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日蓮大聖人・池田大作

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一、なぜ人間革命か  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  一、なぜ人間革命か
 池田 今日、根本的な行き詰まりに直面している現代文明への反省として、あなたは“人間革命”ということを提唱されています。私もまた、同様の問題意識をもって、仏教を基盤とした、個人の内面の変革から社会の向上へといたる“人間革命”こそが、人類の取り組むべき最も重要な問題であることを訴えてきました。
 すなわち、人類は科学技術の発達によって環境世界から巨大な力を引き出し、それを利用して、物質的には豊かな、恵まれた生活を実現してきました。今日の先進諸国において平均的市民の享受している物質的豊かさは、古代・中世における王侯も羨むほどであろうと思われます。ところが反面、この物質的な力を、現代の人類は恐るべき武器として利用することによって、互いに脅かし合っており、現実に、大勢の人間が殺されたり、傷つけられたりしています。また、物質的豊かさを得るのと引き換えに、人生を生きる意味を見失ったり、そこから殺伐とした犯罪に走ったり、絶望感にとらわれたりしています。要するに、科学技術によって巨大な力を手に入れたものの、人類は、それを人類全体の幸福と人間としての尊厳性のために使おうとせず、自己の欲望だけを満たそうとする利己的な目的や、他に対する優越を確かなものにしたいとする競争心で、これを利用しようとしているのではないでしょうか。
 こうした人間の心の動きを、すでに述べましたように、仏教は貪欲・瞋恚・愚癡と指摘し、これらを“三毒”と名づけています。そして、この醜い人間の心の働きを各人がみつめて抑制できるようになるために、仏教の実践を教えたわけです。原始的な社会においては、普通、種々のタブーを立てたり倫理規範を定め、それを破った場合に下される社会的制裁への恐怖や神の罰への畏怖が一種の抑制力になってきました。近代社会においては、理性的判断力が自らの心の働きを抑制すると期待されるようになりました。たしかに、欲望や衝動の力がごく軽い場合は理性だけで有効であっても、理性では手に負えない場合がむしろ多いのが実情です。しかも、これはたんに現代文明の問題にとどまらず、人間が誕生して以来の根本的な課題でもありました。それゆえにこそ仏教は理性よりもさらに深い生命の奥底からの変革と、強力な知恵を開発する方途として、信仰という実践を教えたのです。私は、“人間革命”の理念の根底にこうした仏教の実践をおいているわけですが、あなたの提唱される“人間革命”は、いかなる実践によるものをお考えでしょうか。宗教、またはなんらかの宗教的信仰を前提とされているのでしょうか。
2  ペッチェイ 人間革命の必要と希求を主張するにあたって、私は、宗教的信仰には一切依存しておりません。あなたもご存じのとおり、私が心にいだいているのは、現代の物質優先の技術時代にあって、各世代を啓蒙し鼓吹できる新しい人間主義(ヒューマニズム)に動機を得た、深部にまで達する文化的進展です。にもかかわらず、あなたとのこの対話ではっきりしていることは、あなたが仏教の信仰を指針とされ、また私たちはそれぞれに異なる観点から出発し、異なる表現様式を用いながらも、ともに同じ種類の人間の心の変革を論じているということです。
 私が主張しているのは、われわれは皆、人間自身についての、またこの世界についての、さらにこの世界で占める人間の位置についての見方、したがって自らの思考法や行動様式に関する見方を、根本的に改める必要があるということです。これまでずいぶん長期間にわたって、人類は物質革命の圧倒的な影響下で行動してきましたが、これらの諸革命によって、人間は自らの支配力や思いつきを、地球全体に対して意のままに、容易に課せるようになり、そこから人類の絶対的優越性への生来の信念を強め、人類の至高の本性への独断的な考え方を好んで支持してきたのです。人間はこうして、危険なほど自己中心的、独善的となり、また、全体としてあまりにも心理的均衡を欠いてしまったため、自らの本当の境遇や行動を真剣に批判的に分析する可能性を、まったく失ってしまっています。私は今日にいたるまで、これこそが人類の苦境の主な原因であるという私の見解を説明してきたわけです。
 人類がこの致命的な障害から自らを解き放ち、これまでの人類に起こったこと、また、おそらくいま起こりつつあることを総合的に評価でき、また同時に、客観的な自己分析を行って自らの欠点と誤りを発見できるためには、人間はなによりもまず物質革命への心酔から醒めなければなりません。。
