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日蓮大聖人・池田大作

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まえがき ノーマン・カズンズ  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
1  どんな問題だろうと、思考の入り込めない問題はない、と考えるのを哲学者ヘーゲルは好みました。これは心を励ましてくれます。しかしヘーゲルが生きていたのは、同時代史を吟味してみるという問題が、進歩の加速度にまだ打ち壊され、打ち砕かれなかった時代でした。以来、数十年間のなかに、それまでの人類の年代記に、まま見られたのよりも大きな変化と大きい進歩、人間の精神のはげしい動転と臓腑のはげしい反転が圧縮されてきました。つまり歴史の新陳代謝が凶暴になってしまったのです。
 この地上に人類が存在してきた時間を、仮に一時間とすれば、文明期は十四秒に相当するだろう、というのはすでに言いふるされたことです。人類が最も成功をおさめ、最も危険を生じさせたのは、こういった時制における最後の二秒間のことにすぎません。
 したがって地上における、われわれ自身の時間に関して最も意味深いのは、変化の規模ではなく、変化の速度です。加速した人間の速力と機動性によって測ると人間の脚は、一世代前よりも四十倍長いといえるでしょう。ここ一世紀の間に人間は、使用しうるエネルギーを従来の二千五百年間よりも大量に開発しました。そして加速度の増大がつづくのですが、これはことに現在の科学者の数が、有史以来、一九二〇年までに存在した科学者の総数を上回っているという事実を反映しています。
 加速現象は、人間が物事を観察し理解する能力をそこなっただけではありません。それ以上に、方向感覚の喪失という傾向を招きました。つまり時間と場所に人間が自分自身を位置づけるのを可能にする生命の平衡感覚を錯乱させたのです。二十世紀のいわば遠心分離器の中にあって、人間はきりきり舞いをしながら、自分自身の存在態の中心から遠ざかりつつあります。こうして遠ざかれば遠ざかるほど、自身を観る眼も、自分の可能性を確かめる眼も、群集のなかで人々との関係を見定める眼も、かすんできます。このような分離は、場所に対する身体の分離だけではなく、知性に対する理性の分離となっています。
 加速と人間の懸念の連鎖性は、これまで種々に観察され、立証されてもきました。と同じことが、コンピューター化と、その傾向たる人間の個性の脱色化についても言えます。それにくらべると、加速が究極的には不遜を招くということは、まだ十分に認識されず、吟味されていません。動作を速める人々は、地理的には地面を網羅しますが、いずこにも寄る辺がありません。諸価値は漫然とした性質をおびるばかりです。相互性の分離は、事物の歪曲化に向かい、軽視のもとたる無知に逆戻りします。これは、たんに諸価値の排斥という問題にとどまりません。さらには諸価値を生じさせる事物から分離していくという問題にもなっています。もちろん、不遜がすべて悪いのではありません。なかには難題にいどむ不遜も、偽善の厚化粧をはがしてしまう不遜も、生命を軽んじる企てには憤然と怒りをあらわにする不遜もあり、これらはそれ自体が、諸価値の存在を主張するのと同義です。けれども、われわれの時代における不遜の主流は、これらとはまったく異質のものだといわねばなりません。それは諸価値を否定し、酷薄、かつ反人間的で、根本的に生命自体とは反対の方向に向かいます。
