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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 ヒロシマの世界化  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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1  初の出会いから
 池田 教授とこのように親しくお会いできて、私は人生の一ページをかざることができた思いです。心から感謝しております。
 カズンズ 私も胸がいっぱいです。お会いできて、本当に光栄に思っております。
 池田 教授のご著作は、たいへん印象深く読ませていただきました。また″アメリカの良心″としてのご活躍、そして卓越したご人格も、よくうかがっております。
 カズンズ 私もトインビー博士との対談集、またペッチェイ博士との対談集を読ませていただきました。私どもの時代の非常に重要なテーマが広範囲に取り上げられていて、たいへん啓発的な本ですね。私としては、これ以上つけくわえることはないという思いです。本当にお会いできてうれしく思います。
 池田 深いご理解、そしてあたたかい励ましの言葉、かさねて感謝します。教授の体験、思想、哲学、理念というものが日本においても徐々に深く伝わりつつあると、私自身、強く感じております。また、それが時代の要請でもあります。
 とくに教授のご著作を拝見し、生死の問題を乗り越えながらの深い思索、体験上の示唆には、人間の可能性の精髄を照らす光を感じとることができました。
 カズンズ それは、おそれいります。
 池田 現在は「精神の空白」の時代といわれます。それだけに、青年たちは新たな哲学、新たな人生の指針を求めてもいます。教授は今、教育の現場で学生たちの指導にあたっておられます。この対談も、そうした若い人々に示唆を与えるようなものにしたいと願っています。
 カズンズ そのことで、思い出すことがあります。数日前のことです。大学の病院に狂った男が侵入し、銃を乱射しました。それで、若い女性が死亡、一人の青年が重傷を負いました。その友人たちは、この悲劇に接して、暗澹たる思いにかられたにちがいありません。この世に神はあるのか、人生の意味は何なのか、なぜこんなことが起きねばならないのか――と。
 池田 よくわかります。
 カズンズ 人生には、さまざまな孤独のかたちがあります。しかし、このような悲劇をまえにして、深刻な疑問が生じてきても、答えがまったく見あたらないのでは、それ以上に深い孤独はありますまい。
 池田 それは真実です。しかし、そこで虚無的になってしまうのか、それとも、悲しみを乗り越えて立ち上がるか。そこに人生の分かれ道があります。
 カズンズ そのとおりです。人間の最大の悲劇とは何か。それは、死そのものではない。肉体は生きていても、自分の内面で大切な何かが死んでいく――この″生きながらの死″こそ悲劇です。このことを、私たちはもう一度、確認しあう必要があります。
 人間として生まれてきたからには、だれにも共通した、尊い使命があります。それは、人間を信じ、信頼しあうことではないでしょうか。たとえ、どうしようもない悲劇に直面し、悩み苦しんで人生の意味を見失ったとしても、人間を信じるという、人間本来のあり方は、絶対に忘れてほしくない。
 ″いのち″という、かけがえのない実在――それをどこまでも肯定し、大切にしていく。他の人の人生を、感情を、絶対に否定しない。無上のものとして認めあっていく――人間として最も尊い、この信頼の心だけは放棄してはならぬ。青年たちに私が望むのは、その一点です。
 池田 私も同じ思いです。そうした教授のお考えには、生命の尊厳を説いた仏法の教えと通底するものがあります。現代人にとって、最も大切な視点が、ここに示されていると思えてなりません。
