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註解  

「平和と人生と哲学を語る」H・A・キッシンジャー(全集102)

前後
 
1  〈あ行〉
 アイゼンハワー
 (一八九〇年―一九六九年)ドワイト・デイヴィド。アメリカ第三十四代大統領。第二次大戦の欧州連合軍最高司令官として、ノルマンディー上陸作戦を指揮。一九五二年共和党から大統領に当選。五六年再選、在任中、朝鮮、インドシナの休戦を成功させ冷戦を緩和させたが、U2型機事件の発生でソ連との関係をふたたび悪化させた。
 愛別離苦
 八苦の一つ。死やさまざまなことによって、愛するものと離別しなければならない苦しみのこと。八苦の他の苦は生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎会苦(怨み憎んでいるものと会う苦しみ)、求不得苦(求めて得ることのできない苦しみ)、五盛陰苦(色・受・想・行・識の五陰にあらゆる苦悩を盛んに受ける苦)。
 アインシュタイン
 (一八七九年―一九五五年)アルバート。理論物理学者。ドイツに生まれる。一九〇五年に特殊相対性理論を提出、一五年に一般相対性理論を完成させた。ユダヤ系ドイツ人で、ナチスに追われて三三年にアメリカに渡る。平和にも強い関心を寄せ、世界政府を提唱した。
 光量子概念にもとづく光電効果の解明でノーベル物理学賞を受賞。時間や空間、あるいは質量やエネルギーなど革命的な物理的成果によって、哲学界、思想界にも大きな影響を与えている。
 アウシュヴィッツ
 ポーランド南部の都市オシヴェンチムのドイツ名。第二次大戦中、ナチス・ドイツによって強制収容所が造られ、多くのユダヤ人などが、強制労働、栄養失調、伝染病で死亡、銃殺や毒ガスなどにより虐殺された。
 アキレウス
 ギリシャ神話の英雄。古代ギリシャの詩人、ホメロスの大叙事詩『イリアス』の中でトロヤ戦争の主人公として語られている。
 息子の不死身を願って、女神である母テティスが冥界の川スティクスにアキレウスをつけたが、母がつかんでいたアキレウスの踵だけは水につからず、唯一の弱点となり、その弱点を敵の矢に射貫かれて死んだ。後世になって、踵にある歩行運動に不可欠な腱をアキレス腱と呼ぶようになった。
 アジア・太平洋平和文化機構
 一九八六年一月二十六日、「第十一回『SGIの日』記念提言」の「恒久平和へ対話の大道を」で構想を提示。本全集第1巻収録。
 アデナウアー
 (一八七六年―一九六七年)コンラート。西ドイツの政治家。一九三三年、ナチによりケルン市長を解任され、第二次大戦中に二度投獄されている。四六年、キリスト教民主同盟の創設に参加。党首となって、四九年から十四年間首相。在任中、ヨーロッパ諸国と協調することに努め、西ドイツの奇跡的な復興を成し遂げた。
 アラビア
 八世紀から数世紀にわたって、アラビア半島を中心に、東は中央アジアから西はイベリア半島まで、南は北アフリカにわたる広大な地域がイスラム文化圏となった。この時期、アラブ世界では、ギリシャをはじめとして先進文明国の遺産を積極的に吸収し、融合・発展させるなかで、当時としては最高水準の科学が形成された。アラビア科学はヨーロッパに伝えられたが、インドで考案された数字もアラビア経由でもたらされたので、アラビア数字と呼ばれることになる。
 アリストテレス
 (前三八四年―前三二二年)古代ギリシャの哲学者。イデアという超感覚的な存在へ向かった、理想主義者である師のプラトンとは異なり、形而上学を視野に入れながらも、厳密な用語規定から出発し、論理的な体系をつくりあげることを試み、経験的な、歴史的・科学的思考にもとづいて、感覚的事物の分類・総合を学問的に遂行。広範囲にわたって諸学を組織化して、後世の諸学の発達の基礎をつくった。著書に『形而上学』『自然学』『詩学』『政治学』など。
 アレキサンダー大王
 (前三五六年―前三二三年)アレクサンドロス大王。マケドニア王国の王。フィリッポス二世とオリュンピアス妃との間に生まれ、哲学者アリストテレスに学び、父王が暗殺されると二十歳で即位した。ギリシャを支配するとともに、二年後、東方遠征を開始し、ペルシャ王ダレイオス三世の軍を撃破。
 さらに東征を続けてエジプト、バビロニア、インド北西部にいたる古代最大の世界帝国を建設したが、遠征の帰途、三十二歳でバビロンにて病死し、帝国も崩壊する。その東征を通じて東西文化の交流がなされ、ギリシャとオリエント文化の融合であるヘレニズムと呼ばれる新しい、普遍的な文化の時代が始まった。
 安保常任理事国
 国連(国際連合)安全保障理事会を構成する米・英・仏・ソ連(現ロシア)・中国の五カ国のこと。第二次大戦後の一九四五年、サンフランシスコ平和会議で国連憲章が採択されたさい、戦勝五大国が安保理の常任理事国として発足した。常任理事国には、その反対によって決議が成立しなくなる「拒否権」が与えられている。
 EEC
 「EC」の項を参照。
 イザベラ
 (一四五一年―一五〇四年)イザベラ一世。カスティリャの女王。アラゴン国の王である夫のフェルナンドとともにスペイン国家を統一し、近代スペイン成立への発端を開いた。また、コロンブスの新大陸到達を援助した。
 イザヤ
 紀元前八世紀のユダ王国最大の預言者。強敵に圧迫されて動揺する人々に、神ヤハウェの力と正しい信仰の勝利を説く。メシア(救世主)の出現を預言。旧約聖書のイザヤ書は三部からなり、イザヤの他に第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれる無名の預言者によってつくられた。
 EC
 欧州の平和のために統合がめざされるなかで、一九五八年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの六カ国によって、関税同盟や共通農業政策をもって広域経済圏を形成するEEC(欧州経済共同体)が発足、六七年に、さらに他の共同体と統合するなど強化されてECと改称された。
 その後、イギリス、デンマーク、スペイン、ポルトガルなど加盟国も増加し、九三年に発効したマーストリヒト条約によってEU(欧州連合)となった。
 イスラム原理主義派
 イスラム法(シャリーア)を厳格に適用し、実行することによって、アラブ・イスラム諸国の西欧型にもとづく近代化を批判し拒否する、イスラム教の復古運動、政治思想を実践する派。テロに走る過激な行動も見られる。
 イラン・イラク戦争
 一九七九年二月に、パフラビー王朝を倒したイラン革命が波及することを阻止するために、八〇年九月に、イラク軍がイランを攻撃して始まった戦争。戦争は長期化し、欧米諸国やソ連(当時)がイランに圧力をかけ、八八年七月に、国連による停戦の呼びかけをイランが受け入れて終結した。
 イラン革命
 一九七九年二月、パフラビー王朝を倒し、新政権を樹立した革命。同年四月にホメイニを最高指導者とする新政権は「イスラム共和国宣言」を発し、十二月にはイスラム共和国憲法を制定した。
 印象派
 印象主義によって表現しようとする芸術家の一派。印象主義とは、一八六〇年代にフランスの画家たちの間から起こった運動で、「印象」の名は、七四年のドガ、マネ、ルノアールらのグループ展に出品されたモネの「印象―日の出」から、新聞記者が“印象主義者たち”という言葉を使ったことによる。
 印象主義の画家たちは、古典主義的な描き方に抗して、光や動きの変化に注目し、固定的な輪郭や色彩を否定して、対象に対してもった感覚的、主観的な印象をキャンバスに描いた。印象主義は、絵画にとどまらず、音楽などの他の芸術、あるいは文学など多方面に影響をおよぼした。
 インドシナ戦争
 第二次大戦後、旧フランス領インドシナ三国(ベトナム、ラオス、カンボジア)で起こった民族解放戦争。第一次インドシナ戦争は旧植民地の復活を策したフランスとの間で一九四六年に始まり、五四年にフランス軍が敗退して一応の終結をみた。
 しかし六〇年以降、第二次インドシナ戦争はベトナムへの介入を強めたアメリカ軍との間で戦われ、一般的にはベトナム戦争と呼ばれた。アメリカ軍は激しい空爆を行ったが、軍事的勝利を得られず、ベトナムから撤退、南部の重点都市サイゴンが陥落して終了した。
 インドシナ紛争
 前項「インドシナ戦争」を参照。
 ウィルソン
 (一九二六年―)ブライアン。イギリスに生まれる。オックスフォード大学社会学名誉教授、オールソールズ・カレッジ名誉研究員、元・国際宗教社会学会会長。著書に『セクト―その宗教社会学』『現代宗教の変容』など多数。池田SGI会長との対談は『社会と宗教』(講談社。本全集第6巻収録)にまとめられた。
 ウィルヘルム二世
 (一八五九年―一九四一年)プロイセン王も兼ねる。即位してすぐに鉄血宰相ビスマルクをやめさせて、海軍の拡張に力を注ぎ、積極的な海外政策を進める。その結果、ロシアやイギリス、フランスと対立を深め、モロッコ事件を引き起こすなどして、第一次世界大戦に突入した。大戦の敗北、終了間際に起こった一九一八年のドイツ革命で退位し、オランダに亡命。
 ウーマン・リブ
 一九六〇年代の後半、アメリカを中心に起こった女性の地位向上のための運動。現代産業社会において、家庭に入って男性を支えるという役割をもたされた女性の地位が従属的だと自覚されたとき、六〇年代後半の黒人や学生運動に触発され、性の差別に対する個々の意識の目覚め、改革の運動として急速に世界的広がりを見せた。
 国連でも一九七五年を「国際婦人年」とし、初めてメキシコ市で世界会議が開催された。「フェミニズム」の項を参照。
 ウ・タント
 (一九〇九年―七四年)ビルマ(現ミャンマー)の政治家、外交官で第三代国連事務総長。ラングーン大学を卒業し、ビルマ独立後は情報局長などを歴任。一九五七年から駐米大使、国連代表となり、六一年に事故死したハマーショルド事務総長の後を受けて暫定事務総長、つづいて六二年十一月から七一年末まで事務総長を務めた。その間、キューバ危機、コンゴおよびキプロス紛争、ベトナム問題など調停者として力を発揮した。
 ウパニシャッド
 古代インドの宗教的色彩をもった一群の哲学書。『奥義書』と訳される。大宇宙の絶対者、本体であるブラフマン(梵)と、個人の実体であるアートマン(我)との一体化(梵我一如)が人間の究極の目的であると説き、このことによって輪廻を脱して解脱できるとする。
 ウラジオストク演説
 一九八六年七月二十八日、①八六年末までにアフガニスタン駐留のソ連軍六個連隊を本国に帰還させる②モンゴル駐留ソ連軍のかなりの数の撤収を検討中③中ソの善隣関係構築への補足措置を、いつ、いかなるレベルでも真剣に検討する用意がある、等を明らかにした。
 ABM協定
 ABM(弾道弾迎撃ミサイル)は、ICBM(大陸間弾道ミサイル)を迎撃、撃破する防衛兵器。一九七二年、米ソそれぞれ二カ所(二百基)に設置を限定。七四年には米ソそれぞれ一カ所(百基)に制限。
 エコノミック・アニマル
 経済的利益を追求するのにあくせくして、人間として大切な他の諸価値に目を向けない日本人を軽蔑した言葉。
 SDI
 レーザー光線などエネルギービームに関する先端技術を駆使し、敵ミサイルがアメリカ本土に到達する前に破壊してしまおうという、弾道ミサイル防衛システムの研究構想。
