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日蓮大聖人・池田大作

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五、南北格差と教育のあり方  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  五、南北格差と教育のあり方
 池田 先進諸国と発展途上国とのいわゆる「南」「北」間の格差は、ますますこれからの国際的緊張を生み出す重大な要因になっていくと思われます。第二次世界大戦後に起こった紛争のほとんどが、発展途上国の貧困とそのために生じた政治的不安定、そこへ米・ソ等の先進諸国が介入したことによるものであることは、否定できません。しかも、こうした大国の介入による政治的混乱と、なかんずく軍事力行使による国土の荒廃は、その自立と発展をますます遅らせているのです。これは、まことに憂うべきことといわなければなりません。
 発展途上国の中で、石油産出国は経済的には豊かですが、その富がそれぞれの国の将来のためにどれだけ有効に使われているかをみると、多くの場合、不安を覚えずにいられません。それなりの努力はしているのでしょうが、一部の特権階級に独占されたり戦争のために軍事費として費やされたりしている場合がまま見受けられるようです。石油などの資源産出で経済的に潤っていない国々の場合は、もっと悲惨です。独立はしたものの、政治・経済体制は整わず、混乱が深刻化し、飢饉と病気が国内を覆っても対応ができず、国民はますます悲惨な事態におちいっている例が少なくありません。
 いずれの国においても、大切なのはその社会を構成し、運営していく人びとの自覚と責任感、そして知的水準の高さです。これらがなくては、秩序の維持、機構の運用は望めないからです。たとえば、近代日本は、欧米諸国との格差を縮めることに成功しましたが、その要因の一つとして、日本人は封建制時代にすでにかなり高い教育水準に達していたことが指摘されています。そして、近代化の原動力となったのも、欧米の学問と技術に対する熱心な学習意欲であり、教育の普及でした。
 現代において、発展途上の諸国が自立性を勝ち取っていくためになによりも求められるのも、教育の普及であろうと思われますが、そのために、先進諸国はどのようなことができるか、また、なすべきであると考えておられますか。
2  ペッチェイ 異質の要素が混在するこの現代世界で、自分たちと異なる人びとを同一視して“彼ら”という言葉を使うのは適切とはいえません。なぜなら、“彼ら”と呼ぶことによって、互いにかなりの相違がある諸国民、諸文化をひとまとめにしてしまうことになり、しかも「自分たちの行動は特別の美点をもつ模範的な行動なのだから、他の人びともそれに倣うべきだ」と言っているように聞こえるからです。
 私はこのように感じているわけですが、しかしなお私は、先進諸国はその経験や方法が有用な場合には、いつでもそれらを発展途上国への援助に使う準備をしておかなければならないとも考えています。これが、広範な、さまざまな分野に当てはまることは明白であり、なかでも教育は、非常に特別な問題です。というのは、教育こそは、あらゆる諸国民の文化的独自性の中核をなすものだからです。
 教育における相互交流はたしかに非常に良いことかもしれませんが、すべての国が大なり小なり同じ手本に倣って教育制度を発達させるべきだと主張するのはナンセンスです。いかにアメリカや日本の教育制度が進歩し、すぐれているからといって、またいかに私の国(イタリア)が日米両国から学ぶことが多いからといって、それらをただ模倣しようとするだけであったなら、イタリアは大きな誤りを犯すことになるでしょう。同様に、イタリアの法律、芸術、人文科学などの学校は、非常に多くの国々へのよい手本となってはいますが、だからといって、それらの国々が、イタリアの方式をそのまま模倣しなければならないということではありません。
 第三世界の場合には、教育の問題ははるかに微妙です。発展途上国への教育援助は、しばしば形を変えた“文化的帝国主義”にすぎず、この結果、供与国側の教育制度の歪みが、そのまま受容国側の制度に伝わってしまっています。
 しかも、温暖な気候の高度工業国での基礎教育を、熱帯の農業主体の地域に移植することは、控え目にいっても実情に合わないことです。科学教育が、たとえば、スカンジナビア半島からナイル河流域に移植された場合、その機能の有効性、可能性は同じであるといっても、それはじつは見かけにすぎません。実際には、これは二つの地域の社会・経済上の優先性や教育上の要請がまったく異なっているため、そうした教育のもっていた有効性や可能性の利点は、移植後は、失われてしまうのです。
3  池田 おっしゃることにはまったく同感です。教育は、言わばその国、その社会の未来を担う人間の育成であり、国により社会によって文化的土壌、歴史的背景、気候風土が異なっているのですから、それらの条件にかなった人間形成のための教育がなされなければなりません。したがって、ある国で成功しているからといって、その教育制度や教科内容をそのまま別の国に持ち込んでも、成功を収めるどころか、かえって大失敗に終わるでしょう。
 当然、教育制度を作り上げるにあたっては、それぞれの国の条件を考慮し、その未来像を描きながら、独自のものがその国の有識者によって検討され、築き上げられなければなりません。そして、その途上では、さまざまの試行錯誤もなされるべきでしょう。
 ともあれ、その内容・特色はさまざまではあっても、一つの国の未来を切り開き、盤石の基礎を作っていくためになによりも大切なのが教育であることは変わりないと思います。国は人によって作られ、人によって支えられていくからです。
 極端にいえば、今日、早急に求められるものが食糧や衣料・住宅等の“物”であったとしても、ある場合は、それらの窮乏を耐え忍んででも、未来のためにはまず教育に力を注ぐべきであると思うのです。教育をないがしろにしている国は、今日、衣・食・住などの物質的富を外国からの援助に頼らなければならないように、未来も、これらを外国に仰ぎつづけなければならないでしょう。
