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日蓮大聖人・池田大作

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六、時代遅れの国家主義  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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2  ペッチェイ おっしゃるとおり、民族国家体制は、どうしても奥底から、安全に実行できる範囲で、できるだけ早急に改革することが必要です。
 近代民族国家の起源は、封建制度に終止符を打ち、ヨーロッパ史上、社会・政治的な画期的事件となった、一六四八年のウェストファリア条約にまで遡ることができます。私どものヨーロッパ大陸はその当時、人口も疎らで森林に覆われていました。ごく少数にしかすぎなかった読書人口は、揺らめくロウソクの灯で書物を読み、そして、どこへ行くにも、だれもが徒歩で旅をしていました。馬に乗ったのはごく少数の人びとで、また、乗り心地はまったく良くなかったものの、とにかく馬車で旅することができた人の数は、さらに少なかったのです。
 今日、通信・輸送網が世界中に張り巡らされているにもかかわらず、また知識と即時の情報、コンピューター、人工衛星等の信じられないほどの発達にもかかわらず、さらにはあの「爆弾」の存在にもかかわらず、われわれ現代人は、世界の政治機構の支柱として、いまだに民族国家体制にしがみついています。他の面では変革の激しいこの時代にあって、この時代遅れの形態は、不和や抗争を助長する国家主権の原則とあいまって、人類の進歩を妨げる主な障害の一つとなっています。
3  これを改めるには、構造面と原理面の進展が不可欠です。そのため、まず要請されることは、世界共同体から国家的性格を取り除くこと。です。これを漸進的に達成するうえで、私は四つの主な方途を考えています。
 第一に、“準国家的”な自治体や権威機関を発展させることです。大きな私企業は、必ずしも模範的な公徳心を示しているとはいえませんが、組織面では時代の先端を行っています。これらの大企業は、通例、もろもろの事項に関する決定権を分散して、それが実施される重層的組織の現場レベルに一任し、そこで全体の調和・調整を保つような方法・方策を設けて実施させるようにしています。これと同様の方法が、政治・行政機構にも考案され、採用されるべきでしょう。そうすれば、これは、新流行の「地球的に思考し、地方的に行動する」方式が、より良く適用できることの実例となるでしょう。政治・行政上の機能や決定権を分散して、これを直接利害が絡んでいる、したがって問題点や可能性をより実感している人びとの手にゆだねるというこの方針は、すでに北アメリカでも西ヨーロッパでも応用されており、うまくいっているものもあれば、試験段階のものもあります。
4  池田 いま、世界には国際的な広がりをもった私企業や民間団体が、急激に増えています。アメリカのIBMやコカコーラなど、その典型的な例です。最近は日本の企業も、アメリカやヨーロッパ、またアジア各地に現地法人を設立し発展しているものが増えてきています。その現地企業の運営の仕方はさまざまですが、たとえば製造会社であれば、その製造技術は本国の企業の指導によるとしても、人事管理や労働規定、また生産目標の決定などは、できるだけ現地企業の人びとの自主的決定に任せることが、よい結果を生んでいるようです。
 ところが、人間の度量の狭さからか、人事その他についても本国の権限を維持しようとして、現地の人びとの自主性を奪い、かえって積極的な意欲を減退させてしまう場合も少なくないようです。私企業の場合は、失敗すればつぶれてしまいますので、そうしたことには、賢明に対処しているといえます。その意味で、博士が言われたように、組織面では、むしろ私企業が時代の先端を行っているようです。
