Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第五章 コンピューター社会と詩心  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
1  「目に見えないもの」の尊さ
 池田 九年前(一九八一年)、メキショを訪問した折、国立グアグラハラ大学で「メキショの詩心に思うこと」と題して講演をしたことがあります。現代においては、いかに人間がみずみずしい感覚を取り戻し、人間と人間の、人間と自然の結合の力を生みだすかが、重大なテーマになっています。私は講演のなかでメキシコ国際文化資料センター所長のイヴァン・イリッチ氏の「私の関心事は、人々が詩的になり、冗談をいい、笑えるようになることだ」という言葉にふれました。
 詩心、そして笑顔――。今日、あまりにも渇いた人間の心は、さまざまな場面で、そうした心の回路を開ざしてしまっています。
 カズンズ 詩人の言葉は普遍の事柄に渉り、専門家の言葉は特殊の事柄に限られる――その点では詩人の立場が有利だろう、とアリストテレスは述べています。これにつけくわえるなら、言葉の最大の力は、想像力から生まれ、機械的活動からは生まれない。詩人たちはわれわれに、そういうことを痛感させます。
 これを人間の境涯についていえば、現実の境涯ではなくて理想の境涯への志向、因循姑息な世界観からの脱却、または芸術による永遠性の示といえるでしょう。これらは本来、みな想像力から生まれるものです。
 池田 近視眼的な価値観が優先する風潮がなかで、人々は「目に見えるもの」を追い、「目に見えないもの」の尊さを見失ってしまったかのような感さえあります。その結果、物や金など、計測可能なものの価値のみがはばをきかせ、そのあからさまな志向は、子どもの世界にまで浸透しつつあるようです。
 とはいえ、物質万能主義が行き詰まりつつあることは、だれの目にも明らかです。教授の言われるような想像力の豊かさ、詩的世界の広大さにもう一度、目を向けなおす必要があります。人間に本当の意味での平安をもたらすのは、世に言う「ソロモンの栄華」よりも、一本の「野の花」を見つめ、可憐な花々に心を寄せる豊かさであり、生命を愛しゆく「詩心」ではないでしょうか。その心がじつは、言葉の最大の力、最良の力を生むことにもなります。詩心は、人間の復権をなす源泉でもあります。
 カズンズ その「想像」の内容が問題ですが、「想像」は、個人の言設に置ぶするものが触発したものであり、その内容は、それ以上のものでも、以下のものでもありえません。したがって、個人の意識に潜在するものが、世に最も大切な心の糧になります。言いかえると、個人的潜在意識にあるまま生じるのが、想像であって、それ以外に想像が生じることはありません。
 それに、個人が経験する事柄と、その事柄に対する個人の情感がともに記憶される場、そして生命の証が存在する場も、潜在意識のなかにあるということでしょうね。
 そこで潜在意識のなかにあるものを守っていくとともに、人間の感性を敏活にする糧を与える、といった補完的な働きができるのが詩人だといえましょう。
 その意味では、人間の精神を尊いものとし、これに語りかける人なら、その人もまた「詩人」と言っていいと思います。
2  深層心理と仏法の知見
 池田 仏法ではものごとを識別する心の作用には、九段階あると説いています。
 第六段階は、通常の自我意識ですが、第七の段階は潜在意識の領域であり、ここに根源的な自我の作用があると仏法では説いております。
 カズンズ教授が指摘された「個人の過去の経験と情感」が記憶される場でもあります。この領域には、「想像」によって触発される豊かな心の内容が潜在しております。
 しかし、第七の段階では、まだ個人的潜在意識の領域に限定されています。仏法では、そこを究極の実在とせず、さらにその奥に広大な無意識の世界を洞察しております。
 第八の段階では、個人的潜在意識の限界をこえ、民族的、人類的な生命と共通の基盤に達します。地球上における人類の誕生から数百万年におよぶとされる祖先の体験や文化的遺産が、すべてこの場に潜在しています。
 それのみならず、生きとし生けるものと融合する生物学的生命の領域をも包含していますから、まさに「生命の証が存在する場」です。この領域は意識されていなくても、折にふれ意識の表面に噴出し、われわれの心の動きを左右し、決定づけていくとしています。
 ユングに代表される二十世紀の深層心理学や、最近のトランスパーソナル心理学等は、こうした点については仏法の知見に接近していると思われます。
