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四、民主主義の進むべき道  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  四、民主主義の進むべき道
 池田 民主主義は、個人の平等の権利と相互の人格の尊重を根底にした理念であり、私は、社会機構を形成し、運用していくうえで、絶対に守られるべき考え方であると思っています。
 ただ、民主主義は、そうした個人の人格尊重を貫くための社会のあり方であるとともに、また、個人の人格を尊重しながら全員が主体的にかかわっていくときに初めて成り立つもので、そこに民主主義を実現し、貫くことのむずかしさがあります。そして、個人の人格を尊重しようとすると、全体の目的達成が容易に進まないという欠点があります。
 このため、早急にある目的を達成しようという場合は、往々にして民主主義的な行き方が放棄されてしまうことがあります。しかし、それが、あたかもあまりにも急ぎすぎて事故を起こす車のように、悲惨な結果を招いた事例は枚挙にいとまがありません。こうした幾多の教訓からも、私は、たとえ急ぐ場合であっても、あくまで人びとの総意により──その合致した総意をつくりあげるのに時間がかかったとしても──民主主義的な行き方を貫くほうが、結果的には目的を正しく達成できるがゆえに、早道だと考えます。
 すなわち、一人の意思を無理やり他の人びとに押しつけるということは、一見、目的が早く達成できるようでありながら、じつは遠回りになってしまうことを知るべきだと思うのです。私は、あなたもこうした民主主義の原理を遵守すべきことを提唱しておられると思うのですが、いかがでしょうか。
2  ペッチェイ まさにおっしゃるとおりです。しかし、今日のように多様化し、異質のものが混じり合っている世界では、民主主義の本質についても十人十色の解釈がなされているという事実に、われわれは眼を閉じてはならないでしょう。たとえば、ヨーロッパやアメリカ、日本等でわれわれがいだいている民主主義の概念は、ソ連その他の共産主義諸国での進歩的民主主義の概念とは、まったく異なります。また、第三世界の各地では、さらに別なものが、民主主義と呼ばれています。たしかに、民主主義という政治形態は、現在われわれがもつ最善の形態ではありますが、近代民主主義の発祥国たるイギリスをはじめ欧州各国においてすら、民主主義の原則を忠実に実行することがなお困難な場合が、往々にしてあるのです。
 現行の民主主義制度は、解決すべき問題が比較的単純で、直接または間接に民衆に諮問することができた時代に生まれたものです。今日では、社会の当面する諸問題があまりにも複雑でむずかしいため、人間事象のあらゆる側面に精通した専門的な意思決定者でさえ、多くの場合、明確な考えを示すことができずにいます。そうなると、当然のことながら世論は混乱し、何か事がもちあがったとき、有権者はどう投票したらよいのかわからずにいるか、あるいは党機関や圧力団体に左右され、その命ずるがままに投票する可能性があるかの、いずれかになってしまっています。
 民主的な手順(プロセス)には、この一つの欠陥にとどまらず、他にも多くの欠陥があり、民主主義の原則を掲げている国々ですら、民主的手順を避けて通っていることが少なくないのです。
3  たとえば、核エネルギーの例を挙げてみたいと思います。一般市民は、核分裂や核融合につきまとう技術的・経済的・社会的・政治的な諸問題についても、プルトニウムの恐ろしい危険性についても、さらには代替エネルギー源の真の効用や経費についても、せいぜい不十分な知識しかもっていませんが、ときにはその彼らが、原子力発電所に関して国民投票を求められることがあります。この場合、彼らは、今年は賛成投票をしておきながら、二、三年後に同じ問題についてもう一度国民投票が行われると、今度は反対投票をしたいという気持ちになるかもしれません。ところが、原子炉計画などというものは、そう年ごとに採用しては放棄するというわけにはいかないのです。
