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日蓮大聖人・池田大作

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四、支配者から保護者へ  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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2  ペッチェイ 現在では、世界中の諸国民が西洋文明にならって、人間を地球上の万物の支配者であり裁定者であるとみなすようになっています。人間は、いまでは地球上だけではなく、それを越えて影響力を及ぼすようになったため、宇宙空間に対しても、当然、権利を主張できるものと思いこんでいます。言い換えれば、人間にとって良いことは自己の周囲のすべてにとっても良いことだと考え、また、人間が自らの境遇を向上させようとして、そのできる範囲で行うことはすべて、絶対的にうまくいくものと考えているのです。
 このような考え方に対しては、あなたも私も馬鹿げたことであるとみなしており、そうした考え方の理論的根拠はまったくの誤りであり、逆効果しかもたらさないと判断しているわけです。というのは、たとえ人間を自然の最も重要な部分と認めるとしても、あくまで人間は自然の支配者ではなく。、その一部分にすぎない。からです。人間は、自然の無数の要素とがんじがらめに縛られており、人間がそれらの要素を枯渇させたり、それらの周期や体系を損なうならば、その代償はブーメランのように自分のほうに逆戻りしてくるというのが、冷厳な事実です。この想像もつかないほど複雑な共生関係の中で、人間を究極的に最も害するものは、他の生物に対する人間の傲慢な行為です。この点についてはすでに述べましたので、私は、ここでは繰り返しません。
3  ただ、付け加えさせていただきたいのは、たとえすぐれた知的資質をもってその歩みを幸運にも踏み出してきたにせよ、人類には、自らを資質の劣った生物の生存自体やその生き方を決める、至高の裁定者とみなす権利はないということです。むしろ、われわれは、たまたまある面で他の生物に優る知力を発達させてきただけなのですから、当然、知力の劣る生物の保護者、受託者になる責務を負っていると感じるべきでしょう。
 生物学者でありヒューマニストでもあったジュリアン・ハクスリーは、このことについて、人間の役割は「望むと望まざるとにかかわらず、地球上における進化の過程の先導者たることであり、その仕事はこの進化の過程を全体的な向上の方向へと導くことである」と、非常に適切に表現しています。われわれの責務をこのように認識することは、私がすでに述べた生命の倫理の一部をなすものです。その基本的な倫理的価値は別としても、このような態度は、その実質的な重要性のゆえに、認めなければなりません。
 実際問題として、地球上の生命の織りなす組織が向上することは、当然、人類自身の長期的利益にも通ずることです。これはきわめて明白なことであり、この原理に従うことを拒みつづけるとすれば、人類の優位性や人類が自慢してきた知力も、疑わしいといわなければなりません。こうしてみると、ここにこそ、全世界の教育支配層が取り上げるべき、広大な分野があるわけです。
4  池田 人間は、自然に対して、支配者ではなくて調整者でなければならない、さらにいえば、貢献者でなければならないという考え方が、いまこそ基本的態度として徹底されるべきであると考えます。
 もちろん、自然は、常に優しい存在であるわけではありません。この地球上でも、地域によっては、自然は常に人間にとって戦わなければならない相手であることもあります。日本などは、自然が温和で恵み深いことでは典型的といえる地域でしょうが、それにしても、洪水や地震など、あるいは火山の噴火など、ときとして狂暴な牙をむいて襲ってくることがあります。
 だからこそ、人類が、これまで自然を力でねじ伏せ、支配しようとしてきたことも無理からぬことでありましたし、それは認めなければなりません。しかし、いまや科学技術の強大な力を駆使するようになって、自然がその状態においてもっている人間への恵みをかえって破壊し、不毛化しようとさえしていることに気づく必要があります。
 人間の自然万物に対する関係は、じつに複雑であり、そのあるべき姿というのは微妙でしょう。その地域の自然がもっている特徴に応じて、一律的にはいかないでしょう。ただいずれにしても、人間による一方的な独裁的支配は、かえって人間自身の破滅を招くことを知らなければなりません。そして、なによりも大切なことは、支配欲や物質的欲望に身を任せるのでなく、自然万物からの計り知れない恩恵によって自身の生命が維持されていることを正しく認識し、自然万物のより豊かな生命的営みを助けるために貢献していこうという姿勢をこそ、根本にしていくことです。

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