 それは言葉の含意性、換言すれば想像力を縦横に働かさねばならない領域であり、より広い意味での詩的世界が浮かび上がってきます。
 さらに仏法で洞察しえた第九の段階では、人間の個的生命の内奥は、宇宙の根源にまでいたります。ここに″宇宙即我″の無辺にして無限なる境涯が開けてきます。
 カズンズ なるほど、その仏法による説き方は、私にも興味つきない展開です。
 今日はエレクトロニクス(電子工学)が驚異的に発達し、人間がその下僕になりはて、むしろロボットと化しているような傾向がみられます。そのように人間がコンピューターに管理されるのも危険なことですが、ことによれば人間のほうがコンピューターの似姿になるかもしれず、この危険のほうが怖いと思います。これを予防する働きも、詩人にはできるはずです。
 歴史的には創造的人間の幾世紀もの営為を人々が知り、その知的遺産に親しみつつ、意味伝達の能力を豊かにしてきました。しかし、いまやそうした時代ではないようです。今日では教育もそうですが、会話や文通も、力のないありさまになっています。
 事務的な機能だけが優先され、現代的な交信手段のみが重宝とされていますから、言葉による交信は力を失いつつあります。その結果、機械化されるのは、人々の生き方だけではない。考え方も、人間の心のあり方そのものも、機械的になりつつあります。
 池田 そのことに関しては、私はドストエフスキーの作品『地下生活者の手記』を思い起こさずにはおれません。ドストエフスキーはそのなかで「二二が四は死の端緒」という有名なテーゼをかかげ、近代の合理主義や進歩主義に対して、深刻かつ根元的な疑問を投げかけています。
 「早い話がわたしにしても、単に自分の理知的能力、すなわちわたしの生活能力の僅か二十分の一くらいのものを満足させるためでなく、生活能力の全部を満足させるために生きたいと思うのは、あまりに自然すぎる話ではなかろうか。理性はそもそも何を知っているというのだ? 理性はただ今まで認識できたものを知っているにすぎない」(米川正夫訳、『ドストエフスキー全集』5所収、河出書房新社)
 これは十九世紀末のきわめて優れた精神が感じとった、先見的警鐘の一つですが、こういったドストエフスキーの言葉にもかかわらず、「生活能力の僅か二十分の一くらい」の「理知的能力」が、現代では、あまりにも肥大化してしまいました。理性は、もちろん人間の大切な能力の一つですが、それを過大視してしまうと、かえって人間の精神の力というものを矮小化させてしまいます。
3  言論の蘇生、感性の重視
 カズンズ かつてはアメリカにおいても、合衆国憲法制定会議の代議員たちは、古典から自在に引用して自説を補強しました。歴史上の事例はもちろんのこと、哲学者、評論家、劇作家等の思想をふんだんに援用することができました。ことにツキジデス、アリストテレス、ヘロドトス、プルタルコス、セネカ等々。あるいはアリストファネス、マーロー、シェークスピア等々の詩劇に登場する人物の台詞を引く議論は、彼ら代議員の思想の探検に彩りを添えたものです。
 なかでも彼らの論文集である『ザ・フェデラリスト』ではハミルトン、マジソン、ジェーたちの分析的な評論が、歴史のすみずみに遠征しては広く渉猟したものでした。
 独立宣言の起草者のなかでは、ジェファソン、アダムズ、フランクリン、ラッシュらがスエトニウスや、マキアヴェリや、モンテーニュ等から、適切に引用し、華やかに主義を打ち出すことができました。彼らがベーコンのアリストテレス論に言及する場合も、いちいち細かな点まで列挙しなくても、それは常識と思われていましたから、話はそれで通じたのです。
 実際、そうした彼らの引用は、知識のひけらかしでも虚飾でもありませんでした。そういうものではなく、当然の風味、自然のさびをきかしたものであり、それは円熟した言葉の醍醐味というべきものでした。
 それと同様なことが、文通についてもいえます。当時の人々は、書簡を、芸術の一様式、洗練された交信には過不足のない媒体、とみなしていたようです。たとえばジェファソンとアダムズの往復書簡は、私的消息というよりも、人間事象の省察にわたりあうものでした。このような所感の交換が、人間の思考の全領域にわたるのは、著述家にとっては異例ではなく、その場合は、引用が共通の言葉でした。このように、知的発見の航海に乗り出すのに書簡を頼りにするということは、今日では、まず考えられませんね。