 エッカーマン
 (一七九二年―一八五四年)ゲーテの秘書。晩年のゲーテに仕え、その会話を記録して『ゲーテとの対話』を残した。
 エッセネ派
 紀元前二世紀頃に成立したと言われる。厳格に規律を遵守した禁欲生活をおくり、財産の共有を特色とする。
 NGO
 政府間の協定によらない非営利の民間団体。草の根レベルでの民間外交、人権擁護、軍縮、国際開発協力、開発途上国に対する援助等に取り組んでいる。
 エリヤ
 紀元前九世紀のイスラエルの預言者。バアル神の礼拝を攻撃し、唯一神ヤハウェの信仰を説いた。ユダヤ人はメシアの先駆者として彼の再来を期待する。
 エリザベス一世
 (一五三三年―一六〇三年)イギリス(チューダー朝)の女王。ヘンリー八世の子として生まれたが、母が処刑され、自身も投獄されるなど、波乱の幼年、青春期をおくる。聡明な心と頭脳をもち、姉メアリーの死後、二十五歳で即位、生涯を独身で通した。
 英国国教会を確立し、また産業、貿易を奨励して、保護貿易である重商主義政策によって国力の充実を図っている。一五八八年にはスペインの無敵艦隊を撃滅した。その四十五年間におよぶ治世は輝かしいイギリス・ルネサンス時代とされ、シェークスピアなど多くの文人が輩出した。
 オーウェル
 (一九〇三年―五〇年)イギリスの小説家、ルポルタージュ作家、批評家。税関吏の子としてインドに生まれ、八歳で帰国。
 長じて、大学に進学せず、ビルマ(当時)の警察官となって植民地の醜状を体験。その後、パリ、ロンドンで放浪生活をしている。全体主義諷刺の作品『一九八四年』『動物農場』、スペイン内乱参加の体験による『カタロニア讃歌』がある。
 オーストリア・ハンガリー帝国
 一八六六年の普墺戦争(プロイセン対オーストリア。プロイセンが大勝)の敗北で、ハプスブルク家がハンガリーのマジャール人貴族の独立要求に妥協して六七年に建国された帝国。オーストリア皇帝が盟主になることによって、ハンガリー王国の存立を認め、連合によって成立しており、それぞれの議会と内閣をもつ二重帝国。第一次大戦に敗れ一九一八年に解体した。
2  〈か行〉
 カー
 (一九三二年―)一九五四年、南カリフォルニア大学卒業。海兵隊を経て海軍大学卒業後、プリンストン大学に進み、六二年、航空工学の修士号取得。六六年、宇宙飛行士第五期生に。七三年、スカイラブ四号の船長として宇宙へ。八十四日間、二千時間を超える宇宙滞在記録を樹立したほか、太陽表面の広範囲観測や宇宙遊泳など多くの実験に成功した。七六年、セントルイス大学の名誉理学博士に。
 カーソン
 (一九〇七年―六四年)アメリカの女性科学者。発生遺伝学、海洋生物学を専攻。農薬による自然の破壊を鋭くついた著作『沈黙の春』(初めは『生と死の妙薬』として訳されたが、後に改題。原名「サイレント・スプリング」)は、公害告発の書として、世界的なベストセラーとなった。
 「核軍縮および核廃絶への十項目提言」
 一九七八年五月二十四日、ワルトハイム国連事務総長あてに書簡を送る。提言内容は国連のイニシアチブによる①首脳会議の早期開催②核エネルギー管理③核兵器不使用の宣言を義務づける協定④非核平和ゾーンの設置⑤核装置削減計画の提出⑥新型兵器開発の停止・禁止協定⑦軍備状況報告の義務⑧軍縮研究情報センターの設置⑨平和のための資料館開設⑩軍縮のための経済転換計画委員会の組織化。
 学究生活
 一九五〇年ハーバード大学大学院に進み、国際関係を研究。博士論文は「復元された世界―メッテルニヒ、カースルレイと一八一二年~二二年の平和の諸問題」(サムナー賞受賞)。五五年同大政治学部講師。五九年同大政治学部準教授。六二年同大教授。
 寡頭制
 少数の者が国家の権力を握って行う政治体制。寡頭政治。オリガーキー。
 寡頭政治
 前項の「寡頭制」を参照。
 カトリック
 ローマ教皇を首長とする教会。カトリックとは、元々、ギリシャ語の普遍的、一般的という語から由来し、古くからとくにキリスト教会で用いられていた。一〇五四年にキリスト教会は東西に決定的に分裂、東方は東方正教会(オーソドックス教会)と呼び、西方は、ローマ教皇を中心にカトリックと称するようになった。ちなみに、その後、教皇グレゴリウス七世は「教皇令」を出して「ローマ教会と共にしないものはカトリックではない」と宣言している。さらに、十六世紀、宗教改革により、プロテスタント(新教)諸教会が離れ、その区別を意識したうえでもカトリック(旧教)という。
 カリスマ支配
 カリスマとは、ギリシャ語に由来し、奇跡を行い、預言を行う神の賜物の能力を意味した。
 このカリスマという言葉を宗教に限定せず、より広い学的な意味で用いたのがマックス・ウェーバーである。ウェーバーによれば、支配には合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配の三つがあり、カリスマ的支配の典型として、預言者としての宗教的教祖、軍事的英雄、偉大なデマゴーグとしての政治的英雄を挙げている。個人は、カリスマの権威に帰依し、全人格的な関係が築かれる。
 カルヴァン
 (一五〇九年―六四年)ジャン。フランスの宗教改革者。大学時代にルターの思想の影響を受け、その後、迫害によってフランスを追われながらも、宗教改革をつづけ、プロテスタントの明確な立場をとった。
 一五四一年からは、カトリック主義に反対して、スイスのジュネーブで、教会のみならず、一般市民の生活をも聖書の権威をもって厳格に改革しようとする神権政治を遂行。主著に『キリスト教綱要』。
 ガルブレイス
 (一九〇八年―)アメリカの経済学者。進歩的自由主義者の一人で、ハーバード大学教授。ケネディ大統領時代、学者大使としてインドに駐在。著書に『豊かな社会』などがある。池田SGI会長とは一九七八年十月、九〇年十月、九三年九月に対談。
 カルロス一世
 (一五〇〇年―五八年)神聖ローマ皇帝としてはカール五世。母は王位継承権をもったスペイン王女。ドイツを中心として、帝国の勢力の伸張に力を注いだが、帝国拡大を脅威とするフランスのフランソワ一世(神聖ローマ皇帝の帝位をカルロス一世と争ったが敗れた)とは長年にわたって確執がつづいた。
 また、国内では、新教勢力の台頭による問題にもあたらなければならず、ヨーロッパで最大の国の皇帝として、内外に続発する課題に精力を使い果たした一生でもあった。
 感化してくれた教授
 ウィリアム・Y・エリオット教授。同教授の指導を受け、十九世紀外交史を専攻。
 ガンジー
 (一八六九年―一九四八年)インド独立運動の指導者。非暴力主義の立場から非暴力、非協力、不服従の全国的な反イギリス独立運動を展開。一九四七年インド独立後は、ヒンドゥー、イスラム両教徒の融和のために献身、努力したが、ヒンドゥー極右団体の一青年の凶弾に倒れた。
 ガンジー首相
 (一九一七年―八四年)インディラ。インドの女性政治家。インド共和国の初代首相J・ネルーの娘として生まれ、スイス、イギリスで学ぶ。父ネルー首相を助けるとともに、インド国民会議派の総裁となる。一九六六年一月に首相となり、十一年後に総選挙で敗北して政権を退いたが、八〇年の選挙で首相に復帰した。だが、その強権政治に反発も強く、首相在任中に暗殺された。
 ガンダーラ文化
 ガンダーラは現在のパキスタン北東部、ペシャワール地方の古名。ギリシャの影響を受けた仏教美術が二、三世紀頃に栄え、仏像を初めて造った。
 カント
 (一七二四年―一八〇四年)イマヌエル。ドイツの哲学者。認識論における経験主義と合理主義を統合して従来の形而上学の独断的なあり方を批判。理性を分析して理性の能力と限界を示し、認識が対象のたんなる模写によるものではなく、主観側の構成によるものであることを主張するとともに、学的認識の成立条件を画定した。
 また、同じく理性の探究から、本来の形而上学的なものを否定することもできないことを明らかにして「実践理性」の地平を開示し、道徳の原理を良心の自律に求め、その上に宗教を基礎づけようとした。著書は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『永久平和論』など。
 カンブレー
 フランス北西部、エスコー川上流部にある町。母とはサヴォワのルイーズ、叔母とはオーストリアのマルガレーテ。
 騎士団
 主として西欧中世に十字軍が生まれる過程で、騎乗して戦闘する身分の騎士たちが、修道会則の戒律を保ち修道者的要素をもって結成した。代表的な騎士団として、十二世紀初めのヨハネ騎士団、その後身のマルタ騎士団、テンプル騎士団などが知られる。また十二世紀末
 にはドイツ騎士修道会が結成された。
 キッシンジャーの道
 マービン・カルブ、バーナード・カルブ著、高田正純訳、徳間書店。
 キャサリン
 (一七二九年―九六年)エカテリーナ二世。ドイツのアンハルト・ツェルプロスト公家に生まれ、ロシア皇太子ピョートル三世に嫁すが、無能の夫にとってかわって即位。
 即位前からフランス啓蒙思想を学び、ボルテールなどとも文通し、啓蒙専制君主として知られる。しかし、ロシアの勢力増強に全力をあげる現実的政策を実行し、農業を重視して、途中から貴族の特権を大幅に認めるとともに領土を拡大した。また教育を重視して、学芸・出版を奨励している。
 キャンプ・デービッドでの……
 一九七八年九月、アメリカのカーター大統領はサダト、ベギン両首脳をメリーランド州のキャンプ・デービッドに招き、九月五日から十七日まで三首脳会談が行われた。その結果、「エジプトとイスラエルの平和条約締結のための枠組み」「中東における平和の枠組み」の二つの合意文書が発表された。
 キュリー
 (一八六七年―一九三四年)マリー。ポーランド生まれのフランスの物理学者、化学者。パリ大学に留学。物理学者のピエール・キュリーと結婚、夫とともに放射能の研究を行い、一八九八年にウラン鉱から放射性元素ポロニウムを分離。翌年にはラジウムの分離に成功した。一九〇三年、夫とノーベル物理学賞を受賞。夫の事故死の後、パリ大学教授に就任。一〇年に純粋な金属ラジウムの単離に成功、翌年にノーベル化学賞を受賞した。
 教授を……
 「学究生活」の項を参照。
 拒否戦線
 「アラブ・エジプト解放のための拒否戦線」の略。イスラム過激派。
 ギリシャ正教会
 東方正教会、正教会などともいう。キリスト教の古代教会は、一〇五四年に西方カトリック教会と東方正教会に分裂し、東方正教会はロシア正教会とギリシャの正教会がよく知られている。神秘主義的、民族主義的
 などの特色がある。
 クーデンホーフ=カレルギー
 (一八九四年―一九七二年)リヒャルト。全集本巻『文明・西と東』の略歴(一二ページ)を参照。
 クメール・ルージュ
 フランス語で「赤いクメール」の意。カンボジアの解放勢力の中核をになった一派。クメールはカンボジア人口の大部分を占める民族。
 クローデル
 (一八六八年―一九五五年)フランスの詩人、劇作家、外交官。北フランスの小村の生まれ。父は地方官吏。早くから詩人として活躍するとともに、劇作にも着手した。一八九〇年には外交官試験に首席で合格し、外交官となる。ニューヨーク、ボストン、上海、北京、プラハなどの領事館勤務を経て、一九二一年から二七年まで駐日大使を務めた。
