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日蓮大聖人・池田大作

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一、善と悪の概念  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  一、善と悪の概念
 池田 古来、人間の本性に関しては、性善・性悪の両説があり、それに応じて社会のあり方も、さまざまなタイプが考えられてきたように思われます。たとえば、性善説をとれば、その善なる本性をそのまま発現できるように、自由な社会が好ましいことになります。逆に性悪説をとれば、人間の悪性を抑制しなければならないため、統制が重視される傾向になります。
 この人間の心の善悪という問題については、宗教によって、考え方もさまざまです。キリスト教では、善悪の判断をする知恵の実を、アダムとイブが神の命令に背いて食べたことが、人間の原罪であると教えています。アダムとイブの子孫である人類はすべて、この原罪を負っているという考え方は、性悪説的ともいえるでしょう。これに対して、仏教ではすべての人間の生命は本来、善悪のいずれか一方に規定できるものでなく、善の可能性も悪の可能性も、ともにもっているとしています。
 また、こうした宗教とは別に、ソクラテスは、人間にとって大事なことは、ただ生きることではなくて、よく生きることだ、と言っています。たしかに、それはソクラテスにかぎらず、人生についてある程度思索した人ならだれでも同じように言うでしょう。
 問題は、では「よく生きる」とは、どういうことかです。そこで提起されているのは、生に立ち向かう人間の精神的な姿勢であることは疑いありませんが、どのような精神的姿勢を“よい”というのか、すなわち、精神的価値とはいかなるものをさすのか、ということが問題となるわけです。
2  ペッチェイ そうですね。精神的な価値とは、文化の違いによって異なるだけでなく、場所によっても変わってくるものです。インド仏教と日本の仏教諸派とでは、長い年代を経る間に、仏陀の教えについて異なった解釈をしてきています。私が理解しているところでは、このような相違は、いまももろもろの仏教徒の間に根強く存在していますし、キリスト教各派の間にも同じことがいえます。さらに、サウジアラビアのスンニー派イスラム教徒が精神的な模範と考えるものは、モロッコの同派信徒が精神的な模範と考えるものと、ある面では共通していますが、必ずしも同一ではありません。
 精神性は、何世紀もの間には、変化する状況に適応して進化するものです。カトリック以外のキリスト教各派では、俗信徒でも聖職者でも、近年、精神的価値についての理解に大きな進展をみせましたが、カトリック教会はより伝統の束縛が強いため、信徒の中でも進歩的な人びとに対しては、統率が困難となってきています。
3  池田 精神的な価値が文化や場所によって違ってくること、同じ仏教の中でもインドと日本とでは、仏陀の教えに対する解釈に違いがあるということは、博士のおっしゃるとおりであると思います。
 しかし、最も根本的な精神的価値、つまり“善”とは何かといった問題となりますと、私は文化や場所、時代の違いを超えて、かなり共通するものが見いだせるのではないかと考えます。また、だからこそ、文化や場所の違いを超えて、人間は人間同士、理解し共存することが可能なのではないでしょうか。
 その最も根本的な精神的価値とは、言わば互いに人間として尊重し合い、助け合うことであると思うのです。仏教では、そうした精神の根本として“慈悲”を説いています。“慈悲”とは先にも述べたように他者の苦しみを取り除き、楽しみ、喜びを与えることですから、慈悲を重んじる仏教にあっては、他者を尊び、他者の幸せのために貢献することが“善”であり、自己の利益のために他者を犠牲にすることが“悪”であるということです。
4  ペッチェイ きわめて広い意味でいえば、より高度な人間の思想とは、精神的に啓発されたもの、もしくは啓発されるはずのものです。それはわれわれを取り巻く宇宙的環境のあらゆる側面と、絶え間ない交感があるということです。また、この思想には、地球上いたるところで現在生き、あるいはかつてわれわれよりも先に生き、あるいは今後われわれにつづいて生きるであろう膨大な数の人類家族全員との、親密な兄弟意識が浸透していなければなりません。
 この一体感は、個々の家族、人種、教条、国家といった絆を超越し、共通の社会的地位とかイデオロギーに由来する同族意識とかを超えたものです。それはまた同時に、自分たちと自然、わけてもあらゆる生物──われわれといかに異なり、いかにかけ離れた存在であれ──とは、ともに生活する同じ仲間なのだという感情から起こってくるものでなければなりません。精神的価値とは、あらゆるものを動かしている超絶的な力と、存在するかもしれないが人間の思考がいまだ遭遇したことも、心に描いたこともない優越的存在を前にしたときに、われわれがいだく自身のはかなさや矮小感から、しばしば生まれるものです。
 言い換えれば、精神性とは、われわれすべてに潜在もしくは顕在しているものであり、自身が経験する、または心に描きうる、全宇宙との創造的でやりがいのある融合をめざしての賢明な努力へとわれわれを導くもの、もしくは導くはずのものです。
 われわれは、宇宙の精髄を神、もしくは愛、もしくはエネルギーと呼んでよいのかもしれません。あるいは、われわれはそれを何と呼ぶべきか知らないのかもしれません。しかしなお、そうした宇宙の精髄の構想や連続性のために微力を捧げることによって、われわれは、至高の満足を覚えるのであり、あるいは覚えるはずなのです。

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