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日蓮大聖人・池田大作

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六、権利と義務について  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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2  ペッチェイ まったく同感です。義務をともなわない権利はありませんし、権利のない義務というものも、受容できるものではありません。とはいえ、人類の進展の現段階では、私はまず第一に、義務を強調すべきであると思います。義務と責任を明確にして初めて、権利や資格を検討し、守ることができるわけです。ただし、この点に関して言及させていただけば、たとえば、国連人権憲章は、弱者や被圧迫民族を保護するという、価値ある目的に奉仕することを意図したものではありますが、われわれ人間がさまざまな義務を負わない──他者の権利を尊重する義務すら負わない──生来の権利の保持者であるという、間違った印象を与える可能性があります。この点、この憲章は権利の宣言を月並みに表明しただけであり、不満足なものに思われます。
 われわれは人間として、すでに生存しているものも、これから生まれてくるものも含めて、人類同胞に対しても、他の生物に対しても、たくさんの義務を負っています。この問題はともすると忘れられがちで、市民権がだれの目にもはっきりと踏みにじられるのを見たり、動物がひどく虐待されたり情け容赦なく殺されたりするのを見たときにだけ、提起されるものです。
 しかし、私が提案したいのは、われわれは豊かな情報をもち、恐ろしいほどの装備をこらした、文明化された人間としての自分たちの資質に今日課せられている義務が何であるかを知らなかったり無視したりすれば、明日にも広範囲にわたる災害が起きるのは当然であるということを心に留めて、とくにこれからの世代の人びとや未来の生命全般に対して負っている責務。について、視野を大きく広げなければならないということです。
3  池田 人権憲章や各国の憲法で、権利の面が強調される場合が多いのは、過去の歴史からくるもので、弱者であった一般民衆の権利が、強者であった支配者・特権階級によって、あまりにも踏みにじられてきたからです。したがって、民衆の権利を明記し、それを侵すべからざるものとしたのは、間違いなく貴重な前進でした。
 いま私たちが提唱している義務という問題は、この勝ち取られた民衆の権利を縮小し、後退させようというものであってはならないでしょう。すなわち、この義務とは、支配者や国家権力に対する民衆の義務ではないということです。この点は、誤解されないようにしなければなりません。
 この義務とは、人類全体、生物の世界全体に対して一人ひとりが負っている義務であり、博士がいみじくも言われたように「これからの世代の人びとや未来の生命全般に対して負っている責務」なのです。かつては、民衆は、支配的特権階層に対して弱者であったがゆえに、その横暴から身を守るために、権利を保障されるべき必要性があったわけですが、今日、その民衆も、他の生物に対し、あるいは未来の世代の人びとに対しては、強者の立場です。他の生物は、自らの身を守るべき手段をもっていませんし、未来の世代も自らの権利を主張することができません。だからこそ、私たちは、彼らが当然要求する権利を思い描いて、それを侵さないよう、自らがもつ権利に義務の枠をはめて、これに抑制を加えなければならないわけです。
4  ペッチェイ この新しい時代に現れてきたわれわれの主要な責任の一つ、すなわち、自然との良き関係を再建する責任を、ここでもう一度取り上げて、その点をさらに明確にしたいと思います。地球の保護(アースケア)や世界の資源の注意深い管理が絶対に必要であることについては、たしかに、これに高い優先権を与える教育が行われなければなりません。これはひとり教育の問題にとどまるものではありません。
 われわれは、森林を破壊し、他種の生物を過剰に殺戮し、湖沼を汚染し、生態系を荒廃させ、炭化水素を撒き散らすのは間違いであるということを認識するだけでは、十分ではありません。目前の利益のためにこうした誤りを犯してしまうわれわれの自己中心的な行動が、わが地球をおそらくは永久に、または少なくとも今後長期にわたって疲弊させ、われわれがいま自分たちのために追求している便利さや快適さを、子孫たちから奪うという結果を生んでいるわけです。しかし、問題は、それだけではありません。
 われわれは、自然の富という資本を保存し、そこから生じる利潤だけに依存して生きることを学ばなければならないことを自覚するだけでは、まだ不十分なのです。もし真に地球と人類を救おうとするならば、われわれの献身は、より一層高度なものにならなければなりません。