 かつてトインビー博士と対談したときですが、私は博士から多くの教えを受けました。対談を終えるさい「私はトインビー教室の一学生として、卒業できますか」(笑い)とうかがった。すると博士は「最優秀の学生です」と、笑顔で答えられたのが忘れられません。
 このたびは、カズンズ教授から多くのことを学ばせていただきます。その意味で、私は教授の学生の一人と思っています。
 またこの前(一九八九年十月)は、創価学会インタナショナル(SGI)がニューヨークの国連本部で開催した第一回の「戦争と平和」展にご支援をいただき、御礼申し上げます。
 この展示会のために「ニューヨーク・タイムズ」(一九八九年十月二十二日付日曜版)にのせた意見広告に、すばらしいメッセージを寄せていただき、ありがとうございました。力強いアピールに、たいへん励まされました。
 カズンズ それは恐縮です。何らかの応援をさせていただければ、と考えていたものですから。
 池田 ところで一九九〇年は、世界にとって大きな分岐点の年ではないかという気がしてなりません。八〇年代は、劇的なベルリンの壁の開放、東欧諸国の急激な民主化、また米ソ両大国の東西ベルリンの壁 東西ベルリンを隣てる総延長百六十五キロ
 におよぶ″コンクリートの壁″。東西間の冷戦により一九
 六一年八月に構築されたが、冷戦の終結や東欧の民主化の
 流れのなかで八九年十一月九日、二十八年ぶりに開放。
 東西冷戦終結宣言一九八九年十二月、アメリカのブッ
 シュ大統領、ソ連のゴルバチョフ書記長が地中海のマルタ
 沖で会見し、冷戦の終結を発表した。本巻一三九で「冷戦
 に終止符」の項を参照。
 世界市民の対話″θ冷戦終結宣言で幕を閉じました。人類は今こそ、二十一世紀という新しい「平和の世紀」へ向かう本格的な準備をすべき段階に入っています。
 その意味で、平和のために行動し、発言されてきた教授と、これから対話を進めていくことに大きな意義を感じております。
 カズンズ 私もまったく同じ気持ちでおります。
2  ″被爆乙女″への思い
 池田 カズンズ教授といえば、まず広島との深い関係が思い起こされます。それは『ある編集者のオデッセイ──サタデー・レヴューとわたし』(松田銑訳、早川書房)にくわしく記されています。
 しかし、この対談の読者には、おそらく戦後生まれの人も多く、教授と広島との関係について、あまり知識がないかもしれません。そこで、はじめに教授と広島のかかわりについて、語っていただければと思います。
 カズンズ 四九年(昭和二十四年)のことですが、当時、私が編集長をしておりました「サタデー・レヴュー」誌は広島の″原爆孤児″を「里子」にする制度を生みだし、四百人の孤児のお世話をしました。
 池田 覚えております。当時、ずいぶん話題になりました。
 カズンズ 「サタデー・レヴュー」の記事を読んで賛同したアメリカの「里親」の人たちは、里子になった孤児や、孤児院の院長と手紙のやりとりをしたり、孤児院への寄付や、特別の教育、訓練がほどこせるように援助をしたわけです。
 池田 四九年といえば、ようやく広島が原爆の惨禍から立ち上がろうとしていたころです。そのとき、教育援助という点に着目され、真心にあふれた支援をしてくださった。今、振り返ってみても、そのあたたかい心と国境を越えた行動に、日本人の一人として、あらためて感謝申し上げたい気持ちでおります。また「サタデー・レヴュー」は広島と長崎で、医学治療関係のプロジェクトを進めたとも聞いております。
 カズンズ その主要なものは被爆した若い女性に治療をほどこすもので、この事業は一九五三年(昭和二十八年)に始まり、四年間かかりました。
 池田 その治療のために、彼女たちをアメリカに招かれましたね。
 カズンズ きつかけは五三年八月に、妻といっしょに広島を訪れ、被爆した彼女たちに直接会ったことです。そうして彼女たちがアメリカで、最新の形成外科手術を受ける必要があることを知りました。当時、その手術は日本では不可能でした。
 これが、広島の″被爆乙女″をささえるプロジェクトの始まりでしたが、彼女たちの手術が実現するまでには、それから二年の歳月を要しました。
