Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 人類共同体に仕える競争  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
2  世界世論という勢力の台頭
 池田 今、「ポスト・ヤルタ」体制が、時の声になっていますが、思えば、戦後史を形成したヤルタ会談やそれに先立つダンバートン・オークス会議を主導していたルーズベルト大統領の理想主義が、その後、退潮を余儀なくされた記憶が私たちにはあります。
 当時にあっても、スターリン首相の大国主義的発想などがしばしば顔をのぞかせ、虚々実々の駆け引きとなったため、ルーズベルト大統領をいらだたせたというのも、事実でしょう。しかし、ヤルタ会談にのぞむにあたっては、「友を得る唯一の道はみずからが友となることである」(『エマソン選集』2、入江勇起男訳、日本教文社)という詩人思想家エマーソンの言葉を座右の銘としていたルーズベルト大統領の存在と積極的な行動が、国連創出の牽引力になったことは間違いありません。
 西側の現代史家の多くは、大戦後の世界秩序を「冷戦構造」として決定づけて、ヤルタ会談は失敗だったと見なしてきましたが、今「ポスト・ヤルタ」時代、さらには「ポスト冷戦」の時代を迎えてみると、ルーズベルト大統領の積極性にみちた理想主義的な取り組みもふくめ、あらためて見直されるべきかもしれません。
 カズンズ その積極性が、今日では無制限の主権をもつままにきた国家がつくった壁を、いかにして打ち破るかという点に発揮されるべきです。今では国家が、その歴史的役割を演じるにしても、新たな手段を打ち出していく必要があります。「力」があれば、それが国家の安全の基になるということがもはや通じない時代であるなら、「力」に代わる「何か」がそこにあってこそ、人類社会が存続でき、機能していける条件が確立されるでしょう。
 弱い者いじめにあう個人が、あるいは集団もそうですが、無法者に対する場合は、十分な数の民衆がまず団結することです。そしてありあわせの条件をかんがみて、いかに自衛するか、共同の安全のために不可欠な新方策、新手段をいかに確立するかを決めねばなりません。
 こうして存立される新たな力は、最も自然なかたちの力であるべきです。そうなるには、人類の意志が結集されている力、総意の力でなくてはなりません。
 そこから、人類社会の新たな基礎を築く活力が出てきて、はずみがつくでしょう。またこれまでは規制されないままきた「力」をチェックできる手だても出てくるでしょうし、これらのすべてが、諸国の関係や交流においては正義の体系に、司法制度に組み込まれていくでしょう。
 池田 教授は、人類の意志を結集した「最も自然なかたちの力」による安全確保をと言われましたが、それには私も全面的に賛成です。ところで、そうした秩序をささえる普遍的原理、法則として「自然法」「自然権」という考え方があって、ギリシャの昔以来、さまざまな変遷をたどってきました。
 近代には唯物論等からの攻撃もあり、評価されない時代がありましたが、アメリカの「独立宣言」やフランスの「人権宣言」等は、自然法的発想を抜きにしては考えられません。現代でも、否、現代なればこそ、新たな角度からスポットがあてられてしかるべきでしょう。
 過去においても、かのナテスに見切りをつけてアメリカに亡命したアインシュタインが、一九二四年(昭和九年)の段階で、日本の雑誌に論文を寄せ、戦争や暴力、破壊、恐怖といった第一の道ではなく、新しい第二の道である国際秩序による「平和的決定の道」を訴えております。
 すなわち「第二の道に対してはまだ諸国民の意識は熟していません。諸国民は言い難い苦悩と、言うべからざる悲哀にまだまだ耐えなければならないのでしょう。諸国民が自由意志をもってその主権の一部を放棄して、十分に強力な国際執行権力を創設し、国際裁判所を成立せしめ、その判決の実行を強制するまでに熟するにいたるまでは」(金子務『アインシュタイン・ショック②』河出書房新社)――と。
 私は、アインシュタインのような国際的、ひいては宇宙的な広がりをもつ人格であってこそ、現代における自然法的発想を生かすことができると思えてなりません。
 この半世紀あまり、人類はじつに「言いがたい苦悩と、言うべからざる悲哀」をなめつくしてきました。アインシュタインの先駆的発言がうながしているように、もうそろそろ成熟しなくては、人類史の舞台は暗転していくばかりであることに、気づかねばなりません。