 つぎの世紀の初頭には、地球上にさらに新たに二、三十億の(それ以後はさらに多数の)人口を住まわせなければならないということ、世界総人口の分布は、地球上で従来よりもさらに偏頗になるであろうこと、人びとの食糧、物資、サービスへの需要は人口増加率よりもはるかに急激な増大を示すであろうこと、そして、人間の至高性、安全保障、主権主義、民族主義、部族意識などといった古色蒼然たる概念や慣習が、科学的知識や技術力の間違った使用法をつづけながら、なお頑強に生き残るであろうこと──こうしたもろもろの現実に、われわれは直面せざるをえないのです。
 もしわれわれ一人ひとりがある一定の行為を差し控えることさえすれば、世界は膨大な人口をすべて受け入れ、ささやかな幸福と高潔さをもたらしうるなどと信じるとしたら、それは破滅的な誤りとなるでしょう。現在ますます多くの国々で採り入れられている環境保存の戦略は、どうしても必要なものであり、これは、あらゆる既得権益を占有している人びとから頑強な抵抗を受けるでしょうが、それに対してはどうあっても打ち勝たなければなりません。しかし、そうした環境保存戦略も、恐るべき勢いで増大する人間の圧迫に抗して、われわれのかけがえのない存在基盤──この地球──を良好な状態に保とうというだけでは、まだ不十分なのです。
5  池田 おっしゃるとおりです。現在、地球上に生活を営んでいる人類にとってすら、資源の枯渇は目前に迫っており、環境の汚染は深刻な障害をもたらし始めているのですから、つぎの世代にとって、事態がどれほど恐るべきものになるかは、明白すぎるほど明白です。
 にもかかわらず、そうした現実を知りながら、今日の人類は、環境汚染を進めています。博士のような有識者の良心からの訴えにもかかわらず、ひとたび資源を発掘し利用する権利を握った人びとは、一刻も早く利益を上げることを優先します。それを消費する大衆も、それが自分の子や孫たちにどれほどの苦しみを与えるかを考えるよりも、現在の快適さを求めています。これを食い止めることは、文字どおり焦眉の急となっています。
6  ペッチェイ 人間にかかわるすべての事象についての。、そして宇宙における人間の位置についての。、抜本的かつ完全な概念の立て直し。が速やかになされないかぎり、いくつかの自然システムが崩壊することは避けられません。
 この悲劇を回避するためには、地球全体のあらゆる資源、なかんずくその貴重な土壌と淡水を責任をもって使用して管理するための規準、そして地球の生物を養う能力を枯渇・衰退させないための規準を、設定しなければなりません。広大な土地、枢要な生態系、化石燃料や鉱床などは、この目的のために手をつけずに保存すべきです。それは、たんに未来の需要に備えての保存用としてだけではなく、自然が人間に邪魔されずに進化しつづけることのできる聖域としても、必要です。これに対し、地球の他の部分は、現在の需要を充たすために積極的に開発されるとしても、そのような開発もまた、常に、保存の精神とあらゆる民族・国家間の協調的発展をめざす精神においてなされなければなりません。
 もちろん、これらはすべて、人類の利益のために行うことであり、また、そのようにみなされるべきでしょう。しかし、人間の状態が、とりわけ自然との遊離のため世界のいたるところでいかに悪化しているかを明確に認識することなしに、また、差し迫った危険への新たな自覚によって自らの幻想を振り払い、その危機に対処する準備を行うことなしに──換言すれば、人間革命の到来が間に合わないにもかかわらず──なおそのうちに必要な変化が起こりうるなどと信じるとしたら、それはきわめて浅はかなことでしょう。そうした過程が促進されるためには、世界の世論や意思決定者たちが、その対処すべき膨大な量の諸問題を、個別的にではなく地域別かつ全地球的な脈絡の中で、群別にまとめて系統的に取り上げるようになることが必要でしょう。
7  池田 そのとおりですね。さまざまな問題が、じつに複雑に絡み合っているのが現実です。一つの問題を解決しようとしても、それは他の分野で新たな問題を惹起します。エネルギー資源の消費を抑えようとすれば、経済の低迷は免れませんし、その結果は失業者の増大等に波及していきましょう。
 ですから、こうした問題の解決のためには、おっしゃるとおり「地域別かつ全地球的な脈絡の中で、群別にまとめて系統的に取り上げる必要性」があるわけですが、具体的に何かそうした改善への計画の例はありますか。
8  ペッチェイ ええ、一九八三年六月、マサチューセッツ州ケンブリッジ市で開催された第二回世界土地利用会議において、私は、資格をもった民間諸団体のグループで「不可欠な土地と資源の保存・利用・管理の世界プランとプログラム」とも呼ぶべき厳格な計画の概要を準備し、近い将来、各種の国際的な支持団体へ提示できるように、その実行の可能性を検討するよう提案しました。