 池田 戦後、多くの日本人が励まされ、また勇気づけられたニュースでした。一人のアメリカ人の良心の発露があったればこそと思います。
 しかし、民間人の自発的な運動として進められたのですから、実現までにはずいぶんご苦労されたでしょう。
 カズンズ
 今でも日に浮かびますが、五五年五月九日、飛行機がニューヨークに到着しました。季節はずれの厳しい寒さで、タラップから降りてきた二十五人の女性たちが、不安な顔をして黙ってかたまっていたのを思い出します。
 池田 みんなの気持ちは痛いほどわかる気がします。娘さんたちを送り出されたご両親も心配されたと思います。
 カズンズ でも、そうした不安を乗り越えて、彼女たちは立派に親善交流の役割も果たしたのではないかと、私は思っております。
 私たちが交流プログラムに参加するようアメリカの病院に呼びかけたわけですが、どの町でも、彼女たちは町の人々に愛されました。彼女たちも、アメリカの家庭に逗留し、英語を熱心に学び、すすんで人々と交流の輪を広げました。そうして闘病生活のなかで、看護助手の特別コースを終了するなど、さまざまな″勝利″の実証を示したのです。
 池田 戦後の日米民間交流史の一章をかざる出来事でしたね。今、教授は″勝利″という表現を使われましたが、その体験は米国市民の方々の善意とともに彼女たちの心に深く刻まれ、生涯の宝にもなったのではないでしょうか。
 カズンズ 私は、そのなかの一人が述べた言葉を忘れることができません。
 「私の心の中に大きな変化が起きました。これには身体の変化以上の大きな意味がありました。私の人生がまったく違うものへと変わったからです」
 彼女は顔の治療をしてもらい、被爆の跡も目立たなくなりました。しかし、それよりも、もっと大きな変化が彼女の内で起こっていたことがわかります。
 一方、彼女たちをアメリカに呼んだ私たち自身も、ずいぶん学んだことが多かったように思います。その最大のものは、人間は、他者を思いやる心があれば、おたがいに連帯しあう橋をいつでも架けることができるということです。
 池田 感動的なエピソードです。貴重な歴史の証言だと思います。
3  ヒロシマ・その運命的瞬間
 池田 いうまでもなく人類史上、初めての被爆地となった広島は、核時代のつねに立ち返るべき原点となってきました。
 その広島が受けた衝撃については、スウェーデンの故パルメ首相が「国際的に責任を負う国家の政治家は、政権を担当したら、すべからくヒロシマを訪れるべきである」と語っているほどです。そのあとを継いだカールソン首相も一九八九年六月に、ストックホルムで私がお会いした折、「ヒロシマ」ヘの訪問を強く希望されていました。
 ヒロシマの歴史から人々は学びつづけてきました。とともに、今、世界は新しい時代に向かって″大いなる過渡期″を迎えております。私どもは新しい時代にふさわしい、新しい発想に立った平和構築に積極的に取り組むべき時を迎えたと思っております。教授とのこの対談では、こうした時代における哲学と運動についても語りあっていければ、と念願しております。
 その意味から「ヒロシマの世界化」を考えるために、さらに教授ご自身の体験をお聞きしたいと思います。
 カズンズ 私が初めて広島を訪れたのは、四九年のことです。
 当時はまだ、広島のこうむった傷が口をあけたままの状態でした。宿舎のバルコニーに立ちますと、爆心地一帯を見渡すことができました。なかでも爆心地の目印として最も有名になった旧広島県産業奨励館のあのドーム──というよりはかつてドームであった――その中身は、がらんどうの空洞でしたが、いびつに曲がった鋼鉄の骨組みが、かろうじて残っていましたので、もとはドームだったということがわかるわけです。
 市街を歩きますと、累々たる焼け跡が目につきました。被爆後四年の間に生えた雑草類が廃墟のあとをかなりおおい隠してはいましたが、ビルの中身は焼きつくされ、空洞になっていました。爆心地に立ったときの私の気持ちはとても筆舌につくせません。
 ここに、閃光が‥‥わずか数年前に。ほんの一瞬の核分裂のために‥‥太陽の表面温度の何倍もの爆閃が!