 外交官を辞した後、世界的規模の豊富な経験により、その創作活動の幅は大きく広がった。詩集に『東方の認識』、戯曲に『真昼に分かつ』などがある。
 グローバリズム
 今日、国家のかかえる諸問題の多くは、その国だけで解決できない問題となってきており、全人類的、地球的視野と自覚に立って対処しようという主義、運動。
3  ゲーテ
 (一七四九年―一八三二年)ヨハン・ヴォルフガング・フォン。ドイツの詩人、小説家、劇作家。法律学を修めた父と市長の娘である母をもつ。
 革新的文学運動のシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)を主導し、後に古典主義を完成。ワイマール公国の政治の要職にも就くとともに、植物学、解剖学など科学の分野、また哲学と多方面に視野を広げた。『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』『詩と真実』『西東詩集』等の作品がある。
 ケネディ
 (一九一七年―六三年)ジョン・F。アメリカ合衆国の第三十五代大統領。ハーバード大学で政治学を学ぶ。海軍に志願して、第二次大戦中は魚雷艇長として日本軍と戦った。
 戦後、政界入りして下院議員から上院議員に。一九六〇年の大統領選挙に民主党から立候補し「ニュー・フロンティア」をかかげ、共和党候補ニクソンを破って当選。国民に国家への貢献を強調し、アメリカの新たな前進を訴えた。大統領に在任中、六一年九月の第十六回国連総会において核戦争の危機を訴え、六二年のキューバ危機を乗り切り、六三年には部分的核実験停止条約をソ連(当時)との間で結んだ。六三年十一月、テキサス州のダラスで凶弾に倒れる。
 ゲルマン民族
 インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属する民族で、北ヨーロッパを原住地として部族国家を築いた。四世紀末から六世紀中頃にかけて民族の大移動を行って西ローマ帝国の没落の原因となった。「民族大移動」の項を参照。
 黄禍論
 黄色人種の台頭が将来、白色人種に対して文明的、社会的に悪影響を与え、脅威をおよぼす、あるいは取って代わるであろう、とする白人側からの差別意識にもとづいた議論。主として十九世紀後期から二十世紀初頭にかけてヨーロッパで起こり、アメリカやオーストラリアでも黄色人種排斥の根拠とされた。
 政治論としては、日清戦争末期にドイツ皇帝ウィルヘルム二世が唱え、日本の国際進出に対して警戒を呼びかけた。第二次大戦後は人種的偏見として影をひそめた。
 孔子
 (前五五一年―前四七九年)中国春秋時代の思想家。儒教の祖。孔子の言動、思想は弟子たちの編んだ『論語』の中に記されている。最も重きをおいた徳が仁(人を愛すること)で、仁にもとづく家族道徳をさらに政治におよぼして、天下を治めることを主張した。
 コーラン
 イスラム教の聖典で、正しくは「クルアーン」(読誦されるもの、の意)という。ムハンマド(マホメット)が神アラーから下されたという啓示を記録し、収録したもの。百十四章から成る。神に従うことは具体的にはコーランの言葉に従うことであり、日常の全生活の究極的基準となっている。
 「コーランか剣か」というのは、勢力拡大のために信仰的情熱をもって戦いを繰り返したイスラム教徒を象徴的に言ったものだが、実際は改宗を強制したもので
 はなかった、と言われている。
 五回……
 一九七二年五月(モスクワ)、七三年六月(ワシントン)、七四年六、七月(モスクワ)のニクソン・ブレジネフ会談。七四年十一月(ウラジオストク)、七五年七月(ヘルシンキ)のフォード・ブレジネフ会談。
 黒鉛チャンネル型
 黒鉛減速軽水冷却チャンネル型のこと。減速材と冷却材に黒鉛と軽水(普通の水)を使用。
 国際戦略研究所
 一九五八年、核時代の国際安全保障問題を研究するために、ロンドンに設立された民間の戦略研究機関。「戦略概観」や「ミリタリ・バランス」の定期刊行物を出している。
 国際連盟
 第一次大戦後、アメリカ大統領ウィルソンの提唱により、一九二〇年一月に創設された国際機関。本部はスイスのジュネーブに置かれた。世界平和の確保と国際協力の促進を目的とする。原加盟国が四十五カ国(実質は四十二カ国)に達したものの、アメリカは最初から加わらず、後に、日本、ドイツ、イタリアが脱退、ソ連が除名となり弱体化した。第二次大戦後、国際連合が誕生して解散。
 国連
 国際連合の略称。第二次大戦後、国際平和機関の国際連盟を強化する意図をこめて、一九四五年十月二十四日に同連盟に代わって発足した組織。国際平和と安全の維持、経済・社会・文化・人道の問題について国際協力の達成を目標としている。本部はニューヨーク。
 辜鴻銘
 (一八五七年―一九二八年)中国の清から中華民国にかけての学者、文明批評家。華僑の子として英領のペナン島に生まれる。十三歳の時に渡欧。エジンバラ大学卒業後、ドイツ、フランス、イタリアなどにも遊学して西洋文明に通暁した。中国に帰国後は清朝の官僚・張之洞の秘書として外交事務を担当。儒学を深く学び、国粋主義をもとに中国古典を西洋人に宣揚した。
 コスイギン
 (一九〇四年―八〇年)旧ソ連の政治家。赤軍に従軍後、一九二七年から共産党員。三九年から党中央委員。戦後は財務相、軽工業相などを歴任し、フルシチョフ解任後に首相となり、ブレジネフ書記長とともに集団指導体制を担う。米英など西側首脳と平和共存のための会談を行ったほか、中国の周恩来と話しあうなど、緊張緩和へ国際面でも活躍した。七四年九月に初訪ソした池田SGI会長とも会見し、中国を攻撃する意思のないことを池田会長に託して伝えている。
 コペルニクス
 (一四七三年―一五四三年)ニコラウス。ポーランドの天文学者、聖職者。地動説の提唱者。当時の天文学を支配していた天動説であるプトレマイオスの天文学に疑問をいだいて、ギリシャの古文献を学んで太陽中心説を知り、観測と計算から、みずからの地動説を発展させていった。
 彼の地動説はキリスト教会側からの猛反発を受けたが、中世的宇宙観・世界観から近代的宇宙観・世界観へと人々をうながし、近世につながる思想界にも多大の影響をおよぼした。主著『天球の回転について』。
 「コペルニクス的転回」とは、元々、哲学者カントが、天動説から地動説へ全く逆に転回した天文学説を、みずからの認識論において、主観と客観の関係を逆転させたことにたとえて言った言葉。そこから見方、考え方が正反対に変わることをいう。
 ゴルバチョフ
 (一九三一年―)ミハイル・セルゲーヴィチ。ロシア連邦共和国のスターブロポリ地方(北カフカス)生まれ。モスクワ大学法学部卒業。ソ連邦の共産党中央委員会書記長、最高会議議長、初代大統領として「ペレストロイカ(再建、改革)」を旗印に憲法改正など根本的な内政改革を断行。また「新思考外交」を打ち出し、米ソ冷戦を終結させるなど世界平和に大きく寄与した。
 九一年、ソ連邦の解体とともに大統領を辞任。ノーベル平和賞をはじめ多数の賞を受賞。創価大学などの名誉博士、ゴルバチョフ財団総裁、グリーンクロス・インターナショナル初代会長として世界各地で活動を展開している。池田SGI会長と『二十世紀の精神の教訓』(潮出版社刊。本全集第105巻収録)と題する対談を行った。
 コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ
 東部フランス、シャンパーニュ地方の村。ド・ゴールは大統領を辞してここで回想録を執筆し、亡くなるまで過ごした。
 混合経済体制
 国家が国営の企業などによって市場経済の安定化を図って民間の経済活動に介入し、資本主義の構造的欠陥を補っていこうとするもの。
4  〈さ行〉
 サダト
 (一九一八年―八一年)アンワール。エジプトの政治家。一九七〇年ナセルの死にともない大統領に就任。七三年の第四次中東戦争でイスラエル軍を破る。キッシンジャー氏とは七五年、七六年、中東和平の解決策を探るため会談。イスラエルのベギン首相とともにノーベル平和賞を受賞。七九年、イスラエルとの平和条約調印。八一年十月暗殺される。
 佐藤首相
 (一九〇一年―七五年)栄作。山口県に生まれる。運輸事務次官を経て政界入りし、官房長官、政務調査会長、幹事長、建設相、蔵相などを歴任して、一九六四年十一月に佐藤内閣成立。同内閣は七二年七月までの長期となった。七二年五月に「沖縄返還」を実現し、七四年には非核三原則などの政策によってノーベル平和賞を受賞。
 サッフォー
 紀元前六一〇年頃の古代ギリシャ第一の女流詩人。レスボス島の貴族の家に生まれる。彼女のもとには多くの子女が集い、音楽や詩の教えを受けたという。サッフォーの詩は伝統的な詩語ではなく、方言、日常語で率直かつ簡明に“肉声”をもって彼女自身の恋愛などの体験をうたいあげていて斬新である。巧みな技巧と気品に包まれた迫力ある感情表現によって、見事に個性と内面を表現している。
 サラセン帝国
 サラセンは、ヨーロッパにおける、古代シリア付近のアラブ人、あるいは中世のイスラム教徒の総称。サラセン帝国はウマイヤ朝やアッバース朝の呼称。
 サンゴール
 (一九〇六年―二〇〇一年)政治家、詩人。セネガルはアフリカ西端の共和国。パリ大学で文学を学び、トゥール、パリの高校で教えた。第二次大戦中は対独レジスタンス運動に参加。戦後、フランス制憲議会議員、フランス国民議会議員となった。セネガルの独立に貢献し、一九六〇年のセネガル共和国独立とともに初代大統領に就任。八〇年までその職にあった。詩人としても活躍し、アポリネール賞など国際的な賞を多く受けている。
 三位一体説
 神は、その本性において唯一であるが、創造主、支配者としての父なる神、人々の罪を贖うために世に出現する子なるキリスト、信仰者につねに働き続ける聖霊なる神、という三つのペルソナ(位格)として現れる、というキリスト教の重要な教義。神の普遍性・超歴史性の面と、具体的な救いの活動力という面の関連・調和について、キリスト神学が考察したものである。
 三位一体の解釈をめぐって激しい論争が起こったが、その後も中世から近代の教会において繰り返し論争されている。
 シェークスピア
 (一五六四年―一六一六年)ウィリアム。イギリスの劇作家、詩人。一五九二年、二十八歳でロンドン劇界に登場。以後約二十年間に三十七編の戯曲、二編の長詩、百五十四編のソネット(十四行詩)集などを書いた。
 人間性と社会への類まれな洞察力と詩的精神、大衆性、娯楽性もそなえた劇作術で、普遍的な人生模様を舞台に描きだしている。『リチャード三世』『ハムレット』『リア王』など。
 シエナ
 イタリア中部、トスカナ地方の古都。ブドウ酒、大理石などを産し、農業機械・肥料工業も盛ん。ルネサンス期に繁栄。優雅な情緒と装飾性を特色とするシエナ派絵画の中心地。
 ジェファーソン
 (一七四三年―一八二六年)アメリカの第三代大統領。バージニア西部に生まれ、弁護士からバージニア植民地議会の議員に選ばれて政界入り。早くから文筆家としても知られており、三十三歳の若さで「独立宣言」の起草委員に任命された。独立後、初代ワシントン政権で国務長官に、次いで第二代アダムズ政権のもとで副大統領、そして第三代大統領に選出され、一八〇一年から同九年まで在職した。政界引退後にバージニア大学を創立している。
