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日蓮大聖人・池田大作

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主導者の自覚  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  主導者の自覚
 私がいま試みた宇宙的時間と人類の経歴との比較は、必ずしも精密なものではありません。しかし、たとえ尺度に幾分かの誤差があったとしても、この比較そのものは、さして大きく変わるものではないでしょう。また、この比較の各段階の関係を二、三の要素をもって、あるいは十の要素をもって修正してみても、あらゆるものを包括する統合体の中で人間が占める位置とその現代文明の全容の概観には、やはり大きな相違は生じないでしょう。しかし、逆に、この比較の有用性を過小評価することはできません。この比較は適切な時間の枠組みの中に人類の時代全体を示すと同時に、われわれを生み出し、生存と成功に不可欠な諸条件を絶えずもたらした、さまざまな出来事や要素の無数の連鎖を浮き彫りにしています。そのうえ、この比較は、われわれ人類がもっとずっと大きな動態的な全体に属していることを強調しており、人間と自然の一体性こそが人間存在の基本的要素であることを示唆するとともに、われわれが自然を弱め、自然との絆を弱めるために行うどんなことも、結局は自らを不可避的に弱めることになってしまうということを、強く警告しているのです。
 このことを忘れるならば、決定的な誤りをもたらすだけでしょう。言い換えれば、人間は、自分たちのものだと主張しているこの世界で、自らを特権的な地位に祭り上げはしたものの、この惑星上の貪欲で鈍感な暴君として振る舞うことをやめないかぎり、自らの地位が危うくなり、まったく短命に終わるかもしれないのです。
2  人類の冒険的事業をこうした全体的な脈絡の中から観ることによってのみ、われわれはいかに突然に、またいかに抜本的に自分たちの地位が変化したかを理解でき、さらに、いまこそ初めて自らの冒険的事業に全面的に責任をもつ主導者として、いかに行動しなければならないかを理解できるのです。
 われわれは否が応でも地球上の変化の至高の代行者なのであり、自分たちがこれから行うすべてのことが今後のさまざまな事態に影響を与え、われわれ自身の未来をも左右する主たる要因となるのだという自覚こそが、最も大切なのです。人類の未来が、永続するのか短命に終わるのか、素晴らしいものとなるのか、破滅的なものとなるのか、報われるところの多いものとなるのか惨めなものとなるのかは、いつにかかって、この地球上に隈なく行き渡っている生命の織り地を保存するか崩壊させてしまうかにかかっており、より全体的には、われわれの膨大な知識と力を使って、この生命組織体をどう改変させていくかにかかっているのです。
3  同様に重要なことは、人類の未来が歴史上初めて全地球的な未来になるであろうということ、すなわち、選択される道が自己達成の道であれ破局の道であれ、それは、それぞれに独立した国家や地域ではなく人類全体を巻き込むものになりそうだということを覚知することです。こうした事実は、人類が地球上のライフ・サイクルやシステムに良くも悪くも幅広く干渉する能力、また、他の多くの種の運命のみならず人類自身の運命を、意図的にせよ無意識的にせよ定める能力を勝ち得て以来の、人間の無比無類さによって現出された新たな形勢を示すものです。
 これは忘れられていることですが、われわれの生活においては、基本的に自然が優位に立っています。しかしわれわれは自然との関係を変革する新たな能力をもっています。この二つの事実を考慮に入れることがきわめて重要です。この双方がいろいろな形で提示されることによって、われわれの視野は豊かにされるのです。これはあたかも、一つの主題による変奏曲が、音楽の美しさを強調できるようなものです。たとえば、人間は常に守勢に立つ弱者として出発したこと、かつて人間の数はきわめて少なかったことなどは、いつの時代にも思い起こす価値のあることです。人間は幾時代にもわたって散在し、互いに交際も緊密でない家族の連帯の中で暮らしていましたが、そこから徐々に、その機敏な頭脳と手先の技巧を発達させ、避難場所をつくり、道具や加工品や武器を生産していきました。頭脳と手を調和的に働かせる能力によって、人間は、自らの生活闘争においてより良く装備され、これが外敵から自己の領域を、そして荒野の危険や天候の激変から自らの身を守ることを可能にし、ついには最初の原始社会の形成へと到達したわけです。
