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日蓮大聖人・池田大作

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愛と慈悲  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

前後
2  いかなる生命も、自らの生存を守ることを至上目的とするのが、生命の世界の原則です。肉体のあらゆる機能は、生命維持を目的として仕組まれていますし、心の働きも、生命を脅かすものからは本能的に逃れるよう、さらにいえば、そうした危険を未然に察知して避けるようにさえ、巧みに構成されています。極端にいえば、自己防衛と、自己の利益追求というエゴイズムが、生命体に先天的、本能的にそなわっている心身の機能の原理なのです。
 その点から考えると“愛”や“慈悲”のために自己の生命を喜んで抛つということは、生命の本能に反する行為といわなければなりません。しかし、これも、生命に本然的に備わっている働きなのです。ただし、たんに本能の次元でのそれは、さきの利己的本能が個体の保存のためであるのに対し、一定の種属保存のためという域にとどまります。
 したがって、“愛”と“慈悲”の注がれる対象が、たんにわが子や孫、また妻や兄弟といった限られた人びとでなく、あらゆる人びと、あらゆる生き物にわたるためには、たんなる本能的な“愛”“慈悲”から、さらに進まなければなりません。
 といっても“愛”“慈悲”という心の働きそのものが、本能的なその根から離れるべきだということではありません。むしろ、根は本能的次元の深みにつながっていなければなりません。そうした根を失った、宙に浮いたような“愛”や“慈悲”は、言葉としては美しくとも、たんなる観念の遊びにおちいってしまい、いざというときには、利己的本能の強大さにたちまち圧殺されるか、吹き飛ばされてしまうでしょう。
3  本能の深みに根を張りながら、しかも“愛”と“慈悲”があらゆる人びとに平等に注がれるものであるためには、あらゆる人びとが本当の意味で「わが子」であり「私の兄弟」であるというつながりへの、実感をともなう認識が打ち立てられなければならないでしょう。こうした、あらゆる人、あらゆる生き物に対する開かれた認識をもたらすところに、普遍的な“愛”や、一切の生き物に注ぐ平等の大慈悲を説く宗教の目的があったといっても過言ではありません。
 キリスト教は、自らを神の子と称え、すべての人を愛で包むことを宣言したイエスによって創始されました。仏教は、生命の究極の法を覚知したがゆえに仏陀(覚者)と名乗った釈迦牟尼によって打ち立てられ、仏陀は一切の人びとに雨のように大慈悲を注ぐ存在であると説かれています。
 人間の利己的本性、とくに前述した支配欲のもたらす危険性がますます増大していくなかにあって、それを食い止める力は“愛”と“慈悲”の利他的な力を深める以外にないことは明白です。では、この“愛”と“慈悲”を教えている諸宗教は、人間の滅亡の運命を克服することが、果たしてどのようにして可能なのか、あるいは、その有効な働きが発揮されるにはどのような条件が必要なのかを、考えてみなければなりません。

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