 カズンズ その意味での成熟が、まさに必要です。それには超克すべきパラドックス(逆説)がともないます。かつては国家が個人に保障していた安全を、こんどは国家を超えた「何か」が保障するように、その「何か」を個人は創出したいのですが、実際にこれを創出するにあたり、個人が有する唯一の手だては、やはり国家です。国家それ自体なのです。個人がよって立つ確かな足場は、国家の内にしか見つからない。ゆえに、この自家撞着を超克し、国家の外にいながら個人が有力になれるには、いかにすべきかという問題に帰着しますね。
 発想としては「国家を超える自然法」という考え方があるように、「国民を超える自然意志」という考え方があってもいいでしょう。
 今、世界に出現しつつある勢力は、世界世論という勢力です。この勢力は今のところはまだ、正式な表現の回路も機関ももちえてはいません。にもかかわらず、これは進展しつつある新たな力であり、ますます世界の人々の耳柔にふれるものになりつつあります。
3  「第二世代」の人権思想
 池田 国家を超越したところに法の秩序をさぐりあて、それによって平和や人間の尊厳を守ろうとする動きは、萌芽のようなものですが、たしかに見られます。たとえば、「世界人権宣言」や「国際人権規約」等がそうです。「ジェノサイド条約」なども集団殺害を、平時、戦時を問わず、国際法上の重大犯罪としております。
 国際司法裁判所の決定が強制力をもたない点などは、いまだ道遠しの感もありますが、かといって、そのような機関をまったく無視し、世界世論を敵にする、あからさまな武断主義に走ることは、もはや自暴的な行為になっています。最近の軍縮の流れは、その背景に反戦平和の世論の力があったことを忘れてはなりません。
 カズンズ 世論はまた国家内でも、何が正義か、何が道義的争点で最重要かといった問題にかかわるときに、その力を最大に発揮します。同様に世界世論も、道義が問われたり、人命の安全を守る理性的手段にかかわってくる大問題では、人々にその力強さを感じさせることができます。
 自由主義社会の個人にとっては、国家のことのみには終わらない大義に行使される自由ほど、意義のある自由はありません。かかる社会の個人は、国家内の総意を形成するために国家内のその足場を活用できます。
 それがおよんでは、その国家をして、秩序ある国際社会を形成していく運動に参加せしめ、効果をもたらすような総意へと発展させていくこともできるでしょう。
 池田 その点、アメリカは哲学界が中心となり「正義論のルネサンス」と呼ばれる現象が起きているということも聞いています。何が正義かという問題も、プラトンの『国家』の副題が「正義について」であるように、人類史の永遠の課題です。イデオロギーの終焉にともなう価値観の混迷は、最近のソ連の青年たちの世論調査で、共産主義の未来を信じている者が八パーセントにすぎなかったという事実に見られるように、洋の東西を聞わず起きる世界的現象のような気がします。
 何が正義か――この点で、世論が力を発揮するというご指摘に私も共鳴します。民衆への信頼なくしては、新しい世界秩序づくりは望むべくもなく、もしつくられたとしても、それは砂上の楼閣のようなものだからです。民衆世論は、仮に一時的な錯誤をおかすことがあっても、長い目でみれば、また正しい情報が与えられれば、おおむね正しい方向を選び取るものです。
 教授とは知己のジョージ・ケナン氏の古典的名言に「デモクラシー・ファイツ・イン・アンガー」(「民主主義は、怒りのなかでは闘う」の意)とあります。これは正義、不正義という道義の問題に敏感なアメリカの世論の力と志向性を端的に言いあらわした言葉と思います。民衆の声がグローバルな広がりと連帯をもつことこそ、新たな世界秩序形成の主要な条件です。
 今日では、道義性の核ともいうべき人権感覚の広がりは顕著です。自由権的な基本権を中心にした「第一世代」、そして生存権的な基本権を中心にした「第二世代」の人権思想に対して、平和や環境等で国際的連帯を不可欠とする「第三世代」の人権思想が、今や世界の潮流になりつつあり、新たな世界秩序へ向かうグローバリズムの台頭を予感させていますね。
 カズンズ 実際、そのグローバリズムが民衆のなかから澎湃としてわきあがり、世界の主潮流となっていかねばなりませんね。
 その一方、民衆の総意のもとに国家が秩序ある国際社会を形成していく運動に参加するのは、国家主権の解消を意味するのではないか、との反問が出てきましょう。
 それに対しては、かならずしもそうではないと言うべきです。なぜなら、結果的にそれは、国家主権のなかでも絶対主権の解消のみを意味するにちがいないからです。
 つまり国家主権といっても、絶対主権と相対主権との二種類があるからです。
 絶対主権の特質は、次のように要約されるでしょう。すなわち、世界の紛争や問題に関する件で世界機構が強制的な管轄権を発動しても、国家はそれに従わない。