 そして突如、ストップ・ウオッチでも計れない一瞬に、市の心臓部が灼熱のナイフで切り裂かれたのです。
 そのとき市内にいたという人たちに取材しました。何十人もの人たちでしたが、火傷を負い、そのうえ原爆病にかかっていて、私への証言はほとんど異口同音。
 その瞬間の閃光は、午前の太陽よりも明るく、稲妻よりもはるかに鮮烈で、おそらくこの地上で人類の目にふれたであろう、いかなる光よりも強烈だったというのです。
 池田 まさにそうした運命的な瞬間以来、人類はいかなる時代にもなかった歴史の段階に入りました。かつてアーサー・ケストラーは、彼の遺言ともいうべき『ホロン革命』を、次のような一節で書きおこしています。
 「有史、先史を通じ、人類にとって最も重大な日はいつかと問われれば、わたしは躊躇なく一九四五年八月六日と答える」(田中三彦・吉岡佳子訳、工作舎)
 彼は「個としての死」から「種としての絶滅」という、核時代の脅威を的確に表現しています。さまざまな事情はともかく、ようやく今、大国の指導者も核兵器削減を考え始めております。
 それにつけても、教授は被爆後の広島の地にみずから足を踏みいれ、多くの事実を見聞され、それがヒロシマを考える場合の原点になっている。「体験」に即した言葉、「実感」にもとづいた行動は説得力をもちます。この点が大事だと思います。
 カズンズ そのとき私は、病院跡に焼け残っている石の門柱の前にたたずみ、手を伸ばして、その石面の粗く盛り上がったところをさわってみました。すると、石の表面が原爆の熱射で溶けてしまったため、石の内部構造すら変化しているのがわかりました。
 それから街を歩きながら、考えました。人々が都市に戻ってくるのは、いったいなぜだろう? いいえ、ヒロシマだけではありません。人間が建設したいかなる都市でも、事は同じでしょう。こうした爆弾を人間がつくったからには、いずこの都市にも、その呪いをかけたのと同然だからです。なのに、わざわざ苦悩のひしめく都会に帰ってくるのは、どんな魅力のせいだろうと、私は不思議な気持ちになりました。
 しかし、その答えを探すのに、さほど遠くまで足を運ぶ必要はありませんでした。答えは私のまわりにあつたからです。
 まず通りを行きかう人たちの表情に、それを見つけました。若い人たちの元気いっぱいな、いかにも生きているのが愉快そうな歩き方が、答えになっていました。子どもたちの屈託のない笑い声を聞くにつれ、ああ、ここにも答えがあると思いました。実際、遊び場さえあれば、どこでも少年たちがボール遊びをしていましたし、彼らが夢中になっている姿にも、答えはありました。こうして私が見つけた答えは、どんな哲学者があえて夢見たよりも深遠な勇気と蘇生の源泉を人間はそなえている、ということでした。
 まさに地上の最大の力、戦争のためのいかなる装置や爆発物よりも偉大な力、それは、生きぬく意志であり、希望を受け入れる人間の能力であると、私は考えました。
 池田 すばらしい言葉です。また、鋭い洞察です。
 広島への原爆投下は、歴史上かつてなかった都市と人間への破壊行為でした。しかし、人間は決して敗者としてひきさがらなかった。今日、広島はそれに対する人間自身の、まぎれもない勝利の証としてわれわれを力づけてくれます。
 どんな悪魔の力を秘めた破壊兵器といえども、人間の希望や意志をすべて抹殺することはできないという事実が、明白にされたからです。
 ただ、そのヒロシマ当時と現在とでは、状況がまったく異なることを忘れてはなりません。現に存在する核兵器を使用すれば、その人間の希望や意志さえもすべて抹殺してしまうからです。
 カズンズ そのとおりです。
 広島のことで、もう少しつけくわえさせていただきますと、なおもまわりを見まわした私の目に、赤子を背中に結わえた若い女性が映りました。いわゆる洋装に下駄というかっこうではありましたが、生活に負けている感じはまるでしませんでした。
 私の言葉で申しますと、彼女は「敗北主義者」ではありませんでした。話しかけてみると、これから家庭をもつために出てきたのです、ということでした。それを彼女はよそではなく、こともあろうに、この広島でやりとげようとしていたわけです。
