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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 平和教育の眼目  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
2  「世界市民」意識の育成
 カズンズ 思うに、安全な状況をつくりだすには、国家の主権を効果的に制限するに必要な諸原則が世界法という構想に盛り込まれ、これにもとづいて行動しないかぎり、ほかの知識がいかにあろうと人類の役に立たないでしょう。
 池田 日本について申し上げれば、平和ということを、教育の次元で正面きって取り上げたのは、まだこの四十年ほどです。
 それ以前の、近代日本の歴史は、″富国強兵″が最大の国家目標とされ、国家主権の行使としての戦争がほとんど自明の理のように是認されてきました。そこに疑いをはさむ人は、ごくわずかな思想家、宗教家にすぎませんでした。
 ですから、平和それ自体を、世界法というような概念で積極的に取り上げ、論ずることもほとんどありませんでした。
 カズンズ 状況はよくわかります。
 池田 日本人のそうした考え方を根本から揺るがす変化が起きたのは、ご存じのように、太平洋戦争後です。とりわけ二度にわたる被爆体験、そして平和憲法の誕生は、国家主権の絶対性を問い直させ、国際社会へ眼を開かせました。
 カズンズ 人間には皆、日本人であれ、アメリカ人であれ、あるいはロシア人、中国人、イギリス人、マレー人、インド人、アフリカ人であれ、おたがいへの義務があります。
 それは、各人が所属している主権国家への義務を超越したものです。
 今、二十世紀の人類が巻き込まれる対立は、イデオロギーや政治をめぐる対立だけではありません。人格、歴史、それ以外の点でも、対立することがあります。自分が所属する身近な共同体のなかでの利害関係から、人類全体のさまざまな共同体との利害関係にいたるまで、ことごとく対立しなければならない場合もあります。
 また、われわれが住んでいる世界はかならずしも、われわれがつくった世界ではないと主張したくなる場合もあるでしょう。しかし、この現に在る世界の様相をその複雑な要素ともども把握しなくては、この世界の安全をしかるべく確保することはできないのです。
 池田 まったく同感です。またその意味では「国家」「民族」の問題は、二十世紀の今日まで人類がかかえてきた最大の課題の一つかもしれません。これはまことに微妙な問題です。しかし、もっとたがいによく語りあい、知りあい、協調していくことは十分に可能なことです。現に時代の流れは、それを志向しています。
 カズンズ 今後の時代の展望にいかなる不確定要素があろうと、一つだけ確かなことがあります。
 それは、現在の世代はもとより、今後の世代も、さらにまた後続の各世代も、みな人類共同体の市民とならなければならないということです。つまり、どの国に行っても、どの国民にくわわっても、そこに、そのなかに、安楽の場がなければならないということです。
 それにはいくつかの言葉も話し、その地の人たちの哲理や心理も少なからず解し、今はまだ道標もない道をたどるすべも知っておく必要があります。
 池田 とくに若い世代はそうですね。それと国連のイニシアチブ(主導権)により、各国の人々が「環境」「開発」「平和」「人権」等の、国家の枠を超える人類的課題を集中的に学べるようにしたらどうか、そういう教科書づくりを検討してみてはどうか、ということを私は提唱してきました。「世界市民」意識を涵養し、具体的に行動化していくことが、二十一世紀までの残されたわずかな期間における最大の課題であると思ってきたからです。
 カズンズ 世界市民たるには、もちろん知識も必要ですが、同時に知識よりもはるかに大切なものが必要です。それは、さまざまな価値があることを痛感するとともに、価値の創造と維持のための諸条件を深く心得ておくことですね。
 池田 賛成です。
3  人間の尊厳を重視