 しかも、原子力発電所の場合、その建設や運転においても、撤去にさいしても、多大の努力と金額を費やすものであり、また非常に長期間にわたる多くの安全対策を必要とします。したがって、今日下される決定のすべてが、明日は重大な意味をもつようになることは必定なのです。
 一般に、不十分な情報しか与えられていない市民が現在行う選択には、往々にして、短期的な利害ないしは期待が絡んでいます。そんなふうにしてなされた選択の結果、原子力発電所を今日的な科学技術で建設するにせよ、あるいは他の代替エネルギー源が開発されることなしに中止するにせよ、いずれにしても、その選択は、事実上、未来の世代に対して、計算もできないほどの費用と危険を課すことになるでしょう。このジレンマに対しては、どのようにして、真に民主的な精神をもって公正に取り組むことができるでしょうか。
4  池田 国民の大部分が教育も受けていず、情報を提供されても正しく理解することができない状態の場合は、判断を国民に求めることは、当然、無理でしょう。
 しかし、たしかに専門的でむずかしい問題ではあっても国民の大部分が理解できる場合、そして、選択の結果が現在生きている大多数の人びとばかりでなく、その子孫の生命の安全性にもかかわりをもっている場合は、その問題に関するあらゆる情報を公開し、理解を広めたうえで判断を求めるべきです。
 いま言われた原子力エネルギーについていえば、発電所自体の安全性、廃棄物のひきおこす問題、既存エネルギー資源の限界、核エネルギーの有望性等、長所も短所も公平に提示し、そのうえで、建設に踏み切るか安全なエネルギーの開発を待つかの選択を民衆にゆだねることが正しいと思うのです。
 もちろん、現実の社会にあっては、そこにさまざまな利権が絡み、策謀やデマが錯綜することでしょう。そのために、一時的に混乱状態となったり、あるいは、誤った選択をしてしまうこともあります。また、安全を優先した結果、経済競争力が衰え、国家経済が困難におちいることもありえます。しかし、それでもなお、取り返しのつかない環境の汚染を招き子孫の生命が脅かされることを避けることができたとすれば、長期的には大きな利益をもたらしたといえるでしょう。
5  ペッチェイ 組織のよく整った圧力団体が操作する不安感や情動によって、状況がさらに悪化させられることは、これまでにもありましたし、いまもあります。これらの諸条件下にあって、核エネルギー計画の実施を望む各国政府は、一般大衆とのしかるべき協議をもたずにそうした決定をどんどん進めるという、きわめて非民主的な近道を選んできました。まぎれもない民主主義国であるフランスの場合が、これに当たります。この種の混乱した状況に直面したジスカール・デスタン前大統領は、今日では非常な潜在的危険性をもつと考えられている増殖原子炉を数多く建設するという──彼の考えによれば不可欠の──計画が、もし議会に提出されたり国民投票に付されたりすれば、必ず行き詰まってしまうだろうと主張しました。そこで、彼の政府は、独自に西欧最大の核計画を進め、単独の責任でそれを実行に移したのです。
6  もう一つ別の分野での例として、戦争が挙げられます。第二次世界大戦以後、ほぼ百五十回の戦争が行われましたが、このうち、しかるべき民主的措置に則って宣戦布告がなされた例は、ほとんど皆無です。現在、二つの超大国が、核戦争の準備を積極的に進めています。これについて、両国は、あくまでも敵勢力を抑止するための、防衛上のものであると主張しています。しかし、両国の準備と軍事戦略の中核的な部分は機密になっており、一般大衆に諮ることは、技術的に不可能です。万一、いわゆる敵の核ミサイル攻撃があれば、おそらく五、六分で報復攻撃がなされるでしょうが、その決定を下すのは、たかだか二十人ほどの役人たち──または一台のコンピューター──であって、主権の存する国民ではないのです。
 現代社会の民主的統治の原則と条件は。、全面的に再検討し。、系統的に立て直さなければなりません。もちろん基本的には、民衆は、自分たちの生活や将来にかかわる主要な問題については、決定権をもちつづけなければなりません。そして、採択され実施される政策や戦略については、民衆の意見が主導権をもつべきです。このことを可能にするには、民衆自身だけでなく、政治家階層をより一層教育し、そうした心構えにさせなければなりませんし、民主的手順の仕組みを、十分に改善しなければなりません。