 この女性には人生に希望があり、何事をもってしても、それは動じない、といった感じでした。そうして別れぎわに気がついたのですが、彼女のうなじと左腕の肉は、火傷で変色していました。
 池田 広島の人々は、語りつくせぬ悲しみ、苦しみを乗り越えてきた。いや、乗り越えて生きぬいていくほかに道はなかったのです。被爆したある婦人の、「原爆は悲しい、悲しいねェ」という言葉は、私の胸に深く刻みこまれております。
 広島の再建の陰で、人知れず後遺症に苦しむ方、また、嫁ぐこともままならない女性たちが数多くいたという事実。被爆者、被爆二世、三世が現在もなお、苦しみつづけているという現実。私の友人にも、そうした方々がおります。こうした痛苦と慟哭の歴史のうえに、今日の広島が存在するのだということを、私どもは永遠に忘れてはならない。
 カズンズ その試練を乗り越えて、広島は世界のヒロシマになりました。原子力時代に入って早々にです――。
 原子の力の登場は、太陽系の宇宙にあっても未曾有の「何事か」でした。その「何事か」は物質の核に達し、それを引き裂き、自然界の基礎単位の物質をたがいに破砕させ、それらによって、太陽の一部がこわれ落ちたかと見まがうほどの閃光を放出させました。その不思議な光線は、生物の骨をつらぬき、人間の血液成分にかつてなかった、また夢想だにもしなかった変化を生じせしめました。逆説的な言い方ですが、これは、自然対科学の闘争のなかで、科学的精神が最も恐ろしい意味で凱歌をあげた極限の姿だと思います。
4  広島市長のメッセージ
 池田 その点についてつねに私の念頭を離れないのは、創価学会の戸田城聖第二代会長が、一九五七年(昭和三十二年)九月八日に発表した「原水爆禁止宣言」です。戸田先生の恩師である牧口常二郎初代会長は戦時中、軍国主義と戦い、獄死しました。戸田会長も二年間、投獄されました。
 戸田会長は、原水爆を使用するものは「奪命者」を意味する「魔」であると断言しました。それは言葉をかえていうと、いかなる理由によっても、世界の民衆の「生存の権利」を脅かす「核」を正当化する論理を認めないという、仏法者としての根源的視点からの宣言でした。これは、戸田会長の逝去の七カ月前のことであり、闘病生活のさなかの烈々たる警世の叫びでもありました。
 それはまた、核兵器を中心に東西両陣営が厳しく対峙しあう地球的危機の時代相を、鋭く喝破したものでした。″対決イデオロギー″がジャーナリズムや思想界を色濃く染めあげていた当時、そうした普遍的な視座からの発想に立って核問題に対処しようという人は、意外なほど少なかったのです。この「宣言」が、創価学会の核廃絶のための運動の、いわば原点となっております。
 カズンズ よくわかります。
 池田 当然、兵器の問題や政治の問題といった技術論も大切です。それと同時に、核兵器がもつ悪魔性をえぐりだす作業が、もっとなされねばならない。そして、不信と憎悪と恐怖を、人間が人間らしく平和と幸福に生きゆくための英知へと転換していかねばならない。その″画竜点晴″を欠いては、軍縮といい平和といっても、はてしなく悪循環と堂々めぐりを繰り返すにちがいない。ヒロシマを根源的に考えるには、その一点を見つめ、行動していくことが不可欠ではないでしょうか。
 カズンズ 多くの人が、そうした鋭い意識をもつことが大切な出発点になると思います。
 ところで私が不思議な気持ちになったのは、原爆およびアメリカに対するヒロシマの市民自身の態度です。つまり当の市民としては、どんな考え方をしているのか、という点でした。それを私から切りだしてみたのですが、返ってくる答えは、信じがたい話でした。それは原爆体験をしたあとで、こんな気持ちになれるのか、なっていいのかといった反応だったからです。
 その市民の心情には、恨みごとや、非難がましいことは、およそないように見受けられました。ほとんどの人たちが、「悪いのは戦争そのものです。広島が被爆していなければ、他の都市がやられたでしょう」――つまり他を犠牲にして自分たちだけが災禍をまぬかれる権利はない、という応答でした。また、「私どもは多くの人命を救うことにくわわったのです」という意味のことも、市民の多くの方々が表明されました。
 池田 ある意味で広島の人々の怒りは、どこへもぶつけようのない怒りでした。
 だからこそ戦争そのものを憎み、平和を訴えてきた。その深い心の響きを感じとらねばならないでしよう。