3  この点に関して注目すべきことは、技術・科学と産業の爆発的発達が、一般大衆にとっては一種の外因的現象として起こったものであり、たしかに一般大衆もこの発達に巻き込まれはしましたが、しかし、それは、彼らの手の届かないところで、研究者や発明家、企業経営者の少数集団によって仕組まれたものであったということです。そして、たしかに一般大衆も、この発達がもたらす便益を喜んで歓迎しはしましたが、同時に、そうした便益のために支払うべき代価として、それに付随する不便をも受け入れてきたということです。一般の人びとには、これらの事態の進捗がもたらす複合的な過程を見通したり、それらの最終的な意味を理解したりすることは、とてもできないことでした。したがって、彼らには、こうしたすべての“進歩”と、それに責任をもつべき人びととが、正しい方向へと進みつづけてくれることを期待する以外に、道はなかったのです。
4  現代文明の歴然たる行き過ぎと好ましからざる副作用が現れ、その文明とこれをいかに導くかを知っていると思われた人びとへの盲目的な信頼が揺らぎ始めたのは、ごく最近のことです。ある複雑な状況を深く掘り下げて検討し始めたときによく経験されるように、われわれは、以前には気づかずに見すごしていたあらゆる種類の事柄を──良いものも、さほど良くないものも、きわめて悪いものも──発見するようになったわけです。こうして、いくつかの事柄では、物質革命から得る便益のために世界が支払っている代価が、あまりにも高すぎることが明らかになりました。さらに、これらの事例の多くは決して周辺的な問題ではなく、人類の未来に──人類の幸福、生活の質、そしてたぶん人類の存続自体にさえ──きわめて重要な意味をもっていることがわかってきました。
 いまや、われわれ皆が、現代の状況がいかに不均衡になってしまったかに気づき始めています。われわれ自身、内面的均衡を欠いており、そのため物質的豊かさを追求する過程で、精神的、道徳的、思想的には貧しくなってきたことを感じています。われわれは、自分たちの社会がいかに危険なまでに偏向しているかに気づき始めていますが、それは、物質面での利益や福祉や進歩ですら、各国の間でも、それぞれの国内でも、きわめて不平等に分配されているからであり、また、何十億という人びとの運命がごく少数の特権的エリートの手に握られていて、彼らの指定する曲に合わせて皆が否応なしに踊らざるをえないからなのです。
5  そしていまや、自分たちも自然に対して危険な誤った関係に立っているということ、そして、われわれの無秩序に広がる企てを支えるのに、自然に依存し、自らの立場をますます恐るべきものにするためのあらゆる行為を吸収させることは、もはやできないということが、すでにわかり始めています。こうしたことのすべてを私たちは知っており、世界がこんなにも多くの著しい不均衡によって引き裂かれたことは、かつてなかったことに気づいています。それゆえにこそ私たちは内なる自我の中にも、社会の中にも、また環境の中にも、少しでも頼りとなる均衡が再構築されるために、何かがなされうることを願い、祈っているわけです。
6  池田 ペッチェイ博士の提唱される人間革命が、どのような信念から生まれたものかが、よくわかりました。たしかに、環境の中の不均衡も、社会の中の不均衡も、それをもたらしたのは人間自身であり、私たち人間の内なる自我の不均衡に根源があることは明らかです。
 今日、多くの人びとが均衡回復の必要性を痛感していることは確かですが、一般に、人びとが実際に取り組んでいる方向は、たとえば、一つの資源が枯渇しそうだといえば、それに代わる新しい資源を求めることであり、ある社会体制に重大な欠陥が認められると、それに代わる別の体制を考察することだけです。そうした不均衡と欠陥を生じた根源である人間自身の生き方や考え方を真っ向から取り上げてこれに考察を加え、そこに変革の根本を求めるということは、ほとんどなされていないといっても過言ではないでしょう。
 こうして、最も大切なことを後回しにして、状況の転換、事態の打開を遅らせながら、人類社会の、また世界の文明の体制は、破局に向かって突き進んでいるのです。その速度は、弱まるどころか逆にますます強まっています。科学・技術の進歩は、一年一年、めざましいものがあります。そして、新しい進歩は、かつて手放しで祝福されたように、いまも無条件で喜ばしいことであるかのように喧伝されているのです。
 それはちょうど怖さを知らない子供が、速度を増せば増すほど喜んで、自動車のアクセルを強く踏むようなものです。道が曲がりくねっており、一歩誤れば断崖から転落する危険性があることを弁えている成人ならば、自分がどれくらいの素早さでハンドルを切れるかを考えながら、それに合わせ、しかも十分なゆとりを考えて速度を調節します。この子供から成人への変革が、人間革命の一面であるともいえます。事態はきわめて切迫しています。