 これらの現象は、歴史上のとある急転回のゆえに起きたのではありません。そうではなくて、特殊な原因からじかに生じたのです。ある優勢な一主題を反映するものであり、その一部なのです。その主題とは、科学的英知のいうなれば噴火であり、これが熱い溶岩を人間の地所のあたり一面に、とりわけ国家の構造上に吐き出しています。国家は、かつて個人にとっては多義的な意味がありましたが、そのおおかたの意味は他の部族に対するわが部族の保護、および内なる無秩序に対する防御にありました。この保守は、外からの攻撃にそなえるにせよ、内からの攻撃を防ぐにせよ、武力を要しました。ところが加速から突如として、国家のすべてを変えてしまう新たな武力が出現したのです。しかし根本的変化が生じたという国家の自覚は、この新たな武力の出現にともなっていません。この変化のなかで個人は自分を守ってくれるものを失いました。この新たな武力(核兵器力)は全体的、壊滅的、自殺的です。もはや戦争の遂行可能性は時代遅れになりましたが、戦争の慣行と、戦争を招く状況は無変化のままです。
 一般に原子力を用いると、いかなる使途であれ、生命を存続可能にする自然環境が壊滅しかねないことぐらいは、核兵器の保有国もわきまえてはいるでしょう。なれど各国は、必要とあらば黙示録的終末を迎えるのも辞さぬ、という度胸などないだろうと他国に思われるのを恐れています。ゆえに各国は、自国の死活にかかわる利益を守るためには、総力を行使する覚悟のあることを明らかにしてきました。しかし、総力を行使すれば、死活にかかわる国益も、他のいっさいともども台無しになってしまうでしよう。
 ゆえに加速は究極のところ、生命を浮き世の仮のものにする結果になっています。仮のものにすぎない生命は軽んじられやすい。人類の防衛水準が、人を吐くガスバーナーに対する昆虫の防衛水準なみに堕している時代にあって、いったい生きるとは何を意味するのか。哲学者の語彙集で最も祭りあげられているのは「人間の尊厳」という成句ですが、その「尊厳」とは、政治的な憲章や宣言にのみ依拠するものではありません。「尊厳」はまた「連帯」をも意味するはずです。すなわち生命を無限に尊ぶ道義的協定を意味するはずです。指先でボタンを押すと、十億の人間を火に焼くことができ、目くばせの合図ひとつで何トンもの病原菌をばらまけることが周知の時代にあって、生命への畏敬はいかほど可能か、人間がおのれ自身を訓練すればがまんできる痛々しい世界、だが狂人の気まぐれで火葬場にも伝染病棟にもなりはてる世界、――これこそ人間の尊厳それ自体も、生命への畏敬をも奪いさる大盗賊です。
 人間と社会は相互にたえず作用しあう状態にあります。国家が文明を蒸発させるような時代に人間が身に体するのは、本来、人間がその一部たる全生物の特性です。そうなると人間は、意識的な決定の水準において反応する必要がなくなり、そこでは人間の生命の脆弱性と独自性をもはや十分に理解することのない環境を、人間自身が投影しうるのみでしょう。
 問題と取り組むにあたり不可欠な第一歩は、いかなる取り組み方であれ、「加速」を定義づけるよりも、むしろ「人間」自身を定義づけることです。人間がより完全になれるという観念が否定されるなら、その場合は、人間がみずから猛烈に回転させた車輪の中でこなごなになるのは、もはや時間の問題にすぎないかもしれません。しかし人間の独自性とは、かつて一度も考えたことのないものを考える能力であると定義づけるなら、その場合は、「加速」を恐怖の種をはらまぬものへと転換できるはずです。人間が当面してきた難題は、物事をなすこと自体ではなく、いかなる物事をなすかを選択することにありました。究極の試金石は、技術にではなく、目的と希求にあるといえるでしょう。人間はすでに自然を改造しました。そうした人間でもおのれ自身の改造はできぬ、と言わねばならないでしょうか。おのれが居住する惑星の引力圏外にまでおのれ自身を打ち上げる能力のあることを顕示した生物でも、理性的な未来を案出するにおいては、おのれの望みを高めえないにちがいないと頑なに考えるのは、筋の通ることでしょうか。現在の場当たり主義が行き着く先を自覚し、その末路をさけたいとする希求に達すれば、そのときこそ「加速の時代」は「調和の時代」にいたれるはずです。