4  ペッチェイ 教育においても、その他の分野においても、第三世界が発展するためには、「北」への依存度が減り、「南」と「北」の相互依存すらも、もはや必要不可欠ではないという状況を示せるように、最善を尽くすべきでしょう。「南」の諸国が必要としているものは、もっとほかにあります。それは、自立の精神を高揚することです。しかし、彼らが成功を望むなら、彼らの大きな欠陥の一つであるバラバラになった政治機構。を、まず厳しく見据えなければなりません。
 現在の世界を政治的に構成しているのは百五十余りの主権国家ですが、その大多数は、弱小国家であるうえにさまざまな問題に悩んでおり、個々では、近代国家にのしかかっている仕事をすべて遂行できる能力はありません。これは、克服しがたい弱点です。たとえ外国からの援助を望む場合も、これらの諸国は、その援助を適正に使用するうえでも、またこれを自国本来の能力の補強に活用するうえでも、どうしてよいかわからずにいます。にもかかわらず、百二十ほどの発展途上国では概してこれを独力でやろうとしており、その結果、「北」の政治・経済・技術的巨人であるアメリカ合衆国、欧州共同体、ソ連圏、日本には、とうてい太刀打ちできずにいます。
 これらの発展途上国は、自国の長期的方針を綿密に整えるか、あるいはそれ以上の方策として、互いに結束して地域的な同盟や共同体・連邦などを結成するかの実際的な方法を見いださないかぎり、どこまでも立ち遅れがつづく運命にあります。このことは、一国の遂行能力を判断する基準である国民総生産(GNP)をみれば、一目瞭然です。広大なインドでさえ、ヨーロッパの一地方にすぎないイタリアの、ほぼ半分のGNPしかありません。ほとんどの発展途上国は、経済的規模が不十分で、国民一人当たりの所得が低いという厳しい現実の前に、国際社会の互恵関係の中で自国の地歩を築くことはおろか、近代国家としての物質的・社会的な基礎構造をつくることも、また教育制度を改善することさえも、できないでいるのです。
5  もし、第三世界のめざす道が自立であるならば、その道は、より広域にわたる、比較的同質の地政学的あるいは地理経済的地域の“集団的な自立”でなければならず、そこでは共通の政策と制度をもち、内部においては労働を分配し、外部世界に対しては統一的立場をとる用意がなければなりません。その反対に、もし現在のように分断されたままで満足のいく発展──この発展という概念にわれわれがいかなる意味を込めたいと願うにしても──ができ、世界の発展のために意義ある参画ができると信じているとすれば、第三世界は、さらに挫折と後退をつづけることでしょう。
 前述しましたように、一九八〇年、国連においてローマ・クラブと、同じく未来を志向する他の二つの研究団体の協力によって、一つの計画(プロジェクト)が発足いたしました。これは、系統的・長期的な協定によって互いに結ばれた有機的国家集合体を作り出すことにより、発展途上国が集団的自立性を強めるためのあらゆる可能な方法を探究し開拓するのを、援助することを目的としたものでした。この研究はきわめて興味をそそるペースで進んでおり、かつては民族国家という古典的な枠組みでしか考えなかった多くの懐疑的な政治学者や政治家も、いまでは、発展途上国がより大規模でより実行可能な単位にまとまることが有利であることを確信するようになっています。
 ここでの私たちの対話は教育から始まり、なお教育を中心に話を進めていますので、私は、このような発展は、教育そのものにも多大な恩恵を与えるものだと申し上げたいのです。しかも、教育はまた、世界の政体を、自治と自立の能力と相互依存的な世界での相互協力の能力とをもつ、たとえば十二もしくは二十の大陸別、地域別、準地域別の共同体へと漸次的に改編する道を開くうえでも、役に立つことができます。教育は、主に若い人びとを対象とするものですが、万人を対象とした集団的事業でもあります。そして、すべての市民が自立と協力の思想を身につけ、生涯維持していく自覚ができたとき、世界家族全体が、より健全な未来に向けて根本的な一歩を踏み出したことになりましょう。
6  池田 「南」の国々の自立化のためには、一国一国が孤立してではなく、集団的にブロックを作って協力し合っていくべきであるというお考えは、まことに重要な点であると思います。自立と、そのために不可欠の内的充実を妨げる最大の障害は、内部抗争であり、隣接する発展途上国同士の争いです。同じ一つの国の中において、部族同士がいがみ合って血を流し合うことなど、愚かという以外にありません。一日も早く国内の争いに終止符を打ち、さらには、同じような条件におかれている発展途上の諸国が協力して国の建設、経済開発、また、なによりも教育にも取り組んでいくということが望まれます。
 とくに教育に関してブロック内協力ということでいえば、私は古くヨーロッパの歴史を振り返ってみると、中世のヨーロッパにおける教育は、まさに、その手本であったといえると思うのです。イタリアのボローニャ大学、フランスのパリ大学、イギリスのオックスフォード、ケンブリッジ大学、ドイツのハイデルベルク大学等々には、たんにその国の青年だけでなく、ヨーロッパ各地からやってきた学生が学んでいました。
 それぞれの大学によって、どの学科にすぐれた教授がいるかという特色があり、青年たちは国籍によってでなく、学ぼうとする学問によって、めざす教授のもとに集まったわけです。同じことが、今日の途上国の教育についても考えられます。
 そして、このように国境にとらわれない教育のあり方の利点は、次代を担う青年たちに、国境にとらわれない視野を与えることができること、また、こうした大学生活で結ばれた友人たちが、やがてそれぞれの国でリーダーとなったとき、国同士の紛争を未然に防ぎ、さまざまな問題に対処するための話し合いと協力を円滑化する土台となるということです。その意味でも、あなたのご構想に、私は心から賛同するものです。

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