 カズンズ 市民の心情を当時の浜井市長の言葉で表現すると、「ヒロシマは、平和のための見せしめになるべきです。新たな戦争の性質がどんなものであるか、その本質を今後は戦争そのものを時代遅れのものにしてしまうくらい劇的に示した実験場、それがヒロシマだったからです」ということになります。
 池田 お話を聞いていて、私は言葉の奥にあるヒロシマの深い痛み、苦しみがなおさら感じられてなりません。浜井市長の発言は、核時代のもつ意味を端的に表現していたと思います。
 カズンズ 広島を去る前の日のことですが、帰国後に私が何かお役に立てることがありますか、と市長にたずねました。市長はしばらくためらっておられましたが、「では、お国の市民の方々へ、私からのメッセージをお伝えください」と言われ、次のようにしたためられました。
 「お国の方々に申し上げたいことは数多くあります。まず初めに、ひとたびは死に絶えた町がよみがえるのに、ご尽力くださった方々へお礼を申し上げたく存じます。
 皆さんに、何がなされるべきかを述べるのは、私の立場ではありません。目的でもありません。がしかし、これだけは、提起できるかと思います。すなわち戦争防止のために何かがなされなければ、世界の町々は一体どうなることでしょう。ヒロシマの市民が世界にお願いすることは何もありませんが、ただ一つ、私たち自身が平和への見せしめになることをお許しいただきたいのです。
 この地に何が起きたのか、それはなぜ、どうして起きたのか。この点を、諸国の十分な数の方々がわかってくださるとともに、同様なことがいずこであろうと決してふたたび起きぬように、鋭意、お働き願いたいのです。これだけはお願いします」
 池田 胸の奥が揺さぶられるような言葉です。しかし、そうしたヒロシマの願いとは裏腹にその後、はてしない軍拡競争がつづけられてきました。その方向にもようやく変化が見え始めましたが、国家や力の論理が優先する不幸な呪縛から、人類はいまだに脱却してはおりません。
 日本に「百聞は一見に如かず」ということわざがあります。私は、平和を願う世界の、とくに核保有国の指導者は、一度でもよいから広島を訪れ、平和記念公園へ足を運び、原爆ドームに目をやり、″原爆資料館″(広島平和記念資料館)を見学し、奇怪な核軍拡の悪夢からめざめるべきである、そして広島で核廃絶のための会議をすべきである、と訴えてきました。
 カズンズ まったく同感です。なお、市長のメッセージの後半はこう書かれております。
 「私たちヒロシマの市民が眼を世界に転じますと、すでにして、全面戦争への口火となりそうな国家間の紛争が、あちこちでおこなわれていることに、私どもは心を痛めています。
 戦争を防止するのはなまやさしいことではありません。真の世界平和が達成されるためには、是非とも解決されねばならない重大な問題がありましょう。そうした事情を私たちはわきまえているとともに、また平和は求めるだけでは得られないということ、諸国家の合意こそが必要であるということも、わきまえております。
 しかし、恒久平和を樹立していくには、いずれかの国が率先しなければならないでしょう。その率先をこそ、皆さんのアメリカ合衆国に私どもは期待しております。世界も耳をかたむけるでしょう。いくつかの国家の指導者は耳を貸さなくとも、民衆の耳は澄まされていると思います。そこにこそ、ここにこそ、何千ものヒロシマを生むような戦争を防止できる究極の希望があるはずです」
5  未来に生きる青年たち
 池田 戦後四十年以上を経過して、「ヒロシマの世界化」ということは、古くて新しい問題だということを、私どもは痛感しております。
 創価学会は、青年部が中心になって「反戦出版集」全八十巻を刊行しました。そのなかで広島関係の本は七冊におよんでいます。こうした反戦出版の抄訳本として英語版、ドイツ語版、フランス語版、ルーマニア語版等が出版されています。
 また創価学会インタナショナルは、国連をはじめ北京やモスクワなど社会主義国をふくむ十六ヵ国二十五都市で「核兵器――現代世界の脅威」展も開催してまいりました。これは、原爆投下の惨状やその影響、核軍拡競争の危険性などを多角的にパネル展示で伝えるものですが、あわせて広島・長崎の被爆物品も展示し、大きな反響を得ました。それも私どもなりに「ヒロシマの世界化」の一助にしたいとの願いからでした。
