Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 「希望」の哲学を語る  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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2  本質的に悲劇の時代
 池田 いかにもテイヤールらしい言葉です。
 テイヤールは、人間がたがいに傷つけあっていても、なお愛の発しがたい力というものを信じていた人です。おもしろいことに彼の楽観主義は、独特の宇宙進化論から生まれているともいえますね。
 カズンズ そのとおりです。
 池田 彼の宇宙論は、進化という概念が根本に置かれ、宇宙的なものも人格的なものも、同一方向へ進化しているというもので、その到達点が″オメガ点″とされています。彼の言う″オメガ点″の裏づけにはいささか論理の飛躍も感じますが、総じて対立・抗争の歴史だった西洋の科学と宗教の間に橋をわたし、統一的にとらえようという志向を強くもっていたこと、また、人間と宇宙、精神と物質を一元的にとらえようとしていること等は、共感できる点です。
 彼の宇宙進化論は、その意味で一個の意味論的な世界像を成していましたね。その評価は別として、人間はそうした世界像の構想なくして、目に見える世界だけに心を奪われていると、悲観論の重圧に押しつぶされてしまうと思います。そこからは不毛の対立と不信が増長されていくだけです。現代では、その象徴が核軍備の拡大であったといえるでしょう。
 カズンズ 現代の圧倒的な事実は、ほとんど悲観主義者の側に根拠を与えています。世界は総崩れの段階にあるという証拠こそが、有力ですね。
 池田 たしかに人類を取り巻く環境は、かならずしも明るくない。人口、資源、エネルギー、公害、そのうえ人類を百回以上も殺すことのできる大量の核兵器などの問題を考えると、ひところのバラ色の未来論は、夢物語です。
 物質の世界は無限ではなく、われわれはいやおうなく、この地球という有限な球体の上で生存することを余儀なくされています。その意味では、今日ほど平和と安定への、人間の英知の結集が必要な時代はありません。
 かつて(一九八三年一月)、宗教社会学者であるカリフォルニア大学のロバート・N・ベラー教授と語りあったことを、私は思い起こします。
 それは、平和運動といっても、核の脅威や悲惨さを訴えるのみでは不十分である。
 ともすれば悲観的になり、青年たちに「未来への希望」と「行動への勇気」をわきたたせることができなくなってしまうからである。もっと人間の精神性を高める生きた哲学、宗教運動が必要であり、人生と社会の大きい次元での価値観の変戦が大切であるという点で、意見の一致をみました。
 そうした観点から、ベラー教授は、私どもの運動に強い期待をよせてくださいました。
 カズンズ 現代の悲観主義者の間には、人間のいのちが最高の価値であるという認識は、もはやないように思われます。ことに他者がこうむっている苦悩や屈辱に対しては、繊細な気持ちが、鈍化しているのではないでしょうか。
 人々は大小さまざまな暴力にいともかんたんに折りあいをつけています。貧困の屈辱にも怒りを感じなくなり、公平な社会を求めて行動を起こすこともありません。
 一方、精神の働きをゆがめる麻薬の力に、自分の脳細胞をゆだねざるをえない人々は、数百万を数えます。機能が麻痺した大都会はもはや再建の計画もたたず、急速に悪化の一ぎをたどりつつあり、住みにくい環境に変犯しています。生命あるものにとっては不可欠な自然の要素が奪い取られた環境と化しているわけで、空気は吸えなくなる、水は飲めなくなる、といったありさま。天然無垢の自然の恩恵は無限ではなくなっています。
 池田 くわえて現代は心の病が人間の数ほどあると言った人がいるように、社会の病巣が、人々の心を憂愁の雲でおおっているかに見えます。環境の諸条件の悪化にもまして、人々の心が汚染され、人類の未来や目的に対して、無関心、無気力になってしまうことこそ、最も憂うべきではないでしょうか。
 かつて、D・H・ローレンスは「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである」(『チャタレィ夫人の恋人』伊藤整訳、『世界文学全集』55所収、筑摩書房)と述べました。
