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日蓮大聖人・池田大作

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四、全世界的な森林破壊  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  四、全世界的な森林破壊
 池田 しだいに乏しくなる地球上の自然──とくに緑ゆたかな森林──の中で辛うじて残ってきたのが、いわゆる発展途上国の地域です。ところが、これらの国々が経済的自立を実現しようとすると、自然を“開発”の名のもとに破壊せざるをえないという事態が生じています。
 たとえば、ブラジルのアマゾン流域の広大な森林は年間四パーセントの割合で伐採され、しかも道路網などの発達にともなって、加速度的に開発が進むであろうといわれています。これはアマゾン流域の緑が地球の大気に供給してきた酸素の減少をもたらし、その結果、二十一世紀には、地球全体の気候に対して深刻な影響を与えるであろうと警告を発する学者もおります。もちろん、だからといって先進国──つまり、先に自然を破壊した国々──がそれにストップをかけることは不合理であるという発展途上国側の言い分にも道理があります。しかし、人類の生存基盤である地球の環境保護は、つぎの世代に対して負っている私たちの責任であります。そこで、私は、途上国の緑の保護とバランスのとれた発展・開発への援助を、先進国の責任としてとらえたいと思います。こうした問題について、あなたはどうお考えでしょうか。
2  ペッチェイ 森林破壊は、とくに人口過剰な発展途上地域で、非常に深刻な憂慮のタネになっています。とりわけ懸念されるのが、熱帯雨林の喪失です。これは一つには、熱帯雨林が、なお繁殖しつつある各種動植物の最大の集結地だからであり、もう一つには、いったん樹木の覆いが失われれば、土壌の表面はたやすく降雨に押し流され、あるいは太陽熱で凝固してしまうからです。
 かつては壮麗な緑の外套がわが地球の広大な地域を覆い、幾百万年にわたって再生をつづけておりました。ところが、人間は、その安定した状態を崩壊させて、その外套に包まれていたもの──土地や水、木材や薪炭、食物や皮革、繊維や獲物など──の占有権を主張し、その範囲をますます広げていったのです。森林はつぎつぎと姿を消し、かつてヨーロッパの探検家や征服者、植民者たちが全世界を侵略し始めたころに存在していた森林の、おそらく四〇パーセントがすでに失われています。
3  現在も、少数の発展途上国にはまだ原生林地帯が存在していますが、これとても、強力な保存政策が施行されないかぎり、同様の運命をたどる恐れがあります。アマゾン流域地方では、世界最大の緑林密集帯が、開発事業や幹線道路建設、新開地などの用地として切り開かれ、あるいは産業用の木材として伐採されています。東南アジアやフィリピン諸島も同様な状況で、毎年、大森林地帯が消え去っていきます。
 また別の地域では、資源に恵まれない最貧困国の人びとが、多くの場合、その燃料をほぼ全面的に薪か木炭に依存していますが、彼らは生存競争に必死なあまり、自分たちにとって切実な必需品である樹木を切り倒してしまい、やがてそれが無くなると、新たな樹木を求めて居住地から奥地へ奥地へと向かっていきます。さらに、密猟者とか金鉱採掘師、石油試掘者が宝探しにやってきて、幾世紀も経た森林の聖域に侵入しては冒涜しています。
 そうしたことが起こると、すでに私が述べたように、無数の生命体の自然生息地は永久に破壊されてしまいます。しかも、ではこれらすべての地域の国々や人びとが望みどおりにかなり裕福になったかといえば、決してそうではなく、実際には、かえって貧困になっているのです。なぜなら、彼らの基本財産である天然資源が消費され、浪費され、抹殺されているからです。
4  池田 この問題の解決のためになによりも必要なことは、短期的な利害ではなく、長期的展望に立っての、発展途上国の政治的安定と永続的な自立への努力、および先進国側の援助であるといえましょう。
 政治的に不安定であるため、政府も目先の利益ばかりを追っているのが実情ですし、民衆が無計画に森林資源を伐採したり、原始的な焼き畑農耕でつぎつぎと森林を焼き払っていくことに対して、適切な指導・統制がなされていないのです。
