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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 「部分」と「全体」の調和  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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2  第三世界諸国の発展と安定化
 カズンズ ゴルバチョフ大統領のイニシアチブ(主導権)に最も象徴される出来事も、歴史の論理が、自己主張をしている過程の一部にあたるものと私は見ています。話を米ソ関係の改善という具体的な点に移せば、これまでにも種々の「緊急策」が提案されてきました。
 しかし本当に必要なのは、両国間でやりとりする議論において態度や語調が改まることではありません。そのほうも改めながら近づきあうのはむだではありませんが、本当に必要なのは、両国が適合しうる世界組織であって、それも実際に力のある機構です。
 ですからまた、大事なことは一方が他方に何を言うかだけではなく、永続性のある平和を組織するために、言葉に行動のともなう提案をいかにするかでしよう。
 われわれのきわめて明らかな、相互的にして究極的な目標は、核兵器を廃棄することだけではなくて、戦争そのものを廃絶することでなくてはなりません。軍拡競争に終止符を打つのは出発点であり、それがめざすべき到着点でないことは、もちろんです。
 池田 大きな一歩が踏みだされましたが、それはあくまでも歩み始めたということです。もはや大国間の戦争は遠ざかった状況になっていますが、依然として第三世界での紛争がなくなりません。そのため、第三世界諸国の軍事費の増大が、自国内の経済の発展を阻害するという悪循環を生んでいます。
 その種の紛争の火種を先進諸国が消す方向にまわり、第三世界諸国の経済の発展と安定化をはかるなら、全体として地球社会の未来は、ずいぶん明るくなるにちがいありません。
 カズンズ 経済の発展は、とくにアジアとアフリカでの発展が、国連の世界連邦化へめざましい機会をもたらすはずです。
 しかしながら、この両地域の国々の多くは今のところ一世紀余にわたる他国の支配から脱皮している最中にあるということ、またその当事国からみて、国内の発展と統制という、その国自体の諸問題への干渉と思われるようなことは何事もしてはいけないという点が、よく認識されねばなりません。
 したがって、ここで確認すべきことは、個々の国家に対する経済、技術、科学上の援助の申し入れは、その当事国自身の要請によって初めてなされるべきであるという点でしょう。
 そうして援助がなされる場合も、それぞれの開発事業が、当事国の独自の文化、制度、体制と調和をたもっていくような仕方で進められるとともに、その当事国自身の施設、設備、人材が十分に活用されるように、最大の心くばりが必要です。
3  「多国間援助」の進展に向けて
 池田 国連はその創設当時から、平和維持とともに発展途上国の開発援助を、その活動の大きな柱としてきました。実際、開発の資金協力の面では世界銀行が、技術協力の面では国連開発計画(UNDP)が中心となり、総会はもちろん、部門別には経済、社会、文化等の数多くの専門機関が、それぞれに活動しています。
 そのなかでも、とりわけUNDPは、国連食糧農業機関(FAO)や国連教育科学文化機関(UNESCO)や国連工業開発機関(UNIDO)等に、その一元的に集めた資金を振り分けております。政治的には中立です。援助のさいに与える助言は、当事国の自立を重んじ、その質も普通麟な開発援助をめざしています。
 それにくらべると、先進国から途上国への二国間援助の場合は、発展途上国自身のニーズをあまり反映しない政治性や、その他の要素が入りこみがちになります。
 その点は、国連を中心とした多国間援助のかたちのほうが、当事国の独自の文化、制度、体制とも、合致しつつ、その国の人材と資源を十分、活用するような開発援助がおこなわれやすい、と私も思います。
 しかし残念ながら、国連を中心とした多国間援助は、現在のところ二国間援助よりも、まだまだ少ないといわざるをえません。ですから、援助の性格と効率の問題をも考えあわせて、より望ましい多国間援助が進展するよう、世論を高めていくことも大切です。
 カズンズ おつしやるように、すでに国連はその機構内に、多くのすぐれた機関をそなえており、その分野も世界保健、食糧、難民問題、教育、科学などにわたっていますが、それらの機関が有効な活動を展開していくには、二つの事柄がじつは障害になっています。