4  人類が種として存在しえたのは、ほぼ全面的に、こうした先史時代の人間の進取の気性のおかげなのです。諸事が変化したのは、いまからほんの百世紀ほど以前のことです。このころ、より幸運な、もしくはより才能のある人間の種族または部族が、植物や薬草を育て、動物を家畜化することを学び、これによって食糧を定期的に生産し、この食糧をつぎの季節まで保存するようになりました。彼らはその後、多少なりとも永続的に近接して居住し、初期の村落を形成しました。これらの比較的安全な根拠地から、冒険好きな探検隊がより多くの食糧や土地、水や塩を捜し求めてさっそうと出発し、行く手に立ちはだかるより弱小の人間集団を、つぎつぎと排除ないしは従属させました。古代史が徐々にたどった過程は、今日なお残っている古代の遺跡や物語、伝説や伝統の名残などによって立証されています。その後、人口が増大し、その需要や手段が多様化するにつれて、人類の膨張の速度と規模も変化していきました。こうして、ますます高度な諸文明が花開いたのです。
5  こうした居住、探検、征服、支配という歴史的周期のうちの、最後の段階そのものはきわめて短期間ですが、いまなお継続中です。この段階は、近代民族国家の形成から始まりました。これらの諸国家は、神や国王や祖国の名において行動を起こし、自分たちの言葉や国旗や法律を、地球上の最も遠い地域まで運んでいきました。そして、この衝動が、これらの諸国家を互いに抗争させ、想起することもできないほど数多くの戦争を、事実上起こさせてきたのです。この段階は、世界的な植民地解放の過程と、今日、超大国と呼ばれている人類史上最後の二つの帝国の出現によって、絶頂期に達しています。
 この段階はしかし、その重要性と激動とにかかわらず、全部でまだほんの二、三世紀、言い換えれば、有史時代のたった二パーセントほどしかつづいていません。この時代は、ほぼあらゆる分野にわたる数多くの変化が行われた時代でしたが、残念なことに、政治上の思想と制度の分野だけは例外でした。この分野は、それ以前の諸世紀の間に到達した水準をさほど大きく越えては進展していません。ですから、政治の分野に限っていえば、現代は過去数世紀の付録の域を出ていないのです。人類全体が物質革命に揺さぶられ、知識や力、進展の機会などの面でまったく新たな段階へと跳躍したのですが、それにもかかわらず現代は、文化的には大きく過去に属しています。逆説的に言えば、これこそが、人間は自らの力の絶頂にありながら、今日ほど危機に立たされたことがないことの理由なのです。
6  これらの諸革命とわれわれとの“恋愛関係”は、政治と文化とが釣り合っていないという背景に照らして考えなければなりません。われわれは自らの力に魅惑され、“なすべきこと”ではなく“できること”をやっており、実際に“なすべきこと”や“なすべきでないこと”に対しても、あるいは人類の新しい状況に潜んでいると考えなければならない道徳的・倫理的規制に対してすらも、なんら配慮することなく、どんどん前進しています。われわれの判断の誤りや、無責任な行為の結果がどうなるかは、きわめて明瞭です。人類はきわめて多くの疾病に打ち勝ってきましたが、自らの増殖力を減らすことは考えず、その結果、世界の人口は驚異的に増加しています。今日、一分の隙もない武装を凝らすためにはどんな機会も逃さない、喧嘩腰の、いわゆる主権国家の時代にあって、軍事技術を大きく発達させてきたあのやり方は、ほかでもないすべての人類が、実際に危険な火遊びをしていることを意味しています。全速力で突進しつつ、そしてまた物質の所有と消費への自らの性癖に溺れつつ、現代人は全地球的な物質、食糧、サービスへの要請を劇的に膨張させてきました。また、人工的な必需物を生み出し、絶えず流行を新たにし、技術的に早晩すたれるような新製品をデザインしては、不可欠とみなされるものの範囲を巧妙に拡大してきました。
 こうして押し寄せる猛烈な軍事優先主義と消費主義の大波に対抗するために、人類が考え出した唯一の方法は、ますます自然環境を利用して、最も入手しやすい金属・燃料の鉱床や手にしうるかぎりのあらゆる生物資源を無差別に開発することだったのです。このような行動は、このたった一つのかけがえのない地球を、取り返しがつかないほど枯渇させてしまいます。地球の恵み深さ、寛大さは、無限ではないのです。たとえ今日われわれを取り囲む他のあらゆる逆境が緩和されることがあったにしても、自然に対するわれわれの高飛車な取り扱い方は、それ自体われわれの破滅を招きうるものなのです。

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