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七、伝達手段と心の交流  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  七、伝達手段と心の交流
 池田 現代の世界は、通信技術の進歩によって、いながらにして地球の反対側の人とも話をすることができ、心の交流の道は、かつてないほど拡大されているといえます。声だけの交流にとどまらず、テレビジョンの応用によって、相手の表情を見ながら話し合うことさえできる時代になってきています。
 しかし、技術の進歩にともなう心の交流の可能性の拡大と、実際の心の交流の進展とは、必ずしも並行しません。私には、少なくとも近代国家主義の時代よりも、古代の世界のほうが、より深く、しかも広範囲にわたって、異民族同士の交流が行われていたのではないかとさえ思えてなりません。
 遠い昔、アジア大陸の中心部を貫いていたシルクロードは、その名の示すような、たんなる絹の交易にとどまらず、芸術、宗教、学術の交流の大動脈でした。この動脈は中国の都と中東の諸都市を結んでいただけでなく、そこからさらに伸びた多くの支脈によって、東は極東諸国に、西はイタリア、フランス、スペイン等の都市に、物心両面にわたる富を伝えたのでした。
2  仏教がインドから中国へ伝えられたのもこの動脈を通じてでしたし、その中国に伝えられた仏教がさらに朝鮮へ、日本へと伝えられたのでした。それとともに、多くのインド人が中国にやってきて住みつき、また、多くの中国人の僧が日本に移住しました。仏教とは別に、古代の日本には、さまざまな技術をもった朝鮮の人びとや中国人が集団で移り住んでいました。日本の文化は、こうした移住民によって発展してきたといっても過言ではありません。
 当時は、近代国家成立後のような、帰化のための複雑な手続きなどはなく、周囲の人びととの心の交流さえ開かれれば、自由に住みつき、社会の一員となることができたのでしょう。私は、交通・通信技術がこれほど発達した今日、人間と人間の真実の交流と融和を妨げている国家主義の障壁は、一刻も早く取り除かれるべきであると思います。
 人類が破局を回避し、明るい未来を開きうるかどうかの一つの鍵が、ここにあるといえるのではないかとさえ考えています。
3  ペッチェイ ただいまのご意見に関して、私は、ある点では別な意見をもっていますが、ある点ではまったく同意見です。
 現代のメディア、つまり電話、テレビジョン、ビデオテープ、外国電報、テレックス、航空郵便、その他すでに使用されている電子通信施設などによって、いまや人びとの間のコミュニケーション(意思伝達)はかつてないほど大きく広がっています。われわれ現代人は、これらのいずれかの手段によって、遠近を問わず大勢の人びとと簡単に意思を伝え合うことができますし、また事実、毎時間とはいえないにせよ、少なくとも毎日のように、意思を伝達し合っています。
 しかし、われわれのコミュニケーションの多くは心の交流を欠いており。、人間的な感触、人間がそこにいるという温かみ、互いに知り合っているという温かみには、欠けています。したがって、この点については、私はあなたとまったく同意見なのです。この種のコミュニケーションは、電子工学による人工的なものであり、相手と顔を合わせたり、心と心が触れ合うということは、ほとんどありません。熱情は冷やされ、痛罵でさえも、その鋭さが失われます。
4  私は話したいと思う人がいれば、だれにでも電話をすることができますが、そこには機械で再生された声しか聞くことができません。テレビジョンでは、少数の人びとによる多数の人びとへの、それもたんに一方的な通信がなされるだけで、多数者のほうはただ見たり聞いたりするにすぎません。テレスクリーンを使って会議を行うこともできましょうが、そこでは参加者が集い合うことさえなく、互いに握手を交わしたり、肩を叩き合うことすらありません。
 その他の分野でも、人びとは信頼する機械類に話しかけ、そこからただちに適切な答えを得ることに慣れてきており、口ごもったり、こちらの意見に逆らったりするかもしれない他の人間に話しかける必要も、また話すことの歓びを見いだすこともなくなっています。まことにご指摘のとおりなのです。
 そして、その結果として、互いに共存しつつも相容れないでいる多数の人びとに対して、組織のよく整った圧力団体が影響を与えることができることになるわけです。大衆は概して組織をもたず、都市には個性がなく、家庭──社会の核そのものである家庭──は無力化しているため、これらすべてが、権力を求める人間の絶好の餌食にされてしまうのです。
5  池田 私が提起した問題は、交通・通信手段の発達によって、人間同士の世界的な交流の可能性が開かれているのに、国家主義の壁がそれを妨げているという点でした。しかし、あなたは、さらに根底的に、とくに通信手段が、権力者や圧力団体の大衆に対する一方的話しかけ──端的にいえば大衆操作──のために使われていることを指摘されました。そして、組織をもたない大衆、個性のない都市、無力化した家庭が、権力を求める人間の絶好の餌食とされてしまう危険性を明らかにされました。
 かつて、新聞を己の権力維持のために利用できることに初めて気づいたのはナポレオンであったといわれます。ラジオを最も効果的に利用したのはヒトラーでした。ルーズベルトも、ラジオを通じて大衆に直接話しかけることの利点を大いに活用しました。今日では、これらの時代より、比較にならないほど情報手段が発達しており、これが、もし権力によって邪悪な目的のために利用されるようになったときは、恐ろしいことになります。その極限の姿は、もはや古典ともいえるジョージ・オーウェルの『一九八四年』に描かれているとおりです。
 私は、そうした危機への歯止めのためにも、人間と人間との真実のコミュニケーションとは、一方通行の語りかけではなく、相互の意見・意思の交換であるとの基本を見失ってはならないと思います。また、そのためには、たんに機械によるコミュニケーションで良しとするのでなく、互いが一堂に会し、肩を叩き合って行える、原始の昔からのコミュニケーションこそ、真のコミュニケーションであるとの認識を、あくまで根本としていくべきであると思いますし、それを妨げる障壁の排除をめざしていくべきであると考えます。
6  ペッチェイ 日本や、他の技術先進諸国では、忙しく働く研究員や企業経営者の尖兵たちが、進歩の境界線、つまり情報社会を、さらに高く築き上げています。これに対しては、われわれは感嘆の念でいっぱいですが、多少の疑念もわいてきます。
 この新たな境界線に、果たしてどれだけの人びとが、生活を適合させられるでしょうか。一般の市民は、コミュニケーションの機会を多く与えられるにつれて、心の触れ合いがますます少なくなるように仕向けられるのではないでしょうか。あるいは、この種の進歩は、世界数十億の一般市民にとっては、外縁的で人為的に押しつけられたものとしてではなく、あたかも音楽を演奏したり、山登りをしたり、神を心に思ったり、交通渋滞の大通りを横切ったり、自国の言語や方言をしだいに身につけるように、先天的能力の一つの延長として容易に習得できるものとして、もたらされるものなのでしょうか。

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