 その一つは、部門別のこれらの機関に実際の権威がともなわず、必要とされている活動計画を実行していく十分な手段もないということです。障害の二つめは、諸国の大半が、その活力と資源のほとんどを軍事目的に振り向けている点にあります。国連のこれら専門機関に権威と手段をともに完備させれば、機関自体が世界の人々の生存状態をよくしていくのに大いに役立つということを明らかにしうるでしよう。
 これらの機関はもちろん、直接的には国連の立法機関に対し責任があり、また立法機関によって設立されたものです。
 権威はいったいどこにあるべきか。総会にでしょうか。安全保障理事会にでしょうか。
 まず総会についていえば、その現在の形態によると諸国は、人口が大きな国も小さな国も対等な地歩を占めており、こうした現状にある総会に重要な権限が与えられるのを大国が望ましいとするとは考えられない。
 それに対し、安保理事会は、大国が運営していて、しかも全会一致の原則にしばられている。ということは、大国のかかわりあう重大な懸案に法の遵守を厳格にしながら決着をつけようとしても、大国が拒否権を行使することにより法を否認しますから、現在のところは決着がつけられないということになります。
 では、総会と安保理事会の権威のあり方を決めなおそうではないかとなると、そういう試みはすべて、代表権と権限割り当てをそもそも間わねばならないことになります。
 代表権については人口数による平等制一本で決めるということになると、二、三の人口大国が票決を圧倒的に支配できるでしょう。一国一票制を続行していくということになると、総人口がたぶん二千万の小国家群が少数派でも、総人口七億五千万あるいはそれ以上の国を票決では打ち負かしうることになりかねません。
 この問題がおそらくいちばん手のつけにくい問題でしょうね。代表権なくしては権威がない、しかし現状のもとでの代表制では、そもそも代表権ではありえないと思われます。
4  地域差とりいれた「二元的連邦制」
 池田 国連における代表制の現状については、私も意見を交換したことがある北欧の代表的な平和学者ヨハン・ガルトゥング博士が、興味深い改革試案を提示していたのを想起します。それは、国連を上院と下院の二院制にして、上院は現在のように一国一票制、下院は人口比にすべきだというものです。ただし、単純に人口比にすると国連下院の四分の一は中国人、六分の一はインド人‥‥となってしまうので、ガルトゥング博士は、国別人口数に平方根(自乗根、ルートのこと)をかける方式を採用してみてはどうかと話していました。
 この問題は、一筋縄ではとても解決できない点を多くはらんでいますが、二院制という発想は一考に値するのではないでしょうか。この場合、下院については諸国が十分に討議して、単純に人口を反映するだけでは合意が得られないようであれば、そのほかの指数をふくめるような方向で考えてみてはどうかと思います。
 カズンズ 従来のままではジレンマですが、国連内に地域差をとりいれた「二元的連邦制」という考え方でいくなら、解決のメドがつくかもしれません。つまり従来の全世界的国連のほかに、地域別の国連をもうけるということですが、この方式でいくと、総会は地域をもとにして実質的なかたちに割れるでしょう。これは人口、面積、資源、その他の重要な要素を勘案して地域割りにし、分割された各総会は、仮に百票、あるいはそれ以下の投票総数でおさまるようにしてはどうでしょうか。
 この仮称「地域国連総会」のそれぞれが、全世界的総会(全体総会)を構成する一単位になります。この一地域単位の構成メンパーが、たとえば十人からなるとして、そのなかの二人が代表する人口合計数が残り八人の代表する人口合計数を上まわる場合は、公平な代表制になるように、人口の多いほうに比重をかけることもできます。
 一方、「地域総会」の構成メンバーは「全体総会」でのグローバルな議題に対しては、独自に投票できます。
 地域総会内にも当然、意見の違いはあるわけで、これをつねに一本化して全体総会にのぞまねばならないということではなく、意見の相違は相違として反映されねばなりません。だから百票も、全体総会では分割されることがありうるわけです。
 このような地域割り方式の利点は、単純な人口比による一元的代表制の行き詰まりの解決策になるだけでなく、もっと多くの点にまでおよびます。すなわち経済的、文化的、政治的な利益は地域によってグループがある程度は分かれるという点を、この方式は認めますし、これらの固有の利益が保護され、開発される手段も講じることができます。
 池田 先にもふれましたように、世界統合への道程を考えるうえでも、決して失ってはならないのが地域の保全、さらには活性化です。
 教授のおっしゃる、地域差をとりいれた「二元的連邦制」でいくと、「全体」と「部分」の融合、調和をかなりの程度、実現できるのではないかと思います。
