の人柄と、人間、宇宙、死、生命、人類、理性などへの深い思索と発言には、その内面に秘められた宗教的信条が、たくまずしてにじみ出ていたといえよう。そこに、両者の深い共感が生まれたのではあるまいか。
16  二十世紀という時代がやがて幕を閉じようとしている。多くの戦乱、紛争が人々を打ちのめしてきた時代。膨大な人命が失われてきた世紀。そしてついに人類絶滅の兵器を手にしてしまった世紀。この時代から、われわれは何を教訓として学びとったらいいのか。それは新しい世紀を指呼の間にした人類の大きな課題である。
 二十世紀という激動の時代にあって、あらゆる困難に屈せず、みずからの信念に生き、理想を追いつづけたポーリング、カズンズ両氏の発言から、われわれは大いなる教訓を学びとることができる。その並はずれたスケールの大きさから、こうした人物は現れがたいことを思うと、池田名誉会長が時を得て対談を編んだことの意義を思わずにはいられない。とりわけ、二十一世紀、「生命の世紀」へ羽ばたく青年たちに、本全集に目をとおしてほしいと願うゆえんである。
     一九九八年五月二日

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