 カズンズ 従来の教育ではいたらない点があるのは、なにもアメリカ合衆国にかぎりません。それは世界のほとんどの国においても同様で、いわば五十歩百歩の差のように思います。それは人々に部族意識を植えつけてきたけれども、人類意識を啓発することはあまりなかったという点です。つまり一視同仁いっしどうじんの心が人類すべてにおよぶのではなく、一部の人間にかぎられてしまうような教育、これが今日にいたるまでの教育の大きな流れであったと思います。
 さらに申し上げれば、従来は価値観にしても、人間のなす物質的な事柄を優先し、人間自身の尊厳を重視することがありませんでした。人間の力は宣揚されるけれど、生命の尊さは謳歌されません。国歌があって、全人類の歌がない。
 池田 ソ連の友人にも私は話したことですが、日本軍の歴史のなかに、心に残るエピノードがあります。
 日本が帝政ロシアと戦争をしていたころのこと、ある日本の上官が部下たちに、口シア人の捕虜を見物にいこうと誘った。すると、職人出身の一兵士が、敵ながらロシアの兵士も同じ人間である、それが運つたなく捕虜になって引きまわされているのは、気の毒ではないか、彼をはずかしめたくない、といって見物を拒否します。
 この一兵士の発言がきっかけになって、やがて捕虜見物は中止になった。(長谷川伸『日本捕虜志(上)』時事通信社、参照)
 いつの時代にも、民衆のなかには、こうした人間性の美質、善性が脈動しています。
 日本ではその後、日を追って空疎な国家主義のベールに人間の美質や善性も、おおい隠されていってしまいました。しかし、人間は、本来そのような、世界の人々と手を結び、心をかよわせていくことのできる広々とした可能性を秘めています。
 それをさまたげている遮蔽物を取り除いていくところに、平和教育の眼目があるのではないでしょうか。
 カズンズ この私自身も、自分の受けた教育を試してみる機会があるたびに、適切な教育の不足を自覚しないではおられませんでした。
 試し方はかんたんです。――はたして、人口五十億の世界に住んで、その世界の全体を理解する用意が自分にあるか否か、こうわが心に問いかけてみればいいわけです。
 この世界は、私の受けた教育でもまだまにあった一八五〇年や、一九〇〇年の世界ではなく、一九九〇年の世界です。
 といっても、私の受けた教育が完全に失敗だったということではありません。世界についてのいわば鳥瞰図を授けてくれるという点では、すばらしい面がありました。ある場所、ある民族を他の民族、他の場所とくらべて、すみやかに容易に識別する方法、これは教えてくれました。
 地理学の授業では、顔面の骨格、肌の色など、身体面の一般的な相違点について教わりました。要するに、私の受けた教育は何を見てもめんくらわないように訓練してくれたわけです。
 池田 よくわかります。教授の言われる「世界の全体を理解しようとする」開かれた心をどう育んでいくか。近年、日本でも「国際化」「国際人」という言葉がよく使われていますが、実際は、まだまだこれからの課題です。
 カズンズ 各地で、私はさまざまなことを見聞しました。世界を旅行しますと、たとえば、泥でこしらえた小屋に住んでいる人たちがいます。竹づくりの小屋に住んでいる人たちもいます。
 あるいは燃料に泥炭をもちいるところがあるかと思えば、家畜の糞をもちいるところもあります。音楽も、五音階のものを好む民族がいるかと思えば、十二音階のを好む民族がいるわけです。あるいは菜食主義者にしても、宗教的な理由でそうなった人、自分の選択でそうなった人など、いろいろいます。しかし私はなにを見聞しても、驚きませんでした。
 こういう事柄に関しては、私は十二分なくらい教育を受けていました。ただ、その教育のいたらなかった点は、そうしたさまざまな違いについて意義を教える場合、意義の違いなどおよそないのだということを強調すべきだったのに、それはしなかったという点です。人間同士の相違点は、相似点からすると、ほとんど取るにたりません。なのに相似点のほうは素通りしてしまう教育でした。
 相違点の彼方には、あまりに素朴であるゆえに、およそ認識されていない真実があるということを把握し、明確に示してくれる教育ではなかったのです。素朴な真実のなかでも、いちばん素朴な真実は、人類が一つの運命共同体をなしているということです。