 この「全体」と「部分」の調和こそ、改革強化された国連が、最も根幹とすべき点であり、国連が絶対主権国家を相対化していく過程のなかでも、なお諸主権国家の集合体であるところからくる、さまざまな限界を乗り越え、平和を安定したものにしていくための不可欠な条件です。
 スイスの思想家ヴェルナー・ケーギは「けだし一つの世界、甲の形にせよ乙の形にせよおそらく我々の未来を成すであろう一つの世界、この一つの世界も、故里という細胞群――精神生活が東でも西でもその都度その都度栄えた細胞群――が健康を維持する限りにおいてのみ生きうる」(『小国家の理念』坂井直芳訳、中央公論社)と述べております。ここにケーギの言う「故里という細胞群」とは、それぞれの地域、あるいはそれぞれの民族に固有の文化といえるでしょう。また、「全体」に対するに「部分」ということでもありましょう。
 なによりも地域は人々が現実に生活をいとなむ場であり、これが自律性を失わないことが大切です。さもなくば世界の統合化は、それこそアイデンティティー(自己同一性)を喪失した大量の文化難民を生みだす結果さえ招きかねないでしょう。平和という樹木も地域に根ざし、固有の文化的伝統の大地に根を張ってこそ、その果実が実ります。もちろん、その地のアイデンティティーをむやみに強調しすぎるのも考えものですが、だからといつて、無視してしまうことはできません。大切なことは、「世界」への連帯志向と「地域」への個性志向とが、あたかも回転運動の遠心力と求心力のように、調和していることです。それが、安定した平和を築くうえでも要諦となります。
 カズンズ まさに大切きわまるところを適切にたとえられたお話です。私が構想する方式でいえば、この地域単位のそれぞれが国連の全体総会における単位として、必然的に投票を迫られる唯一の議題は、共同の安全と、諸地域単位間の関係、あるいは一つの単位のメンバーたちと他の単位のメンバーたちの関係にからむ案件だということになります。
 したがって、私の言う「二元的連邦制」とは、地域単位内の諸国の連邦であるとともに、諸地域単位のメンバーたる諸国の全世界的連邦なのです。この二元的連邦制においては、諸国と地域単位と世界連邦化した国連のそれぞれが、各自のレベルにおいて自然なる主権を行使していくことでしょう。
 つまり個々の国家は、それ独自の体制、制度、および国内事情に関するすべてに権威と権限をもつとともに、それぞれの地域単位が、その地域のニーズとそのメンバー諸国の利害に関するすべてに、権威と権限をもつことでしょう。そうして世界連邦化した国連は、世界共同体の安全と重要なニーズに直接かかわる件で権威と権限をもつことでしょう。
5  世界観の変革を粘り強く
 池田 教授のその構想に、私も賛同します。しかし、おっしゃるような国連の世界連邦化は、ある種の人々には世界の現状を認識していればいるほど、そしてそれを苦慮すればするほど、夢物語に聞こえるかもしれません。その世界連邦化への道にすすんで身を乗り出していくには、どうしても人々の意識変革が、ことに世界観の変革が欠くべからざるものとなります。
 それには、今日までの歴史的過程で人々に最もなじみ深い単位である国民国家の相対化はもとより、そのほかの思考面、あるいは思考軸を見直していかねばなりません。
 もちろん、人間の意識変革は″言うは易く行うは難し″であって、ねばり強く進めねばなりません。とくに責任ある立場の政治指導者に、そのことを強く要望しておきたいと思います。
 カズンズ 私もそう思います。今日、必要なのはまさに国連の改革強化へ努力がなされるべきだと、十分な数の諸国が主張すること。これが必要なことのすべてです。
 たとえば米国は、国連の構造改革こそ米国自身の対外政策の基本方針だと宣言できるはずで、実際そうしてこそ、他の国々から、大国からも小国からもともに、賛同が得られるという期待が理にかなったものになります。
 国家主権という心配の種は、たしかに政治指導者によって育てられるものです。
 希望は、ベルリンの壁をとりはらい、東欧では独裁政治を打倒した、あの勢いを世界各地の人々がつくりだすだろうというところに、なくてはなりません。民族の自主独立に人々が心をはずませるのなら、地上の生存条件を守れる世界統治体が出現する可能性にも、せめて同じくらい心をはずませてもいいのではないか。こう望んでも、由なし事ではないと思います。
 池田 日ごろの私の所感そのままを、教授が語ってくださった思いです。チェコスロバキアの指導者ハベル大統領は、人間の意識の地球的変革が先行しなければならないとして、それなくしては環境問題であれ、社会問題であれ、文明そのものを破壊する困難な問題には挑戦できない、と主張しています。こうした発想が、世界の政治指導者の間に、さらに広がることを期待したいものです。

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