7  ペッチェイ 同感です。事態をあるべき姿に戻す仕事を始めるのに、早すぎるということは決してありません。それは、マイクロ電子工学や生物工学、その他の数多くの先進技術が、宇宙空間や海底やさらに物質といった分野で急速に展開・普及したことによって、いわゆる“進歩”の新たな大波がすでに水平線上に現れつつあることだけをとってみても、言えることです。
 これらの技術は、途方もなく拡大をつづける科学の先端に生じたものであり、本質的に応用を目的としたもので、その発達は、社会そのものに対しても、また、社会的価値、経済機構、政治的・文化的制度、個人の態度等々のあらゆる人間事象に対しても、ほとんど直接的な影響を与えます(たとえば情報化、ロボット化、遺伝子操作などがそれです)。これらが悪用された場合に生じうる損害は、核戦争、種の絶滅、オゾン層への窒素酸化物の侵入などの例のように、取り返しがつかないものとなるでしょう。したがって、もし、現在のように準備が整わないうちにそうした弊害に遭遇したならば、人類は、たちまち全面的な混乱へ押しやられてしまうでしょう。
8  このように、実際にどこへ行くのかもわからず、速度や方向を調節できるのかどうかも知らずに無謀に突進してきたために、われわれが嵌り込んでしまった危険な狭窄状態から、自らを救出することこそが現代の大きな課題なのです。これは、なによりもまず、至高の文化的努力を必要とする課題です。つまり、自分たちがなぜそのような苦境におちいったかを理解し、つぎに、未来への前進を可能にする安全な地歩を取り戻すため、それに最も適した矯正力ある人生哲学と実際的行動への明確な視野を形成することです。
 私は、この不可欠の進化をひきおこし、成就させるのは、強力にして革新的な人間主義。による以外にないと主張しています。このような人間主義のみが、勝ち誇りながらも舵を失ってしまった現代文明の“進歩”に挑戦し、これを手なずけ、良い結果へと導きうる、対抗手段的なインスピレーションと力を提供できるのです。こうした人間主義こそ、われわれが大胆に着手し、人類を魅惑的だが危なっかしい、その冒険的事業の新しい局面へと駆り立てた物質革命に意味と合目的性を与えることのできる人間革命の精髄をなすものなのです。
9  池田 博士の言われる「強力にして革新的な人間主義」の要請に応えるものこそ、私は仏教の説く生命変革であることを、ますます確信いたします。
 人間存在は、さきに挙げた貪欲・瞋恚・愚癡といった本然的な生命のもつ衝動に動かされやすく、また、各人がもっている運命・宿業の大波に翻弄される小舟のような、はかない存在であるといっても過言ではないでしょう。ちょうど嵐にあった小舟が、自らは考えもしない方向へ押し流されていくように、人間も、理性では、たとえば自然を大切にしなければならないとわかっていても、生きていくため、目前の利益のために、自然を破壊したり汚染してしまう場合が多いのではないでしょうか。あるいは、理性的には平和を望んでいても、不安や恐怖にかられて軍備を強化し、わずかな事件がきっかけになって大戦争を起こしてしまったことも、すでに数多く経験してきている事実ではないでしょうか。
 そうした衝動的な力や、さらに奥深いところで、ちょうど目に見えない海流が小舟を押し流し、運んでいくように、個人の人生や社会を動かしている運命的な力に対抗できるためには、人間主義は、よほど強力でなければなりません。
 仏教では、万人の生命の奥底に、宇宙的大我ともいうべき、広大にして力強い実体があると説き、これを仏性と呼びます。そして、この仏性を開き顕して、そのもっている力を現実の人生と行動に発揮していくことを教えたのです。
10  法華経では、この本来もっている仏性を顕す法を妙法蓮華経として明かすとともに、この妙法を実践し弘める主役として無数の菩薩が説かれ、その菩薩の中心者として四菩薩の名が示されています。しかし、この四菩薩は、具体的人物として存在するというより、仏性が顕現したときに備わる生命的特質の一表現であると日蓮大聖人は教えられています。
 四人の菩薩の名とは、一人は上行菩薩といって、すぐれた行いという意味をもっています。一人は、無辺行菩薩といって、自由自在で行き詰まりがないという意味をもっています。次の一人は浄行菩薩といって、何ものにも汚されない清浄さという意味です。最後の一人は安立行菩薩といって、何ものにも崩されない安定性を意味しているのです。
 妙法蓮華経を実践し仏性を顕したとき、この四菩薩によって象徴される生命的特徴が現実化され、その人生は、揺るぎない人間主義に貫かれるようになるというのが、法華経の教える原理なのです。私たちが提唱し、また自ら実践目標としている「人間革命」とは、この仏教の教えを精髄としたものなのです。

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