 シオニズム
 離散のなか、差別と迫害を受けてきたユダヤ人が、シオンと呼ばれるユダヤ人にとって聖なる丘があるパレスチナの地に、国家を建設しようとする運動。十九世紀末に起こり、一九四八年にイスラエル国家を建設した。
 死海
 アラビア半島の最北部、イスラエルとヨルダンとの境にある塩湖。琵琶湖の約一・五倍の表面積をもつ。湖面が海面下三九二メートルで、地球上で最も低い水面である。塩分の濃度が海水の約五倍もある。
 十戒
 イスラエルの民を率いてエジプトを脱出したモーセにシナイ山上で神が与えたという十カ条の掟。十戒を与えた神以外を神としてはならない、をはじめとして、殺人、姦淫、盗みなどを禁じている。
 ジャイナ教
 仏教とほぼ同時代にインドに成立した宗教。ジナ教ともいう。仏教と同じく、反ヴェーダ、反バラモン的な思想的土壌から生まれた。教祖はマガダのヴァイシャーリーに生まれたヴァルダマーナで、マハーヴィーラ(偉大なる勇者)と尊称される。六師外道の一人。旧来の宗教宗派であるニガンタ派で修行したので、仏典ではニガンタ・ナータプッタの名で呼ばれている。
 宇宙のあらゆる存在、構成要素を霊魂と非霊魂に大別し、厳しい戒律の生活と苦行によって、霊魂が業の束縛から脱し、ふたたび輪廻することがないことをめざす。
 シャトル外交
 第四次中東戦争処理方法をめぐり、アメリカ、イスラエル、エジプトの三国間で一九七八年九月「キャンプ・デービッド合意」が調印された。これにもとづきイスラエル、エジプト間で七九年、シナイ半島のエジプト返還を可能にする平和条約が結ばれた。そのさいキッシンジャー氏が中東各国をめまぐるしく往復外交したことをさす。
 周恩来
 (一八九八年―一九七六年)中国の政治家。日本、フランスに留学。一九二一年、中国共産党に入党。日中戦争では重慶で国共合作にあたり、四九年中華人民共和国建国とともに首相。キッシンジャー氏とは七一年七月初会談、米中国交樹立への道を開く。池田SGI会長とは七四年十二月に会見。
 十字軍
 十一世紀末から十三世紀の後半にかけて、西欧諸国のキリスト教徒が、彼らの聖地エルサレムをイスラム教徒の手から奪還する目的で、七回にわたって行った遠征軍。当初は宗教的な目的であったが、途中からは世俗的な利害の思惑がからみ、目的を達成できなかった。しかし、遠征は、東方文化の流入をもたらし、都市が興隆して市民階級が成長するなど、西欧社会の大きな変化をもたらした。
 シュールレアリスム
 一九二〇年代の前半に、フランスの詩人ブルトンが中心のグループによって刊行された『シュールレアリスム宣言』で始まった文学・芸術運動、およびその思想などをいう。より高次な人間、真の人間の実現をめざして内的生命に向かい、潜在意識を探究し、夢や幻想や狂気といった非合理的な現象の解明によって表現しようとした。美術ではダリ、エルンストなどが知られる。
 シュペングラー
 (一八八〇年―一九三六年)オスヴァルト。ドイツの歴史哲学者。その著『西欧の没落』で世界的名声を得た。ゲーテの自然観に影響を受けて、世界史を形態学的にとらえ、有機的に形成され、生成、転形し、消滅するものとして、ヨーロッパはその衰退期にあり、滅亡の危機にひんしていると説いた。
 小乗仏教
 梵語で「ヒーナヤーナ」(小さな乗り物の意)といい、紀元前後に起こった大乗仏教「マハーヤーナ」(大きな乗り物の意)から、従来の仏教が自己の解脱だけをめざし、利他の実践に欠けているとの、さげすみの呼び名として用いられた。「ヤーナ」とは、釈尊の教えを乗り物に譬えたもので、苦悩に沈む世の衆生を彼岸に渡す、との意。「大乗仏教」の項を参照。
 ショーペンハウアー
 (一七八八年―一八六〇年)アルトゥール。カント哲学に親近性をもつとともに、批判的にその哲学を徹底して「全世界は、生きんとする盲目的、非合理的な意志が現象し、客体化したものであり、『個別化の原理』によってそれぞれ個(たとえば人間)となったものの認識面から言えば、すべては表象にすぎない」という真理観を提唱した。世界はこのような意志の展開の場であるので苦悩に満ちたものであるから、この苦悩から脱却するには、意志を否定し、諦念に住するほかはない、とする。インド哲学が彼の哲学に多大な力をおよぼしており、とくに仏教を重要視した。インドの叡智がヨーロッパに入り、その知識と思索に根本的な変化を起こす、とさえ言っている。ワーグナーやニーチェ、精神分析学のフロイトなどに影響を与えた。主著に『意志と表象としての世界』。
 処女論文
 一九四七年、ハーバード大学の学生のとき、学部卒業論文「歴史の意味―シュペングラー、トインビー、カントについての考察」(主要四章からなり、草稿で三七七ページもあった。ステファンRグローバード著『キッシンジャー』読売新聞社刊を参照)を書く。これが一つの契機となって、政治学部は学生の論文の長さの限度を決める新しい規則を設けるようになった。「歴史の意味…」の項を参照。
 ジョンソン
 (一九〇八年―七三年)リンドン・B。アメリカの第三十六代大統領。下院議員を経て上院議員、ケネディ大統領の副大統領となり、ケネディが暗殺されて大統領に就任。ベトナム戦争の終結へ尽力した。
 ジョンソン
 (一九二八年―)イギリスのジャーナリスト、歴史家、ブロードキャスター。オックスフォード大学卒。科学思想の行き過ぎを批判し、還元主義的な人間観に反対している。著書に『現代史』『アメリカ人の歴史』など多数。
 シルクロード
 絹の道。東方の中国とローマなどの西方の諸地域を結び、中央アジアを横断する、古代の交易、交通路。
 中国特産の絹がこの道を通って運ばれたが、十九世紀末にドイツの東洋学者リヒトホーフェンが名付けたことに由来する。物資だけでなく、東西の文化、民族の移動に重要な役割を果たす。
 スウィフト
 (一六六七年―一七四五年)ジョナサン。イギリスの作家、詩人。イギリス人を両親としてアイルランドに生まれダブリンのトリニティ・カレッジを卒業、ロンドンで母方の遠縁にあたる政治家W・テンプルの秘書となる。
 辛辣な風刺をもってイングランドの文壇、政界に刺激を与えたが、政治的野心は満たされず、アイルランドに退いて司祭として生涯を過ごす。風刺文学の傑作『ガリバー旅行記』のほか『桶物語』などの作品を残した。
 スターリニズム
 スターリン主義。ソ連共産党書記長のスターリンによって遂行された、政治的、経済的、社会的事象およびそれらの思想。
 ソ連という国家を強く意識した社会主義の建設が進められ、その強行的姿勢は、複数の政党や、民族の自決権を認めず、反対派の大量粛清という形をとった。
 スターリン
 (一八七九年―一九五三年)イオーシフ・ヴィサリオノヴィチ。旧ソ連の共産党の指導者。書記長、首相となる。スターリンとは「鋼鉄の人」の意味で、本名はジュガシヴィリ。グルジア人の靴工を父として生まれた。神学校に在学中にマルクス主義に触れ、党員となって革命に参加。レーニンの死後、党の中心者となり独裁体制を築いて、反対派を含め大量の粛清を実行した。
 第二次大戦中に、国防委員会議長、ソ連軍最高司令官を兼務して、大元帥となり、戦後は軍事力を強化して、米欧と対決するなかで、東欧共産諸国への支配を深めた。死後、その独裁体制がスターリン主義として批判された。
 スチューデント・パワー
 一九六〇年代後半から七〇年代にかけて、現代社会や教育などの諸矛盾を鋭く意識して、欧米や日本の大学で巻き起こった激しい学生運動。アメリカでは、カリフォルニア大学バークレー分校での学生反乱が全米各地のベトナム反戦運動に呼応して注目された。またフランスでは、教育制度の改革を主張したパリ大学ナンテール分校の学生反乱などが労働運動と結びつき、ゼネストが拡大、「五月革命」としてド・ゴール体制を揺るがした。日本でも「大学解体」を叫ぶ全共闘運動が各大学を席巻した。
 スピノザ
 (一六三二年―七七年)オランダの哲学者。ハイデルベルク大学の教授に就くよう招かれたが、束縛を嫌ってレンズ磨きを職とするなかで思索し、『エティカ』『神学政治論』などを書いた。
 デカルトの合理主義に立脚しながら、デカルトの物心それぞれを実体とする二元論などに不満をもち、幾何学的方法によって最高存在(実体=神)を証明しようとした。個々の事物を神のさまざまな姿(神即自然)と見る汎神論を唱え、神に対する知的な愛によって、神と合一することができるとした。
 すべてを放棄して
 一九三八年八月、キッシンジャー氏が十五歳のとき、ナチの迫害を逃れ、一家で渡米。ニューヨークのマンハッタンに住む。
 性悪か性善か
 性悪は人の本性がもともと悪であること、性善はもともと善であること。
 世界国家
 各国の主権を制限、廃止し、軍備を撤廃して、すべての人類を単一の国家に統合、組織化しようという考えにもとづく国家。構想は古くからあったが、第二次大戦後、核戦争の危機の中で、世界国家への動きは広範囲の人々を結集して高まり、一九四八年には「世界憲法予備草案」が発表された。
 赤軍
 ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の軍隊の名。一九一八年に編成された労農赤軍のこと。四六年にソ連軍と改称された。
 石柱・磨崖法勅
 アショーカ王が仏法の教えにもとづいて、国内各地の石柱や岩壁に刻ませた施政の理念、方針。また、王の事績も記されている。
 セルヴェト
 (一五一一年―五三年)ミゲル。ラテン名はミカエル・セルヴェトゥス。神学者、医師。血脈の肺循環を発見したとも言われている。
 創価学会インタナショナル
 SGI。一九七五年一月二十六日、五十一カ国の代表メンバーがグアム島に集い、結成された。二〇〇二年十一月現在、百八十五カ国・地域にメンバーを有している。
 相互確証破壊
 他国から核の先制攻撃を受けても、相手に対し、耐えられないほどの大きな損害を与える核戦力をもち、相手に核兵器を使用させないようにすること。核戦争抑止理論の一つ。
 相対性理論
 アインシュタインが確立した特殊相対性理論と一般相対性理論とからなる。質量とエネルギーが同等であることを示し、絶対的な空間と時間を否定して、時間と空間を一体化させた。
 ソクラテス
 (前四七〇年―前三九九年)古代ギリシャの哲人。真の知にいたるために、対話によって相手に自己自身が無知であることを自覚させる方法をとった。アテナイ市民の反発をまねいたが、信念を貫いて、獄中でみずから毒を飲んで死んだ。
 SALT
 Ⅰ一九七二年五月に調印。戦略ミサイルの数量を中心に、ABM(弾道弾迎撃ミサイル)は米ソそれぞれ二カ所(二百基)、ICBM(大陸間弾道ミサイル)は七二年七月一日以降は陸上固定発射台の増設をしない。SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)は、発射管と新型ミサイル潜水艦の数を調印時に配備ずみのものと建設中のものを合わせた数に制限し、それぞれこの限度内に五年間凍結する、というもの。
 ソ連
 ソビエト社会主義共和国連邦の略。一九一七年の十一月革命によって成立した世界最初の社会主義国。
 九一年に、社会主義国家としての行き詰まりや、連邦を構成する共和国の独立要求の高まりのなか、共和国の独立が認められ、ソ連は崩壊した。