 もし、政治が安定し、国家としての長期的な経済建設を考えるようになれば、いまのような、過去からの遺産を食いつぶしていくやり方は、おのずと改められることでしょう。たとえば、タイ国においては、開発のための森林資源の急速な破壊が、洪水による災害を増加させています。このままでは、十年以内に森林資源が枯渇してしまうという調査結果にもとづいて、タイ国政府は強力な森林保護の政策をとるにいたりました。
 他の東南アジア諸国、アフリカ、中南米の国々も、政治的な安定が得られて、国民が子供や孫たちの時代に及ぶ繁栄に心を向けるようになれば、緑を大切にしようという気持ちになるはずです。しかも、これらの地域は水と太陽に恵まれており、自然の再生力はきわめて強いのです。
5  問題は、それぞれの国の政治的・経済的安定であり、先進諸国は、彼らが安定を確立し自立できるように援助すべきです。ところが現状は、超大国間の対立がこれらの国々に持ち込まれて争いをひきおこし、戦場と化してさえいます。一方で国土を荒廃させておき、他方で食糧などを援助しているわけで、悪循環を繰り返しているのです。その根底には、先進諸国自体、目先の利益のためにこれらの国々を利用しているという現実があるといわなければなりません。
 かつて、トインビー博士と対談した折、同博士は、「援助が正しい長期的目標を志向したものであるかどうかをみる決め手は、その物質的援助が精神的援助につながるよう設計されているかどうかです。つまり、物質的向上それ自体が目的となってしまうのでなく、精神的福祉への手段として推進されているかどうかなのです(注1)」と述べておられました。私も、「何を要求するかでなく、何を与えうるかに発想の根本をおくべきである」と提言したことがあります。いわゆる先進国は、途上国の人びとの幸福のために、いったい何をもって貢献できるのか、そこに途上国援助の視点があると思うのです。
 その意味で、人類全体が、この悪循環に早く気づき、事態を根本的に改める必要があるわけです。ここでペッチェイ博士にお伺いしたいのですが、主として熱帯地域を占めている発展途上国の緑は、もし、現在の速度で破壊が進行したとすると、いったいあと何年くらいがタイム・リミットであると考えられますか。
6  ペッチェイ 掛け値なしの推定によれば、森林破壊が現在と同じ速度で進行した場合、熱帯林はせいぜい四十年から五十年間で、事実上全面的に破壊されることが警告されています。
 池田 恐るべきことですね。しかも、実際上の被害は、その四、五十年先の森林壊滅時ではなく、もっと早く現れてくるでしょう。その被害は、人間生活のさまざまな分野にわたるにちがいありません。
 ペッチェイ 地球の緑の覆いをかくも理不尽に剥ぎ取ることが、人間の生態や文化にいったいどのような意味をもつのか、われわれはまだ理解できずにいます。しかし、その結果を取るに足らないもののように考えているとしたら、それは愚かなことです。私は、世界の教養ある人びとが、なぜ一団となって立ち上がり「大量殺戮をやめよ」と恐怖の叫び声を上げないのかと、いつも自問しています。教会や学術団体や国連は、なぜ各国政府や諸国民に対して、今日の森林破壊の報いが明日の人間の大規模な欠乏と死であることを、激しく警告できずにいるのでしょうか。
7  池田 結局、人間の関心は目前の利害にとらわれてしまうからでしょう。自然の破壊は、発展途上国でも急速に進行しつつあります。そうした国の経済は、自然破壊によって得られる利益で支えられているという複雑な一面もあるようです。しかも、長期的視野から警告を発すべき学術界や宗教界は、自ら物質的利益を生み出す力はなく、むしろそうした利益によって支えられている立場であるため、発言できずにいるのではないでしょうか。
 もちろん、長い目でみれば、この危険性を訴え、破壊を抑制し、再生産を推進して、森林はじめ自然を保存していく方法を確立することが、社会全体に貢献する唯一の道であることは明らかなのですが……。