 真に悲劇たるゆえんは、悲劇を悲劇として受けとめない心のありさまにこそあるという指摘は、今なお新しく、大切な視点をふくんでいます。
3  人間の内面に豊かな水脈
 カズンズ それらは、人間にありがちな愚かさと無分別さを物語る例です。それには、どんな対照例を並べたてることができるでしょうか。何が希望の源泉でしょうか。
 これは冒頭ですでに申し上げたことですが、まず希望がもてることを証明できる事実があり、それがそうだと合理的に評価できるから、楽観論が成り立つということは、かつて一度もありませんでした。
 希望は、そもそもその本質からして、証明可能な事実から独立したものなのです。人間は「よりよいもの」にあこがれます。そのあこがれが、人間的な精神力を生みだしますので、この精神力を解放するところには希望がわいてきますね。
 池田 よくわかります。「精神力の解放」というのが一つのカギですね。
 私は、フランスの作家アンドレ・マルロー氏とも対談集を編みました。そのマルロー氏も一九四五年以来、ともに行動してきたド・ゴール将軍のことを紹介していたので、よく難えているのですが、ド・ゴールは「希望はまさに人間にしかないものらしい。そこで、個人においては、希望の終りは死のはじまりと思いたまえ」(『倒された樫の木』新庄嘉章訳、新潮選書)との言葉を残しています。私は、彼の歴史観、国家観にはかならずしも同調しませんが、ナチス占領下の祖国へ不屈のメッセージを送りつづけ、″フランスの栄光″を求めたド・ゴールらしい言葉だと感銘を深くしたものです。
 カズンズ その、希望を受け入れる雅量をそなえていることが、人間の生命についていえる最も偉大な事柄ではないでしょうか。希望があれば計画が立てられ、目的観が生まれ、目的を達成する方途も自覚され、行動にうつる活力も自得できるでしょう。感覚を敏活にするのも、拡大するのも、まさに希望しだいです。とともに、気分にも現実にも、それなりの価値を付加するのが、この希望というものです。
 ゆえに楽観論は希望こそが生みだす、そのような現象にもとづいて成立します。今日、人々が消極的になっているのは、現実の重荷のためではなく、理想が欠如しているからだといえるでしょう。
 理想、あるいは大いなる夢でもいいのですが、これが健全であるなら、いかなる現実もこれには張りあえない。たとえば人間を月に送り込んだのは、もちろん科学ですが、それにもまして人間を動機づけたのは、想像力ではなかったでしょうか。人間の独自さは、見果てぬ夢をいだきうることに代表されます。そしてこの夢想能力があればこそ、いろいろ手のこんだ悲観論があろうと、それを打破して不可能といわれていることも可能にしてみせる、といえるわけですね。
 池田 私もまったく同感です。まさしく現代の人々に欠如しているのは、精神の豊かさです。人々は物質的な豊かさを追い求めるあまり、目先のことにしか目が向かず、理想を追求する人間本来の力を衰弱させているともいえます。人間があまりにも小さな存在になってしまった。そのことに人々がもう一度、気づかねばならない時代にきていると思います。
 カズンズ そう考えてくると、その人自身の想像力をよみがえらせることが、先決ですね。では何についての想像力が大切なのか。これが、次に論じられるべきでしょう。
 私が思うに、どんな人生が望ましいかについての想像力、あますところなく英知を活用していくなら、世界と芸術はどんなに健全かつ繊細な精神に満ちるかについての想像力、新しい制度の創始、新しい解決法の発見、新しい可能性の自覚のために、どういう能力が人間にはあるのかについての想像力――なによりも、これらをよみがえらせることが先決です。
 池田 いわば人間の再発見ですね。いつの時代も、人々は新たな世界を求めて、冒険につぐ冒険を繰り返してきました。そのいわば″外面への冒険″は、現在では、宇宙空間にまでおよんでいます。
 それとともに私は、人間の心の世界を開拓する″内面への冒険″ともいうべきものが、なされなければならないと思っています。″内面への冒険″の途上には、新大陸を発見したり、宇宙空間を旅するのにもまして、心おどる出来事が待っているということを、人々はもっと知らねばならない。
 東洋の思想や宗教は、じつはこの内面世界の、すなわち生命の世界の深遠さを、豊かな思索への光源としております。東洋的な考え方にあっては、いかなる理論的な探求や展開も、自己の内面の掘り下げと関係づけながらなされている、と言っても過言ではありません。その内面世界の深古幽遠――問題は、それをどのようにして知り、輝かせていくかですね。