7  こうした進展は、もちろん、時間を要するだけでなく、偉大な政治的洞察力と善意を必要とするでしょう。しかし、それだけでは、事態を十分に変革することはできません。現代の諸制度は、別の時代に、その時代のために考案されたものであり、したがって国家的レベルでも、国際的レベルでも、改革される必要があります。さらに重要なことは、われわれ自身の考え方や行動を現代に合致したものにしなければならないということです。それによって、われわれすべてが、自国内で、またすべての国境を越えた広い世界のいたるところで、個人的にも集団的にも出合わなければならない新たな挑戦に、立ち向かえるようにすべきです。
 結局、私は、民主主義の諸原則については全面的に支持するものですが、あなたの冒頭のご質問に対しては、単純にイエスと答えるわけにはいかないのです。これには、多少の説明を加えなければならないからです。各国において、あるいは地球共同体において、今後数年ないしは数十年の間に、いかなる民主主義が望ましく、かつ可能であるかということは、単純な回答を許さない問題です。この複雑な歴史の転換期に人類が突きつけられている他の主要な諸問題と同じく、最終的にいかなる態度をとるべきかを決定するには、われわれはより広範な背景をもつ諸問題と、代替的解決策とを考えなければならないのです。
8  池田 たしかに、これは、簡単に是か非か言いきれない問題であることを、私も認めざるをえません。あなたが言われるように、とくに現代においては、高度に専門的な知識なくしては正しく判断することのできない問題が、政治決定にゆだねられる場合が少なくありません。
 しかし、現代は、このように専門家以外には判断できない問題が多いからといって、人類の運命を決定する問題についても、民主的な手続きが無視され、独裁的な決定方式が通常化していったとしたら、これは恐ろしいことです。専門家以外の人間にはわからないのだからといって、国民にも知らせず、国民の代表である議員によって構成される国会にも諮らなくなったとしたら、国民の知らないところで軍事国家化が進められ、国民の知らないうちに戦争が開始されてしまうことになりかねません。
 私は、少なくとも国民の大部分、人類のほとんどの生命がかかわってくる問題に関しては、事実の正確な認識を人びとにもたらす努力と、そのうえでの民主的手続きをあくまで踏まえた判断・決定をしていく努力とを、必ずなすべきであると考えます。
9  そして、さきにご指摘になったように、現代の世界には、さまざまな“民主主義”があり、なかには、実質的にみると、民主主義と名づけがたい場合もありますが、少なくとも、一部の人間が独断で重要な方針を決定し、民衆の大部分は、自らの決定によらない問題について、高い代償だけを払わされるということがあってはなりません。そこに民主主義の尊さがあると私は考えます。これは、民衆の一人ひとりがもつ、人間の尊厳性を守るかどうかという問題です。
 政治的決定や戦略の問題の中には、民主的な過程を踏んでいては間に合わないこともあります(むしろ、そのほうが多いといってよいでしょう)し、また、少数の専門家が判断したほうが誤りを犯さないですむ場合もありえます。そこで私は、問題は何に至上の価値をおく社会にしていくかであると思います。物質的豊かさや経済的・軍事的競争における勝利をすべてに優先する価値とするというのならば、民主主義を無視したほうがよいことも少なくないでしょう。しかし、もし人間の尊厳を至高の価値としていくのならば、あくまで民主的プロセスを踏むべきで、これを避けたり無視すること自体、人間の尊厳性への重大な侵害であると思うのです。なぜなら、人間の尊厳は、自らの人生・運命については、可能なかぎり──つまり自然的な力による場合を除いて──自らの意思で選択し、決定していくところにあると信ずるからです。
10  ペッチェイ まさに、あなたのお考えは正しいと思います。ただし、それが未来においていかなる基盤、いかなる方法・手段で実現できるかは、なお今後の課題でしょう。

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