4  「差異」を超える思考法
 池田 教授は今、「素朴な真実」が大切だと言われましたが、それは言いかえれば国家や民族の枠よりも、「人間」を原点として発想していくことだと思います。
 体制やイデオロギーの異なる国であっても、そこには平和と自由を求めてやまない、同じ人間がいる。
 この事実がいつの時代にも不変の「素朴な真実」です。ここからヨコには地球的視野、タテには一個の尊厳なる生命という視座をいかに広げ、深めていくか――。
 それこそが、高等宗教の、なかんずく仏法の役割と私は思っています。
 さまざまな次元での″差異″を超えて、相似点もしくは共通点を見いだすという思考の方法、あるいは伝統という点では、″大乗仏教″が、じつに豊かな水脈を有しています。
 というのは、仏教には最初から、インドのカースト制度に見られるような、人々の間に差別と障壁をもうける制度に対して、その非を説き、人間の絶対の平等を実現していこうとする思想があるからです。この思想は当然、大乗仏教にも引き継がれており、大乗仏教の精髄中の精髄であり、釈尊の極説である法華経において人間観、生命観のうえから全面的かつ徹底的に開示されております。
 このことは、たとえば法華経においては、大乗仏教でもまだ完全な解放と救いとを説いていなかった悪人や女性、さらには小我にとらわれた知識階層にも、他とまったく同じように、仏教の目標である「大我」の生命に到達する可能性をひらいていることから、明らかであるといえるでしょう。
 要するに、法華経に集約された仏法の精神は、生きとし生けるすべての生命が尊厳であり、おかすべからざる絶対の価値を有している、との大前提に立っています。この前提からすれば、人々の間にいっさいの差別や障壁があってはならないという透徹した平等思想は、当然の帰結といわなければなりません。
 カズンズ そこが大事な点ですね。
 人類が一つの運命共同体をなしている、という場合の共同体は、いかなる部族共同体や民族共同体よりも大きく、種々の信仰団体や結社、あるいは、それぞれの深さや色あいをもつ文化集団よりも大きいと言わねばなりません。
 とにかく他のいかなる共同体よりも大きな運命共同体が、現代の最も重要な中核的存在でなければならないでしょう。希望ということが、ほとんど現実味をもちえず、霞のようにおぼろ気であるとき、人々が建設への足がかりにすることができるのも、この意味での人類共同体という理念であると、私は思います。
 池田 その視点は非常に重要であり、私どもの″地球民族主義″の理念とも、ぴたり符合します。創価学会の戸田第二代会長が、初めて″地球民族主義″という言葉を使ったのは一九五二年(昭和二十七年)、青年たちのある研究発表会の席上でした。
 当時は、米ソの冷戦のはげしいころで、その場に居あわせた青年たちも、本当の意義は実感として理解できなかったと思います。世間一般にも、まったくといってよいほど注目されませんでした。しかし、そのあとの時の流れは、″地球民族主義″という着想の先見性を明らかにしてきました。
 カズンズ まことに、理念そのものはもうわかりきったことですから、諸国の人々は、これを行動の規範にはしなくても、そのとおりだと認めはするでしよう。
 池田 比喩的にいえば、性格の似た人よりも、異なった人同士に深い友情が生まれます。ところが、国家となると人間はほとほと手を焼いてしまう。
 そのために文化交流、民間交流が今ほど大切になったことはないと私は思っております。相違を相違としてたがいに尊重しあっていく心の豊かさ、余裕こそ、文化交流の要諦であり、そこに立脚してこそ、民族を超えた友情も可能になるでしょう。その余裕とは、進んだ者が遅れてくる者を見やるといったものではなく、異なった価値観を、たがいに尊敬し受け入れていくということで、いわば川面にさまざまな景色を映しながら、深くゆるやかに流れていく川にたとえることができるかもしれません。
 カズンズ ですから、次に、単純な言い方をしてみたいと思います。
