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日蓮大聖人・池田大作

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八、人種的偏見と相互理解  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  八、人種的偏見と相互理解
 池田 ドイツのナチズムは、人種的偏見を正当化しようとした一つの典型的な思想であり、そのためにユダヤ人虐殺という恐るべき罪悪を犯しました。こうした極端な残虐行為に走った例は稀で特殊であるにしても、アメリカでも黒人に対しては根強い人種的偏見がありますし、いろいろな民族にもそうした事例がみられるところから、人種的偏見というのは、往々にして人間にとって先天的なものであるかのように言われる傾向があります。しかし、私は、これはまったくの誤りであると思うのです。
 人間は、子供のころは、白人でも黒人でも、黄色人でも、互いになんらの偏見も隔たりもなく、親しみ合っているのが普通です。ところが、成長するにつれ、互いの間に距離をおくようになり、ときには激しい敵意をいだくようになります。私は、その背後には、偏見を教え込む文化的伝統、社会的慣習などがあるのではないかと思っています。
2  ペッチェイ 同感です。そして、あなたの示された人種的偏見に、私は、性別や年齢にかかわる偏見、宗教的偏見、イデオロギー的偏見、国家的偏見等を付け加えたいと思います。
 おっしゃるとおり、子供たちは、皮膚の色がどうあれ、家庭の地位がどうあれ、仲良く遊んでいます。これは、子供の遊びの文化が、世界中どこでも似ているからです。ところが、子供たちが成長して大人の文化に組み込まれるにつれ、さまざまな相違点が重要性を帯びてきて、皮膚の色による差別、性の違いによる差別、社会的地位への偏見、階級意識等々が生じて問題を起こします。
 アメリカ合衆国における白人と黒人、また、古い移住民と新しいスペイン系の人びととの間の軋轢の主な原因にしろ、北アイルランドのカトリック系とプロテスタント系の血なまぐさい抗争の理由にしろ、さらには世界各地で恐ろしいペースで起こっている少数民族迫害の、往々にして隠された動機にしろ、これらはいずれも基本的には文化的相違によるものです。といって、これは異なる諸文化それ自体が反目し合っているということではありません。その責任の多くは、支配的エリートにあります。というのは、彼らは、自己の権力維持の手段として、文化的相違を激化させたほうが都合がよいと思っているからです。
 本来、文化的多様性は人間的豊かさを大いに高める。ものなのですから、このような文化の相違が紛争を生み出す手段になりうるというのは、一層嘆かわしいことです。単一の、全世界的な、標準的な文化が出現したときの恐ろしさを想像してみてください。ところが、これはすでに現れ始めており、冗談半分に“世界のコカコーラ化”と呼ばれているのです。そこではもはや、他の諸民族の文化的背景、異なる観点・価値観・思考法などから得られる、学ぶことの魅力や刺激、向上等は一切失われてしまうでしょう。
3  池田 まさに、おっしゃるとおりです。自分とは異なるものにこそ、学ぶに値するものがあります。人間は常に目新しいものを求めています。そこから、新しい物の見方が得られるからです。その端的な例が旅行でしょう。旅に出ることの楽しみは、自分がこれまでに知らなかった知識が得られ、見たことのない光景に触れることにあります。
 そして、そのように新しい知識や未知の世界との触れ合いを求め、そこに喜びを感じていけるところに若さがあります。若さとは成長しゆく力に満ちていることです。未知のものを恐れ、自己のものとは異なるものに敵意をいだき、既成の、馴れ親しんだ世界に閉じこもろうとする生命は、もはや老化しているのです。
4  ペッチェイ そのとおりですね。私は、あなたが日本人であり、仏教徒であって、私と同じ伝統を吹き込まれたイタリア人でないことをうれしく思います。といいますのも、私は、同国人のだれからよりも、あなたから得るところが多いからです。あなたも、同じく私から何か新しいものを得られるならば幸いです。個人的な利害得失よりもっと大事なものは、諸文化の混じり合いから得られる寛容と理解です。
 たとえば、私は何人かの友人にこう言いたいのです。「ああ、あなたはマルクス主義者ですか。それは結構ですね。では、何かあなたの洞察されたものや、その理論的な根拠を教えてください」。また、私のアフリカ人の同僚の何人かには、こう言ってみます。「お国の伝統的な知恵や、経験されたことを説明してください。それを一緒に分かち合おうではありませんか。そこから、お互いが豊かさを増すことになるでしょうから」。
 いまわれわれが誉め称えているような文化上の独善や部外者への不信感の代わりに、文化の多様性を進んで受け入れることはもとより、相互理解や寛容の精神的態度を伸展させたとき、それによってこそ世界に新しい雰囲気が生まれ、そこから、われわれは共通の問題複合体への取り組みをより容易にすることができるでしょう。
 数多くの人種や文化の構成員であるわれわれすべては、好むと好まざるとにかかわらず、この惑星上で一緒に生きていかなければなりません。もし、われわれが互いに、それ以外に暮らしていく道がないからしぶしぶ我慢し合うというのではなく、心からの喜びをもって理解し合い、分かち合うことを学んだなら、どんなに幸せで安全になることでしょう。
5  池田 人種的偏見──もちろん、あなたが指摘されたように、人種だけにとどまりませんが──が先天的なものではなく、これを生み出し助長しているのが社会であり文化である以上、それを正していくこともできるということです。
 皮膚の色の違いや言語・風習の違い、あるいは性別などからくる偏見を乗り越える道は、それらのより深い根底にあってすべての人間に共通している、本質的な人間性に目を向けることであろうと思います。人間の真の尊さとは何かという真理に目を開いたとき、皮膚の色や風習は違っても、すべての人にこの尊い人間性が脈打っていることが認識されるはずです。
 法華経には、釈尊が遠い過去世に一人の菩薩として出現したとき、あらゆる人の生命の中に仏性があることを悟ったがゆえに、自分に迫害を加えてくる人をさえも礼拝したという話が説かれています。どんな人にも人間としての尊厳性を構成している根本的なものがあることを知ったとき、尊敬心をもって接せずにはいられないということです。
 さまざまな人間同士の間の偏見や差別を克服できる道は、こうした深い人間理解であろうと思います。そして、この人間理解に立ったとき、互いのもっている相違点は、かえって自分を補ってくれ、人生を豊かにしてくれる資源となるのではないでしょうか。

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