 カズンズ 希望は、命令したからといって、わいてはきません。絶望している人に、輝かしい理想を創出したまえ、と命じるわけにはいきません。しかし、自己の内面を見つめ、自己を再発見するよう、励ましてはいけるでしょう。絶望している人たちにも、想像力は生来そなわったものであり、視野を広げていけばいいのですよ、そのことに自信をもちなさい、といえるでしょう。将来の展望を明るくするのも、暗くするのも、結局は、何を危機にさらすかによるのであって、危機そのものが明暗を分けるのではないということになりますね。
 もちろん、現に水素爆弾が存在しています。大陸間弾道ミサイルが配備されています。政治家がもたもたしている間は、核のヒューズがパチパチ火花をたてているといっても、おそらく過言ではない。
 現在はそうした状況ですが、真の平和への突破口は、人類の力のおよばないところにあるわけではない。けだし私たちの時代ほど、抜本的変革をなしとげるのに、条件がそろった時代はかつて史上になかったといえるでしょう。実際、全人類の需要をみたすように地球を開発しようとすれば、それはできるといえる時代になっています。これは未曾有のことです。
 池田 たしかに転換の時代に入っています。ただし科学技術の進歩にくらべ、政治の遅れはいかんともしがたい。それが大きなネックになっています。
 カズンズ そのことは当然、考えておく必要がありますが、ともかく病苦にしても、貧困にしても、克服できることは明らかです。飢えや渇きも技術的にはなくせます。たとえば太陽熱をコントロールすると光合成ができるというのは、具体的な見込みが立っているでしょう。そのように時間の猶予さえあれば、かつてはまったく不可能だった規模と程度にまで、創造的な開発をなしとげていくゆとりを人間はもてるようになっています。これは、人間のなかに固有の潜在能力源がそなわっていることを物語る一例ですね。
 池田 人間の創造力には限りない可能性が秘められています。と同時に、愚かな歴史を繰り返してきたのも、人間社会の否定できない側面です。「人間」をトータルにとらえる場合、この点もしっかりおさえておく必要があると思います。
 このままでは、手段にしかすぎないものが、しだいに目的と化し、人間が、自分で生みだしたものに逆に支配されるという結末を招きかねない。現代の科学技術文明も、その恐れが十分あります。
 人間は、その英知によってこれらの課題を解決していかねばなりません。私はそこに、宗教の存在価値があると考えております。個人の信仰という面でももちろんそうですが、平和的、文化的な社会を築いていくための宗教運動という次元でも、もう一度、この点を見直す必要があるでしょう。
 事実、日本でも、一人一人の生き方そのものが問い直されつつあります。そして科学技術の善用が、これからの発展の要諦です。
 カズンズ そのとおりですね。
4  ″宇宙空間から地球を眺める″
 カズンズ そこで、とくに近来の、四十五年を顧みてみましょう。この間に人類が容認しなければならなかった急進的な変革は、それこそ有史以来、最大のものでした。
 この変革は科学はもとより、およそ知の体系の全体にわたるものです。たとえば、原子力を解き放つことによってもたらされた変化の代表例は、人間の科学的な英知を活用したいかなる前例よりも、重大な意味をもつものですね。
 また、宇宙の探査に代表される地球引力からの脱出という例では、その影響が物理学を直撃したことはもちろんですが、その波及効果はむしろ哲学に深刻な衝撃を与えました。新しい視野がいきなり開け、考え方そのものにも変革が迫られています。
 池田
 しかしひるがえって、それがはたして統一的な世界像であったかどうかは、疑問であると思います。
 知ることによって支配し、征服する対象であった客観世界が、人々にとって有機的な意味あいをもっていたかどうか。
 かつてポール・ヴァレリーが、「後にいたってわれわれが、われわれの宇宙から一切の生命を排除することに哲学を用いたのと同じ熱意をこめて、古人は宇宙に生命をはびこらせることに彼らの哲学を用いた」(「神話に関する小書簡」伊吹武彦訳、『ヴァレリー全集』9所収、筑摩書房)と述べているように、生命なき世界像とは、世界像の名に値しないからです。