 ソ連の新書記長
 ゴルバチョフ書記長。「ゴルバチョフ」の項を参照。
 ゾロアスター
 紀元前七―六世紀頃のペルシャの預言者、ゾロアスター教の創始者。ゾロアスター教は善神アフラ・マズダと悪神アフリマンとの、二元的原理の間の闘争および前者の最終的勝利を教える。ササン朝ペルシャの国教として栄えた。善神の現れとして太陽・星・
 火などを崇拝するため、拝火教とも呼ばれる。
5  〈た行〉
 ダーウィン
 (一八〇九年―八二年)チャールズ。イギリスの博物学者。測量船ビーグル号に乗って南半球の動植物や地質の観察・調査を行って『ビーグル号航海記』を書き、生物進化の着想を得て、自然選択説の理論を『種の起源』に発表した。後世の生物学、社会科学、思想界にも多大な影響をおよぼしている。
 ターレス
 (前六二四年?―前五四六年?)自然哲学の祖と言われ、万物の根源は水であると説いた。また日食の予言やピラミッドの高さの測定などを行ったとも言われる。
 大学を創立
 一九七一年四月、創価大学設立。建学精神として①人間教育の最高学府たれ②新しき大文化建設の揺籃たれ③人類の平和を守るフォートレスたれ、をかかげる。
 大乗仏教
 紀元前後から在家信者を中心にしてインドで起こった新仏教。旧来の仏教が出家を中心とし、自利を専らにして利他の精神に欠けていたのを批判し、わずかの人しか救えない教えとして「小乗」と呼び、自身を利他を実践する菩薩と称して、多くの人を救う故に「大乗」と呼んだ。慈悲を強調し、一切衆生に仏性があり、その顕現が可能である、と説いている。「小乗仏教」の項を参照。
 大東亜共栄圏
 日本が太平洋戦争を遂行するにあたり、日本が盟主となって満州(当時)、中国に加えて広く東南アジア、オセアニアの一部をも含む地域が共存共栄すべきである、としたもので、この言葉はとくに昭和十五年(一九四〇年)、当時の外相・松岡洋右の発言にもとづいて唱えられた。日本の指導者がアジアを支配し、「大東亜戦争(太平洋戦争に対する当時の日本側の呼び名)」を正当化する基本方針だった。
 第四次中東戦争
 アラブ諸国とイスラエルとの過去四回の戦争のうち第四次(ラマダーン戦争、ヨーム・キップール戦争)―一九七三年十月のもの。第一次(パレスチナ戦争、独立戦争)―一九四八年五月。第二次(スエズ戦争)―一九五六年十月。第三次(六月戦争、六日戦争)―一九六七年六月。
 大量報復戦略
 一九五四年一月、アメリカ外交問題評議会でのダレス国務長官の演説に由来する。相手方のいかなる攻撃に対しても、一度に大量の核戦力で報復するという脅しにより、核攻撃を抑止するという考え方。
 高松塚古墳
 奈良県明日香村にある、七―八世紀頃のものとされる円墳。一九七二年に発掘。石槨内の壁面に、玄武などの四神(朱雀は剥落?)、星辰、日月、男女の人物群像が極彩色で描かれていて、中国や朝鮮との深い関係が指摘されている。
 竹のカーテン
 中国について、一九五〇年代にアメリカで「鉄のカーテン」になぞらえて言われた言葉。「鉄のカーテン」の項を参照。
 ダモクレス
 紀元前四世紀、シラクサの僣主ディオニュシオス一世の廷臣。ダモクレスが僣主にへつらい、その幸福を大いに称えたとき、僣主は、彼を饗宴に招いて王座にすわらせ、その頭上に鋭い剣を一本の馬の尻毛でつるし、支配者の地位の危険を教えた。この伝承にちなみ、ダモクレスの剣とは、つねに身に迫る危険をいう。
 ダンテ
 (一二六五年―一三二一年)アリギエリ。イタリアの詩人。フィレンツェの政治的対立に関係して追放され死刑宣告を受けて、その後は、故郷に帰らず、半生を流浪の旅に送った。代表作『神曲』は中世の精神を統合、総括し、ルネサンス文学の先駆となった。
 チェコ
 チェコスロバキア社会主義共和国。中部ヨーロッパに位置する。同共和国は一九六九年にチェコとスロバキアとの連邦制に移行、九三年に分離して、それぞれチェコ共和国、スロバキア共和国として独立。
 チェコ侵入
 一九六八年八月、社会主義体制の改革と自由化を進めていたチェコスロバキア社会主義共和国の首都プラハに、ソ連・ワルシャワ条約軍が侵入、弾圧した事件。年初より、党第一書記となったドプチェクの主導する改革派は自由化政策を推進して「プラハの春」と呼ばれた。しかし侵入、弾圧によって改革運動は挫折し、六九年一月にチェコとスロバキアの連邦制へ移行し、四月には、保守派のフサークがドプチェク後任の党第一書記(のち大統領)に就いた。
 チェック・アンド・バランス
 抑制均衡。権力を分立させることにより、互いに牽制させて、権力間の均衡を図り、特定の権力の突出、専制を防ぐこと。三権分立はこの原理の具体化である。
 チェルノブイリ原子力発電所の事故
 一九八六年四月二十六日、旧ソ連ウクライナ共和国の首都キエフの北方百三十キロメートルにあるチェルノブイリ原子力発電所で、第四号炉が爆発する事故が起こり、大量の放射性物質がまき散らされた。現場で作業した消防士など三十一人が死亡、十三万人を超える周辺住民が避難。
 その後も被害は拡大し、五百万人以上が被曝し、百万人以上が移住しなければならなかった。事故処理にあたった作業員八十六万人のうち五万五千人以上が死亡したとも発表されている。二〇〇〇年十二月十五日、同発電所は完全に封鎖された。
 地球民族主義
 戸田城聖創価学会第二代会長が、世界の恒久平和実現のための思想基盤として提唱した理念。地球上の全人類が、一つの民族である、との自覚をもつべきであるとした。
 文化の多様性を尊重しながらも、人類という共通・普遍の基盤に立つことを強調したこの理念は、一九五七年九月の戸田による「原水爆禁止宣言」の前提となるもので、創価学会による文化・平和運動の理念的基盤となった。
 チトー
 (一八九二年―一九八〇年)旧ユーゴスラビアの政治家。本名ヨシプ・ブロズ。クロアチアの農家の生まれ。若くして労働組合員となり、第一次大戦に従軍したさい、負傷してロシア軍の捕虜となる。帰国して共産党に入党、政府転覆を謀ったとして投獄され、出獄後に活動用の匿名チトーを使い始める。
 第二次大戦中は独・伊の枢軸軍に対してパルチザン(民衆による非正規軍)を結成し、祖国解放戦争を勝利に導いた。戦後はユーゴスラビア連邦人民共和国の首相となり、一九五三年からは大統領に就任した。独自の共産主義体制をとり、非同盟運動を力強く進める。
 チャーチル
 (一八七四年―一九六五年)ウィンストン。イギリスの政治家。保守党の蔵相を務めたランドルフ・チャーチルの長男として生まれた。陸軍士官学校を出て軍人となり、インドに赴任。その後、議会入りし、初め保守党の下院議員、次に自由党に移って商相、内相を歴任。第一次大戦中には海相、戦後に陸相、植民地相を務める。のち保守党に復帰して蔵相、第二次大戦時には首相として、持ち前の雄弁と卓抜した指導力で苦難の中の国民を鼓舞し、連合国の勝利に貢献した。戦後、ふたたび首相になる。『第二次大戦回顧録』など著作も多く、一九五三年度のノーベル文学賞を受賞している。
 中国加盟】中国代表権問題。中国は一九四五年の国連創設時、米・英・仏・ソ(現ロシア)と並ぶ安保理常任理事国だったが、四九年十月に中華人民共和国が成立して以来、台湾に移った国民政府が代表権を維持、中国は国連から閉め出されていた。六一年以来、毎年の国連総会に中国のみに代表権を与えようという「アルバニア決議案」が提出されていたが、七一年の第二十六回総会において、同決議案が賛成多数で可決され、中国の国連復帰・加盟が実現。
 中国との国交樹立
 一九七二年二月にニクソン米大統領が訪中して米中の冷戦は終わり、七九年一月、米中関係の国交が正式に樹立した。
 中ソの紛争
 国際共産主義運動のイデオロギーをめぐり、一九五六年の「スターリン」批判を発端に、六〇年から中国共産党とソ連共産党との間で論争が公然化。それが国家間の政治的対立、軍事的紛争となり、中ソ両国の対決が決定的となった。
 基本的にソ連側がアメリカとの平和共存を最優先課題としたのに対し、中国側は対アメリカの危機意識のもと、ソ連の路線を修正主義として激しく批判。中ソ両国の対決は八〇年代まで引き継がれることになった。
 中東紛争
 一九四八年五月のイスラエル国家成立を機に始まったアラブ諸国とイスラエルとの紛争。これまで戦争にまで拡大したのは四回を数える。「第四次中東戦争」の項を参照。
 朝鮮戦争
 大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との戦争。朝鮮半島をめぐる争いにからんで、一九五〇年六月に武力衝突し、それぞれ、アメリカ軍を主体とする国連軍と中国義勇軍の支援を受けた。五三年七月に休戦。
 珍宝島(ダマンスキー島)事件
 一九六九年三月二日、ハバロフスク南方、ウスリー川の中州のダマンスキー島(中国名・珍宝島)で、中ソ両軍が衝突。ソ連側三十四人、中国側三十―四十人の死者を出した。このほか、①アムール川、沿海州地域②新疆地方③パミール高原地帯で紛争が起こっている。
 ツァー
 ロシア皇帝の称号。
 定言命令
 絶対的で無条件的な命令。これに対して、「もし……ならば、……をせよ」という条件的な命令を仮言命令という。哲学者カントの用いた語による。
 デカルト
 (一五九六年―一六五〇年)ルネ。フランスの哲学者、数学者。一切を方法的に疑って、唯一疑えない哲学的真理として「我思う。故に我あり」にいたり、思惟する「我」を根本原理とした。「近代哲学の父」と呼ばれる。解析幾何学を創始。
 哲人政治
 古代ギリシャの哲学者プラトンが『国家』において説いた政治理念。善そのものである善のイデアを認識した哲学者たちが王となって国の支配者となるか、さもなければ国家の有力者たちが真実に哲学するようになるか、そのいずれかになるまで人間は悪事をやめることはない、と説く。
 鉄のカーテン
 ソ連(当時)やソ連圏の各国が秘密主義的、閉鎖的であると指摘した言葉。一九四六年の五月に、アメリカのミズリー州で、ウィストン・チャーチルが「鉄のカーテンがヨーロッパを横断して降ろされている」と演説したことから、広く使われるようになった。
 テルシテス
 ギリシャ神話に登場する品性卑しいギリシャ軍の勇士。敵方の美しい女王を討ち取った英雄アキレウスが、女王を殺したことを嘆いたところ、テルシテスは、あざ笑い、侮辱したので、アキレウスに殺されたという。
 トインビー
 (一八八九年―一九七五年)英国の歴史学者。人類史を諸文明の挑戦と応戦という法則性からとらえ、高等宗教に文明の未来を託す。主著に『歴史の研究』がある。七二年五月、七三年五月に行われた池田SGI会長との対談は『二十一世紀への対話』(本全集第3巻収録)としてまとめられた。
 東西問題
 第二次大戦後、東すなわちソ連を中心とする社会主義諸国と、西のアメリカを中心とする資本主義諸国とが、それぞれ軍事同盟を結び、政治をはじめ、あらゆる局面で対立した問題。
 ド・ゴール
 (一八九〇年―一九七〇年)フランスの軍人、政治家。第二次大戦で、フランスがドイツ軍に降伏した後も、ロンドンにあってラジオ放送を通じて徹底抗戦を呼びかけた。
 パリ解放後に臨時政府主席。一時引退したが、一九五八年にアルジェリア危機を背景として復帰、首相となって憲法を改正し、第五共和国を発足させ、初代の大統領に就任。アルジェリア独立、核兵器開発、中国との国交回復、ヨーロッパ中心主義などフランスの独自外交を推進した。