 池田 ジェファソン、アダムズ、フランクリンなど、アメリカ建国の父たちが活躍した時代は、言論がその本来の生き生きとした機能を発揮した、まれな時代だったと思います。それに彼らの場合にかぎらず、初期ニューイングランドの市民集会であったタウンホール・ミーティングに象徴されるように、じつに活発にして建設的な言論が、アメリカ独立革命を推進しゆく機軸となっていたと思います。そうした言論の働きが、なぜ可能であったか。それは人々の内面世界に自由と節度、放任と制約のほどよいバランス感覚が働いていたからといえましょう。
 このバランス感覚、換言すれば自制力が弱まってくると、人間は「言論以前」の沈黙――プラトンの言葉では「言論嫌い」が「人間嫌い」に通ずる非生産的な沈黙(「バイドン」松永雄二訳、『プラトン全集』1所収、岩波書店、参昭)――の世界に閉じこもってしまうか、あるいは「言論以後」の暴力的手段に身をゆだねてしまうかでしょう。いずれにしても、それでは人間として敗北であり、人間たることの尊厳の放棄になってしまいます。
 その点、ジャコビニズムやボルシェビズムの暴力的な閉ざされた社会をつくりだしてしまったフランス革命やロシア革命とくらべて、アメリカ独立革命における健全な言論活動のあり方は、人類史上における優れて教訓的な出来事でした。
 もとより、そうした良き遺産が、その後の歴史にしっかりと継承されてきたかどうかを多分に疑問視する人もいますし、さらに生き生きとした言論の働きが現代でも可能かどうか、という課題が残ります。これはむずかしい問題であり、言論をめぐる状況は、当時とは比較にならないほど悪化しています。であればこそ私は、真実の声、真実の言論がひときわ光彩を放っていく時代に入っていくと見ております。
 カズンズ 私もその意味で、敗北主義には賛同できません。コンピューター時代になって、人間の本質的な問題が変わったかといえば、それは変わっていないわけです。生産効率や快適さや満足度をいかにして高めるかということだけが、問題なのではありません。そのうえに、いかにして人間自身の感性をより繊細なものにするか、思慮をより深みのあるものにするか、そしてまた、いかにして人間自身の存在をより調和のとれたものにするか、これらこそ本質的な問題です。
 能率の面では、コンピューターがめざましい跳躍を可能にするでしょう。また人間の知能の応用面にかぎらず、理論面でも垣根があれば、それはコンピューターがとりはらってくれるでしょう。しかし、人間が人間たることの証明を、機械であるコンピューターが容易にするか困難にするか、この問題は残存しているというよりも、ますます大きくなっています。こういうなかでは、真の問題はいったい何かということを、正確に認識する必要があります。
4  情報化社会に対応するには
 池田 そこで、効率と利便を追い求めてきた近代文明の病理ですが、先進工業社会に蔓延しているのは、「精神の渇き」ともいうべき病ではないでしょうか。人間はたんに生きるのみではなく、善く生きんと本然的に欲して生きている存在です。ところが、コンピューターに象徴される効率と利便の社会にあっては、「意味への渇仰」を満たすものが少なくなっています。私どもの社会は、量的志向から質的志向への転換が、どうしても不可欠になってくるでしょう。
 「善」の領域と「必然」の領域、「価値」の世界と「事実」の世界の対立ないし緊張関係は、ある意味では、ギリシャ哲学以来の人類史的テーマといえます。この問題が、現代の科学技術文明下におけるほど跛行的かつ破局的な様相を呈したことは、空前のことです。
 そうした状況下での質的志向は、科学技術のもつ均質性、非人称性を突き破って、人間の個性、十人いれば十様でしかありようのない個性を、どのように回復し、輝かせていくかという方向をとるべきでしよう。
 カズンズ その質的志向への転換ということを具体的にいえば、人間の美への感応をより豊かなものにする、生命それ自体を十全に尊重する、そうして人間が住む世界そのものを、現在よりも安全なものにすることが課題です。
 今ふたたび言えば、コンピューターは人間がこれらの課題に取り組むのを、今よりも容易にするか、困難にするか。じつはこれこそが、大きな問題ではないでしょうか。
 コンピューターの電子頭脳にも、それなりの可能性があるのはたしかです。たとえば、人間の生活に不可欠な研究が行き詰まっているところでは、その行き詰まりを次々と打開していけるでしょう。しかし、人間の生活のなかで、いまだ経験されたことのない事例に遭遇するときにおかしやすい誤りや、愚かな事故は、電子頭脳にはなくせません。あるいは人間がもともと無関心であってはならないもの、たとえば他者が現実に感じている痛み、自分がみずから成長し価値を創造していく可能性、人類共有の記憶、次につづく世代の権利などに関心をもつことも、電子頭脳にはできないことです。
