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日蓮大聖人・池田大作

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二、未来のエネルギー源  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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2  ペッチェイ エネルギー問題は、言うまでもなく全地球的な大問題であり、それにどう対処すべきかは、いまだ世界中で論争を呼んでいる難問題です。この数十年間、人類は、過去の地質年代の数千万年にわたって形成された巨大な埋蔵物を不当に利用し、枯渇させることによって、エネルギー供給源を炭化水素──なかんずく石油と天然ガス──に依存することができました。この状況が、種々の理由から、今後数十年の間に変化するであろうことは確かです。われわれは、素晴らしく便利ではあるが再生不可能なこれらの資源に、これまでやってきたと同程度に依存することは、もはやできないでしょう。
 まず第一に、われわれの分割された世界に政治的困難が生じる可能性があります。たとえば産油国は、機会さえあれば値上げという常套手段にでるか、あるいは、この貴重な資源を長期間もたせるために、保護政策をとって産油量を制限することが考えられます。
 一九七三、四年の第一次オイルショックでは、これらの諸国は石油輸出国機構(OPEC)を通じて供給制限に成功し、石油価格を一挙に三倍に吊り上げ、日本やヨーロッパの一部の国々を窮地におとしいれたものです。これはある程度までは、それまでの先見性のない浪費の余波でした。事実、一九五〇年代と六〇年代には、われわれの産業社会は、パイプラインや他の手段によっていたるところへ容易に輸送でき、低廉で好きなだけ利用できる石油に酔いしれていました。そして産業社会は、この幸運に半永久的に依存できるものと思い込んでいたのです。
 この幻想からのめざめは手荒い形でやってきましたが、そのショックはかえってためになりました。あの経済的好況の明るさに満ちた時期には、ほとんどだれもが、石油の埋蔵量は無尽蔵であり、人間の需要がいかに膨張しても、それをすべて満たすことができると考えていましたが、いまやそれがいかに辻褄の合わない考えであったかを思い知らされたのです。その後、石油とガスの価格は、どんどん跳ね上がりました。一九八三年には、買い手市場でいくらかは値下がりしましたが、おそらくあまり遠くない将来に、より一層高騰することは避けられないでしょう。
3  ここで重要な事実は、人びとが、世界の石油資源は無限ではないということ、あと三十年から四十年ぐらいはもつとしても、永久にはつづかないだろうということに気づき始めたことです。このためわれわれは、なんとしても適切な代替エネルギー源を研究し、探し求めなければならないのです。
 石油に代わりうるものとして、まず最初に頭に浮かぶのは石炭です。石炭は世界中に豊富にあるからです。しかし、石油や天然ガスに比べて、石炭はとても理想的な燃料と呼べるような代物ではありません。石炭は、よりひどい汚染をもたらし、その採取も困難で、輸送や使用も不便です。そのうえ、採炭は仕事としてもあまり魅力がないところから、喜んで炭坑に入る人びとを探すのがむずかしくなっています。
 この問題を解決するために、さまざまな構想が練られています。たとえば、採掘現場で石炭を気化あるいは液化し、それをポンプで地表に送ることや、また場合によっては地下でそれを燃焼させることなどが考えられています。しかし、そうした解決法は、技術的・産業的にはたぶん実現可能でしょうが、いますぐに実行に移せるものでは決してありません。
 今日の経済の大きな部分を占める燃料を、石油・ガスから石炭へと転換するのは、いずれにしても長い時間と複雑な過程、それに莫大な費用が必要です。しかも石炭の使用が増えることは、おそらく甚大な──どの程度かをいまから見積もることは困難ですが──環境破壊をひきおこすこととなり、結局はその使用は、大幅に制限せざるをえなくなるでしょう。
4  つぎに、核エネルギーによる解決策──数年前までの一つの流行──があります。これについては、慎重な検討が必要です。あなたは未解決の問題として、膨大な量に達するであろう放射性廃棄物の安全処理という点を指摘しておられますが、それは正鵠を射ております。しかし、核分裂技術を用いる現在の核発電所をたとえ汚染のない安全で信頼性あるものにできたとしても、信頼できず安全でもなく汚染を招くものが、それら発電所の主人役たる人間社会そのものである、と私は主張したいのです。