 また、国家はその軍事方針を世界機構にはゆだねない。また、国家は、世界法のもとにあっては国家の唯一の頼みのつなは国際司法裁判所であるのに、世界法の法体系づくりには事前には応じない。要するに絶対主権というものは、国家が条約を建前にした話しあいには積極的でも、情勢のいかんによっては撤回権を主張するということを本音としているわけです。
4  「絶対主権」を超える構想
 池田 そのような絶対主権の傾向は、権力一般がやどしている本性でもあり、「権力の魔性」というベきものです。
 かつてホイジンガが、「国家にはすべてが許される。誠実を誓った約束も、権力にとって利益ではないと判断すれば、これを破ってもかまわない。嘘をついても、欺いても、暴虐のかぎりをつくしても、外に対するばあいであれ、内におけるばあいであれ、国家がそうするのであるならば、悪いことだと咎められることはない」(『朝の影のなかに』堀越孝一訳、中央公論社)としたのも、糾弾されるべき「国家悪」を突いています。
 二十世紀には、その種の権力が、凶暴な魔力をふるい、人間の内面世界にいたるまで、ズタズタに切り裂いてきました。「国家」が「社会」をのみつくし、おおいつくしてきた悲劇を思うと、今日ほど権力の魔性を封印するための精神的、制度的課題がさしせまっている時代はありません。
 カズンズ 私が『権力の病理』と題する一書をあらわしたのも、その課題を最重要視しているからです。そのなかでもふれましたが、絶対主権国家がなくなった世界では、世界機構が各国家の自主独立と相対主権を保障できます。その相対主権とは、国家内における生活と活動の仕方に関する管轄権は、国家が保持しうるということです。世界を安全な状態にするためには、国家そのものの解体が必要ということではありません。
 必要なのは、国家主権を有意義なものにすること、つまり世界の無政府状態を助長する国家主権の諸属性については、これを除去し、国家責任を助長する諸属性については、これを確保し保障することです。
 池田 戦後、長らくつづいた冷戦構造下での「パックス・ルッソ・アメリカーナ」と呼ばれる秩序は、軍事力を背景にする「力」によるもので、永続性はもちえませんでした。
 その軛がとりはらわれると、抑圧されていた民族的エネルギーがいっきょに噴出してくるのは、当然の帰結です。「国家」と「民族」はもちろん、そのまま重なりあうものではありませんが、「国民国家」という近代の所産を新たな世界秩序のなかに、どう位置づけていくかという課題はさけては通れません。
 ソ連の「ペレストロイカ」(改革)にしても、当面の最大の難題は経済の再建ですが、長期的な尺度で考えると、バルト三国やアゼルバイジャン等の「民族」の問題のほうが、より重くなってくるかもしれません。
 これも、スターリンのおこなった強引な民族政策に起因してきているので、その解決に拙速だけはさけなくてはなりません。時間をかけてねばり強く取り組むことが、いちばん肝要です。
 カズンズ われわれは皆、いかなる民族や国家に属していようと、まったく相反する二つの世界のなかで生きております。この二つの世界の一番手は古来なじみ深く、現に日のあたりに見えていて、人がつきやすく、手に負えない世界です。ここでは民族がこれまでどおり、民族としての行動を起こします。
 二番手の世界は、まだ新しく複雑にして、要求も厳しく、処しがたい世界です。とともにまた危険もあれば、すえ頼もしい世界ですが、すっかり変わりつつある世界です。この新たな世界では、地球と人間のまず物理的関係が変わってしまいました。広大な距離感もなくなりました。人類の新たな地平と「力」が、触知できる限界をほとんど知らなくなっているのです。
 こういったなかで、最も由々しい事実は、古来の民族問題もさることながら、核のスイッチが押されると、民族も国家もすべてまるごと、地球から抹消されてしまうということでしょう。
 こういう新世界であるかぎり、われわれ全員に課されている条件は厳しいものです。
 第一に高度な英知が要求されます。いつまでも緊張関係にある緊迫した情勢のなかに、この世界を放置してはおけないからです。この世界が客体なら、みずからは動きださないでしょう。われわれが主体なら、世界を動かさなくてはなりません。しかし、それは動かす人たちが、自分たちがやっていることをよくわきまえていないといけません。
 この意味では、最高の科学と同じくらい正確さと、集中力と熟練を要する仕事であり、厳しい課題です。
 こういった世界において緊張と重圧をいちばんかけるものとなり、緊迫点を生じているものが、国家の絶対主権です。