 これらのことが、コンピューター時代になぜ大切か。それは、人々がたんなる情報を英知とかん違いする傾向に走るかもしれないからです。これまでにも論理を価値と考えたり、知識を洞察と思ったりするような取り違えがありましたが、これからも、それとまったく同じ傾向へ走りだす危険がないとは、いえないからです。
 池田 そこにも「善」に対し「必然」、「価値」に対し「事実」の偏重が見られ、その点が、情報化時代のいちばん恐ろしいところです。あふれかえる情報の洪水のなかで、みずからの思考や判断力を麻痺させられた無気力な人が増えるなら、権力による情報操作、あるいはその裏返しとしての情報攻勢が、いともかんたんに功を奏します。自分では取捨よろしく情報をさばいているようでも、知らぬ間に情報に操られているといった事例が、今日ではしばしば見られます。
 そのさい、留意すべきことは、科学技術のもたらす病弊を警告するあまり、その全否定に走ってしまうことです。人工よりも野性(自然状態)を重んじた思想家ルソーについて、″彼の著作を読んでいると四つの足で歩きたくなる″という、あのヴォルテールの揶揄ではありませんが、科学技術のもたらした成果は、そうかんたんに否定できるものではありません。
 そうしようとするのは、現実的対応とはいえず、机上の夢想に近いでしょう。大切なことは、近代的な知性や科学技術というものを″反時代的″にではなく″弁証法的″にとらえていくアプローチでしょう。
 カズンズ そうしていけば、情報の無限の駆使が価値の無限の創造に通じる場合があるかもしれません。その場合も一定の条件は必要です。つまり、その情報が何を意味し、どういう結果を招くか、この点を見定める意志と能力が情報の駆使にともなってこそ、価値の創造にいたるでしょう。
 この条件を課さずに駆使される情報なら、それは怖いものになります。情報そのものはいわば粗野な材料のなかでも、最も粗野な素材にすぎないので、これは、きちんとした論理によって整理されねばなりません。それなのに、情報そのものが確実な価値であるかのようにみなされる場合があります。しかも、いとも安直に。
5  質的差異への視点
 池田 教授はつとに、「我々が恐れなくてはならない牢獄があるとすれば、それは結局のところ、我々の無気力と優柔不断だけである」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)と述べられています。私もまったく同感です。
 人間が意志の力をしだいに過小評価するようになれば、それはとりもなおさず、われわれの生命力の衰弱を物語っていることにほかなりません。
 カズンズ ちなみにホワイトヘッドは、「事実の分析に取りかかるには、非凡な精神を要する」と言っていますね。
 コンピューターのはじきだす数字が正しかろうと、価値判断がくだされるまでは、まだ的確な数字とはいえないかもしれません。だからこそ、電子頭脳を媒体にした中間作業と、人間自身が最終責任をもってくだすべき価値判断との間には、一線を画さねばなりません。それを怠るなら、先に述べたような人間自身が思いをいたすべき諸関係がぜひとも不可欠であるとの認識は、ややもすればコンピューターによって曇らされ、ついにはその画されるべき一線すら、見失ってしまう結果になりかねません。
 そうなると、人間はただ機能面の問いを事務的に出しているにすぎないのに、あたかも根本的な問いを発しているかのような錯覚を、コンピューターが呼び起こすようになります。またそうなると、コンピューターは人間の脳のいわば外延にすぎないのに、人間は自分自身の脳がなくても、この代用物があるからいいではないか、という馬鹿げたことにもなりかねない。
 それに、コンピューターの出す答えはつねに具体的ですから、その答えを人間が過信するようなことも、起きるかもしれないのです。
 池田 もちろん、コンピューターを駆使する人が非人間的なのではありません。以前、ある本で読んだ話に、将棋を指す機械のことが出ていました。コンピューターの進歩は、その機械をへたな人間ならかなわない、相当の「指し手」にするかもしれません。しかし、その類いの機械同士を戦わせたらどうなるか。先手必勝か先手必敗か、千日手か――いずれにせよ、勝負は始まるまえにわかってしまう。したがって、勝負事のように、熟慮断行といった人間の判断力を要する場合は、コンピューターではおもしろくないというのが、笑い話のようですが、その話の結論でした。やはリコンピューターと人間との違いは、量的な差異ではなく、質的なものだ、と。
