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五、種の絶滅を防ぐために  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  五、種の絶滅を防ぐために
 池田 現在のように人間が物質的な豊かさを追求していくかぎり、自然の破壊は避けられないわけですが、本来、自然の万物は、それぞれの現状を維持しうる以上の種子を生じ、あるいは卵を産み、子供を産みます。たとえば、一本のリンゴの木はたくさんの実を結びますし、一つがいの鳥は多くの卵を産みます。そこには必ず余剰があり、この余剰分を食糧とすることは、その種族を絶やす結果にはなりません。
 しかし、人類は、すでに多くの他の生物に対して、種族を衰滅させるほどの殺戮を加えており、事実、すでに人間のために絶滅したものもいます。この人間の暴威は、たとえば石油や鉱物資源にみられるように、無生物の存在に対しても加えられており、この場合、自ら再生する能力をもたないだけに、その結果は取り返しのつかないものです。
 しかもなお、人類は、ますます組織的に大規模に自然に対して破壊を加えながら、物質的豊かさを追い求めています。これは恐るべきことです。
 したがって、私たち人類は、あらゆる生物や無生物の資源について、それらが現状を維持できるための限界を見定め、それ以上に侵すことをしないよう自らを戒める必要があります。鳥、獣、魚類、海獣等について、とくに緊急の対策を要します。また無生の物質的資源については、その採取のために自然のバランスを破壊しないように、配慮すべきです。
 これらの問題は、個人個人の生き方にかかわる問題であるとともに、国際的な規模で調査・研究・実施していく機関が設置されなければならないと思うのです。
2  ペッチェイ 私も、この問題については深く憂慮しております。その一つの側面について、私たちはただいま(前項で)論じ合ったわけです。現代の科学技術のおかげで、われわれは非常に広範な情報基盤と、装備から化学製品にいたる多種多様な手段とが、自由に使えるようになりました。そうした情報や手段を、われわれは、地球の生物資源である動植物を主として利用するために、あるいはただ殺戮するために用いています。そうした殺戮は、あなたがいみじくも指摘されたように、動植物が繁殖するよりも急激な速度で進行しているのです。
 すでに多くの分野で、われわれの破壊力がこの地球の生物の繁殖力を上回っていること、またわれわれの汚染が地球の再生能力を凌駕していることは、科学的に証明されているだけでなく、もはや常識となっています。最も入手しやすい非生物資源の蓄えも、急速に消費されています。こうした累積的な過程によって、人間は自らの生命の基盤そのものをどんどん掘り崩し、発展・福利の機会ばかりか、生き残る機会すらも削り取っているのです。
 わけても憂慮すべきは、高等生物から下等生物に及ぶ人間以外の生命体の大虐殺であり、これこそはわれわれの責任です。大まかな推定によれば、世界には五百万種から一千万種の動植物が生存していますが、われわれ人類は今世紀末までに、おそらくその五十万種から百万種を完全に絶滅させてしまうだろうとのことです。これはまったく文字どおりのエコサイド(生態系破壊)です。
3  これまでの経験から、一つの生態系において一つまたはそれ以上の種が消滅すると、その体系全体のバランスが崩れ、往々にしてすべてが衰退することがわかっています。たとえそれが緊急の必要に迫られたものであるにせよ、あるいは──それによって一部の人間がどのような目先の利益を得るとしても──進歩や発展というもったいぶった口実のもとに行われるにせよ、そうした連続的で広範囲な環境破壊に対しては、われわれもその子孫も、将来、非常に高価な代償を払うことになるでしょう。
 われわれは、海洋や自然環境全体を“人類の共有遺産”と修辞的に呼ぶことがありますが、これはたんに言葉を弄んでいるにすぎません。現実には、人類はみなこうした遺産を簒奪するという罪を犯しているとともに、自分自身や仲間の人間が気ままに自然を冒涜し、破壊し、人間以外のあらゆる生命体を虐殺しているのを容認するという罪を犯しているのです。
 しかも、あなたが言われるように、それをやめさせるために、われわれには個人としてもそれぞれ何かができるのですし、自分の地域社会や国に働きかけることもできるわけなのですから、それをしない罪はなおさら重いのです。もし本気で行動するつもりならば、なすべきこと、できることは、あらゆる種類にわたって幾千となくあるはずです。
4  池田 おっしゃるとおりです。直接に自分が環境汚染や生物の殺戮に関係していない場合でも、人間はそれらを間接に助長しているものです。そして、そのことに私たちはなかなか気づきにくいのです。
 アフリカでは象の密猟が盛んに行われていますが、それは、象牙がきわめて高価に売れるからです。他に産業のないアフリカのある地域の人びとにとっては、象を殺して牙を手に入れることが最も手っ取り早い、さらにいえば唯一の現金収入の道なのです。それは一つには、文明社会の人びとが高いお金を出してでも買うから、彼らは象を殺すわけです。買い手がなくなれば、売り手もなくなるのは当然です。もう一つは、原産国の密猟取り締まり体制が弱体であることも挙げられるでしょう。その根底には、それらの国の多くが政治的に不安定であるという事実があります。さきにも述べたように、先進諸国は、そうした国々の政治的安定化と経済的向上のために援助すべきです。
 もちろん、それがいずれも大変むずかしい問題であることは、私も十分承知しています。文明社会における市場の問題にしても、自由主義経済にあっては、品物が少なくなるほど、購買欲は高まり、価格も上昇するわけですから、どんなに厳重に取り締まっても裏をかく業者が暗躍することになります。ですから、業者を取り締まることと同時に、より以上に、人びとがそうしたものを買わないよう、全般に意識を啓発することが肝要となりましょう。