 私たちは、若い世代へ誇りをもって残していける社会を築き、精神の財産を残していかねばなりません。
 それはそれとして、教授は初めて広島を訪問されてから十数年をへて、ふたたびこの地を訪れておられますね。
 カズンズ 十五年目の一九六四年に、ふたたび広島に飛びました。それも、かの爆弾が炸裂し、いわゆる原子力時代の幕が切って落とされることになった天空を通ってです。早朝の訪問でした。
 そのときの上空は同じであっても、まったく新しい都市を見おろしていました。地上の一帯でことに目に焼きついたのは、広い並木道が走っていることでした。あの旧広島県産業奨励館は保存されて、爆心地のシンボルになっているのが見え、空からもこれは変わっていないと、すぐにわかりました。
 しかし、その周辺はいずこも、明るく頑丈な造りの企業ビルが林立していました。大通りを入ったところには住宅がひしめき、闇市場ならぬ、公設市場の商店が密集しているのが見られました。それに広島の名が由来する伝説的な数本の川が、砂地に指を広げて刻印したように、市内に割り込んでいるのが見えるのは、最初の訪問のさいの第一印象と異なりませんでした。
 空港から車で市の中心部に向かう途中、市長の浜井氏が広島の今昔を種々語ってくれました。その話によると、ヒロシマの歴史的な意義とその立場についての自覚は、今なお市民の意識の中核をなしており、それが生活の底流にあるのは昔と変わらないけれども、この生活意識が市民を束縛することはもはやなくなった、ということでした。
 つまり、昔の古傷を見せたりする向きは、ずっと減りました。これは、市民たち個人にも、市当局についてもいえると思います。原爆体験もまた、人生体験と同様、冷静に受けとめるべき事柄、という向きのほうが強くなった、というのが同市長の分析だったわけです。ある意味では、こともなげなその受けとめ方は、一種の「風化」であろうか、とも思えたのですが‥‥。
 池田 それはむずかしい課題をはらんでおりますね。時の経過というものは、あらゆることを「風化」させてしまう。それを押しとどめるのはきわめて困難です。しかも戦争を知らない世代が過半数を占める時代を迎えては、なおさらでしょう。
 日本は経済のみの大国であってはならない。もっと世界の平和へ貢献する道があるはずです。ヒロシマを八月六日だけで終わらせるのではなく、日本人である私どもがヒロシマヘの思いを「風化」させないことが大切だと思います。
 その意味からも、私は次代をになう若い人向けに、戦争体験を織りこんだ短編小説『ヒロシマヘの旅』を書きました。ヒロシマは未来につづく課題だからです。
 そこで、ほかに何か強い印象はございましたか。
 カズンズ 市内に入り、大きな変化と思えたのは、主に人々の表情でした。どの人も、かつての痛苦の日々の記憶にとらわれているようには見えません。過去のくびきを引きずっているようにも、そのまま過去から抜けだしてきたような歩き方をしているとも思えませんでした。
 被爆以後の新しい世代の人たちが、成人に達していました。このように若い人たちが広島市民の大半近くになっているということが、町の性格と気風と将来をうらなうカギであるような感じがしてきました。
6  民衆の絶えざる応戦
 池田 よくわかります。ところで、八七年末のINF(中距離核戦力)全廃条約の調印によって戦後初めて米ソが実質的な核削減に合意した背景には、民衆の広範な反核運動が大きな影響力を発揮した面があります。とくにヨーロッパでは、政治を動かす要因になったことは広く認められております。
 最近の東欧情勢の激動を見てもわかるように、民衆のエネルギーが国を変え、時代を動かし、歴史を塗りかえております。
 その意味では、戦後初めて「民衆」が主役の時代を今、迎えている気がしてなりません。
 世界がこのまま一直線に変わるという楽観主義はいましめねばなりませんが、時代の変化は加速度を増しています。それだけにこの好機を生かしていくための、知恵と行動力とリーダーシップが要請されているといえるでしょう。
 今後の課題はヒロシマ、ナガサキを原点としつつ、いかにして若い世代にも連動させていくかということではないでしょうか。
 カズンズ まことにそのとおりです。
