Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

あとがき  池田大作  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
1  ノーマン・カズンズ氏は、昨年(一九九〇年)十一月三十日、急逝された。もとより私にとっても、突然の逝去だった。この対談集への「序文」がロサンゼルスから、同月十九日に送られてきて、拝見した直後のことであった。
 以来二ヵ月、私の胸中には、なお言葉に表しえないものがある。
 しかし「人生最大の悲劇は死ではなく、生きながらの死である。生あるうちにわれわれの内面のものが死に絶える。これ以上に恐ろしい人生の悲劇はない。大事なことは、生あるうちに何をなすかである」というのが氏自身のふだんの言葉だった。ロサンゼルスでの私との対談は三度におよぶが、そのなかでも氏は三度、この言葉を繰り返された。
 これはたんなる名言ではない。みずから生死の意義を一身に体現し、生をまっとうする覚悟の人だったればこそ、ノーマン・カズンズ氏はそう語り、万人を励ましてやまなかったとの感を、私はあらためて深くする。
 その生涯七十五年、それにしても多忙をきわめる人だった。そのなかにあり、五十歳を過ぎて、難病を三度わずらわれた。
 はじめは膠原病、次は六十五歳で心筋梗塞、いずれの場合も九死に一生を得るという体験をされ、しかもそれが自分の意志による克服だったことは、その体験記の邦訳書『死の淵からの生還』『私は自力で心臓病を治した』等により、日本でも知る人が少なくないだろう。
 思うに、カズンズ氏は六十五歳以後、みずからの意志で寿命をあたかも十年延ばされたといえるのではなかろうか。
 かさねて言えば、最初の対談で冒頭に氏が述べられたことを思い出す。それは私の懇談的な語りかけに答えられたのであったが、氏はこう語られた。
 「自分の人生を建築家が精密に図面を引いて設計するようには考えなかった。それでも十年単位のプランを立て、最初の十年は音楽に、次の十年は科学・医学に、さらに著作、ジャーナリズムに、最後の十年を哲学に、と考えていた。しかし『サタデー・レヴュー』誌に長くかかわるようになり、三十五年間をジャーナリストとして送ることになってしまった。そのあと医学に移った。まだ二つの分野が残されているが、だいたい計画どおりに進んでいると思う」
 そういう氏の生き方が、私にはよく理解できた。ゆえに私も、「十年単位に何らかの目標をもって生きてきたし、二十代、三十代、四十代といった節々の生き方を人にも訴えてきたつもりである。そうしたこととも符合する氏の生き方は深く私の胸に刻まれる」旨を申し上げた。そのとき、私が直覚したのは、「ここには専門家がはばをきかす現代においてルネサンス人(全体人間)たらんと志してきた人がいる」ということであった。
 その一生をカズンズ氏は、言論人としてつらぬきながらも、ペンの力だけによらないところがあった。その点も、私にはよく理解できる。すなわち氏の言論には絶えず行動がともない、平和と人権のため東奔西走するなかに他者との対話がともなった。氏は行動的な思想家であったと私は思っているが、その行動をささえた思想はいったい何であったかを、ここで私は考える。
 人間は各自が深い精神的可能性を秘めている。このことを仏法は「十界論」によって解き明かしているが、人間の心のさまざまな可能性をカズンズ氏自身が綾々語られるとき、仏法の人間観、生命観に通じる点があまりにも多く、私は氏の信条にいくども共鳴の念を禁じえなかった。今かえりみるに、氏が信頼してやまなかった人間の可能性のなかでも、最大に重要としなければならぬのは、人間は「たがいに協力してこそ、他者を理解できる」という一点だろう。
 これはいうまでもなく、人間は「たがいに理解してこそ、他者と協力できる」というのを、まったく逆転させた思想である。
 ひるがえって現代は、人間が自然を破壊していると同時に、人間自体が自分自身の全一体性を分裂させている。ことに人間自体内の分裂に関しては、現代テクノロジーの加速的進歩により、科学者対文学者、技術者対芸術家、専門家対非専門家、エリート対民衆の不調和が憂慮されてきて久しい。カズンズ氏と私が、もとより世界の平和を主題にしながら、胸奥においてめざしていたのは自然と人間の、そして同時に人間と人間の、相互性の確認であり、その実現であった。
 これを言い換えれば、今日強まっている相互依存性を尊重しなければならぬということである。
2  私は忘れない。
 四年前(一九八七年)の二月、初めてノーマン・カズンズ氏が、ステーション・ワゴンを運転し、開所したばかりの創価大学ロサンゼルス分校に出向いてきてくださったときのことを。
 そのときのカリフォルニアの空の青さを。
 氏の青年のような足どり、しなやかな体躯を。
 一旦論ずれば、詩心と哲学と信念に充つ明快な氏の言々を。
 とともに、海のように深く、陽のように暖かく、しかもユーモアを湛えたまなざしを。
3  訃報の翌日、私は日本にいて冬の青空を眺めながら、氏が実現しようとしたものまで埋葬されては断じてならない、との思いを固めた。
 折しも今、中東の湾岸に暗雲たれこめるときだけに、この対談で論じあった国連改革の緊要性を強く訴えたい。
   一九九一年一月二十日 香港にて

1
1