 はたせるかな、今世紀における量子論や相対性理論の登場は、不変かつ不動の主観・主体などというものの足下を掘りくずしました。また、地球引力を脱出して宇宙空間から地球を眺めるという体験は、人間中心的なものの考え方に、よい意味での相対化をもたらしました。
 カズンズ 人間の頭脳がおぼろ気であろうと、初めて宇宙の意味を理解するようになったことは、なんといっても大きいですね。
 地球はもちろん太陽系そのものが、宇宙の全体のなかでは極小な場を占めているにすぎない。それはたとえていえば、地球に対しての原子ほどにも大きな場ではないということでしょう。この点を人間が知覚するのは、じつに初めてのことでしょう。
 こうなると、未来の展望には、単純ならざる要素がふくまれていても、眺望が得られないということではないと思います。
 私たちに必要な見通しがたつか否かは、人間の身体的な資質にかかわる物理学的な問題というより、精神的な資質である想像力のいかんによるところが大きいということになりますね。
5  決定論でなく可能性の追求を
 池田 現在は、宇宙も人間もともにつらぬく万物の一体性というか、よリホーリスティック(全体的)な法則が、模索される時代にきているようです。興味深いことに、私が一九八三年にお会いしたアメリカの元宇宙飛行士のジェラルド・P・カー博士らも、同じ趣旨のことをみずからの宇宙体験をふまえて語っておられました。
 カー博士の強調されたのは、″宇宙の秩序ある運行″という点ですが、私はそこから、仏法のものの見方に非常に近接している、との感触をもちました。宇宙に即して自分をとらえ、また自分に即して宇宙を考察する仏法の知見は、新しい世界観、宇宙観の形成に資するところ大であると私は信じています。とともに、彼ら宇宙飛行士が共通していだいているのは、同じ惑星の住民として、人類は平和をめざすべきだという信念です。
 カズンズ 運命論的な見方も、決定論的な諦観も、無用です。もう手遅れだという必要はまるでないと思います。
 現代の世界の変化に対応していくには、状況の全体的な把握が不可欠ですが、それは不可能であるというのは、悪しき決定論です。人類が生きのびていくには、発想を転換し、種々の転換能力が解きはなたれねばなりませんが、それには何百年もの時間がかかるというのも、また悲観論の悪いところです。そういう論法は、いずれも無用の長物であろうと私は思います。
 私たちは、何が不可能かというよりも、何が可能かを明確に主張すべきですね。
 まず大局観に立つことは可能でしょう。偉大なものに感応する偉大な資質は、すでに人間に内在しています。したがって、その資質を喚起して、顕現していくことだけが、課題です。自己を鍛えて、より完全なあり方に近づき、境涯そのものを大きくしていく。人間には、そうしていける資質が無限にそなわっていますから、詮ずるところは、これらの尊極なる資質を触発していく。そうした生き方ができるからこそ、人間はとくにめぐまれているのだと訴えていけばいいですね。
 池田 その深い自覚が大切でしょうね。
 カズンズ これまでの歴史をみても、偉大な目的にめざめた人たちが輩出して、十分な数に達した時には、突如として状況が変わっています。歴史の教訓のなかでも、実際、これほどめざましい証はありません。人間の尊厳を主張し、やがてつづく世代の主張も受け入れる積極論者には、この目的にめざめた人たちが輩出するときが、えもいえぬ時代開拓の黄金期ではないでしょうか。ああ、生きていてよかった、と歓喜できるのは、その時でしょう。
 池田 カズンズ教授は、いかなる意味でもセクト主義ではなく、数十年間にわたり「人間」を友とし、「人類の未来」を展望されてきました。何が不可能かよりも、何が可能かを明確に主張すべきだという教授の意見に、私は全面的に賛同します。
 とくに人間の「尊極なる資質を触発する」と言われるところには、非常に重大な意味があると思います。そこにこそ、すばらしい可能性がはらまれており、新しい″哲学″が見えてきます。真に人間らしい″詩″と″ロマン″も生まれます。じつのところ、人類の未来を語るには外的な条件よりも、そうした内的要件から始めなければならないでしょう。
 私どもが進めている仏法運動の性格を″人間革命を第一義とし、社会の変革へ″と意義づけているのも、そのためです。

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