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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 コンピューター社会と詩心  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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6  技師と詩人の協力
 カズンズ「はじめに確信ありきなら、遂には懐疑であろう。はじめに懐疑ありきで、よく懐疑につきあっていくなら、遂には確信にいたるであろう」と、ベーコンは述べています。
 むろん、コンピューターにも誤りをなくす方法はあります。しかし、人間が機械の勝利にうつつをぬかすまえに、人間自身の状況を顧みて、そこには偉大な進歩があったことに思いをめぐらすべきです。実際、人間に過ちがあっても、それに対処するさらによい方途が発見できるまで、思索をつづけ、探究をつづけたからこそ、人間は進歩してきたのですから。
 「我に、よき実りをもたらす過ちを授けたまえ。その過ちを正せる種がはじけるように詰まった過ちを。不毛の真実は、君の手に委ねよう」という言葉を遺したのは、フェリス・グリースレットという人でした。
 池田「不毛の真実」という言葉は、先に紹介したドストエフスキーの「二二が四は死の端緒」というテーゼと符合しているように思います。とはいえ、われわれが科学技術に背を向け、ルソーやソローが憧憬の眼を向けたような「自然」や「森」のなかの生活をめざすなどというのは、およそ非現実的なことです。
 それよりも現実的なのは、コンピューター等の機械類をどう位置づけ、文明の利器としてどう活用していくかという課題に取り組むことです。人類が機械類を生みだしたにもかかわらず、手段そのものを目的と化していく転倒だけは、さけなくてはなりません。
 人間としての証は何か――。シモーニュ・ヴェイユは、他者のために「胸を痛める心」(『デラシヌマン』大木健訳、『現代人の思想』9所収、平凡社)こそ、人類の普遍的感情であるとしています。仏法でも他者への「同苦」や「共苦」を、仏法者であることの絶対的条件としていますが、こうした萱遍的感情を幾重にも掘り起こしていく作業が、日常のなかに求められていくべきです。そうした点にも私は、世界宗教、普遍宗教というものの必要をみております。
 カズンズ よくわかります。技術者の手からは、なにも奪い取る必要はありません。奪い取るのではなくて、コンピューター関係の技師と詩人の間に何らかの橋を架ける手段が講じられるなら、そのときこそ、かの先達が切に望んだ「よき実り」がもたらされるでしょう。現代の諸問題の解決が、電子管とトランジスターにゆだねられても、創造力の源泉は人間自身の想像力ですから、その驚異的な力を解き放てば、それが真の解決になるでしょう。
 つまり、機械を管理する技師が詩人に協力できるなら、人間の可能性は、テクノロジーが描くのよりも、もっと大きな、もっと明るい展望が開けてくるだろうと思います。
 というのも、詩人なればこそ、人間は独自の存在なのだと痛感させうるからです。この独自さを究極的に定義づけたり、定義そのものをこねくりまわす必要はないと思います。大切なのは、定義をこねくりまわすのではなく、人間の独自さ自体に思いをめぐらすことです。これができたなら、それだけでも人間自身が一歩前進したといえるのではないでしょうか。
 池田 同感です。お話をうかがっていて、私は、パスカルの言う「幾何学の精神」と一対の「繊細な精神」を連想します。パスカルは天才的な数学者、物理学者として「幾何学の精神」に通じていた大家であるとともに、人間の心事の委曲をつくした『パンセ(瞑想録)』をあらわすなど「繊細な精神」の持ち主でした。あまりにも有名な話で恐縮ですが、「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」(『パンセ』松浪信三郎訳、『世界の大思想』8所収、河出書房新社)との美しいくだりは、モラリストとしての洞察の深さが、自身の「繊細な精神」とともに躍如としています。
 もとより、われわれ人間の気質はたがいに一様ではなく、またことに専門分化のいちじるしい現代では、なかなか「繊細な精神」をあわせもつことは困難ですが、だからこそ教授の言われる「技師と詩人の協力」が、人間的精神の健全な発展のために強く求められると思います。

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