 世界のどこにいても、気楽になれるよう、これは肝に銘じておきなさいと、いちいちまえもって教えられていたことを、私自身はあえて忘れるようにしました。そうしてもなお、他の国々の人たちといっしょにやっていけたのは、その人たちの生活様式の独自さを私が理解できたからだけではなく、むしろ、その人たちと私に共通することがいろいろあって、私自身が共感できることが多かったからです。
 相違点を尊重することが、大切なのはもちろんです。しかし、それだけで終わってしまうなら、小異にとらわれて大同を見失うのと同然の結果になるでしよう。
 人類は長い間、地理的に分割され紛争をつづけてきましたが、いまや私たちは、一つの共同居住地に生きなければならなくなっています。その居住地とは、むろん地球というこの惑星にほかならない。大宇宙のなかでも、この共同体を私たちの運命の地としているのです。
5  際限ない人間の可能性
 池田 時代はおっしゃるように共有、共感できるものを探ることを第一義としています。さまざまな次元でそれが大切になってきています。
 今日、論議の焦点になっている日米両国間の貿易摩擦問題も、その根底には異文化間の価値観の相違があります。国際化時代を迎えて変わりつつありますが、日本には「質のよい製品を安く作り、売ってどこが悪いのか」といった素朴な疑問がある一方、日本人の勤労観や仕事観は、まだまだ大方のアメリカ人の理解を超えているでしょう。
 そうした″摩擦″を解決していくうえで、ことを急いだり、自分の価値観のみで一方的に押しきろうとするなら、かならず禍根を残します。政治的、経済的次元のもめごとよりも、そうした心に刻まれた禍根のほうが根深く、容易には消せません。物事を忍耐強く、漸進的に、たがいの信頼と理解を深めつつ運ぶことがなによりも大切です。
 カズンズ 二十世紀の初めに、私自身が受けた教育では、どうしても、相違点を強調する場合がありました。よその地域や、そこの住民のことを考えるにしろ、およそ好奇心か、異国情緒にあこがれる休暇気分がまじりあった、想像をたくましくする時代でした。
 よく旅行をして、耳にするだけでは信じられないような千差万別の文化や習俗に通じていることが、円熟した人のいわばトレード・マークでした。しかし、そんな知識があろうと、それを基準にして、みずからの生活を立て直すというのではありませんでした。
 ところが今や、地上の距離感がはなはだ圧縮される時代になりました。遠疎の地だったがゆえに安全でもあった広大な諸地域が、いきなり、たった一つの舞台に押しこめられるようになったのです。それとともに、突然に、新式の教育が不可欠となりました。何をもって新式か、といえば、部族意識を打ち破る教育でなくてはいけないからです。
 その場合、新たな教育の課目が、むずかしくなったとしても当然です。なぜなら、世界のいずこにあろうと、人間を見れば、自分自身をその人間のなかに認められるようになるのが、この教育の課題だからです。
 人類がたがいに認めあう教育、つまり「人類同認」への教育は、自己確認への教育といってもいいのですが、従来の自己確認には、今まで表面上の相違点のみを強調してきた旧式の教育が執拗に残存しております。しかも、そのさまざまな形態が、いわば洗練されたものにすらなっています。しかし、その手の教育は今では時代遅れですから、相互の関係を重んじる人類共同体への市民教育が優先されねばなりません。
 池田 そのためにも、新しい人間観、さらに生命観を何に求めていくかが焦点となってきます。私はこれまでの世界の宗教や思想の普遍性、妥当性の検証をあらためてなさねばならないと思っています。実際に多くの世界的思想が人類の歴史のなかで、さまざまに実験されてきています。
 それぞれに見解はあろうかと思いますが、私はこれからの世界で、東洋の仏法の真髄がこの課題に大きく貢献し、さらに注目されていくであろうと考えています。
 教授が言われた「人類同認」と「自己確認」との関係性は、それぞれがたがいに精神性を深め、みがいていくことを意味し、「個」が「普遍」に通じゆく確かな回路を照らしだすものと私は受けとめます。
 その点で思い起こすのは、アメリカ独立革命の最大の思想家トーマス・ベインが、主著『コモン・センス』のはしがきで「アメリカの主張はほとんど全人類の主張である。これまでに多くの事件が生じたが、これから先も生じることだろう。それは一地方の事件ではなく、世界的な事件である」(小松春雄訳、岩波文庫)と自信をもって述べている点です。