 都市国家
 都市と周辺の農牧地を含む領域が政治的に独立して、小国家の様を成しているもの。古代のエジプト、メソポタミア、中国などに存在し、あるいは古代ギリシャのポリスが挙げられる。
 戸田前会長
 (一九〇〇年―五八年)戸田城聖創価学会第二代会長。石川県出身。明治三十五年(一九〇二年)頃、一家で北海道石狩郡厚田村へ移住する。大正九年(一九二〇年)、訓導をしていた夕張の真谷地尋常小学校を退職、青雲の志をだいて上京する。やがて西町尋常小学校の校長だった牧口常三郎に会い、同小学校の代用教員に採用された。牧口の高潔な人格と、教育に寄せる深い学識、卓見に打たれて、牧口を生涯の師と定める。日蓮大聖人の仏法に入信した牧口常三郎とほとんど時を同じくして入信。初代会長とともに一九三〇年、創価教育学会を創設した。戦時中、軍部の弾圧により、牧口とともどもに入獄。戦後、創価学会と名称を改め、五一年に会長に就任、今日の世界的大発展の基盤を築いた。
 ドストエフスキー
 (一八二一年―八一年)フョードル・ミハイロヴィチ。トルストイとともに十九世紀ロシア文学を代表する作家。貧しい環境に育ち、社会主義思想の政治結社に参加して死刑宣告を受け、減刑後、シベリア流刑を体験して、作風と精神形成に深刻な影響を受けた。『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などを次々に発表したが、病んだ人間存在を通して人間の秘密を鋭く、深く追究し、近代小説の新しい扉を開いた。
 トルキスタンは……
 ソ連邦を構成していた西トルキスタンのカザフスタン、タジキスタンなどは、一九九一年のソ連邦解体により独立した。
 トルストイ
 (一八二八年―一九一〇年)レフ・ニコラエヴィチ。ロシアの小説家、思想家。近代世界文学における最高峰の一人。伯爵家の四男に生まれ、大学を中退の後、進歩的な地主として農民の生活改善に取り組むが挫折。軍務を経験して故郷で農民の子弟のために小学校を創立。
 大作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』で不動の地位を築き、人類救済を視野に入れた活動によって正教会を批判し破門された。その人道主義、博愛主義はインドのガンジーやフランスのロマン・ロランなど世界中の知識人に深い影響を与える。小説として他に『復活』など。また『芸術論』『人生論』などの思想的著作も多い。
 トロツキー
 (一八七九年―一九四〇年)レフ・ダヴィドーヴィチ。レーニンとともにロシア革命の指導者。ユダヤ人富農の子として生まれ、十七歳のとき社会主義思想に触れた。一八九八年に逮捕されシベリアに流刑されたが、脱走してヨーロッパに渡り、帰国、再度の亡命の後、一九一七年の革命後に帰国。赤軍の創設、強化に尽力した。
 ロシアの革命が成功するかどうかは、西洋先進諸国の革命による、という永久革命による世界革命論を唱え、スターリンの一国社会主義論に対立して敗れ、党を除名される。国外に追放され、メキシコの地でスターリンの手先によって暗殺された。著書に『ロシア革命史』『わが生涯』などがある。
6  〈な行〉
 ナセル
 (一九一八年―七〇年)ガマール・アブド。エジプトの軍人、政治家。中学の頃から反英民族運動に加わり、陸軍士官学校卒業後、パレスチナ戦争では、重傷を負うような前線指揮官ぶりで勇名をはせた。やがて、王政の腐敗を憤る自由将校団の中心人物となり、王政を廃する革命で指導的役割を果たす。
 名目上のナギーブ大統領が失脚した後、一九五六年には共和国の初代大統領に就任、革命の名実ともの責任者となる。駐留イギリス軍を撤兵させ、スエズ運河国有化にともなうスエズ戦争を切り抜けて、非同盟諸国とアラブ世界の旗手の役割を担ったが、中東和平問題を解決するために尽力しているさなかに急死した。
 ナチ
 国民社会主義者の略称。ナチスはナチの複数形。次項の「ナチス」および「ヒトラー」の項を参照。
 ナチス
 国民社会主義ドイツ労働者党の通称。「ヒトラー」の項を参照。
 七年前に……
 一九七九年四月十六日、渋谷・国際友好会館にて、仏法・平和・人生について語る。
 ナポレオン
 (一七六九年―一八二一年)ボナパルト。フランス第一帝政の皇帝。コルシカの小貴族の家に生まれ、フランス本土のブリエンヌ幼年学校、パリの士官学校に学んだ。砲兵少尉として革命派に属し、革命後はイタリア遠征軍司令官となった。エジプト遠征にも司令官として出発。帰国後、総裁政府を倒して第一執政となり、独裁権を得る。ナポレオン法典を発布しフランスの近代化をすすめるとともに、一八〇四年には皇帝となった。
 ヨーロッパ大陸を支配下に収めたものの、ロシア遠征に失敗後、退位してエルバ島に流された。しかし、同島を脱出してパリに凱旋。“百日天下”を築いたが、ワーテルローで敗北し、セントヘレナ島へ流されて一生を終えた。
 南北問題
 北半球の先進工業国と南半球の発展途上国との間の所得格差にもとづく政治的、経済的諸問題をいう。
 ニクソン
 (一九一三年―九四年)リチャード・ミルハウス。アメリカの第三十七代大統領。デューク大学法学部に学び、弁護士に。海軍を除隊後、共和党から下院議員に当選。その後、上院議員に当選し、一九五二年の大統領選挙でアイゼンハワー大統領と組んで副大統領になった。六八年、共和党の大統領候補として僅差で当選。在任中はベトナム和平、米中関係の改善、米ソ協調にも努めたが、二期目の途中で盗聴にからむウォーターゲート事件が発覚、辞任した。
 ニクソン政権の一員
 一九六九年一月二十日、ニクソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官としてホワイトハウス入り。
 二元論
 物事を相反する二つの根元的な原理、要素によって説明するあり方。たとえば、精神と物質、善と悪、光と闇など。
 西ドイツ
 正式名称をドイツ連邦共和国といい、首都はボン。ドイツは第二次大戦後の敗戦によって連合国に分割統治され、冷戦が深まるにともない、一九四九年に東・西ドイツが建国された。
 一般に、東側のドイツ民主共和国を「東ドイツ」、西側のドイツ連邦共和国を「西ドイツ」と呼んだ。九〇年に東西両ドイツはドイツ連邦共和国として統一された。
 日米安保条約
 日本とアメリカの軍事的関係を規定した安全保障条約。昭和二十六年(一九五一年)九月、サンフランシスコにおける対日講和条約と同時に日米間で締結され、講和後も米軍が極東アジアの安全保障のため日本に駐留、また基地を設定することを定めた。一九六〇年に岸内閣のもとで改訂されたさい、日本が戦争に巻き込まれる、と激しい抗議運動がつづいたが、改正条約の批准案は国会で自民党単独により強行採決された。その後、批准書が交換されるまで、未曽有の反対運動が起こり、デモの最中、東大の女子大生が死亡するという事件にまでなった。一連の全国的反対運動を「六〇年安保闘争」と言う。
 日露戦争
 明治三十七年(一九〇四年)から同三十八年(一九〇五年)まで、日本が帝政ロシアと満州(中国東北地方)、朝鮮の支配権を争った戦争。明治三十七年二月、両国の断絶以来、日本軍の旅順攻撃、翌年三月の奉天会戦、五月の日本海海戦などでの日本軍の勝利を経て、明治三十八年九月にポーツマスで講和条約を締結した。日露戦争は帝政ロシアの衰退を促し、アジアの民族運動を刺激したが、日本の帝国主義を進める契機となった。
 ニュートン
 (一六四二年―一七二七年)アイザック。イギリスの物理学者、数学者、天文学者。光のスペクトル分析、万有引力、微積分の三大発見など、近代科学の建設に巨大な足跡を残した。一七〇三年、王立協会会長に選出されるなど要職を歴任。多くの神学や錬金術に関する論文があることから、神学者、最後の錬金術師(魔術師)とも称される。著書に『プリンキピア』『光学』など。
 涅槃
 滅度、寂滅、不生、解脱等と訳す。語意は「吹き消す」こと。輪廻から解放され、一切の煩悩や苦しみを永遠に断じ尽くした境地。
 紀元前後に大乗仏教の運動が興起してくる前は、死によって完全な涅槃、すなわち無余涅槃と呼ばれる涅槃に入る(灰身滅智)とされたが、大乗仏教によって、このような灰身滅智の考え方が批判され、むしろ釈尊がめざしたように、現実社会の中で仏法の真実を顕現する生き方が重要視されるようになってくる。
 そのことを良く体現したのが菩薩であり、菩薩は貪瞋癡の三毒からは解放されて自由であるが、苦悩に満ちた現実世界にとどまり、人々を救済するのである。これを不住涅槃、無住処涅槃と呼ぶ。生死の苦しみの境遇の中において、涅槃の境涯を開いていくという「煩悩即菩提」、「生死即涅槃」や、悩みの世界に生きる凡夫の身に、仏の境涯が現れるという「即身成仏」の考えも同趣旨である。
7  〈は行〉
 バクトリア
 紀元前三世紀の中頃、古代ギリシャ人が中央アジアのアムダリア川上流にあるバルフを中心に建設した王国。バクトリアはヒンドゥークシュ山脈からアムダリア川中流域にわたる古称でもある。
 バチカン
 正式名称はバチカン市国。ローマ教皇が統治する小独立国。ローマ市内にあるローマ・カトリック教会の総本山。イタリア国家と教皇庁との長年の対立が和解して、一九二九年に成立。教皇の宗教的権限が他国から制限を受けないことを保障するための国家。
 ハミルトン
 (一七五七年―一八〇四年)西インド諸島で生まれたアメリカの政治家。アメリカ独立戦争でワシントンの副官を務める。その後、政界に出て合衆国の憲法制定に貢献し、初代財務長官に就任し、アメリカの基礎づくりに尽力した。
 バラモン教
 仏教興起以前に、ヴェーダおよびその解釈学にもとづいて発展した思想全体をいう。四姓の中の祭司階級であるブラーフマナ(婆羅門)が主体となる宗教であるので、このように呼ぶ。
 ハリマン
 (一八九一年―一九八六年)W・アヴァレル。アメリカの実業家、政治家、外交官。ニューディール政策のフランクリン・ルーズベルト大統領に起用され、一九三四年に全国産業復興局の役員に。駐ソ大使、商務長官などを経て、ニューヨーク州知事となる。大統領選にも出馬。特任移動大使、国務次官、ベトナム和平交渉の代表も務めた。
 パワー・ポリティクス
 国際政治が対立、無秩序な関係にあるものとして、その対立を武力や経済力によって自国に有利なように導こうとする政策、外交。
 反共十字軍
 自由主義側を十字軍に見立てて、共産主義側の打倒を目的として起こす集団的運動。十字軍は「十字軍」の項を参照。
 バンダラナイケ
 (一九一六年―二〇〇〇年)シリマヴォ。スリランカの政治家。貴族の家系に生まれる。政治家のS・W・R・D・バンダラナイケと結婚し、夫の影響によって社会運動を開始。夫が暗殺された後に政界入りし、自由党総裁に就任。一九六〇年の総選挙に勝利して、世界で初の女性首相となった。六五年に野党になったが、平等社会党と共産党との統一戦線を組んでいた七〇年の総選挙で圧勝して、ふたたび首相となった。その生涯では首相を三回、野党党首を二回務めている。
 万博
 一九七〇年に「人類の進歩と調和」をテーマに、大阪・吹田市の千里丘陵を会場として開催された日本万国博覧会のこと。
