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九、世界の諸宗教の協力は可能か  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  九、世界の諸宗教の協力は可能か
 ペッチェイ いまや人間の心理は──どのようにかはまだ正確にわかりませんが──われわれの祖先の経験とは異質の、さまざまな新しい要素や現象によって影響を受けています。こうした現代生活の新たな側面を、二、三、述べさせていただきたいと思います。
 現在では、この地球上に、過去の時代には想像すらできなかったほどの数の人びとが群がって生きています。そのうえ現代人は、われわれの祖先ならある種の魔法使いの特技とみなした類の移動性よりも、はるかに迅速な移動性をもっています。また、全世界にわたって、かつて共同生活を営む一部族の成員間で可能であったよりも緊密に──特別な機械仕掛けの助けを借りているとはいえ──連絡を取り合うことができます。
 同時に、自らの居住環境を見分けもつかぬほど変容させる力も、計り知れないほど増大しています。また、人類を破滅させるために周到に準備された機械仕掛けに命令を下すことによって、何百万または何十億の人類同胞を破滅させることもできます。こうしたあらゆる変化が絶えず互いに影響し合って、地球上のすべてに対する人間の圧力や衝撃は、かつてのそれに比べると、何千倍にも何十万倍にも増大しています。
 さきにも話題にしましたように、こうした変化によって、自然の体系(システム)や周期、とりわけ生物学上の周期は、深刻な影響を受けています。そして、同じことが、人間の心理にも当てはまるのです。われわれのこれに対する反応は、混乱、無力感、疎外感、信念の喪失、他者への恐れ、暴力の行使、科学技術の奇跡を求める途方もない願望、あるいはカリスマ的指導者への渇望等々といった具合に種々雑多であり、いまだにきわめて混乱しています。
2  池田 まさにおっしゃるとおりです。自然環境の破壊ももちろん恐るべきですが、それ以上に恐れなければならないのは、人間精神の荒廃です。すでにその恐るべき結果は、現代の文明社会のあらゆる側面に現れているといって過言ではないでしょう。
3  ペッチェイ そこで私が申し上げたいのは、さまざまな宗教は。、この前代未聞の危機の挑戦に対していったい立ち上がったのか。ということです。各種の信仰や教説は、苦境に立つ不幸な現代の人間を、どこまで真に救っているでしょうか。さまざまな仏教宗派は、万人の福利増進のために、ともに努力しようと結束してきたでしょうか。キリスト教の諸宗派は、教義上の相違を棚上げして、信仰の別を問わずあらゆる諸国民に希望を与え、人びとの良心を啓発してきたでしょうか。争い合っているイスラム教の各派は、果たして一時的にも自ら進んで確執を忘れ、自派のあらゆる信仰者だけでなく、他派の信仰者や無信仰者をも差別なく抱きかかえ、真実と理解を求めてともに歩もうとするでしょうか。
 これらすべての大宗教は、世界の人びとを手遅れにならないうちにいかにして窮状から現実に救済すべきかについて、ともに努力し、ともに学ぼうと、他の主要な諸信仰に対して呼びかけたことがあるでしょうか。それとも、すべての教会や信仰や宗教は、永久に独自の道を行くことを運命づけられていて、あたかも世界になんらの変化もなかったかのごとく、それぞれがいつものとおりに、自宗の教義を表明し、自己の務めに没頭しつづけるのでしょうか。
 諸宗教の見解が分かれているのは、善の本質という点ではなくて、むしろその本質の啓示・説述・解釈という点です。したがって、そこにとらわれているかぎり、諸宗教が、一つのすぐれたビジョンを収束して、そこに彼らの比類のない精神的・倫理的な力を結合し、人類を向上させ、真に生きがいのある未来への道を拓くということは、いつまでたってもできないのではないでしょうか。
4  エキュメニズム(超教派的宗教運動)というのは、たんなる言葉のあやにすぎないのでしょうか。信仰上の問題においては、教義が絶対的な権威をもっていて、そのために、超教派的な共同作業がこの現実の世界でなんらの実をも結びえないでいるのでしょうか。それとも、超教派的宗教運動が一つの大きな刺激となって、万人の福利を追求するために、諸宗教が合意し、結束し、協力することが、実現可能となるのでしょうか。あなたのご見解をお聞かせくだされば幸いです。創価学会は、これに関して、どのようなイニシアチブをとることを考えておられるのでしょうか。
5  池田 今日、かつてない危機の中にある人類の不幸を救うために、各種の宗教や教説は何をしてきたかとのご指摘は、まことに厳しいものです。
 ただし、端的に、結論的に申し上げれば、今日、いくつかの宗教が提唱しているエキュメニズムは、ごまかしにほかなりません。それぞれの宗教の生命ともいうべき教義をみれば、このことは、はっきりしています。いかなる宗教も、自らの教義を唯一正しいものと主張し、他の宗教は誤りであると排斥しているのです。もし、エキュメニズムを本当に実践しようとするなら、各宗教とも、自らの教義を捨てなければなりません。教義を捨てたならば、それはもはや“宗教”ではありません。