5  ペッチェイ そこで、世界体制から国家的性格を取り除く第二の方法ですが、それは、利害が絡み合っていて、したがって共同機関の新設を必要とする諸国家による“超国家的”な連盟、同盟もしくは共同体を漸次発展させ、これに経済、政治その他の機能を委託することです。これまでの最良の例として、たしかにその統合化の動きはゆっくりとした蝸牛の歩みではありますが、ヨーロッパ共同体(EC)が挙げられます。ヨーロッパに端を発し、主としてヨーロッパを戦場に行われた二つの世界大戦を経た後では、西ドイツ、フランス、イタリア、イギリス等の諸国も、さらに新たな戦争の危険を冒してまでそうした統合化の構想を独力で実現しようということなど、考えられなかったのでしょう。数人の有力な政治家が首唱し、一般世論が支持を表明したとき、それに呼応して、まずヨーロッパ諸国中の先駆的グループが、国家を超えた高レベルでしか対応できない問題やヨーロッパ全体にかかわる問題について、各国が独自の機構を用いたり独立的な政策を採ったりするのは、もはや、やめるべきときであると決意しました。ヨーロッパ共同体の種子は、こうして蒔かれたのです。
 一九八〇年に、ローマ・クラブは国連本部で一つの大きな会議を開催し、そこで共通の文化的伝統をもつ国々、または同じ地理・経済的地域の国々の間で地域的連合の結成を促進することにより、世界の民族国家間の対話や関係を単純化し、より効率化することが可能かどうか、またそれが実際的かどうかを検討しました。そうした地域的グループができれば、国々は主要な政策をそれぞれの地域内で調整することになるでしょう。現在、世界の状況は、自己中心的で、しばしば共存不能な百六十の主権国家が、果てしない争いをつづけるという、制御し難い混乱状態を呈しています。一方、世界政府となると、その構想自体、今後とも永い間、蜃気楼のように非現実的で、人を惑わしやすいものであることは間違いありません。そうした中にあって、この地域的グループは、この二者の間を行く、一つの中道的な解決策になるのではないでしょうか。一九八〇年代の有望な地域内および地域間協力の計画の検討をさらに進めるため、国連に一つの小部門が設置されましたが、これは今後の世界的な協力への道を開くことになるでしょう。
6  池田 世界全体を包括する機構を育成・強化することばかりを求めるのでなく、その一歩手前で、共有の文化的伝統をもち、同じ経済圏にある国々の間で地域的な連合を形成するとのお考えは、まことにすぐれた発想であると思います。
 もちろん、世界平和という問題に関しては全地球的協力が要求されるわけですが、もっと身近で、人びとの日常生活に直結している次元で、国境の枠を超えた協力関係の実現が求められる問題がたくさんあります。
 ヨーロッパの場合、文化的伝統は国によって違いがあるというものの、共通性のほうがはるかに大きいし、経済面でも密接に相互に関係しています。イタリアとスイス・フランス、それにフランスとドイツ・ベルギー・スペイン・スイス等々、それこそ一歩またげば別の国であり、人びとの日常生活は、隣の国との頻繁な往来のうえに成り立っています。
 こうした日常生活上の必要性に結びついている“国際性”は、容易に崩れるものではありません。それに比べて、平和といった問題は、いざ戦争になるとその尊さが痛感されるものの、平常のときにはとかく観念に終わりがちなものです。
 日常的な必要性と生活実感に直結したところで国境の壁を崩していくことは、国家主義を事実のうえで過去の遺物にして風化させていく、きわめて有効な行き方といえるでしょう。それとともに、いまEC内で進行しつつあるような過程が、西欧と東欧、アメリカとソ連、日本と中国やソ連の間にも進められていくならば、世界の平和への無視できない力となることでしょう。
7  ペッチェイ そのとおりです。そして今日、“国境を超えた”企業や組織は、世界がいくつもの国家群に細分化するのを回避する、第三の道となっています。
 国境を超えてものごとを考え、組織化し、運営することの利点に最初に気づいたのが、大きな法人組織でした。これらの組織がときとして高圧的で傲慢な態度をとることがあるとしても、世界を主権国家群に硬直的に分割することを頑迷に唱える人びとに比べれば、彼らのほうが今日的な現実に合致しています。ますます統合化と相互依存の度合いを強めている現在の地球的システムの中で、世界共同体は、国境を超越した人類の進取的精神を失わせることなしにそれぞれの土地、国、地域の特権をどう満足させるかを、研究しなければなりません。