 パン・ヨーロッパ運動
 パンは汎(すべての)の意。第一次世界大戦後の疲弊したヨーロッパを救うために、ヨーロッパ合衆国を設立しようとする主張、運動。世界が、国家群によってではなく、パン・アメリカ、ソビエト、英国(大英帝国)、パン・ヨーロッパ、パン・アジアの五つの地域によって構成されなければならない、とした。
 美術館……
 一九七三年開設の富士美術館(静岡県富士宮市)と八三年開設の東京富士美術館(東京都八王子市)。
 ビスマルク
 (一八一五年―九八年)オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン。ドイツの政治家。プロイセンのユンカー(地主貴族)出身。官吏を経て政界に入り、プロイセン首相となった。一八七一年には普仏戦争等に勝利して、プロイセン王を皇帝とするドイツ帝国を建設、初代宰相となって念願のドイツ統一を達成した。
 その二十年におよぶ在任中、ヨーロッパ外交の主導権を手中にして、列強の勢力均衡をはかり、内政では保護関税政策をとって産業を育成。また、社会保障を実施するとともに、社会主義運動を弾圧したりして“鉄”と“血”の強行策によるドイツ統一を宣言したので「鉄血宰相」と呼ばれた。
 ピタゴラス
 紀元前六世紀頃のギリシャの哲学者、数学者、宗教家。当時盛んだったオルフェウス教の影響を受けた教団を創立。不滅であるが罪を負って輪廻する魂を救うために、戒律を守った調和のとれた禁欲的な生活を重視した。そのような生活は、調和的な宇宙観にも結びつき、すべては数より成り立ち、あらゆる事柄は数の関係にもとづく秩序をもっている、という世界観を展開した。
 ヒッピー
 一九六〇年代後半、アメリカで既存の“豊かな”産業社会の道徳観や価値観による生活様式、社会体制を否定する若者たちが生まれ世界中に広まった。その若者たちをヒッピーという。
 従来の支配的な文化に対抗して他の文化、すなわちカウンターカルチャー(対抗文化)に生きようとするヒッピーは、ヒゲをたくわえ、長髪にし、あるいはジーンズや風変わりな衣装を着て、定職につくことを拒否し、自由と愛を求めて放浪した人が多い。ロック音楽や東洋的な瞑想を好む者もおり、「反戦と非暴力」を求める反体制の運動に走る者もいた。
 ヒトラー
 (一八八九年―一九四五年)アドルフ。ドイツのナチス党首、第三帝国の総統。オーストリアの税関吏の子に生まれ、実科学校(八年制の実業中・高等学校)に進学したが中退。その後、描いた絵を売ったりして生計を立てる。
 第一次大戦では志願して従軍。戦後、ドイツ労働者党に入党、やがて党名が国民社会主義ドイツ労働者党と改まり、巧みな演説と演出の才を発揮して一九二一年に党首となる。世界恐慌の混乱に乗じて第一党になり、三三年に首相、翌年には総統となった。以後、独裁権を得て対外侵略を強行し、第二次大戦を引き起こした。ソ連軍包囲下のベルリンで、降伏直前に自殺。
 ビヨット
 (一九〇六年―九二年)フランスの将軍。第二次大戦後フォール内閣の国防相、ポンピドー内閣の海外県海外領土担当国務相を歴任。与党であるUDR(共和国民主連合)の長老。
 ファシズム
 ファシズムのファッショは、古代ローマの儀式用の、結束を示す棒の束に由来する。狭義には第一次大戦後、イタリアのムッソリーニを指導者とするファシスト党の運動、体制をいう。このイタリア・ファシズムと同種の運動が、社会的、経済的危機の中で、第二次大戦にかけて現れた。ドイツ、日本、スペインなどの運動がそれであり、全体主義的な一党専制の形をとった。
 ナチズムをはじめ、いずれもきわめて排他的な民族主義が特徴で、反共、反民主主義、反自由主義をうたい、対外的には侵略政策をとって、第二次大戦を引き起こす一大勢力となった。
 フェニキア
 古代、地中海東岸の細長い地域のこと。また、そこにフェニキア人が建てた都市国家の総称。フェニキア人は航海術に優れており、地中海から大西洋まで進出して貿易を営んだ。紀元前一世紀にローマに併合された。
 フェミニズム
 女性が、男性と等しい一個の人格として、性差にもとづく一切の差別を廃し、権利を主張する思想、運動。中世ヨーロッパですでにその自覚は兆していたが、とくに啓蒙主義の時代を背景として、十八世紀終わり頃から運動として起こり始め、十九世紀中頃から、アメリカやイギリスで活発になった。二十世紀に入ってからは、婦人参政権に象徴される社会的立場の諸権利の獲得を実現するにいたった。
 一九六〇年代後半に、男性に対抗し、女性の自由と自立そのものを内面深くから自覚して、性の解放を求める運動ウーマン・リブ(ウイメンズ・リベレーション)がアメリカを中心に起こっている。「ウーマン・リブ」の項を参照。
 フォークナー
 (一八九七年―一九六二年)ウィリアム。アメリカの小説家。南部社会を舞台に無知と退廃にからんだ暴力と性の描写を用いて、悲劇的作品を多く書いた。それらの小説は、内的独白や過去と現在の複雑な往還という特異な時間構成など、実験的手法で表現されている。一九四九年ノーベル文学賞受賞。作品に『兵士の報酬』『響きと怒り』『サンクチュアリ』などがある。
 フォード
 (一九一三年―)ジェラルド・ルドルフ。アメリカ第三十八代大統領。一九四九年に下院議員に当選。共和党の下院院内総務を務め、七三年にニクソン大統領の副大統領、七四年「ウォーターゲート事件」で辞任したニクソンの後任として大統領に昇格。
 不可知論者
 感覚に与えられた経験的なものの奥に、究極の絶対的な実在を認識することは不可能で、経験的現象の世界のみを知りうる、という説を主張する者。経験が全てであるとすると、絶対的実在の存在は否定されるが、経験の限界を自覚すれば、認識はされないものの、絶対的実在の存在は否定されない。
 プラトン
 (前四二七年―前三四七年)古代ギリシャの哲学者。ソクラテスに師事。アテネ郊外に学園(アカデメイア)を創設して、生涯を真理の探究と子弟の教育に捧げた。
 その哲学によれば、感覚の対象である変転きわまりない現象界に絶対的な真理はなく、思惟によって知ることのできるイデア界こそ真理の世界であり、現象界の個々の物はイデアの影にすぎないという。プラトンは不死なる魂の確信とともに、このイデア論によって道徳、国家、宇宙の問題等を論じた。著書に『国家』『パイドン』『饗宴』など。
 フランクリン
 (一七〇六年―九〇年)ベンジャミン。アメリカの印刷業者、政治家、文筆家、科学者、発明家。ローソク製造職人の子として生まれ、印刷業を営む兄の下で徒弟となり、のち、みずから印刷・出版業者として財をなす。科学にも興味をもち、雷が電気であることを明らかにし、避雷針などを発明した。
 政界にも進出して独立運動の指導者の一人となり、独立宣言の起草委員のメンバーとしてジェファーソンを助けた。連邦憲法制定会議でも重要な役割を果たす。『自叙伝』をはじめ多くの文章を書き、後世「代表的アメリカ人」と称される。
8  フランス革命
 一七八九年、フランスに起こったブルジョワ革命。ブルボン王朝の長年の失政、啓蒙思想、アメリカ合衆国の独立の影響、第三身分(僧侶、貴族の下の平民)の台頭などを要因として発生した。革命はバスチーユの牢獄の襲撃によって始まり、封建的な人間関係の中で国民を圧迫していた絶対王政を倒し、人権宣言が公布され、ルイ十六世は処刑され、共和制が成立した。
 その後、周辺諸国との戦争や反革命の内乱に対抗して、ジャコバン派の独裁下に恐怖政治が現出。さらには、独裁への反動を経てナポレオンの登場につながっていく。フランス革命は、その人権宣言等により、世界的影響を与える革命となった。
 フランソワ一世
 (一四九四年―一五四七年)フランスの国王。神聖ローマ帝国のカール五世(スペイン国王としてはカルロス一世)と、神聖ローマ帝国の皇帝位をめぐって争ったことをはじめとして、激しく対立して戦争を繰り返す。
 芸術、文学を愛好し、ヒューマニストを保護するなど、イタリア・ルネサンスを積極的に導入して、フランス・ルネサンスの発展に貢献した。レオナルド・ダ・ヴィンチを招いて住まわせたことでも知られる。
 フルシチョフ
 (一八九四年―一九七一年)ニキータ・セルゲーヴィチ。旧ソ連の政治家。十月革命後の内乱時に共産党に入党、赤軍に参加して反革命軍と戦う。第二次大戦中はウクライナ防衛の指導にあたり、戦後は要職にあってウクライナの復興に尽力した。スターリン死後、党中央委員会の第一書記として一九五六年にスターリン批判を行い、内外の注目を集める。
 五八年からは首相を兼務、平和共存外交を推進し、六三年には米・英との間で部分的核実験停止条約を結んだが、党内の反発や深まる中ソ対立、農政の失敗もあって、翌年に失脚した。
 ブルジョワ
 近代社会においては、賃金労働者であるプロレタリアに対立する資本家階級に属する人のこと。元々、市民という意味であり、豊かな財産をもつ人や、商工業者、地主などを経て、資本主義の担い手、の意味をもつようになった。
 プルトニウム
 原子番号94番の超ウラン元素の一つで、人工的にウラン238に中性子を吸収させてつくる。天然には存在しないと言われたが、その後、微量の存在が確認されている。
 プルトニウム239は核分裂を起こしやすく、原爆の材料として使われた。高速増殖炉の燃料として使う計画もあるが、前途は多難な状態である。放射能および化学的毒性の強さ、軍事目的利用の可能性など、その利用にはさまざまな危険性が指摘されている。
 ブレーン・トラスト
 ニューディール政策でアメリカの経済を立て直したF・ルーズベルト大統領が、政策の助言者として用いた知識人たちによる顧問団のこと。そこから、一般に政府や政治家の知的顧問団をいう。
 ブレジネフ
 (一九〇六年―八二年)レオニード・イリイチ。旧ソ連の政治家。ウクライナで製鉄労働者の家に生まれ、若くして共産党に入党。第二次大戦中は政治委員として軍を指導。戦後は、モルダビア共和国で党幹部として活動し、党中央委員会の書記にもなった。スターリン死後に格下げされたが、一九五六年の第二十回党大会で返り咲き、フルシチョフ失脚後、党中央委員会書記長、国防会議議長、最高会議幹部会議長(国家元首)を兼任、ブレジネフ時代を築いた。
 プロテスタント
 プロテスタント主義(プロテスタンティズム)を信奉するキリスト教徒。プロテスタント主義とはルター、ツウィングリ、カルヴァンなどによって遂行された十六世紀の宗教改革、およびその流れを支えた思想。カトリックを批判して、聖書を重視し、信仰のみによって救われることを強調。神との間に祭司の介在を否定した万人祭司説を主張した。
 プロメテウス
 ギリシャ神話中の英雄。ゼウスの意に逆らい人間に同情して、天上の火を盗み、人間にもたらした。そのためゼウスの怒りをかい、コーカサス山の絶壁に鎖でつながれ、鷲に内臓をついばまれる苦しみを受けた。
 文芸復興
 ルネサンス(再生の意)のこと。中世の神中心のスコラ学に対抗して、個の人間性の解放を意識して、十四世紀から十六世紀にかけてイタリアに始まり、次いで全ヨーロッパに広まった大規模な文化革新運動をいう。ギリシャ・ローマの古典にその範を求め、同文化の再生、復興をめざした。その後、たんに文芸復興に限らず、広く学問・政治・宗教の分野でも人間肯定の視点からの気運を生みだした。
