Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 「希望」の哲学を語る  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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5  決定論でなく可能性の追求を
 池田 現在は、宇宙も人間もともにつらぬく万物の一体性というか、よリホーリスティック(全体的)な法則が、模索される時代にきているようです。興味深いことに、私が一九八三年にお会いしたアメリカの元宇宙飛行士のジェラルド・P・カー博士らも、同じ趣旨のことをみずからの宇宙体験をふまえて語っておられました。
 カー博士の強調されたのは、″宇宙の秩序ある運行″という点ですが、私はそこから、仏法のものの見方に非常に近接している、との感触をもちました。宇宙に即して自分をとらえ、また自分に即して宇宙を考察する仏法の知見は、新しい世界観、宇宙観の形成に資するところ大であると私は信じています。とともに、彼ら宇宙飛行士が共通していだいているのは、同じ惑星の住民として、人類は平和をめざすべきだという信念です。
 カズンズ 運命論的な見方も、決定論的な諦観も、無用です。もう手遅れだという必要はまるでないと思います。
 現代の世界の変化に対応していくには、状況の全体的な把握が不可欠ですが、それは不可能であるというのは、悪しき決定論です。人類が生きのびていくには、発想を転換し、種々の転換能力が解きはなたれねばなりませんが、それには何百年もの時間がかかるというのも、また悲観論の悪いところです。そういう論法は、いずれも無用の長物であろうと私は思います。
 私たちは、何が不可能かというよりも、何が可能かを明確に主張すべきですね。
 まず大局観に立つことは可能でしょう。偉大なものに感応する偉大な資質は、すでに人間に内在しています。したがって、その資質を喚起して、顕現していくことだけが、課題です。自己を鍛えて、より完全なあり方に近づき、境涯そのものを大きくしていく。人間には、そうしていける資質が無限にそなわっていますから、詮ずるところは、これらの尊極なる資質を触発していく。そうした生き方ができるからこそ、人間はとくにめぐまれているのだと訴えていけばいいですね。
 池田 その深い自覚が大切でしょうね。
 カズンズ これまでの歴史をみても、偉大な目的にめざめた人たちが輩出して、十分な数に達した時には、突如として状況が変わっています。歴史の教訓のなかでも、実際、これほどめざましい証はありません。人間の尊厳を主張し、やがてつづく世代の主張も受け入れる積極論者には、この目的にめざめた人たちが輩出するときが、えもいえぬ時代開拓の黄金期ではないでしょうか。ああ、生きていてよかった、と歓喜できるのは、その時でしょう。
 池田 カズンズ教授は、いかなる意味でもセクト主義ではなく、数十年間にわたり「人間」を友とし、「人類の未来」を展望されてきました。何が不可能かよりも、何が可能かを明確に主張すべきだという教授の意見に、私は全面的に賛同します。
 とくに人間の「尊極なる資質を触発する」と言われるところには、非常に重大な意味があると思います。そこにこそ、すばらしい可能性がはらまれており、新しい″哲学″が見えてきます。真に人間らしい″詩″と″ロマン″も生まれます。じつのところ、人類の未来を語るには外的な条件よりも、そうした内的要件から始めなければならないでしょう。
 私どもが進めている仏法運動の性格を″人間革命を第一義とし、社会の変革へ″と意義づけているのも、そのためです。

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