8  第四に、われわれは、現在のようにすべてにわたって強迫観念的に国籍を引き合いに出すことから、自分の心を解き放たなければなりません。人生を質的に向上させるほとんどの事物は、“無国籍”であり、人為的な国境を認めもしませんし、それに束縛されもしないものです。たとえば、音楽、美術、知識、愛、そしてなかんずく同情心が、それにあたります。太陽、風、いたるところにある自然、そしてその裏面にある汚染、酸性雨、また上層大気中のオゾン層の枯渇がもたらすさまざまな結果などはすべて、国境を超えて存在し、もしくは発生するものです。世界を分割して偏狭な民族国家の詰め合わせにしようという考えとやり方が、地球のよき活用を妨げ、現代人がふだん行っている悪行の悪い結果を増幅させていることに、われわれがついに気づくその日こそ、まことに喜ばしい日となることでしょう。
 最後に、われわれは各自が多面的な価値をもっています。このことを無視して、人びとをある一つの、窒息させるような国家の鋳型に強制的にはめ込むのは、不条理なことです。現代人はすべて、たんに一つの民族国家の市民にとどまるものではありません。たとえば、私は、生まれと文化的背景からいえばローマ市民であり、イタリア人であり、ヨーロッパ人であり、西洋人です。しかし、自ら選んだところによれば、私は、どの国のパスポートを持つ人であれ、あらゆる人類同胞を理解し、彼らとともに、また彼らのために生きたいと真剣に願う“世界市民”なのです。
9  池田 同感です。そして、それにぜひ付け加えたいことは、そうした幾次元にもまたがっている自己存在の、いずれを優先させるかということです。
 だれしも、自分が、たとえば日本人であるとともにアジア人であり、人類の一員であることを知っていますが、大多数の人は、より狭い自己の存在を優先的に採用してしまうのです。そのため、同じ人間同士で殺し合うことの醜さ・愚かさを自覚しながら、日本人としてアメリカ人や中国人と戦い、殺し合いを演じてしまったのです。
 さらに言えば、その日本の中でも、人間は社会全体の利益や人びとの幸福のためよりも、自己の企業や自分の家族、自分自身の利益を優先しがちであり、未来の世代のためよりも、現在の自分たちの幸福と快適さを優先しがちです。
 仏教では、他者の利益・幸せを犠牲にして自己の利益を追求することを悪とし、他者や人間社会全体の幸せのために貢献することを善とするのです。優先しなければならないのは、より大きい、より広い次元での自己存在であるということです。この考え方が、私たち一人ひとりの心の中に、しっかりと打ち立てられなければなりません。
10  ペッチェイ ここで、民族国家体制の概念と密接に結びつくようになった“国家主権の原則”について、一言付け加えさせてください。かつて私は別の著書(注1)で、この原則がいかに現代の人類社会の“国家間”構造に固有の諸悪、機能マヒと危険の多くをひきおこす根源となっているかについて、論証したことがあります。今日では巨視的問題、巨大潮流(メガトレンド)、惑星的挑戦、地球的選択といったことを論じるのが通例となっております。
 こうした、新たな次元に拡大された環境は、われわれ全員の生活におそらく決定的な影響を与えるものであり、したがってわれわれの絶えざる注意を要求するものです。たとえ、こうした定義づけがいかに誇大にすぎるとしても、いま私が述べたように、現代を支配しているもろもろの現実を打ち壊して、国境という人工的パターンに適合させることなどできないことだけは確かです。もし、成功と生存への一か八かの勝負をかけて未来へ進もうとするのなら、われわれは過ぎ去った昔の政治的・哲学的残滓である国家主権という神話を、自らの心から払拭しなければなりません。
 注1 著者注 『人類の使命』(大来佐武郎監訳、菅野剛他訳、ダイヤモンド社)=一九七九年発刊。〔英語版 The Human Quality,Pergamon Press,Oxford,1977:ドイツ語版 Die Qualitat des Menschen,DVA,Hamburg,1977〕。『未来のための一〇〇ページ』(大来佐武郎監訳、読売新聞外報部訳、読売新聞社)=一九八一年発刊。〔英語版 One Hundred Pages for the Future,Pergamon Press,Oxford,1981 and Futura,London,1982:ドイツ語版 Die Zunkunft in unserer Hand,Molden-Seewald,Munich,1981:フランス語版 100Pages pourl’avenir,Economica,Paris,1981〕

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