 この計画が則るべき原理は、フランス全土で行われた“土地整備”の指導原理と類似したものになるはずですが、これは、それをさらに世界的規模にまで拡大することになりますので、大まかな方向づけをするのに役立つだけでよいでしょう。さらに、この計画は陸地のみに限定すべきではなく、「人類共有の遺産」たるべきことが宣言された広大な海洋、それに南極と北極を含むことになります。この計画では、まず手始めに、この主題についての大規模な国連会議で制定された新しい「海洋法」を再検討し、改善すべき点を調べることになるでしょう。この法律は、深海の海底探検・調査・開発を規制する暫定的な制度確立への道を開きはしたものの、頻発する海洋資源の略奪、ことに強国による略奪に対しては、野放しになっているからです。
 この計画ではまた、現在と未来にわたるあらゆる諸国民・諸民族のために地球のいくつかの広大な地域を保存するというわれわれの誓約を実行するうえで、比較的処女地である南極を、その試金石とする可能性についても考察することとなるでしょう。一九六一年の南極条約は、南極の資源に関するあらゆる権利の主張を三十年間凍結させたものですが、これも一九九一年には失効します。すでに、保存のためというよりも戦利品の分配のためといった気分で始められた交渉を、われわれは、どこの国家にも属していないこの世界最後の地域を保護しようとする精神と、われわれの子供たちやそのまた子供たちに対するわれわれの義務を果たすのだとの決意をもって、新たに行うことを主張すべき時がきているのです。
 人類の貧困化を少しも招くことなく、南極大陸全体とその周囲の海域を、事実上原始の状態のままで未来の世代に残すことは、あらゆる生命体にとっての絶えざる蘇生の源泉である「母なる自然」を尊重することの、一つの証となることでしょう。そして願わくは、これによって、われわれの後につづく人たちが地球のこの南の最果ての地を、人間王国から分離し、野生が思うままに君臨する地域として、永久に保存していく励みになればと思います。
9  池田 私は南極大陸に関しては、別な考えをもっています。それは前に少し触れたとおりです。ただし、その場合も、南極の生物や自然そのものは、保存されるべきであると考えていることは、言うまでもありません。
 ただ、博士が言われるように「母なる自然を尊重することの一つの証」としてならば、もっと人びとがふだん接することのできる地域にこそ、そうした自然を保存することが、より大切ではないでしょうか。たとえば、ブラジルのアマゾン流域やアフリカの草原、ヒマラヤやアルプスの山岳地帯、太平洋の島々、日本でいえば三陸海岸や北海道の大雪山、中央部の山地等々です。
 また、そうした計画が進められるためには、人びとが、残された自然への触れ方として、人為的に整備された便利さやリゾート地の快適さを求めるのでなく、生のままの自然に触れることを求める風潮こそが、一般化されなければなりません。
10  ペッチェイ 保存と開発を調和させるための、全地球的な生態学的戦略の基盤を考察するのに必要とされる研究活動や討論活動は、広範囲にわたって道徳・政治・経済上の影響をもたらすことでしょう。
 そうした計画は、後につづく世代に対してわれわれが負っている責任と、地球の環境を健全で生産力あるものに保つことがいかにわれわれ自身にとっても利益であるかを強調することになり、それによってわれわれは、全人類を結ぶべき新たな団結の絆と、人類が生物全体に対してもつべき責任についての意識を強めることになるだけでなく、さらに別の、二つの基本的な事実についての意識を高めることにもなりましょう。その一つは、人間同士の間に平和が行き渡らないかぎり、自然との平和も決してありえないということであり、またもう一つは、地球の保護は、世界的な経済活動を促進しこそすれ決して窒息させるものではなく、むしろ、さもなければ失業を宣告されるはずの人びとに、広範な新しい仕事と自営業の機会を生み出すものだということです。
 こうした全地球的な計画は、われわれに、現代の変化した現実と必要事項をいやでも認めさせてくれますし、それによって、われわれが、物質革命に盲目的に有頂天になっていた時代に蓄積した病害や毒素から、知性と精神を洗い浄めるうえでの手助けとなることでしょう。
 私たちの地球のこのうえない美しさと豊かさを見つめるとき、この地球を私たちの生存自体と歓びのために保存すると同時に、物質革命がもたらしうるあらゆる便益を享受しつづけるためにも、われわれは地球が表現しもしくは必要とするすべてを尊重していく、より高度な目的に自らの欲望を貢献させていかなければならないということが、理解されるであろうと私は信じます。そして、これは、われわれの欲望を人間革命に調和させることによってのみ可能となるでしょう。

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