 そこには、民衆という大地をしっかりと踏まえたことから生まれる、人間の普遍性への信念が感じられます。
 しかし残念ながら、アメリカ伝統のこうした普遍主義は、往々にしてひとりよがりな傲慢さと映りがちでした。けれども、アメリカ独立革命時の″原点″に脈打っている理想主義的な側面は、今も大事です。アメリカ民主主義の最も良質な部分の世界化には、民主主義の未来像が見えます。
 カズンズ そのとおりです。
 そして何よりも、新たな教育ではまず、宇宙そのものが生命を軽んじてはいないという事実を原点にしなければなりません。
 宇宙には銀河系や太陽系が幾百万もあるといわれていますが、そのなかでも生命の発生するのは、希有の事象です。
 しかも、われわれの太陽系では、おそらく地球というこの惑星だけにしか生命現象は起きません。そして、このたった一つの惑星上に発生する生命は、幾百万ものさまざまな形態をなしています。
 そうした無数の生命体のなかでは、たった一つ、人間という「種」だけが特別な能力をそなえており、そのおかげで、ほかのすべての生命体に対して最高に有利な地歩を占めています。人間の種々の能力のなかには、とりわけ創造的知性というものがあって、これによって人間は回想や予想ができますから、過去の経験を取り入れたり、未来の必要を予見したりすることもできます。
 その他にも不思議な能力を際限のないほどそなえているのが人間であり、その作用や仕組みについては、当の受益者である人間自身にもまだ解明できないでいるものがあります。
 たとえば、希望や良心をもつ能力、美しいものを鑑賞する能力、人間自身の類縁関係を認知する能力、愛し愛される能力、信仰能力などが、それにあたるでしょう。
6  分断から調和の時代ヘ
 池田 それらこそ、人間を人間たらしめる根本です。
 さらに「宇宙」というマクロ・コスモスと、「人間」というミクロ・コスモスとが、共通の「法」によって、分かちがたく結びあわされているというのが、仏教の知見です。
 すなわち、人間も宇宙も一つの生命体ととらえられており、人体は自然界と共通している存在とみなされている。たとえば、頭は天に、足は地に、息は風に、血液は河に、眼は日月に、髪は星辰に、というふうにたとえられているのです。
 ゆえに、あるときは、現実世界の事象をつらぬく大宇宙の不変なる法則を見つめる。
 またあるときは、人間がつくった制度やイデオロギーの囲いを突きぬけて、一個の人間に秘められた限りない可能性の輝きを見いだす。
 そして時に、万人を結びあう、見えざる生命の絆を覚知する――こうしたみずみずしい生命感覚こそ、われわれの日々の生活を、美しく、そして豊かに彩ってくれるでしょう。
 それを忘れた人生というものは、灰色で索漠たるものになる。表面は豊かできらびやかな装いをこらしていようとも、人々の心は埋めようのない空白感にさいなまれるにちがいない。
 なぜなら、宇宙本源のリズムとの合一は、生命の最も深い次元での喜びにほかならないからです。
 そうした知見には、近代科学のアプローチとはなじまない面があるかもしれません。しかし、そのさい、近代科学の物差しをもっていっさいを裁断し、それに合わないものを切り捨てていく時代は終わった、と私は思っております。
 私は″反時代的考察″を是とする立場はとりませんが、総じて近代文明は、科学技術の主導のもとで、人間を狭いところへと追い込み、帰するところは人間自体を、宇宙のリズムと切り離されたみじめな「断片」、D・H・ローレンスが言うそれとしてしまいました。そうした近代合理主義にもとづくものの見方は、現在、あらゆる意味で相対化を迫られていると思います。
 カズンズ 私もそう思います。
 したがって、地球という視座から観想して、これこそ大切であろうと思われることを、いくつかあげてみたいと思います。
 その一つめに、人間が各自の考え方にしたがっていき、その結果、まちまちの方向へおもむいているというなら、私はそれよりも、人間がみな考える力をもっているというほうを大事にしたい。