8  ペッチェイ 先進諸国での自然の保存状況は、ほとんどの場合、完全に満足できるものではないにせよ、さきの発展途上国に比べればずっと良好です。これは主として、環境保護運動による弛みない努力のおかげです。森林地帯は保護されており、木材・パルプ・紙等の産業が盛んなところでは、通常、合理的な再植林計画が義務づけられています。ただ、注意すべきは、産業的見地からの再植林だけでは、問題の全面的解決とはならないということです。なぜなら、樹木さえあれば林ができるというものではありませんし、また、再植林したとしても、本当の森林環境に不可欠な、動植物の往々にして微細な生命の絡み合いを、ただちに再現できるわけではないからです。しかしながら、自然保護意識の高い諸国で行われている再植林計画は、現時点で求めうる最良の妥協案、もしくは少なくとも正しい方向へ向けての第一歩といえましょう。
9  池田 日本の場合、国土の大部分が山地であるため、森林の占める比重はかなり高いわけですが、大都市周辺では宅地化などで急速に緑が失われつつあります。
 また、観光開発の名のもとに、珍しい動植物の生息している原生林や湿地が、道路建設のために破壊されています。環境学者や動植物学者、愛好家などはそうした“開発”に反対していますが、その土地の人びとには“開発”による経済的利益が優先する場合が多いようです。世界的にいえば発展途上国に現れている問題が、国内的にも、こうした地域にそのままみられるのです。
 だからといって、自然を保持するために経済的貧困に耐えるよう、これらの地域の人びとに求めることはできません。自然を守ることと開発とが最大限に両立できるよう、研究し工夫することが肝要です。そして、もし両立が不可能な場合、そうした条件の不利な地に住むことをやむなくされている人びとに対し、それを補う援助がなされる必要がありましょう。たとえば、租税上の優遇措置などを考えるべきではないでしょうか。
 同様に、世界的に発展途上国が直面している問題についても、国際的規模で、そうした援助を行う必要があると思います。もちろん、これは簡単なことではありませんが、しかし、人類生存の基盤を守るためには、避けられないことであろうと私は考えます。
10  ペッチェイ ただいまあなたは、社会全体の利益のために保護すべき地域に住む人びとに対して適当な補償をせずに、その地域の潜在経済力を十分に発展させることを差し控えるよう要請するのが正しいかどうか、という問題を提起されました。
 この問題は、各国の国内にも、また国際間にも該当する問題です。これに対する概括的な回答は、どのような開発が可能であれ、それには慎重な環境保護と調和させるために納得のいくあらゆる努力を払うべきだということです。しかし、環境保護と開発とが互いに相容れず、より広汎な社会の利益のために後者を犠牲にせざるをえない場合は、その開発を制限された人びとに対して、それ相応の補償がなされなければなりません。
 国家レベルでは、これとまったく逆のことが起こっています。それは、国家計画とか総合的土地利用とかの理由から、住民の意思に反して、ある地域に潜在的に危険な施設──たとえば原子力発電所──が設置されることになったという場合にみられます。この場合、これらの住民は十分な補償を受ける権利があります。この衡平法(注2)の原則の適用は、国内次元のみに限定すべきではありません。これは、国際的にも適用されるべきです。しかし、もしわれわれが、まず間違いなく起こるであろう破壊から地球全体の生態系(エコシステム)を本当に守ろうとするのであれば、この問題について、たんに理論構築をするだけでは不十分です。強力な先進諸国が政治的イニシアチブをとり、この種の原則を全世界的規模で実行に移すにはどうしたらよいかを最優先の問題として、たとえば国連の後援のもとに検討しなければなりません。
 もしある国が、他の国々の形成する共同体から地域的ないしは世界的利益の名のもとに環境保護施策を採ることを要請され、そのため自国の経済その他の発展が制約されるという場合は、そうしたどの国家も──発展途上国の場合はとくにそうですが──正当な補償を受けることを確約されることが、私には緊急かつ不可欠のことと思われます。
11  こうした原則について国際的な舞台で合意に達し、それを運用でき施行できるようにすることがいかに複雑で困難なことであるか、私はよく知っています。