 また、原産国の問題についていえば、密猟の取り締まりを厳しくすることとともに、他の産業を興して、現地の人びとが密猟によらないでも生活できるようにしなければなりません。どうしても象牙を取るにしても、頭数が増えすぎた場合にかぎり、厳重な管理のもとに行われるようにすべきです。さらにいえば、牙を取るだけならば、象の生命を奪う必要はないわけです。古代のインドやカルタゴで軍隊に使われた象は、牙を切って金属を冠せたりしたようですから、牙を取るために殺す必要はないのです。東南アジアなどで行われてきているように、牙を取っても家畜化は可能でしょうし、少なくとも種の絶滅は防げるはずです。このように、私たちが環境を荒廃させないためにとるべき方法、また逆に避けるべき行為は、いくらでも考えられるはずなのです。
5  ペッチェイ そのとおりですね。そこで私もすぐに着手できるはずの、そうした行動例を三つ挙げてみましょう。一つは海水汚染の減少をめざしたものであり、他の二つは野生生物の殺戮をやめることに関するものです。
 ギリシャ人は古来偉大な海洋民族であり、現在、世界中の商船の約五分の一を所有していますが、その彼らが海水汚染の減退のため、何かをしようと思い立ちました。ギリシャ中の船主から船員組合にいたる全海運業界が、いまを潮時として、今後自分たちの全船舶は、航海中も寄港中も一切、海水を汚すことをやめようと決定したのです。
 彼らは私に対して、この汚染反対運動の厳格な履行に彼らが自ら進んで献身していることの証人として、ローマ・クラブからの精神的支持を取りつけてくれるよう要請してきました。ローマ・クラブには組織がありませんので、私は、四つの信頼できる環境保護団体に呼びかけ、彼らがそれに参画し、ギリシャ側の主唱者と共同で、海水の保護上自らに課すべき行動規定と、その規定が守られているかどうかを観察する方法を研究するようお願いしました。こうして、一九八二年の「地球の日」(アース・デー)に、この計画が発足しました。そして、その後一年もたたないうちに、五百隻以上の船舶が協力を申し入れてきたのです。これは、他の海運業界もすべからく考えを巡らせ、見習うべき一つの手本でしょう。
 話を、もう一度、私の母国イタリアに戻させていただきます。イタリアの公徳心は環境保護のために何をなすべきかにめざめつつありますが、現時点ではまだ何もなされていないか、あるいはなされていてもまだ熱が入っていないという状況です。一例を挙げますと、すべての狩猟を永久に禁止しようという運動が、しだいに広がりつつあります。イタリアは比較的小国で、しかも人口が稠密なため、野生の動物や鳥類が非常に少なくなり、その生存が脅かされています。したがって、その存続を守るためには、猟銃で撃ったり罠で捕らえたりすることをやめ、一か八かの試みとして、これらの鳥獣類にそれぞれ自分たちの群れを立て直す機会を与えてやらねばならない、というわけです。これには人心の一新と法律の更改が必要ですが、主として世論の圧力によって、いつかは実現するものと思われます。
6  さて貴国にとって、基本的に再考を要する問題は捕鯨ですね。そこで、こういうことは考えられないでしょうか。日本もイタリアも、多くの別な面ではともに進歩した国ですが、この二国が模範を示して、互いに相手国の友好的な、かつ厳格な審判者となり、最終的には──たとえば三年以内に──狩猟も捕鯨も中止するという、相互の信義にもとづく公約に同意するのです。
 たしかに、イタリアの狩猟と日本の捕鯨は、伝統的文化に深く根ざした古来の活動であり、多くの人びとがそれによって職を得ております。しかし私は、両国の政府と国民はこのような問題に関しては、より幅広い原則で導かれるべきだと考えるのですが、あなたはそうお思いにはならないでしょうか。両国とも間違いなく、狩猟や捕鯨の中止によって解雇されたり損害を受けたりするすべての人びとに、補償を与えることができるはずです。この二つの関連し合った目標を達成するために、両国共同の運動が開始されるべきだと考えますが、いかがでしょうか。
7  池田 貴国において、一切の狩猟を禁止しようとの運動が高まっているとのお話は、非常に興味深いものです。同様のことが、日本においても、ぜひ実行されるべきであると私は考えます。
 日本の場合、あとわずか数羽しかいなくなり、文字どおり絶滅の危機に瀕しているトキやコウノトリなどについては、その保存のために力が入れられていますが、一方で、狩猟期になると、多くの野生動物や野鳥が殺されています。時折、人間が流れ弾のために死傷するという事故も起こっています。
 地域によっては、増えすぎたカモシカのために植林が荒らされて被害を受けるとか、イノシシなどのために畑の作物が台無しにされたとかいう事実もあります。そうした地域では、適度な個体数に戻すために、狩猟が要請されるかもしれません。私は、そうしたケースについてまでも、全面的に狩猟を禁ずることはできないと思います。
 しかし、その場合も、柵などによって苗木や作物の保護手段を充実することに力を入れるべきで、野生動物の狩猟は、なるべく避けるべきでしょう。どうしても殺さなければならないとしても、科学的な調査によって個体数を正確に割り出し、殺す数を明確に限定すべきです。また、狩猟者には、射撃の技術とともにモラルを厳格に訓練し、とくに道徳面・性格面で心配のある人には、銃砲の所持・使用を厳しく禁ずるというふうにすべきでしょう。
 捕鯨の問題に関しては、日本は常に国際世論の攻撃に曝されてきました。たしかにそれによって生計を立てている人びとにしてみれば、容易に譲れないという気持ちは私にもわかりますが、やはり、この貴重な海の動物の個体数が少なくなってしまったことは事実であり、その絶滅を防ぐための対策が講じられるべきであると考えます。そして、このために被害を受ける人びとに対して、あなたがおっしゃるように、政府は補償とともに転職への援助を最大にすべきです。

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