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日蓮大聖人・池田大作

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八、教育と学習のために  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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2  ペッチェイ ただいまのご示唆は、図書館や博物館、学校、その他多くの施設がふんだんにある先進諸国での教育については、まさにそのとおりであると思います。しかし、東南アジアの広大な地域や、インド亜大陸、アフリカ、ラテン・アメリカの一部の地域などに、それをそのまま適用することはできません。第三世界のほとんどの国々では、成人教育のための機関といってもこれというものがないばかりか、何億もの子供たちは、いかなる形の正式な学校教育を受ける機会も、まったく与えられておりません。しかも、それにもかかわらず、そこでの軍事費の配分総額は、教育に向けられる配分額をはるかに上回っているのです。
 ローマ・クラブのわれわれは、普通、慣例的に“教育”“学校教育”と呼ばれるものと、“学習”とを明確に区別することが大切だと考え、このような意見を発表しました。
 「われわれにとって学習とは知識と人生、その両者への接近を意味し、人間が主導権を握ることを重視する。またそれは、変動する世の中において、生きるために必要な新しい方法論、新しい技能、新しい態度、新しい価値観を修得し、実践することを含んでいる。学習は新たな状況に対処するための準備過程である。模擬的な、あるいは想定した状況においても学習を誘発することは可能だが、普通は実生活の状況を体験することによって意識的に、あるいは無意識のうちにも、学習はなされるであろう。実際には、世界中の人々が就学していてもいなくても、各自、学習過程をたどっているのである。けれども、現代生活の複雑性に対応できるほど高度で精密な、しかも敏速な学習をしている者は、現在われわれのうちには恐らく一人もいないであろう(注1)」。
 まったくの文盲の人たちも、非常に純粋な心を維持し、自らが生きなければならない世界についての健全な世界観を習得して、一人前の人間になるための学習はできます。これとは反対に、十分な教育を受けた人たちでも、現実の生活に関する事柄をまったく知らないことがときとしてあり、またどんなに有能な学者でも、邪悪な目的を追求したり他人の自由を圧迫するために自身の知識を用いたい気持ちになることがあるものです。
 私は、最高水準の教育ですら、もしわれわれを取り巻く環境全体の、複雑で変化しつつある現実に即した学習によって補足されないならば、もはやその本来の価値を失ってしまうと考えています。
3  池田 教育がそれだけでは十分でなく、現実に即した学習によって補足されなければならないとのお話にはまったく同感です。それとともに、私が指摘したいのは、教育されたことが、現実の社会ではまったく通じなくなってしまうような状態になっている現代社会のあり方──歪み──ということです。
 この場合の教育の内容とは、科学知識などではなく、人間としてのあり方、倫理・道徳に関するものです。
 科学的知識ならば、教育されたことが現実の場で、不足であることはあっても、覆されてしまうことは、ほとんどないでしょう。現実に即した学習は、むしろそれを補足してくれるにちがいありません。それに対して、人間としてのあり方・倫理等は、たとえば「誠実に生きよ」と教育されても、現実の場では、誠実に生きようとすれば敗残者になってしまうといった状況があります。多くの人は、現実に即して、不誠実に生きることを学習してしまうのです。
 われわれは、このような現実の社会を、仕方がないとして諦めるべきでしょうか。断じて、否です。そこに、この現実の社会に対しても、講演、対話、教育等を通して、市民を啓発することが大切になってくると思うのです。すなわち、現実を変革していく働きかけが必要であると私は考えるのです。
4  ペッチェイ つい最近まで、伝統的な学習体験は、既存のシステムを支えたり、既定の生活様式を維持するのに役立てば、それでもう十分でした。しかし、現在の大転換期にあっては、もはやそれだけでは不十分であり、われわれ一人ひとりに課せられた要請は、一層差し迫ったものになってきています。
 今日では、新しい形の“革新的な”学習が必要不可欠です。なぜなら、われわれは、必要な変革を社会にもたらし、自らの行動を今日的なものにし、諸制度を改編することができるような、新しい能力を身につけなければならないからです。そのうえで、われわれは、自らが直面すべき“問題複合体”と、それへの対処の仕方を、より現実に即して査定しなければなりません。直線的・段階的なアプローチは、もはや役に立ちません。われわれは、広範な脈絡における状態や動態を同時に掌握するような体系的アプローチを採り入れる習慣を身につけなければなりません。
