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日蓮大聖人・池田大作

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“文化的”危機  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  “文化的”危機
 現代人は、人口・経済複合体と人間の生態との間に密接な関係があることを頑なにも認めたがりませんから、環境保護の運動は、あらゆる活力を傾注して行われなければなりません。
 本論からちょっと外れますが、ここでそのことを考えてみたいと思います。この問題においても他の問題においても、現実を直視したがらないという傾向は、往々にして現実逃避にほかなりません。それはつまり、人類の今日的な弱点や怠惰や行き過ぎを、人間本性にもともと備わる一定の特性のせいにして正当化しようという試みにすぎないのです。初期の人類が地球上の支配権を確立したのは、その利己性や貪欲性、権力欲や不寛容性、さらに攻撃性などのおもむくままに冷酷な行動をとったおかげであり、そうした特性はわれわれの猿人的な祖先に由来するものだ、とする説があります。この考え方によると、その祖先を競争相手の動物たちに打ち勝たせただけでなく、自分たちよりも虚弱な、もしくは知力の劣る人間集団や個人を抹殺させた特性が、そのまま現代人の遺伝情報に刻み込まれており、それらは人間が進化の頂点に達した今日でも、なおわれわれの中に残っているということになります。つまり、かつては有用だったこれらの性質もいまでは反価値になってしまい、しかもなおわれわれはそれらを取り除くことができずにいるというわけです。すなわち、この論法は、人類は、自分たち自身の中にいまも残る獣性固有の原始的衝動に支配されつづけているのであるから、自分たちの抑制力の及ばない運命は甘受せざるをえない、という前提に立っているのです。
 これは、私の意見では、安易な想定であり、科学的にも道徳的にも根拠薄弱なものです。そうした前提は、今日の人類の危機が、たしかに人類という種に備わる事実上不変の“生物学的”特性に根ざすものであること、そして一時的で変更可能な要因によるものではないことが完全に証明されないかぎり、認めることができないものです。
2  とくに私は、今日われわれが難渋しているのは、人間に本来備わるなんらかの根本的な欠陥のゆえであるとする主張には、まったく同意できません。私はまた、人間は知能の発達に絶対の優先性を与えた結果、自らがあまりにも特殊化された種となり、最大限の適応性が要求される世界にありながら、その変化に即応できなくなったとする説も、否認するものです。いまのこの説明によれば、皮肉にも人類は人間特有のウイルス──つまり知力──によって活力を弱められ、その結果、逃れようのない自然の掟から破滅を運命づけられている、ということになります。これらの説とは反対に、私は、人類の現今の危機は人間の本性にその原因があるのではなく、したがって決して回避不能なものではないと確信しています。この危機は、ユダヤ・キリスト教的伝統から発達して、その後世界各地に広まった文明に起因する“文化的”危機であり、それがいかに深刻であろうとも、結局は制御できる危機なのです。
 現代人が非常に誇りに思っているこの文明は、人間自身を偶像崇拝させるとともに、全宇宙とまではいかないまでも、全地球に対する人間の支配を称揚したものです。しかも、そればかりでなく、人間が自らの卓越性を押し通すために行うなにごとをも事実上容認するとともに、人間がその目的のために選ぶどのような手段をも正当化しようというものです。人間が精神的・倫理的・道義的な美徳と価値の全体系にもとづく崇高な諸原則に導かれるべきであることは、たしかに理論上は認められることです。しかしながら、現代を支配する文明はあまりにも人間中心的・自己容認的な文化を土台としているため、人間は、そうしたほうが自分に好都合と思われる場合や、それらが俗世的利益の追求や自身のエゴの充足の妨げとなる場合には、それらの原則をいつでも忌避する自由を、事実上与えられているのです。現代には、有形の利益や物質的な報酬を優先する傾向があり、その結果、人間性が裏面に押しやられ、今日の主要な崇拝の対象である“発展”──いまやほとんど呪文化したこの言葉にどのような意味をもたせるかは別として──が正面に引き出されているのです。
3  われわれが格闘している危機は、このように、自分自身の危機であり、目標の危機でもあるのです。この危機は、われわれ自身の内面で育ったものであり、思考や行動を不明瞭で不満足なものにする深刻な矛盾の、原因とも結果ともなっています。この危機は、かたやわれわれがせっせと生み出している新たな現実と、他方それらが生まれた原因への理解や、それらと共存するための人間の能力が、不釣り合いであることを強く示しています。こうしてわれわれは、自らの自由裁量によって最新の手段を用いながら未来へと突進しているわけですが、これに対して思考や感情、政府や制度は、もはや存在しない過去に縛りつけられたままになっているのです。一方には最新の科学技術があり、もう一方には哲学上・行動上の衰退がみられるというこうした分離現象が危機を生み出し、今日なおこの危機を永続化しようとする諸要因にますます勢いをつけているのです。
 この点については、のちにもう一度述べたいと思います。いま非常に大事なことは、現代の苦境は本質的には文化的なものであって、生物学的なものではないということ、そしてその苦境は何に起因しているかといえば、われわれが世界中でひきおこしている抜本的で急激な変化と、その変化に適応する必要がありながらいまだ十分に適応できずにいることの意味についての理解それ自体に、内面の不均衡や時間的なずれがあるためだという知識をもつことです。この機能不全の悪循環は、極度に警戒を要するものではあっても、決して逆転不可能なものではありません。矯正も逆転もできるのです。
4  したがって、われわれは断念すべきではありません。われわれの状態は、決して絶望的ではないからです。後述するように、人間は一人ひとりの中に理解力、想像力、独創力を豊富に蓄えており、そのうえまだ活用されていない、いや顧みられてすらいない道徳的資質を、豊かに備えています。これらの蓄えは未開発の潜在力そのものであり、したがって、人間が自身と環境とに加えた損害を補修するために、そしてこの両者間の失われた均衡を取り戻すために、これらの蓄えは系統的に開発することができますし、またそうしなければならないものなのです。そうすることによって初めて、人類はついには現状を逆転することができるでしょう。このことを認識し、それに従って行動することこそが現代の最重要課題でもあり、また本書の対話における中心的な訴えでもあるのです。
 われわれが文化的な均衡を取り戻し、自らの思考にわずかなりとも正常さを回復させるための最も平明で容易な方法は、人間と自然の関係にかかわる単純な基本的真理についての意識を高めることです。もし、生命の倫理という枢要な分野に確固とした文化上・行動上の基礎が確立されれば、それだけでも、現在の人類の暗愚で無関心な状態をはるかに越える大きな前進となり、その結果、他の分野で成果を上げることも、より容易になるでしょう。そうなれば、徐々に連鎖反応が広がり、やがてはより成長した態度と、より責任感のある社会の進展を招くことでしょう。したがって、この話題にもう少し深く立ち入ることは、たとえそれが重複的であるとしても、それだけの価値のあることでしょう。

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