 その二つめに、各自の求めた信仰が各派に分かれているというなら、私はそれよりも、人間には宗教的信仰ができたというほうを重視したい。
 その三つめに、人間が読み書きしてきた書物が、てんでんばらばらなことを言っているというなら、私はそれよりも、人間には印刷術を発明し、これによって、時空を超越した意思の疎通ができたというほうを大切にしたい。
 そして最後に、愉しむところの美術や音楽にも各派があるというなら、私はそれよりも美術と音楽のなかにある「何か」によって、人間はかたちをなすもの、彩りあるもの、旋律をもつものに深く、しみじみと感応することができたというほうを尊重したい。
 これらの経験や体験が基になって、およんでは宇宙における人間の尊貴さにしかるべき思いをめぐらせることにもなるでしょう。
 池田 すばらしい表現です。
 まず先入観念をとりはらって、より高い精神性を求めていきたいものです。一念の転換で、人間はもっと広々と大きな人生を生きていけます。
 カズンズ そのさいに助言すべき点は、人間が必要とする種々のものには連鎖の関係があり、それには調和のとれた統一性がなくてはなりませんから、それを壊してはいけないということです。
 現状は、人間にとって宇宙がいかに優しくても、人間の生存条件そのものが危うくて、やっと調和をたもっているといったふうになっています。
 酸素、水、土地、温暖、食物を必要としない人間はいません。これらのどれか一つが欠けても、人間になくてはならぬものたちの統一性は、痛撃をうけます。それとともに、人間も窮地におちいります。
 池田 それに、宗教であれ、学問や芸術であれ、これらは本来、生命の調和の探究であり、把握であり、その上に開花していくものではないでしょうか。しかし人間社会には、さまざまな「分断」現象が生じています。小は家族の離間から、大は民族間、国家間の抗争にいたるまで。これらも今、地球的規模で問われている環境破壊の問題等も、人間と自然との間の「分断」現象の端的な現れにほかなりませんね。これらのすべてが、生命の調和と秩序を大きく破壊していますから。
 現代社会の課題は、この分断されたあらゆる関係性をいかに健全なる結合へと変革していくかにあります。それは、文明それ自体への反省と、人間自身への深い省察を要請する戦いでもあります。
 一九八八年秋に、私はソ連の作家であるチンギス・アイトマートフ氏とお会いしました。
 氏は、日本を去るにあたって、次の言葉を私に残していかれました。
 「これからは新しい世界宗教、新しい宗教的文化的教えを必要とします。これまでの人類の長い歴史のなかで、人間はその精神を、心をバラバラに分断されてしまいました。それを一つの調和へ糾合しなければなりません。今それをしないと人類は滅んでしまいます」と。
 そして「その調和へのスタートを私は今回見ることができました」と、私どもの運動に期待しておられました。無神論を国是とする国の人にしてこの言葉あり――私はそこに″時代″の趨勢を感じました。
 カズンズ アイトマートフ氏は私の親しい友人でもあり、それは興味深い発言です。したがって次の課題は、人間自身の状況をいかに改めるかということになりますね。
 つまり、ここで私たちが論じてきた「人類同認」をとおしての自己確認を、今度は人類の安寧という大義のために、いかに活用するか。そして、生命のよって立つ自然の調和が今でも危ういのに、なおも危うくしている人間の機械文明を、いかに制御するか。人類全体の平和社会を、いかにすれば創出できるか。
 これらの課題に取り組む教育がほどこされるなら、宇宙と自然と人間にとって不可欠な認識を得るだけではなく、食物に劣らず大切な精神の力をもそなえた民衆が、いずこよりか輩出してくるにちがいありません。
 このように、より高い境涯に民衆が立つようにしていくためには、山なす大金も、鳴り物いりの宣伝も、無用の長物です。
 そのリーダーシップは、人類の運命が受託され、人類の運命を問題にしていますから、民衆は感応してくるはずです。

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