 では、宗教は、現代の危機に対して何もできないで、人びとを混乱におとしいれるだけの存在なのでしょうか。私は、そうは考えません。宗教の教義に対する信念の次元と、政治、経済、産業、文化の次元とは、別であることを正しく弁える必要があります。さきに、あなたが「多くの異なった人種と文化をもちながら、すべての人がこの地球上に共存しなければならない」と言われたように、宗教的信念は異なっていても、政治、経済等々、現代の危機回避のためにそれぞれの次元で協力することは、当然、可能なのです。
 したがって私は、宗教的協調は、ごまかしにすぎないと思いますし、もし、それを実行するとなれば、宗教そのものの否定になってしまうと考えていますが、さまざまな宗教を信仰している人びとの政治的・経済的・文化的協調は可能でもありますし、また、推進していかなければならないと考えています。
 宗教の教義・信条の非妥協性と、現実生活のうえでの協調・協力とは、別の問題です。ところが、人間の生命に巣くう愚かさが混同を生じ、生命の濁りが、手段を選ばない争いを生じているのです。宗教と社会的営為との混同にかぎらず、さきの人種・文化の違いとそこから生ずる偏見・憎悪にしても、その根源は、人間の生命の濁り、歪み、愚かさにあるといわなければなりません。前にも述べましたが、これを、仏教では貪瞋癡の三毒といって、あらゆる不幸をもたらす人間の内なる病根としています。
6  たしかに、これまで──あなたも挙げられているキリスト教や仏教などの──いわゆる高等宗教は、人間が相互に理解し合い、慈しみ合っていくよう“愛”や“慈悲”を教えました。それは、本来は、人種やイデオロギーの相違を超えて人間同士を結び合わせうる絆であったはずです。しかし、生命の内にある貪・瞋・癡を解消できなかったため、現実にはそうした結合の働きをしたことも稀にはあっても、多くは逆に他の宗教を信仰する人びとに対する憎しみや軽蔑の心を駆り立てたり、さらには、同じ宗教の中にあっても、些細な教義解釈や儀式作法の違いから、他教徒に対するより以上の憎悪を駆り立て、否、ときには他の生き物に対するより以上に生命軽視の行動を誘発したことも少なくありません。
 したがって、宗教者が繰り広げてきたこうした醜い歴史も、宗教の説いた“愛”や“慈悲”の理念に原因があるのではないことは明らかであり、その原因は、人間の内にある憎しみの心や貪欲、愚かさ自体にあるのです。もちろん「そうした人間の心の醜い側面を抑制できるのが宗教の力であるはずだ。ところが、それができなかったのは、宗教の無力を物語るのではないか」との反論は、当然、成り立ちうるでしょう。そして、まさに、そこに重要な問題があります。つまり、真実の宗教は、たんに“愛”や“慈悲”を説くだけではなく、人びとに“愛”や“慈悲”の心を起こさせ、生命の貪・瞋・癡を克服できるようにするものでなければなりません。そこに私が“人間革命の宗教”を強調するゆえんがあります。
 しかも、宗教の教えそれ自体が、一方的、他力的に人間の心の醜い面を抑える力をもっているのでなく、宗教の教えを通じて自己の内に確立された力が、その人自身の意思力と相まって、抑制の働きを表すのだということを忘れてはなりません。
 このことをしっかりと弁えたうえで、高等宗教──とくにいま申し上げた人間革命の宗教──が、いま再び、人類の心の中に浸透されなければならないと私は考えます。なぜなら、人びとに貪欲や憎悪・愚かさと対抗して、人間の相互理解と相互尊重への道を歩ませうるものは、この高等宗教を除いてはないと思われるからです。
7  とくに、今日においては、世界人類全体の規模で相互尊重の平和社会が実現される以外に、核兵器等による戦争を食い止め、人類を破滅の淵から救う道はありえないと考えます。そして、その人類全体の相互尊重の基盤として、この高等宗教の信仰が世界的に確立されることが、なんとしても必要であると私は信じています。
 宗教者は、安易な妥協をするのではなく、自らの正当性を堂々と主張すべきです。ただ、その場合、大切なことは、それを争いのための争いとするのでなく、たとえば争った場合、自分のほうが劣っているとわかれば、率直にすぐれている相手に従おうとする姿勢です。言うまでもなく、この争いは、あくまで言論という平和的手段によるのでなければなりません。また、その宗教の教義を正しく実践したことにより、現代社会がもたらしている危機を克服できることが、信仰している人びとの現実の姿によって示されなければなりません。
 こうした宗教本来の実践によって、個々の人間が危機的状況を克服するとともに、緊急の世界的課題に対しては、人類の一員として、その課題解決のために、宗教上の対立を超えて協力していくべきでしょう。私は、宗教的次元での独自性の主張と、世界市民としての次元での協調は、両立が可能であると考えています。

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