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日蓮大聖人・池田大作

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戦争と歴史  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  戦争と歴史
 このように、人間の尊い精神的特質を説き明かした宗教が、東洋では仏教を代表とし、西洋ではキリスト教として出現し流布したにもかかわらず、東洋でも西洋でも、その歴史の大部分は、戦争に彩られた悲惨な絵巻の連続であったといって過言ではありません。
 ヨーロッパにおいては、キリスト教に改宗したローマ帝国が、北方諸民族の移動の波の中に崩壊していきました。その中から始まったヨーロッパの歴史は、イスラム教徒による侵略、ノルマン人たちによる掠奪、マジャール人たちによる侵入と、重なる外からの力に脅えつづけなければなりませんでした。
 外敵の侵略が一段落した後は、封建諸侯同士の争いから、やがてイギリス、フランス、イスパニア等の諸王国が成立していきますが、これも血で血を洗う争いをともなっています。各王国の成立は軍隊の大型化と殺戮兵器の強力化をもたらし、それだけ戦争を一層残虐で悲惨なものにしました。初期の異教の民族による侵略のさいはまだしも防衛のためでしたから、キリスト教を信奉するヨーロッパの人びとにしてみれば、口実が成り立ったというものです。しかし、同じキリスト教徒の間で行われた流血の戦争である後期の各国間の争いは、互いに同じ神を信じ、兄弟として尊重し合う間柄として、いかにも不合理といわなければなりません。
2  この同じキリスト教徒同士の争いは、その不合理性においても、その残虐性においても、宗教戦争において頂点に達したといえるでしょう。その痛切な反省から、宗教の信仰が直接に戦争や国家に関係することに対して、これを切り離すようになりました。しかし、戦争の残虐さと規模の巨大化は、国家という担い手によって、さらに進んでいったわけです。
 キリスト教は、その本来の教えからすれば、人間生命を手段化する権力の魔性に抗する希望の灯であったはずです。とくにヨーロッパでは、唯一の希望の灯でした。しかし、実際には、キリスト教の正義を受け継いだはずの教会や聖職者自らが、権力の魔性の手先となって農民たちを苦しめ、幾多の戦争をさえ行って、尊い人間の生命を犠牲にしてきたのです。したがって、近世以後、政治権力と教会の権威が分離されてから、つまり、戦争の担い手から教会が外れてから以後も、キリスト教会は政治権力の横暴や戦争の残虐性に対して、あまり発言できなかったのではないでしょうか。あるいは、仮に発言しても、本当の説得力のあるものとして受け入れられることは、むずかしかったと思います。
3  それでは、東洋の仏教の場合は、どうでしょうか。古く遡れば、西紀前三世紀、インドの大半を統一したアショーカ王は、侵略・征服戦の後、武力による支配の残酷さに気づいて以後、仏教の精神を重んじ、法による統治を実現しようとしました。その政治は、人民への奉仕にわが身を捧げる敬虔さと、人間のみならずあらゆる生命への尊重を貫こうとする慈悲の精神に彩られています。アショーカ王は、人間だけでなく動物たちのためにも国中に病院を建て、外国に対しては平和使節を送って友好を結びました。その使者は、エジプトやギリシャの都市にも到達したと記録されています。
 この仏教におけるアショーカ王に対比できる西洋の君主は、おそらくフランスの聖ルイ王であろうと思います。アショーカ王が武力を捨てて平和の使節を送ったのに対し、聖ルイ王は自ら武器をとって聖地奪還のためにエルサレムに向かうべくエジプトやチュニスに侵攻しました。ここに私は、仏教とキリスト教の、生命尊厳についての精神の徹底ぶりの違いが象徴的に表れているように思われてなりません。
 しかし、聖ルイ王によって、フランスはその後も隆盛をつづけ、フランス王はヨーロッパにおける最強国の君主として、大革命によって倒されるまで王座に君臨しました。アショーカ王の王朝は、王亡き後、まもなく滅び、残念ながらその精神を継ぐ人も途絶えました。かなり下って、カニシカ王など、仏教を栄えさせた大王は出ますが、その統治自体に仏教の“慈悲”を貫いた権力者は、インドではなくなります。
4  日本では聖徳太子、聖武天皇などが仏教を篤く信仰するとともに、仏教の精神をその政治に反映しようと努力しています。アショーカ王に較べれば、規模も知名度もずっと落ちますが、その精神の純粋性においては、負けないものをもっていたといえるでしょう。また、都が現在の京都に移された最初の三百数十年間、仏教を信仰する天皇のもとで、死刑が行われない時代がつづきました。外国との戦争はもちろんありませんでしたし、国内でも平和がつづいたのです。
 その平和がなぜ破られ、武士が台頭し、戦乱の世になっていったのでしょうか。そこには、もとより天災や経済的混乱、心理的混乱、社会状況の変化など、複雑な要因が錯綜し、絡み合い、複合しています。ただ、信仰の問題でいえば、仏教の中でも最も徹底して生命の尊厳を説き究めた法華経が忘れられたという事実があります。
 京都に首都が移されたとき、天皇は法華経を根本とする最澄(伝教大師)という僧を師と仰ぎ、その比叡山の寺を根本の道場と定めました。ところが、いつしか、中国との交流を通じて別の教派が伝えられ、人びとの心は新しいものを珍しがる傾向に動かされて、法華経を根本とした信仰や考え方から離れていったのです。
5  法華経は、いかなる人にも等しく仏性があり、したがって成仏できることを説いた唯一の経典です。それに対し、新しく伝えられた教派のあるものは、この世界で成仏することは不可能であり、死後、西方の浄土に生まれて、そこで仏道を修行する以外に成仏はできないというものでした。この世では救われないとするこの教えが、人びとにこの世に対して投げやりにさせ、不正と不合理、さらには残忍さをも助長する結果となったのです。
 ともあれ、東洋において、仏教はその歴史のいくつかの場面で、その慈悲の精神を反映した例があります。しかし、総体的にみるならば、仏教の正統の精神を受け継いでいくことは容易でなく、いったんは確立されても、やがて忘れられ、権力の魔性に支配される歴史が、その大部分を占めたことを認めなければなりません。
 インドにおいても、平和な時代は短く、大半が王朝の交代と諸王国の乱立の中に戦乱をつづけ、やがてイスラム教の征服を受けます。中国においても、その歴史の一貫した特色をなしている北方遊牧民族による侵入ばかりでなく、内部における抗争も絶えることがありませんでした。日本においても、さきに述べた平和な時代の後は、武士による武力支配の世となり、統一の実現によってしばらくは平和が得られても、再び戦乱に覆われることになります。
 また、東洋のこれらの国々においては、戦争ほど極端な生命軽視ではなくとも、人間生命の階層的な位置づけの傾向が強く、強者による弱者の抑圧・収奪は、むしろ平和な時代にこそ強化されたといってよいでしょう。
 権力者の絶対化と、その権力の維持と行使のための官僚機構の発達は、西洋より東洋のほうがずっと進んでいました。このことは、権力の魔性が、戦争とは異なる形で、人間──とくに一般庶民──の幸福を奪ったことを物語っています。

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