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日蓮大聖人・池田大作

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九識論と十界論  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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2  この意識下の世界の変革のために、私は仏教の信仰の実践が必要であると考えています。仏教の信仰実践は、たんに意識下の世界の変革ばかりでなく、さらに、その奥にあるその人の宿業までも変革できる生命の力が得られると教えているのです。それが、なぜ、どのように可能なのかを合理的に説明することは、きわめてむずかしい問題ですが、これを幾分かでも理解するための手がかりとして、仏教学者が立てた九識論と十界論を簡単に紹介したいと思います。
 九識論とは、物事を識別する心の作用を九種に立て分ける考え方で、四~五世紀のインドの仏教学者、天親(Vasubandhu)によって、その基本的な考え方が確立されました。九種にまで整備されたのはさらに時代が下りますが、基本となる考え方は天親によって成されたといってよいでしょう。
 それによると、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)の五つの感覚器官のそれぞれに識があり、さらに心に備わる識が四層から成っています。この心に備わる識のうち最も浅い、表面にある働きを意識(第六識)といい、感覚器官を通じて得られた外界からの情報を総合する働きをします。つぎにマナ識(第七識)というのがあり、これは外界からの情報によらない思量を行う識です。
3  さらにその奥に、その人のこれまでの行為の結果が蓄積されているアーラヤ識(第八識)というのがあるというのです。アーラヤとは蓄積所、貯蔵庫といった意味で、意識にのぼらない過去の記憶等も、ここに含まれているとされます。もっと深い意味では、各人の精神的・肉体的特性を顕していく要因も含まれますし、その人が人生において、どのような運命をたどるかを決定する要因も、ここに蓄えられているとされます。
 ここまでは、言うなれば、個としての特質を形成し、発現させる層といえます。それに対して、普遍的な“生命”それ自体である存在の基盤がアマラ識(第九識)です。アマラとは清浄で穢れがないという意味で、これは過去の行為の結果などに染められていないことを表しています。アマラ識それ自体にはなんの穢れもないのですが、それが自らの生命を維持しようとして顕す働きが、外界の事物、とくに他の生命存在とのかかわりを通じて、種々の穢れを生じていきます。
 アーラヤ識自体、すでに深層心理学でいう無意識の領域であるわけですが、アマラ識となると、容易に意識のうえに出てくるものではありません。しかし、私たちの心ばかりでなく、心身の統一体としての生命が、あらゆる行為の主体であり、自然とのかかわりも、他の人びととのかかわりも、これによってなされていることを考えるならば、生命の最基底部にあるアマラ識の開発に取り組まなければ、真実の人間変革ということは不可能であると説きます。このアマラ識の開発によって、アーラヤ識の中に含まれる宿業や個人的特性を変革・転換する方途を教えているのが仏教なのです。
4  もう一つの、十界論は、生命の感ずる幸福・不幸の内容によって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十種に立て分けたものです。最も深く重い苦悩にとらわれた状態が地獄であるのに対し、最も自由で幸福な状態が仏であるといえますが、ただし、これらは単純に一直線に並ぶわけではありません。つまり、そこに、さきの九識論との関係があるのです。
 地獄界から天界までは、外界とのかかわりの中で幸福や不幸を感ずる生命の状態を分類したものです。したがって、そこで現れている識は第六の意識までです。それに対して、外界からの縁によって左右されることのない自我の主体性を確立しようとするのが声聞・縁覚・菩薩であり、それを完璧に実現したのが仏です。外界からの縁にのみ束縛されないためには、マナ識を発現できるようにならなければなりませんが、しかし、それだけでは不十分です。なぜなら、アーラヤ識に含まれるさらに深い力によって束縛されているからです。
 このアーラヤ識に含まれる深い衝動の力や宿命的な力を克服できるには、そこに、そうした醜い力に対抗できる善なる力を確立しなければならないとの考え方から、善の行為を積み重ねようというのが菩薩の実践です。しかし、すでに蓄積されている悪の力は、遠い過去からつづいている膨大なもので、それに対抗できるだけの善なる力を蓄えるには、また大変な長い期間を要します。仏教に説かれる菩薩の修行が、何万回もの生死を経て持続されなければならないとされるのは、このためです。
5  それに対し、最も本源のアマラ識を直接に発現することによって、現実の人生と行動の中に、外界にも縛られず、内なる衝動にも支配されない主体性を確立した人を、仏と呼んでいます。仏教の中でも、アーラヤ識の次元での変革の方途を教えたものもあれば、アマラ識の直接の開発を教えたものもあります。後者を教えているのが法華経であり、前者を教えたのが法華経以外の経典です。私は、法華経の実践法のみが、現実的な人間変革の方法であると信じています。
 以上が仏教で説く人間革命の最も基本的な考え方ですが、もちろん、これだけで十分であるというわけではありません。たとえていえば、こうした生命の奥底の変革は、土壌を肥沃にする作業のようなものです。そこにどのような作物を植え、育てるかは、具体的に社会の中で、現実生活をとおして実現されていく変革がそれにあたります。

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