 このような状況のなかにあっても、希望は「人間」の定義を拡大していくところにあります。これは神の苛立ちを認識するとか、いよいよ時間切れになるまえにはもう一分猶予があるといった通念などには、およびもつかぬものです。今日の希望は、じつはこれこそが唯一の希望かもしれませんが、明快に発言し意思をかわしあう市民が世界中に輩出するところにこそありうるでしょう。この市民が求め、行為として表すものが、彼の所属する国家の政府にはいよいよ重要になるでしょう。いよいよ個人がその主体性を発揮すべき存在になったのです。洞察と感覚を駆使して思いをめぐらし、抗議し、一人でも行動を起こし、創造し、建設し、危機を回避し、未来を希求する個人こそが、国家の当局者にとっても、かつてなく重要な存在になってきたのです。ゆえに問題は、人間が地上における自己の滞在を延期し、荘厳ならしめることができるか否かではありません。まさに問題は、こういう目的を達成する主体的な力が、そして義務が人間自身にあることを、人間自身が認識するか否かです。
 いずこにも存在し、さまざまな思惑をもって、まちまちの体制下に生活している庶民が、地上における安全と良識を求めるにおいては異口同音なのだと、ある日突然に悟るとしたら、そうさせるのは何であるのか。して次に、何を発言すべきか。そしてこの発言を聞き捨てにしないのは、だれか。
 この三つの問いの第一については、たしかに国境線があり、おたがいに争っているイデオロギー体制があります。にもかかわらず、今日の世界における主たる対決は国境線もイデオロギーの分岐点も超えていくものです。究極的な分裂は、社会間ではなくて、社会内に生じます。一方の側は「加速」の意味を理解するか感得するかして、人類の間には多様な違いがあるにもかかわらず、人間同士の新たな結びつきを創出せねばならないことを看取し、人類都市に利世しうる普遍的組織の建設に向かってほとんど本能的に行動していく人々です。それと対立する側は分離主義、集団エゴの永久保存、部族戦争の陣地の守備、区画化の利益という立場で、物事を考える人々です。
 庶民の声と重みがその真価を発揮していくのは、この最大の対決のなかからでしょう。今、庶民が必要としているのは、自分の感じること、言いたいことが全世界の前進に寄与するという確信のもてる励ましです。そして文業の人士が、ことに小説家と詩人と劇作家が、絶好の機会にあずかるのは、まさにここにおいてです。われわれが何も学ばなかったにせよ、詩人と芸術家の発想は、それ以外のすべてが達しえなかった領野にも浸透しうるということなら、われわれも承知しているでしょう。ゆえに問題は、平凡人たる庶民が境遇や立場の違いにかかわらず、感応しうるか否かではなく、感応を呼び起こさせる者がいるか否かということです。
 次に第二の問いについては、法に従う人類社会を求めてやまぬ叫びが世界中に高まるなら、それにこしたことはなく、ひかえめに言っても、心はずむことでしょう。これは、来る二十四時間内に起こりそうもありません。なれど必要なのは、関心を赤裸に表明することです。地球にはしかるべき安全を、諸国家間の取引には無法ではなく法の確立を、人類家族にはさらに自由な相互交流を――という訴えを十分な数の人々が素朴な言葉であろうと訴えぬいていけば、その言論には根源的で巨大な力があります。
 そして第二の問いについては、いかなる孤立した専制政府だろうと独裁体制だろうと、今日にあっては、庶民の心の動向に関心をもたずにはおれません。なるほど他の国家とくらべれば、民衆の声をうとんじる国家が一部にはあります。しかし、切迫した問題に関しては、あらゆる国家が民衆の声を無視できなくなっています。
 混乱と不遜を生みだした進歩の加速度、それと同じ加速度が、今度は人間がいまや短期間内に達成しなければならない目標を短期間内に達成するにつけては、自信をもたらしえます。それがまた、ほとんど無限なる多様性を包含した答えを見いだすにつけても、人間の英知の到達力に関して人間に自信をもたらしうるでしょう。真の進歩は、加速を排除するところにあるのではなく、心のさまざまな可能性を正しく尊重していくところにあるものです。
 末尾になりましたが、多忙な日々のなかにあって、対談の進行にねばり強い努力をかさねてくださった創価学会インタナショナル(SGI)の池田大作会長に、厚く御礼を申し上げるしだいです。

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