 今、述べた新旧二つの世界が争いあうのも、この緊迫点においてでしょう。民族あるいは国家にとって、陰謀には陰謀を、策略には策略を、自国の利益を、そうして力の均衡をという古い世界にあっては「力」や「力の誇示」によって、絶対主権を主張することが、いかに筋が通り、自然かつ当然と思われようと、もう一方の新たな世界での変わりはてた諸条件が、国家の絶対主権を行使不能なものにします。
 過去において絶対主権の最高の成就であった軍事的勝利は、今日においてはもはやありえません。「国民国家」であれ、「民族国家」であれ、国家が軍事的な力を行使することは、もはや「戦争宣言」や「戦争遂行」にとどまらず、核戦争に結びつく「集団心中」の宣言であり、遂行なのです。
5  結語に代えて
 池田 ようやく米ソ冷戦の終結が、世界にとって大きな過渡期をもたらしました。
 最近ではヨーロッパ情勢とからめて、しばしばエネミーレス(敵性対象の消滅)という言葉が使われています。今までのように東西間に仮想敵国を想定できず、安全保障自体の問い直しが始まっています。
 すなわち、軍事同盟型の安全保障策というものが、意味をもたなくなってきているわけです。その空白に、さまざまな利害による動きがありますが、これがさらに進んでくれば、軍事力や軍隊はいったい「何のため」の存在かということになり、そこから思い切った共存の道が開ける可能性が生まれてくるでしょう。
 絶対主権を主張し、国と国が「力」によって張りあう状況が今、こうして徐々に崩れさっています。
 カズンズ わずか数年前なら民族にとっては、みずからの権益を求めるうえでとるべき、当然にして必然の行動と見られたものでも、今ではもはや意味をなしません。
 いや、それどころか、そうした行動こそ、地球というこの惑星に核の火口をつけるのに、いちばん手っ取りばやい仕方になってしまうでしょう。われわれは皆、二つの相反する世界に生存しているだけに、余儀ない代価をはらっております。もろもろの決め事は、古い世界の水準でなされるかもしれませんが、その結果は、新しい世界に生じてきます。
 自己の権益という歴史的な考えに主導されている民族も、その主たる力を失うだろうということをすみやかに悟るかもしれません。なぜなら、この新しい世界において行使できる力は、民族が地球上のさまざまな民衆に伍していて発揮しうる指導力と、その民族の道義上の立場と、新たな現実を認識する能力と、力そのものを行使するのではなく制御しようとする志向によってこそ、真価をはかれるものだからです。
 もちろん、この新しい世界に生きるということは、現に脅威的なイデオロギーが存在しているのを無視してもいいということではありません。そうではなくて、まさにその種のイデオロギーに対抗する新たな道を切り開いていかねばならないということです。
 つまり、これまでは冷戦構造下での「パックス・ルッソ・アメリカーナ」といった秩序を、軍事力を背景にして維持してきた米国とソ連にしても、これからは意義のある競争のなかでも最大に意義のある競争、すなわち人類共同体につかえる競争に向かうよう、たがいに挑みあえるということに意義があります。おそらく勝利は、この面において得られるにしても、その他の面では決して得られないものです。
 およそこういったことが、この新たな世界から課せられている基本的な条件です。国家の個々の市民は、この新たな世界が突きつけている要請に応えていかねばなりません。
 今日こそ全員が寄り来って「人類党」をささえ、全世界に正気と安全の状態をつくりだす時です。そうしてこそ、安全でいられる唯一の道が生まれ、個人も安心できるというのが、この場の私たちの結論だと思うのですが。
 池田
 また、ただいまのお話のなかで「現に脅威的なイデオロギーが存在しているのを無視してもいいということでは」なく、「その種のイデオロギーに対抗する新たな道を切り開いていかねばならない」と言われましたが、その点にも私は深く賛同じます。今日の世界は、そうした危機を超える機構が要請されることを映しだしているからです。
 さらに申せば、思想には高低、浅深があり、これはしかるべく弁別されていくのではないでしょうか。目的観、生命観、世界観において、高くて深く正しい思想をもって、人間の存在意義そのものを探求しなおしていくことになると思います。意識変革の道においても、究極的には「良心」の柱となる人間精神の本源へ、そしてその表現としての思想ヘと光があたっていくでしょう。
 してみると、思想的にも至高の道へ転換していくことが、まさに「今日の要」ですね。
 カズンズ まさに、然りです。

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