 しかし、もしわれわれが、人間のひきおこす災害を回避し、この地球を救いたいと願うのであれば、地球全体の生態系を独裁的に管理することを別とすれば、私には容認できる代替策は、他に見当たりません。われわれは、わが地球──その森林、サバンナ、両極地方、海洋、海岸、湖沼、河川、動物、植物、原野、大気、気候、その他すべて──を救い、そしてもちろん、われわれ自身の生存をも確保しなければならないのです。
 池田 自然界の営みに国境はありません。シベリアの寒気団は日本の冬を支配し、赤道下の太平洋に生じた台風は何千キロの旅をして日本を襲います。メキシコ湾の海流はヨーロッパの気候を左右しています。また、アメリカの農作物が凶作であれば、世界中が食糧難に苦しむでしょう。地球は一体であり、全人類は運命共同体なのです。
12  ペッチェイ つぎに、一般大衆による環境保護運動ということに関しては、イタリアは、一言触れる価値がありましょう。イタリアには、旧蹟や美術品の逸品や美しい景色がとび抜けて豊富にありますが、それらの保護という点では最低の成績だといわれていました。イタリアが、美を資産にするという上品で有益なやり方を再発見したのは、つい最近のことなのです。現在では、国の自然、歴史、芸術の遺産を聡明に保存し利用することをめざす、新しい運動が勢いを増しています。この運動を開始したのは官僚ではありません。先見の明と創意と勇気をもった市民の小さな草の根集団──環境保全論者、生物学者、芸術家、詩人、それに学童や若者を先頭に立てた少数の一般人──が、その先鋒となったのです。
 彼らのおかげで、新しい健全な考え方と倫理──啓発された環境保護主義──が、人びとの間に徐々に広まっています。経済的発展は、もちろん、だれもが望んでいます。しかし、社会や生態や人間にそれが強いる犠牲を知らされることなく、盲目的にこれを容認することは、ますます多くの人びとが拒否するようになっています。そして、もしそうした犠牲があまりに高価だと思われる場合は、その代替策を率直に論じ合おうとする態度が、人びとの間にますます広がってきています。
13  池田 それは素晴らしいことです。日本の場合も、民間の自然保護団体がそれなりの運動を起こしていますが、国民的な広がりをもつまでにいたらず、他方、官僚主義がきわめて強いため、あまり効果を出すことができずにいます。日本は、官僚機構が強力であることが、一面では社会の安定と繁栄に貢献していますが、他面、これまでの価値観を覆さなければならないような運動に対して、これを圧殺してしまうという弊害ももっています。今後は、自然の遺産や歴史的・芸術的遺産を保存するためには、国民全体に意識を喚起し賛同を得るよう、運動の強力な広がりをめざさなければならないでしょう。
 イタリアの自然は、私も何度か訪問させていただいて感じたことですが、日本とよく似ています。とくに中部から北部イタリアは緑に覆われた山地が多く、他の国からイタリアへ入ると、故郷へ帰ったような安らぎをおぼえます。イタリアの文化遺産の素晴らしさは、驚くばかりです。さすがにローマ帝国の故地であり、ヨーロッパ文明の発祥の地であると感嘆しております。日本の歴史的遺産は、火や水に弱い木造建築が主体ですので、古いもので今日に残されているのは、どうしても数が少ないのです。それに対して、イタリアの場合は、石造建築が主ですから、驚くほど古いものが見事に残されているのですね。
 それとともに、日本は現代にいたって生活様式が極端に変わり、古い建物で生活することは、現在の人びとには耐え難くなってきています。二百年ぐらいの歴史をもつ民家で重要文化財に指定されている例がありますが、若い人びとは、冷暖房施設のついた現代的な住居を好み、先祖代々のそうした古い家を捨てたがっています。自然環境になるべく触れることが人間にとっては心身ともによいのですが、冬の厳しい寒さや夏の暑さに耐え難くなっているのでしょうか。また、近代的な暖房よりも昔ながらの薪や炭による暖房のほうが、今日では高価につくということもあるのでしょう。しかし、前にも触れたように、この人間と自然環境との乖離は、人間の内面世界に対しても深刻な影響を与えるような気がしてなりません。
 注1著者注・『二十一世紀への対話』(文藝春秋)=一九七五年発刊。
 注2 衡平法 英国で発達した一般国内法に対し、この一般法のもつ欠点を道徳律に従って補正してつくられた法律。

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