 そのうえ、過去の時代は、現在や、予測しうる未来とは大きく異なっているため、われわれの学習能力は、そうした過去に積んだ経験から主たる霊感を受けることは、もはやできなくなっているのです。その学習能力は、それよりも際立って未来志向的でなければならず、できうるかぎり“予見性に富んだもの”でなければなりません。そして、それはまた同時に、“直接参加的”なものでなければなりません。なぜなら、さきにも述べたように、人類をより高度な次元の自覚と責任へと向上させる試みには、意思決定権をもつエリートだけでなく、きわめて広範な階層の人びとの参画が必要とされるからです。
5  人びとがどういう仕組みで学習するかを発見し、平均的な人間の学習能力を考査して、主婦や子供、学生、軍隊の新兵、国家公務員などといった、さまざまなグループの人びとの理解力と創造力を刺激するために、世界各地で多くの研究がなされていますし、いくつかの試験的なプロジェクトの実施も着手されてきました。こうした一切の努力が、事態を改善するための、新しい学習ということがもっている基本的な重要性に光明を投げかけるであろうという希望はもてます。しかし、それにもかかわらず、学習が教育に取って代わるものでないことは言うまでもありません。学習は、教育を補うものであるにちがいなく、また、今日失われつつある教育の多くの恩恵を再生させる触媒ともなりうるでしょう。
 しかし、学習の機能を見くびってはなりません。世の中が現状のままでよいのかどうか、また何をなすことができ、何をなさねばならないのかについて混乱している世界にあっては、常識の学習という健全な基盤こそが、個人にとっても社会にとっても、いま踏みしめている大地と未来に横たわる領域とを、正しく評価する手助けとなりうるのです。
6  池田 創価学会の牧口常三郎初代会長は、小学校の校長を務めた実践的教育者であるとともに、教育理論家でもありました。牧口初代会長が教育制度のあり方について持論の一つとしていたことに、半日学校制度というのがあります。つまり、半日は学校で学び、半日は実社会で働くことが、本当の教育のために最も有効であるというのです。
 実社会での生活の基盤から離れて、ただ知識を習得し理念を学んでも、知識のための知識に陥ったり観念の世界に遊ぶ結果になりかねません。学んだ知識を現実とのかかわりの中でとらえていったとき、知識は一時的に暗記された知識でなく、知恵への栄養源となり、その人の身についたものになっていきます。種々の思想や理念も、現実生活の基盤があれば、正しい位置づけがなされ、活かされていきます。現実生活の基盤から離れて思想や理念に没頭していった場合、どのような悲喜劇が起こるかをその極端な姿で描いたのが、セルバンテスの『ドン・キホーテ』でした。
 牧口初代会長は、教育が現実生活から浮き上がった観念の世界にならないためと、また、現実の社会と人生が、常に新しい知識や理念の刺激を受けて向上していくためという二つの意味から、半日学校制度を提唱したわけです。
7  私は、いま、ペッチェイ博士が述べられた学習と教育とを区別するとともに、この両者が健全に機能し補い合っていくようにしなければならないという点に関して、牧口初代会長の半日学校制度は、その基本的具体化の一つのあり方となりうるのではないかと考えます。
 それとともに、現代のような混乱した時代にあっては、常識の学習という健全な基盤こそが大事になるとのご指摘に関して、私は心からの共鳴をおぼえます。これも、牧口初代会長が口ぐせのように言ったことですが、「道に迷ったら出発点に戻れ」というのです。ごく当たり前のことですが、人間は、道に迷ったことに気づきはしても、せっかくここまで歩いてきたのだから、これまでの努力をムダにしたくないという執着心を拭い去ることがむずかしいものです。その結果、出発点に戻ることを延期しようとします。そして、ますます迷路に入り込んでいくのです。
 現代人にとって出発点に戻ること──それは、人間とは何か、どう生きることが人間らしい生き方なのかということを思い浮かべ、そこから、一切の文化を立て直すことです。早い話、人間が互いに殺し合うことが人間らしい生き方なのかどうか、この一点から考えれば、戦争と平和の問題も明瞭でありましょう。また、常識という出発点に戻ったときに、万人の参画の道が自ら開かれることは間違いありません。
 注1 ローマ・クラブ第六レポート『限界なき学習』(J・W・ボトキン他著、大来佐武郎監訳、市川昭午他訳、ダイヤモンド社)=一九八〇年発刊。
 〔英語版 No Limits to Learning,A Report to The Club of Rome,by J.Botkin,M.Elmandjra and M.Malitza,Pergamon Press,Oxford,1979:ドイツ語版 Das Menschliche Dilemma,Verlag Fritz{Molden,Wien and Munich〕

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