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日蓮大聖人・池田大作

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二、生命の永遠性と業について  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

前後
2  ペッチェイ われわれをじれったい気持ちにさせて苦しめる種々の疑問に対しては、あの仏陀のような悟りを開いた人間でさえ、そのすべてを答え尽くすことができませんでした。たぶんこれらの疑問の多くは、われわれ人間にはまったく答えが出せないか、あるいは人間がまずい組み立て方をしているかの、どちらかなのでしょう。
 仏陀は、大宇宙における生命という魅力的なビジョンを考え、それを信ずることはできても、人間の現在の知的能力をもってしては立証できない一つの真理として伝えました。一方、科学者たちも、宇宙の生死に関して、一般に、百億年以上もの昔に、巨大な高密度の物質が爆発したときに生じ、いまもなお進行中とみられる宇宙の膨張過程をひきおこしたと想定されるいわゆるビッグ・バン(宇宙大爆発生成)説を、仮想しています。これもまた、証明できないものです。
 したがって、生命の普遍的な本質といった問題については、私としては、自分が実際に理解できると感じられる以上のことを断言するよりは、むしろ自分の無知をはっきりと認めるほうを選びます。
 私は、あれこれの宗旨が与えている定義によれば、信仰者ではありません。つまり、自分の肉体の死後に生命が別な形をとるという仏教の信念に与することもしなければ、また、現世での行為によって死後に刑罰や報酬を受けるという、不滅の霊魂を信じるキリスト教の信念に味方することもないわけです。
 とはいうものの、人間は──信仰者であれ無信仰者であれ──この世で善いことをすべきであるという仏教やキリスト教の信念を、しかも再生とか、報酬への望みとか、刑罰への恐れとかを気にせずに、私も自分なりのささやかな方法で、応用するつもりです。
3  池田 あらゆる宗教は、善を行えば報酬があり、悪を行うと刑罰があると説いて、人びとに善を勧め悪をやめさせようとしてきました。仏教にも同様の教えがありますが、しかしこれは人びとを導くうえでの手段的な教えです。
 むしろ、人間が本来の良心にめざめれば必然的に善を行い悪を退けるようになるのであり、そのような本源的な良心といったもののめざめをもたらすことがより重要であり、そこにこそ仏教の視点があったといえるでしょう。
4  ペッチェイ 私は地球上の生命体がなんらかの形で存続するだろうということは信じていますが、人間の生命そのものがどこまでも永続することを推論できるかとなると、確かなことは言えません。仏教の概念をいくぶん安易な形で用いますと、現在の世代は業の勘定口座(カルマ・アカウント)をあまりにも赤字にしてしまっているため、彼らがいなくなった後、地球上に再び人類が現れてくるには、非常に長い期間がかかるのではないでしょうか。
 もっと簡単に言えば、私は、この地球上での生命の連続性は信じますが、それは個体の再生・転生の連続によるのではなく、あらゆる種の進化と相互作用によるものと考えています。人類は無数の生物の種のうちの一つにすぎず──まして最強・最適の存在ともたぶん言えませんから──地球の生物物理学的な諸条件が急激に変化すれば、他の生物よりも大きな危険に曝されるでしょう。そうなると、人類が地球上から消え失せてしまう可能性もあります。しかし、宇宙はきわめて広大であり、天体も無数にありますから、われわれが知っている形の生命体が、そしてもしかしたら人間のような生命体も、この広大な星間空間のどこかにある、わが地球と同じような惑星上で繁栄しているかもしれないことは、きわめて蓋然性が高いこと──いやほぼ確実なこと──です。しかし、率直に申し上げて、この話題に関しては、私は、もはやこれ以上何も述べることがないと思っています。
5  ここで、どうか私に仏教の業(カルマ)の教義について一、二点、はっきり教えていただきたいのです。まず第一に、仏陀が生きていた時代には、全世界の人口はほんの数千万人にすぎませんでした。それが今日では、急速に五十億に近づこうとしています。
 もしさきの数千万の人びとが、現在まで何度もの転生を経て、人間の姿で生まれ変わってきているものとすれば、今日、その過去の生命によって現在の生命の姿が決定づけられた人びとの数は、同じであるはずです。しかし、地球上で人間としてのそうした先任者をもたずに今日生まれてきている、他の数十億の人びとすべては一体どうなのでしょうか。もしこれらの人びとにも前世の生命があったのならば、われわれは、理論上、人間生命は地球以外の宇宙のどこかに確実に存在するとするか、または、他の形態の生命が人間に昇格する傾向があったということの、いずれかを推論せざるをえません。この解釈は、正しいでしょうか。
