Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

九、人間の新しい立場  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

前後
2  ペッチェイ この問題については、二つに分けてお答えしたいと思います。
 まず第一に、動物たちも、たしかにわれわれが経験するのと似かよった好意・愛情や敵意を示します。なかには家族や集団の強い絆で結ばれている動物もおり、また、大多数の動物が、彼らの子孫のためには──ときには人間以上に──ほとんどすべてを犠牲にするものです。これらの動物が、人間と分かち合う何か大切なものを備え、また、ときには人間以上にすぐれたものを備えているという事実は、彼ら動物たちに対するわれわれの尊敬心を増させずにはおきません。しかし、実際には、私たちはそうしてはおりません。
 これまでにも述べてきましたように、現代に支配的な考え方は、世界も、またそこに住むあらゆる生命体も、人間の裁量に任されているというものです。つまり、われわれが支配者だというのです。また、人間は神自身の姿(イメージ)に似せてつくられたという信念──人間自身の自己神格化からも、さほどかけ離れていない主張──は、キリスト教だけに特有のものではありません。世界はわれわれのために創られているのだ、世界は疑いもなく全面的にわれわれのものなのだ、またこの世界ではわれわれはやりたいことを何でもできるのだ──という考え方が、いまやどこへ行っても信仰個条となっていて、現代人の思考の最基底部に固定化されています。こうした想定からすぐにたどり着くつぎの段階は、われわれ人間も、ライオンやクモも、同じ全体の一部をなしているという考え方を拒絶することであり、われわれは他の生物よりもすぐれており、彼らとは違うのだから、われわれには当然その生殺与奪の権利があるのだという主張です。
 万一こうした考え方が容認できたとしても、それを延長して、身を護る術をもたない多くの動物たちに対する人間の無慈悲で残酷な行為までも赦すことは、とてもできないでしょう。われわれは、しばしば、凶暴で貪欲な暴君や圧制者のように振る舞っています。そのありさまは、たとえ自己の生命を維持するために他の生物を利用せざるをえない場合にしても、彼らを理解し保護する、感性豊かで慈悲深い──つまり、人間味あふれる──主人や受託者というようなものでは、とうていありません。
3  池田 いまご指摘になった、神は自らの姿に似せて人間をつくったという考え方が、人間の横暴の原因の一つになっていることは、私も、これまでいろいろな機会に指摘してきました。
 仏教でも、もちろん、人間を、悟りを開きうる可能性を最も強くもつ存在として尊びますが、人間以外のあらゆる生物も仏性をもっていると説いておりますし、また、なによりも、仏教の最大の特質は万物に対する慈悲にあります。仏教の経典には、釈迦牟尼が過去世に行った修行の一つとして、飢えた虎を救うために自らの身体を食べさせたというエピソードが示されています。
 さらに根本的にいえば、仏教によれば、人間も、その身体は自分の周囲にある物質によって作られるのであり、万物の恩恵を受けているのです。唯一の神にのみ恩を受けているという考え方ではありません。したがって、自らの受けている恩恵を正しく認識し、自らが環境や他の生物のために貢献していくことが、人間としての正しい生き方であると教えます。仏教が、最も根本的な戒めとして不殺生戒を立てているのは、こうした考え方が基盤になっているわけです。あなたがおっしゃったように、人間は他の生物に比べて優位にあるのですから、生物界への無配慮な圧迫者としてではなく、心優しい保護者としてあらゆる生物を慈しんでいかなければなりません。
4  ペッチェイ 人間は、疑いもなく、他のあらゆる動物とは比較にならないほど大きな知力と知識をもっており、それが人間を他の動物から区別しているわけです。しかし、人間は、まさにその知識自体によって、他に先んじていればいるほど、それだけ一層自らの人間性に本来備わる至高の責任があることを感じるべきでしょう。ところが、われわれは、現在のような行動をとりつづけることによって、自分たちがもっているふりをしている倫理的霊感が偽りにすぎないことを曝け出し、自己の領域と考えているものを愚かしくも疲弊させ、荒廃させているのです。時折、私は、神から運命づけられて自らが世界の支配権を握っているのだという人間のうぬぼれこそが、いまわれわれ自身を複雑な危機におとしいれている最大の原因の一つではないかと、自問しているのです。
 さて、もう一つの問題──動物に心があるかどうか──ですが、これは私にはお答えできそうにありません。ただ、非公式にあえて言わせていただけば、われわれ人間がいまのように独善的で無情でありつづけるのであれば、動物たちが人間と共通にもっている多くのものの中に、なんらかの精神的輝きがあるかどうかを考える以前に、われわれは、自分自身の精神性を疑うべきでしょう。
 いずれにしても確かなことは、あらゆる領域にわたる人間と動植物の生命との関係を含めて、世界についての、またその世界で人間が占める位置についての、私たちの考え方を全面的に改めるべき時がきているということです。

1
2