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日蓮大聖人・池田大作

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六、人口増大への対策  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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2  ペッチェイ 私の考えでは、理想的な状態とは、男にせよ女にせよ、人間一人ひとりが子孫や社会に責任をもちながら、各自の道徳的・実際的判断に従って、自由に子供を産んでいくことであると思います。このことは、子供を産む権利には、他のすべての権利と同様、さまざまな義務が前提となるだけでなく、もろもろの固有の制限もともなうことを意味します。そして、各個人が、より高度で全体的かつ恒久的な社会・政治・経済的福利への当然の配慮をしながら、この権利を解釈し、行使していかなければならないということにもなります。さらにまた理想的には、一人ひとりがこれらの義務を認識し、制約を遵守できなければなりません。しかし、残念ながら、現実はそうではありません。往々にして、(それが根強い伝統になっていない場合でさえ)子供好き、虚栄心、男っぽさ、母性本能、まったくの無知などがそうした配慮をすべて踏みにじってしまい、その結果、家庭環境や社会的安定のうえから必要とされ、あるいは許容される限度を超えて、たくさんの子供を産んでしまうことがあまりにも多いのです。
 この問題に対する受け止め方は、世界の多くの地域において、頑迷さや扇動によって支配されています。そして、それはなににもまして、事態の重大性やその本質や原因を理解できずにいるところからきているのです。このことは、頑迷さや扇動がいかに人間の果てしない苦悩の根源となっているかを証明する、もう一つの証例です。しかもこの場合、犠牲者は他のだれでもない、子供たち自身なのです。つまり、この世界人口の爆発と、その結果生じたあまりに劇的で破滅をも招きかねない人類の現状には、結果を考えずに子供を産んでいるそれぞれの個人はもとより、人口が不断に増加していくことこそ自国の威信を高め、力を強化することになると信じている各国政府も、責を負うべきなのです。
3  一九七四年にブカレストで開かれた国連人口会議では、出産の自由を全面的に束縛すべきでないことを唱える国が多数派を占め、会議を支配しました。しかし、その後、これら諸国のいくつかは、最終的に態度を変えました。なかでも顕著なのが、メキシコでした。しかし、メキシコでは人口増加率は依然としてきわめて高く、最大の国内問題となっています。
 人口が指数関数的な割合で増大する激しさには、われわれの想像を絶するものがあり、このためいくつかの国では、極端な政策を採らざるをえなくなるかもしれません。中国の場合がその典型です。中国は、折に触れてその激しい人口増加を抑制しようと試みてきましたが、そのつど、明らかに不満足な結果に終わっています。そして一九八二年の統計で、この問題の巨大さがついに露骨に表面化しました。それというのも、中国の人口は、一九四九年の解放以来じつに二倍以上にもなっていたからです。つまり、当時は五億人だったのが、この三十三年間で十億人以上にまで増大したのです。また同時に、開発に関する研究から得られた結論によれば、中国の国土が健全な、人間並みの生活を営む人口を支えられる限度は、約八億人にすぎないということです。
 このように、きわめて苦しい選択を迫られた中国政府は、今世紀末までに人口が最大限十二億人を超えるのを防ぐために、厳格な、残酷とさえいえる強硬政策を採ることを──強制されないまでも──選びました。この目標はきわめて達成困難なものです。この中国の例は、われわれが人口問題に真っ向から、しかも早めに取り組むことができなければ、結局は大変な代償を支払わざるをえなくなることを証明しています。
4  池田 人口の適切な限度を考える場合、私は、その国で生産される農産物で養いうる人口ということを、基本にすべきであろうと思います。というのは、現状では、工業生産国で工業製品を輸出して、その利潤で食糧を買い入れて人口を養っている食糧輸入国と、逆に食糧輸出国とがあるわけですが、今日、世界の趨勢は、食糧輸出国もしだいに人口が増大して、自国の人口を養うのに手いっぱいになりつつあります。その場合、食糧輸入国は輸出国に対して、人口増加を抑制してくれとはいえないでしょう。