 そのうえ、未知の領域への探究と決断がなくなってしまえば、人間が人間でなくなってしまうでしょう。そうなったときには、そこは、もはや生きることの意味を奪われた世界です。死ぬほど退屈な世界には、一日たりとも、とどまることができないのが本来の人間だからです。
6  技師と詩人の協力
 カズンズ「はじめに確信ありきなら、遂には懐疑であろう。はじめに懐疑ありきで、よく懐疑につきあっていくなら、遂には確信にいたるであろう」と、ベーコンは述べています。
 むろん、コンピューターにも誤りをなくす方法はあります。しかし、人間が機械の勝利にうつつをぬかすまえに、人間自身の状況を顧みて、そこには偉大な進歩があったことに思いをめぐらすべきです。実際、人間に過ちがあっても、それに対処するさらによい方途が発見できるまで、思索をつづけ、探究をつづけたからこそ、人間は進歩してきたのですから。
 「我に、よき実りをもたらす過ちを授けたまえ。その過ちを正せる種がはじけるように詰まった過ちを。不毛の真実は、君の手に委ねよう」という言葉を遺したのは、フェリス・グリースレットという人でした。
 池田「不毛の真実」という言葉は、先に紹介したドストエフスキーの「二二が四は死の端緒」というテーゼと符合しているように思います。とはいえ、われわれが科学技術に背を向け、ルソーやソローが憧憬の眼を向けたような「自然」や「森」のなかの生活をめざすなどというのは、およそ非現実的なことです。
 それよりも現実的なのは、コンピューター等の機械類をどう位置づけ、文明の利器としてどう活用していくかという課題に取り組むことです。人類が機械類を生みだしたにもかかわらず、手段そのものを目的と化していく転倒だけは、さけなくてはなりません。
 人間としての証は何か――。シモーニュ・ヴェイユは、他者のために「胸を痛める心」(『デラシヌマン』大木健訳、『現代人の思想』9所収、平凡社)こそ、人類の普遍的感情であるとしています。仏法でも他者への「同苦」や「共苦」を、仏法者であることの絶対的条件としていますが、こうした萱遍的感情を幾重にも掘り起こしていく作業が、日常のなかに求められていくべきです。そうした点にも私は、世界宗教、普遍宗教というものの必要をみております。
 カズンズ よくわかります。技術者の手からは、なにも奪い取る必要はありません。奪い取るのではなくて、コンピューター関係の技師と詩人の間に何らかの橋を架ける手段が講じられるなら、そのときこそ、かの先達が切に望んだ「よき実り」がもたらされるでしょう。現代の諸問題の解決が、電子管とトランジスターにゆだねられても、創造力の源泉は人間自身の想像力ですから、その驚異的な力を解き放てば、それが真の解決になるでしょう。
 つまり、機械を管理する技師が詩人に協力できるなら、人間の可能性は、テクノロジーが描くのよりも、もっと大きな、もっと明るい展望が開けてくるだろうと思います。
 というのも、詩人なればこそ、人間は独自の存在なのだと痛感させうるからです。この独自さを究極的に定義づけたり、定義そのものをこねくりまわす必要はないと思います。大切なのは、定義をこねくりまわすのではなく、人間の独自さ自体に思いをめぐらすことです。これができたなら、それだけでも人間自身が一歩前進したといえるのではないでしょうか。
 池田 同感です。お話をうかがっていて、私は、パスカルの言う「幾何学の精神」と一対の「繊細な精神」を連想します。パスカルは天才的な数学者、物理学者として「幾何学の精神」に通じていた大家であるとともに、人間の心事の委曲をつくした『パンセ(瞑想録)』をあらわすなど「繊細な精神」の持ち主でした。あまりにも有名な話で恐縮ですが、「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」(『パンセ』松浪信三郎訳、『世界の大思想』8所収、河出書房新社)との美しいくだりは、モラリストとしての洞察の深さが、自身の「繊細な精神」とともに躍如としています。
 もとより、われわれ人間の気質はたがいに一様ではなく、またことに専門分化のいちじるしい現代では、なかなか「繊細な精神」をあわせもつことは困難ですが、だからこそ教授の言われる「技師と詩人の協力」が、人間的精神の健全な発展のために強く求められると思います。

1
1