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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 平和教育の眼目  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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6  分断から調和の時代ヘ
 池田 それらこそ、人間を人間たらしめる根本です。
 さらに「宇宙」というマクロ・コスモスと、「人間」というミクロ・コスモスとが、共通の「法」によって、分かちがたく結びあわされているというのが、仏教の知見です。
 すなわち、人間も宇宙も一つの生命体ととらえられており、人体は自然界と共通している存在とみなされている。たとえば、頭は天に、足は地に、息は風に、血液は河に、眼は日月に、髪は星辰に、というふうにたとえられているのです。
 ゆえに、あるときは、現実世界の事象をつらぬく大宇宙の不変なる法則を見つめる。
 またあるときは、人間がつくった制度やイデオロギーの囲いを突きぬけて、一個の人間に秘められた限りない可能性の輝きを見いだす。
 そして時に、万人を結びあう、見えざる生命の絆を覚知する――こうしたみずみずしい生命感覚こそ、われわれの日々の生活を、美しく、そして豊かに彩ってくれるでしょう。
 それを忘れた人生というものは、灰色で索漠たるものになる。表面は豊かできらびやかな装いをこらしていようとも、人々の心は埋めようのない空白感にさいなまれるにちがいない。
 なぜなら、宇宙本源のリズムとの合一は、生命の最も深い次元での喜びにほかならないからです。
 そうした知見には、近代科学のアプローチとはなじまない面があるかもしれません。しかし、そのさい、近代科学の物差しをもっていっさいを裁断し、それに合わないものを切り捨てていく時代は終わった、と私は思っております。
 私は″反時代的考察″を是とする立場はとりませんが、総じて近代文明は、科学技術の主導のもとで、人間を狭いところへと追い込み、帰するところは人間自体を、宇宙のリズムと切り離されたみじめな「断片」、D・H・ローレンスが言うそれとしてしまいました。そうした近代合理主義にもとづくものの見方は、現在、あらゆる意味で相対化を迫られていると思います。
 カズンズ 私もそう思います。
 したがって、地球という視座から観想して、これこそ大切であろうと思われることを、いくつかあげてみたいと思います。
 その一つめに、人間が各自の考え方にしたがっていき、その結果、まちまちの方向へおもむいているというなら、私はそれよりも、人間がみな考える力をもっているというほうを大事にしたい。
 その二つめに、各自の求めた信仰が各派に分かれているというなら、私はそれよりも、人間には宗教的信仰ができたというほうを重視したい。
 その三つめに、人間が読み書きしてきた書物が、てんでんばらばらなことを言っているというなら、私はそれよりも、人間には印刷術を発明し、これによって、時空を超越した意思の疎通ができたというほうを大切にしたい。
 そして最後に、愉しむところの美術や音楽にも各派があるというなら、私はそれよりも美術と音楽のなかにある「何か」によって、人間はかたちをなすもの、彩りあるもの、旋律をもつものに深く、しみじみと感応することができたというほうを尊重したい。
 これらの経験や体験が基になって、およんでは宇宙における人間の尊貴さにしかるべき思いをめぐらせることにもなるでしょう。
 池田 すばらしい表現です。
 まず先入観念をとりはらって、より高い精神性を求めていきたいものです。一念の転換で、人間はもっと広々と大きな人生を生きていけます。
 カズンズ そのさいに助言すべき点は、人間が必要とする種々のものには連鎖の関係があり、それには調和のとれた統一性がなくてはなりませんから、それを壊してはいけないということです。
 現状は、人間にとって宇宙がいかに優しくても、人間の生存条件そのものが危うくて、やっと調和をたもっているといったふうになっています。
 酸素、水、土地、温暖、食物を必要としない人間はいません。これらのどれか一つが欠けても、人間になくてはならぬものたちの統一性は、痛撃をうけます。それとともに、人間も窮地におちいります。
 池田 それに、宗教であれ、学問や芸術であれ、これらは本来、生命の調和の探究であり、把握であり、その上に開花していくものではないでしょうか。しかし人間社会には、さまざまな「分断」現象が生じています。小は家族の離間から、大は民族間、国家間の抗争にいたるまで。これらも今、地球的規模で問われている環境破壊の問題等も、人間と自然との間の「分断」現象の端的な現れにほかなりませんね。これらのすべてが、生命の調和と秩序を大きく破壊していますから。
 現代社会の課題は、この分断されたあらゆる関係性をいかに健全なる結合へと変革していくかにあります。それは、文明それ自体への反省と、人間自身への深い省察を要請する戦いでもあります。
 一九八八年秋に、私はソ連の作家であるチンギス・アイトマートフ氏とお会いしました。
 氏は、日本を去るにあたって、次の言葉を私に残していかれました。
 「これからは新しい世界宗教、新しい宗教的文化的教えを必要とします。これまでの人類の長い歴史のなかで、人間はその精神を、心をバラバラに分断されてしまいました。それを一つの調和へ糾合しなければなりません。今それをしないと人類は滅んでしまいます」と。
 そして「その調和へのスタートを私は今回見ることができました」と、私どもの運動に期待しておられました。無神論を国是とする国の人にしてこの言葉あり――私はそこに″時代″の趨勢を感じました。
 カズンズ アイトマートフ氏は私の親しい友人でもあり、それは興味深い発言です。したがって次の課題は、人間自身の状況をいかに改めるかということになりますね。
 つまり、ここで私たちが論じてきた「人類同認」をとおしての自己確認を、今度は人類の安寧という大義のために、いかに活用するか。そして、生命のよって立つ自然の調和が今でも危ういのに、なおも危うくしている人間の機械文明を、いかに制御するか。人類全体の平和社会を、いかにすれば創出できるか。
 これらの課題に取り組む教育がほどこされるなら、宇宙と自然と人間にとって不可欠な認識を得るだけではなく、食物に劣らず大切な精神の力をもそなえた民衆が、いずこよりか輩出してくるにちがいありません。
 このように、より高い境涯に民衆が立つようにしていくためには、山なす大金も、鳴り物いりの宣伝も、無用の長物です。
 そのリーダーシップは、人類の運命が受託され、人類の運命を問題にしていますから、民衆は感応してくるはずです。

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