 原爆を広島に投下すべきであるとした、あの決定に投影されていたもの、それは主に「力の示威こそが対外政策では機能するのだ」という理念でした。これは、たんに理念というよりも、ほとんど信念に近く、確固たる信条だったとすら言わねばなりません。
 そうした信条にもとづく対外政策にひそむ種々の危険のタネは、相手国もまた同じ信条に固執するとき、まさに爆発します。
 もちろん、こういう人たちもいます。つまり、日本の都市に原爆投下の決定がなされたそもそもの端緒は、日本側の「パール・ハーバー攻撃」にあったと思えばいいのだ、と。
 その意味での報復や仇討ちがここでは正論であるとすれば、その場合は、東京を第一とする日本の他の都市部への空襲だけで事はたりたであろう、という反論が当然、できるはずです。すなわち、ヒロシマは埒外の沙汰だったのです。
 池田 つまり、投下しなくてもすんだはずの原爆を投下してしまう過ちにみちびいた対外政策の中心には、″力の示威″″力の論理″があるということですね。それは、今日までつづいている課題です。
 八九年十二月、マルタでおこなわれた米ソ首脳会談での冷戦の終結宣言に色濃く見られたものは、もはや「軍事力」に過度に依存する時代は終わりを迎えつつあるということです。
 私は今後、いちだんと軍縮が進むのではないかと予想しております。
 しかし、同時に核兵器の廃絶にはまだしばらく時間がかかると思います。
 たとえ戦略核兵器が半減されたとしても、人類絶滅の脅威は依然として残る。この現実をつねに直視する民衆の側からの絶えざる″応戦″こそ必要不可欠だと思っております。
 カズンズ 原爆が広島に投下されたときは、たんに一つの都市だけが破壊されたのでなく、それ以上のものが破壊されました。
 それは、社会の集団形態である民族国家が機能しうるという概念、それがあの日に破壊されました。
 国別の政府が、それ以前の歴史で果たしてきた機能、すなわち自国の市民に十分な保護と安全の保障を与えていく機能、ヒロシマ以後は、それを果たしていくにもいけなくなりました。
 池田 ヒロシマ以前とそれ以後との決定的な違いが、そこにあります。
 かつてアインシュタインは「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」(0・ネーサン、H・ノーデン編『アインシュタイン平和書簡2』金子敏男訳、みすず書一房)と述べました。
 今、要請されているのは、従来の安全保障の思考様式から脱却することです。
 カズンズ そうです。それは、各国家の手には負えなくなったわけです。もはや、その役割を果たしていける手段が国家にはなくなったのです。
 もともと国家の自己存命のための主要手段が、戦争だったのですから。しかし、核兵器が出現するにおよんでは、戦争という手段そのものが、交戦国同士の自殺手段、つまり変態的な心中行為と異ならない。
 ゆえに、核兵器時代が意味するのは、それこそ全人類の運命が、原始時代の状態に還元されたということでしょう。
 万人がこの運命にさらされています。少なくとも自己防衛という基本的な条件からすれば、そう言わざるをえないと思います。もはや、自己防衛ということが意味をなさない時代になっています。
 それでも「防衛」と言いたいなら、まさに「平和」のみしかありえません。ここにまた「ヒロシマの世界化」ということの、もう一つの面があると思います。
 池田 そこから結論的にみちびかれるものは、「世界不戦」ということです。時代の潮流は、まさにその一点を志向しております。
 核戦争に勝者はありえない。核時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争を否定することでなくてはなりません。たとえ核兵器を使用しない戦争であっても、それがいつ核戦争にエスカレートするかわからないのですから、「不戦」こそ人類が生き残るための不可欠の条件です。
 それを全世界の人々に訴えつづけていくことが、「ヒロシマの世界化」にほかならず、とくに二十世紀最後の十年は、流転を繰り返してきた歴史の大転換期に入ったと私は見ております。

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