 すでに大混乱の状態にあり、自己統治不能なわれわれの社会の一体いくつが、無事に核エネルギー社会へと移行できるでしょうか。また、予見できるかぎりの未来において、それぞれの領土全域に分散する幾千の巨大核発電所と楽しく共存し、しかもそれらから確実に保護される方法や手段を見いだすことは、果たしてできるでしょうか。私には想像することすら困難です。よしんばそれができたとしても、全世界の住民を殺せる量の何千倍という致死性のプルトニウム239や他の放射性廃棄物を毎年毎年処理しては地球を横断して運搬し、永久に安全収納しなければならないという困難は、やはりそのまま残るわけです。
5  いずれにせよ、核社会における技術上・経済上の諸問題は膨大であり、それらの解決法はまだ見通しが立たないわけですが、それよりもさらに重大で見通し困難なのが、それらに関連する政治的・社会的・生態学的・文化的諸問題です。その一つは、社会が核エネルギー化されることによって、エネルギー生産や核分裂物質の管理におそらく必要とされる権力の中央集権化が、政治権力の集中へと容易につながり、それが民主的生活を損ないかねないという危険性です。
 そうした観点からのさまざまな異論にもかかわらず、一部の人びとは、もはや核分裂ではなく核融合による豊富で廉価で安全なエネルギーの時代の到来を呼びかけ、あるいは宣言しています。しかしこれは私には、まだ理論上の可能性にしかすぎないものを産業上の可能性と予測した、時期尚早の賭けであるように思われます。われわれは、こういう絵に描いた餅のようなことを、あまり当てにすべきではありません。
 いずれにせよ、まず人類自身が地球全域にわたって社会的・文化的・政治的に大きく変容を遂げ、その全体系を核エネルギー使用に備えて整えなければならないでしょう。それをせずして核エネルギーに基本的解決を求めるとすれば、それは現状では人類にとってあまりにも危険であり、結局は、そうした方針自体が容認できないほど無責任なものとなり、放棄せざるをえなくなるでしょう。
6  池田 なによりもまず考えるべきことは、エネルギー資源の消費増大に、なんとか歯止めを加える必要があるということです。今日の先進諸国民は、労働や移動についてはなるべく自分の身体の筋力を使わないようにしながら、その一方で、運動不足を補うためにアスレチック・クラブに通い、機械的な体操道具を使って運動をしています。そのどちらにも、エネルギー資源を消費しているのです。
 たとえば、オフィス・ビル内での各階への移動に、数階までならエレベーターやエスカレーターを使わずに自分の脚を使えば、運動不足は解消できるでしょう。少しぐらいの距離なら自動車に乗るのをやめて歩くようにすれば、アスレチック・クラブへ通う必要などなくなるはずです。
 こうして、極力エネルギー資源を消費しないように工夫するとともに、つぎに工夫し開発すべきは太陽熱や風力、水力等のエネルギーです。つまり、一度消費すればなくなってしまう石油や石炭、原子力などでなく、自然の営みがもっているエネルギーの有効な利用なのです。この場合の欠陥は、安定性がないことや設備費が嵩むわりには少量のエネルギーしか得られないことなどでしょうが、知恵を絞って取り組めば、そうした欠陥もかなり補えるはずです。
7  ペッチェイ 十分な量の──したがって現在消費されているよりもいくらか多い──エネルギーを確保することが、近い将来、第一義の要請となるでしょう。これには、石油本位の経済から、できるだけ多種多様なエネルギー源を利用する経済へと移行するための、大陸ぐるみ、地方ぐるみ──理想としては地球ぐるみ──の計画が、必要とされます。その場合の基本方針は、可能なあらゆる形の省エネルギーということでなければならず、そのことはつまり、低エネルギー社会の諸要件に合致し、しかも質的に高度な生活をうながすような政策、技術、習慣、製品などを開発すべきことを意味しています。
 そこでの基本的な重要課題は、かいつまんで言えば、社会を変容させて、より少ないエネルギーでより多くのことができるようにすること、そして再生可能な天然資源、つまり太陽、地熱、海洋、風力、生物などから、可能なかぎり多くのエネルギーが生産できるようにすることです。
 これからも、まだかなり長い期間にわたって、われわれの全需要をこれらの代替エネルギー源で満たすことはできないでしょう。しかし、それらの代替物を漸次主要エネルギー源にしていくことが、われわれの主要方針であるべきです。そうした開発のための共同研究が進めば、それらのエネルギー源が、やがてはわれわれのエネルギー需要の大部分を満たす可能性をはらんでいることが、必ずや判明するでしょう。

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