 食糧を外国に輸出できるほどゆとりのある国が、やがてどこにもなくなれば、それぞれの国が自国の生産物で自国の人口を維持しなければならなくなるのは必然であるからです。人間の生命を維持するのは工業製品ではなく、農業や漁業、畜産などのもたらす食糧であることを忘れてはなりません。
 もちろん、同じく食糧といっても、農産物や海産物、穀物や果実類等々多様であり、国によって生産できるものとできないものがありますから、相互の売買は当然行われるわけで、決して単純ではありません。中世のヨーロッパのように、自給自足が原則であった社会でさえ、遠くアジアの香辛料を求めたのですから、まして現代のように、味覚も多様化した時代に、その土地の産物だけで食生活を営むよう、人びとに求めることは無理です。その意味でも、輸出入は不可欠でしょう。
 ただ、基本的な考え方として、穀類などの主食品は、その国で生産される量とそれによって維持できる人口──これを人口の適切な数を考える基準にすべきではないかと考えるのです。
5  ペッチェイ 人口に関する問題ほどさまざまに論議され、しかも結論の出ない問題はありません。私の考えでは、一国家にしても、また世界全体ともなればなおさらのこと、およそ最適の人口水準などというものは存在しないのです。現在生きている世代──すなわち子孫を産む人びと──が自分たちのためにどのような生活水準を望み、また、次代の人びとにどんな生活をさせようとしているのかなど、あまりに多くの要素が絡んでくるからです。
 しかし、必要なことは、人口とそのために基本的に必要とされる食糧、住宅、健康、教育、安全等々との複雑な関係、そしてまた、そうした必要品や必需品が地球的規模ではもちろんのこと、地域的にみても、環境、資源、技術、制度、権力機構等々といかに相互に作用し合うかについても、よりよく知っていくことです。
 また、深く浸み込んだ産児の慣習というものは、文化、価値観、信仰、行動など非常に多くの基本的な側面をはらんでおり、そのため、この慣習を変えることは、必然的に微妙で、長期的かつ困難な仕事になることも覚悟する必要があります。そしてまた、これはさらに繰り返して訴える価値のあることですが、この目的のために案出されるあらゆる方策は、人間の人格への最大限の尊敬心──これから産もうとしている人びと、およびこれから生まれてくる人びとへの尊敬心──から案出されたものでなければなりません。それとともに、現在と未来にわたって個人のみならず全人類がもつ、人間としての権利と義務の複雑な絡み合いも、考慮されなければなりません。
 これらの複合的な要請は、おそらく永遠の道徳的・政治的・社会的な難問を提起するものでしょう。しかし、これらの複雑な要請があるからといって、現今の世界的な難局の中で人びとが自ら採用しあるいは支持している、啓発的で効果的な家族計画や人口政策の必要性が排除されるわけではありません。そしてまた、これらの要請を口実に、どんな種も自らの生存が脅かされうるところまで増殖することはできないという、絶対的な生命の法則が忽せにされてもなりません。
6  池田 正直なところ、この問題については、私自身の心の中にもジレンマを感じないではいられません。たとえば、私の若い知人やあるいは友人の息子夫婦に子供が生まれた場合、それが何人目の子であっても、祝福したいという気持ちを抑えることができません。その一方で、人類全体の人口の急増という問題については憂えざるをえないのですから。
 ともあれ、国家が権力で人口増加を抑制しようとすることは、ご指摘のように、複雑な要素が絡んでいるため、さまざまな問題をひきおこす恐れがあります。子供を何人産むかは人びとの自由意思に任せられるべきでしょう。ただ、人びとが自ら望む以上に妊娠しないですむよう知識と技術を普及させることは、各国政府や種々の機関にもできることですし、弊害を生ずる危険も少ないと考えます。そして、少なくとも、人口の増大を積極的に奨励するような政策は──まだいくつかの国でとられているようですが──廃止されるべきであると考えます。

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