 業の問題をさらに拡大させていただきますが、現在、財力と権力を持っている人びとは、すべて過去世において、彼らのいまの恵まれた境遇に値するだけの善行をしたのでしょうか。ヒトラーやスターリンは、どちらも最上の物質的生活と権力上の特権を享受しながら、ともにそれに値しない人物でしたが、彼らのそうした幸運が、前世で行われた非常な善行ということで理屈づけられるでしょうか。
 アメリカ市民の大多数が、何世代にもわたって高度の生活・教育水準と最良の健康的条件を享受している一方で、ソマリランドの人びとが、全般に貧困と飢餓に瀕しているのは、一体なぜなのでしょうか。これは、きわだった善行をした人びとがある一か所に集まり、どちらかといえば悪行をなした人びとが、別な場所に集まったということなのでしょうか。
6  第二の疑問は、過去世から持ち越された業の勘定口座が各個人の現在の境遇を左右しているが、しかし同時に、われわれは自己の業の勘定口座を改善でき、それを個人の記録に刻み込んで来世に自身を利せるようにできる、という点です。これについて、私は、業の勘定口座中の、どこまでが永久に変わらない定まった条件であり、どこまでがある程度自由に改善できる条件なのか、その範囲を知りたいのです。
 自己の業を改善する能力という概念は、私には、キリスト教の伝統では自由意思と呼ばれているものと似ているように思えるのですが、この考えも私にはよくわかりません。というのは、もし神が全能であるならば、われわれに善のみをなさしめるよう導くことができる──あるいは導くべきであるといったほうがいいでしょうか──はずだからです。どうか仏教の業の概念を明確に示していただけないでしょうか。
7  池田 あなたが質問された問題は、多くの人がいだく疑問点です。第一の人口増加と転生の問題については、仏教では、生命はその業によって、つぎの世には、人間にも人間以外の動物等にもなりうると説きます。
 人間に生まれることは、それなりに善い業を行った結果であるとされています。つまり、現在人間であっても、人間としての尊さを自覚せず、人間としての尊い美徳をこの人生に発揮しないならば、来世は人間に生まれることができなくなるかもしれないのです。
 また、仏教によると、仏の世界は、この地球上だけでなく、十方といって東西南北、上下等、あらゆる方角の彼方に無数にあるとされています。このことは、人間のような高度の精神機能をもった生物の世界が、地球以外の宇宙の中にも、たくさんあるとする考え方を表しています。
 以上のことから、現在の地球上の人口が、一千年前の人口に比べてはるかに多いとしても、説明は可能であり、生命の永続が否定されることにはならないわけです。
 ヒトラーなどを例に述べられた点については、富や権力だけが善行の結果ではないことを知らなければなりません。とくに仏教では「蔵の財よりも身の財、身の財より心の財がすぐれる」と教えられています。すなわち、巨万の富をもっているという幸せはあっても、心身が病んでいる人は、それほど過去に善い原因をつくっていたとはいえません。
 むしろ、物質的には恵まれていなくても、身体が健康で、人間として信頼し合い、生きる喜びを満喫していける人生のほうが、はるかに大きな善行によるものといえましょう。
8  また、第二点の自由意思と業の問題については、現在の人生の中で得るさまざまな結果が、生まれる前につくった原因によってすべて決まっているわけではありません。生まれる以前にある因は、きわめて幅の広い素材で、生まれてからの努力や人生の軌跡が、それを決定的なものにしていく場合のほうが多いと考えられます。
 端的に言えば、人間は、他の生物よりもはるかに幅広い自由性をもっています。ここに、人間に生まれること自体が善行の結果であるとされる理由があります。ゆえに、人生においてその自由性をいかに行使するかという点が、重要になってくるわけです。
 つまり、人それぞれによってさまざまな業をもっており、その中には決定的な業もあれば蓋然的な業もあるわけですが、決定的な業に対しても、それにどのように対処するかによって、そこから未来のために善い因をつくるか悪い因をつくるかの違いが生じます。人間はそれを選択し、そこに挑戦することができるのです。
 たとえば、あなたは青年時代をファシズムの嵐の荒れ狂う中にすごされました。それ自体は、過去の業によるといえます。しかし、あなたはファシズムに加担して悪い業をつくる道でなく、ファシズムと戦い、人間の尊厳を守るために戦う道を選ばれました。それは、素晴らしい善い業の因を未来のためにつくられたのです。逆に、ヒトラーなどは、大変悪い業の因をつくる方向に突き進んでしまったわけです。
 ともあれ、広い意味でいえば、人間が、自らのもっている条件と戦い、善い業の因をつくる方向に、自らの生き方を変えていくのが“人間革命”といえます。

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