 ヘイエルダール
 (一九一四年―二〇〇二年)トール。人類学者、探検家。ポリネシア人の起源が、南アメリカのペルーにあり、海を渡って来たという自説を証明するために、一九四七年に「コン・ティキ号」と名付けたバルサ材の筏で漂流実験を行い、成功。のち『コン・ティキ号探検記』を書いた。またエジプトから南アメリカへの人類移動の仮説を立て、七〇年にはパピルス製の「ラー2世号」による大西洋横断の漂流実験に成功した。
 ベギン
 (一九一三年―九二年)メナヘム。イスラエルの政治家。ポーランド近くの白ロシアに生まれ、ワルシャワ大学で法律を学び、シオニズムの運動に活躍。ソ連当局によって逮捕されるが、後にパレスチナに移住。イスラエル独立後の一九四八年にヘルード党を結成、七三年にはリクード党を率いて連立政府を樹立した。エジプトとの和平実現に尽力し、エジプトのサダト大統領とともにノーベル平和賞を受賞。
 ペタン
 (一八五六年―一九五一年)フィリップ。フランスの軍人、政治家。一九一四年に勃発した第一次世界大戦で、ドイツ軍の攻勢に対しベルダンの要塞を守り、国民的英雄として陸軍総司令官、元帥になる。
 しかし、第二次大戦では首相として対独休戦を行い、ビシーの地で、国家元首となってドイツ軍に協力した。フランスの解放後に反逆罪で死刑判決を下されたが、終身刑に減刑されたあと、獄中で死去した。
 ペッチェイ
 (一九〇八年―八四年)イタリア・トリノに生まれる。トリノ大学卒。経済学博士。ローマ・クラブ会長。第二次大戦中はレジスタンスの闘士として活躍。戦後の混乱期にフィアット社を再建。その後、オリベッティ社の経営に参画し、七〇年に、経済学者や科学者などを糾合して、人類の生存に関する問題について研究・提言する「ローマ・クラブ」を設立。著書に『人類の使命』『未来のための一〇〇ページ』など。池田SGI会長と七五年五月から八三年六月まで五回にわたって対談。ペッチェイ氏の遺稿とともに『二十一世紀への警鐘』(読売新聞社。本全集第4巻収録)にまとめられた。
 ベトナム戦争
 第二次のインドシナ戦争。「インドシナ戦争」の項を参照。
 ベトナム和平
 一九七二年五月二日、パリでレ・ドク・ト北ベトナム特別顧問と秘密会談。七三年一月二十三日、「ベトナム戦争の終結と平和回復に関する協定」に仮調印。二月十日、北ベトナム・ハノイを初訪問、ファン・バン・ドン首相と会談。三月二十九日、ニクソン大統領、ベトナム戦争終結宣言。
 ヘミングウェイ
 (一八九九年―一九六一年)アーネスト。アメリカの小説家。釣りと狩猟好きの医師である父と、音楽など芸術的素養の豊かな母の長男として生まれる。きりつめた叙述によって感傷を排し、力強い描写を可能とするハードボイルドの文体で、活動的で運命に敢然と立ち向かう人間の姿を描いた。一九五四年ノーベル文学賞受賞。六一年に猟銃で自殺。作品に『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などがある。
 ベルサイユ宮殿
 パリ南西のベルサイユにある。ルイ十四世が十七世紀の半ば過ぎに、ルイ十三世の別荘を大幅に改増築することを開始。その壮大、華麗な庭園、宮殿は、他のヨーロッパ諸国の宮殿造りに多大な影響を与えた。
 ベルリン問題
 第二次世界大戦の終了後、ソ連の占領地域内にあったベルリンは、米、英、仏の三国が西側を管理し、ソ連が東側を管理するという四国共同管理の委員会の下に置かれた。しかし、東西対立が進み、一九四八年三月、ソ連は共同管理委員会から脱退、同六月には、三国の占領地域から三国の管理下のベルリンに通ずる陸上の交通、輸送を封鎖した(ベルリン封鎖)。
 この封鎖に対し、西側は空輸によって物資を送るなど激しく対抗。翌年五月に封鎖は解除されるが、この間にベルリンの東西分裂が決定的となり、六九年には、東ドイツ政府が、東ベルリンから西ベルリンへの亡命を阻止するために「ベルリンの壁」を築き始め、「壁」が取り壊される八九年まで分裂は続いた。
 ヘロドトス
 紀元前五世紀のギリシャの歴史家。ギリシャとペルシャ帝国との争いであるペルシャ戦争を中心に、各地の風俗、地誌、風土、歴史を盛りこんだ『歴史』を著す。「歴史の父」と言われる。
 ホイットマン
 (一八一九年―九二年)ウォルト。アメリカの詩人。事務員、教員、ジャーナリストの経歴をもつ。従来の伝統的な定まった形式とは異なり、自由な詩形によって、ごくありふれた身近な自然や労働者や農民などの民衆の日常も詩の主題とし、アメリカを先頭とする民主主義的理想への賛歌をうたいあげた。詩集『草の葉』の改訂を重ね、魂の深まりとともに、国際的な視野の広がりを見せている。
 「『老年』は『青春』に劣らぬ…」は『草の葉』に「君は知っているか、『老年』がおそらくは君に劣らぬ優美さと力強さと魅力をそなえて、/君のあとからやってくるのを」(酒本雅之訳、岩波文庫)と歌われている。
 ホー・チ・ミン
 (一八九〇年―一九六九年)ベトナム民族運動の指導者。早くから反植民地意識に目覚め、二十歳過ぎに渡欧。フランス社会党員を経て、フランス共産党の創立に参加。第二次大戦中はベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成して、フランスと日本の二重支配下にあったベトナムで植民地主義と戦うとともに、抗日戦線を指導した。
 一九四五年、ベトナム民主共和国を建て、その初代国家主席(大統領)となる。その後も植民地支配の復活を図るフランスに徹底して抵抗、代わって南ベトナム政権を支持したアメリカにも屈せず、ベトナム型の社会主義建設を指導した。
 方便現涅槃
 法華経如来寿量品第十六の文で「衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず而も実には滅度せず常に此に住して法を説く」とある。仏が衆生を救うために、方便として、涅槃(ここでは死)を現ずること。
 生命は本有常住であるが、仏は生死の理を示すために死を現ずるのである。また、仏は常住不滅であるが、仏在世に生まれ合わすことのむずかしさを示し、仏に対する恋慕渇仰の心を起こさせるために、方便として涅槃に入る。
 ホッブズ
 (一五八八年―一六七九年)トマス。イギリスの哲学者、政治思想家。デカルトやベーコンと交友。清教徒革命のさなか、パリ亡命中に主著『リヴァイアサン』を書く。人間は自然状態のままだと「万人の万人に対する戦い」の世界となるので、互いに契約を結んで国家をつくり、全権を主権者にゆだねるべきだ、と説き、社会契約説の先駆をなした。哲学的には形而上学的唯物論を唱えた。
 ホメロス
 紀元前八世紀頃の古代ギリシャの詩人。古代ギリシャ最古最大の叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の作者とされる。
 ボルシェビキ革命
 ボルシェビキとは「多数派」の意。ロシア社会民主労働党から派生したレーニンの一派(ボルシェビキ。労働者と農民を柱とした、党員資格と規律に厳格な急進派)が中心となって遂行し、ソビエト政権を樹立した十一月革命(一九一七年)をボルシェビキ革命ともいう。これに対して、当面する革命にブルジョワの指導性を認める一方の派である、プレハーノフ、マルトフのメンシェビキ(少数派)は右翼日和見主義として批判され、民衆の支持を得られず、十一月革命の主役となりえなかった。一九一八年、ボルシェビキは党名をロシア共産党と改称した。
 ボルシェビズム
 ボルシェビキ(「ボルシェビキ革命」の項を参照)による名であり、レーニン主義ともいう。レーニンの、革命思想としてのマルクス主義解釈によって指導されて、ロシア革命を遂行した政治思想。革命を指導する「前衛党」すなわち、職業的革命家による少数精鋭主義を重視し、プロレタリア独裁をめざす。
 煩悩即菩提
 「涅槃」の項を参照。
9  〈ま行〉
 マーシャル・プラン
 第二次大戦後、アメリカの援助で行われたヨーロッパ復興計画。一九四七年、アメリカのマーシャル国務長官が提唱したので、この名がある。五一年末までに、ヨーロッパに与えられた援助総額は一〇〇億ドルを超え、ソ連圏に対して、西欧はめざましく復興した。
 マクナマラ
 (一九一六年―)ロバート・S。アメリカの政治家、実業家。ハーバード大学経営学教授とフォード自動車社長を兼務。一九六一年、国防長官に。ベトナム戦争を指導。その行き詰まりのなか六八年に辞任し、世界銀行総裁に就任した。
 マサリク
 (一八五〇年―一九三七年)チェコスロバキアの哲学者、政治家。農村に生まれ、苦学してウィーン大学で哲学を修めた。プラハのカレル大学で哲学教授となり、哲学だけでなく、文明論からロシア思想におよぶ広い分野で著作を発表した。第一次大戦中は西欧に亡命、独立運動を展開し、一九一八年のチェコスロバキア共和国の独立で初代大統領に選出された。三五年に引退するまで強い政治的影響力をもった。
 マッカーシー
 (一九〇八年―五七年)ジョゼフ・R。アメリカの政治家。上院議員。共和党右派に属し、一九五〇年トルーマン政権内に共産主義者がいると攻撃、政界以外にも影響をおよぼして思想・言論・政治活動を抑圧した、いわゆる「マッカーシー旋風」を引き起こしたが、五四年弾劾された。
 マリア・テレサ
 (一七一七年―八〇年)マリア・テレジア。オーストリアの女帝。神聖ローマ皇帝カール六世の長女として生まれ、ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚。父の急死後、ハプスブルク家の全領土を
 継承したが、近隣諸国がそれぞれハプスブルク家の領土に関する権利を主張してオーストリア継承戦争が起こる。結果、シュレジェンなどを割譲。
 その後、皇帝である夫や子のかわりに国政に力を発揮、七年戦争ではシュレジェンの奪回はならなかったが、国内改革に大きな業績をあげて国力を増大させ、国民からは「国母」として敬愛された。
 マルクス
 (一八一八年―八三年)ドイツの経済学者、哲学者、革命家。科学的社会主義を創始し、史的唯物論にもとづいて、資本主義から社会主義へ移行する社会的・歴史的法則を提唱。三月革命の失敗後はロンドンに亡命、主著『資本論』を著した。他に『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『共産党宣言』など。
 マルクス主義
 マルクスとエンゲルスによって展開された思想体系。弁証法的唯物論、史的唯物論にもとづき、資本主義社会が生産力と生産関係における矛盾をかかえていると分析。その矛盾のもとで搾取、抑圧されている労働者階級が主体となって、階級闘争により社会主義社会・共産制社会が実現するとする。
 マルロー
 (一九〇一年―七六年)フランスの小説家、政治家。中国革命やスペイン内乱、第二次大戦中の反ファッショの運動などに参加。戦後フランスの文化担当国務相を務めた。代表作は『人間の条件』『希望』『沈黙の声』など。池田SGI会長とは一九七四年五月東京で、七五年五月パリ郊外で対談。対談は『人間革命と人間の条件』として七六年に潮出版社から発刊(本全集第4巻収録)。
 ミケランジェロ
 (一四七五年―一五六四年)イタリア・ルネサンス盛期の彫刻家、画家、建築家、詩人。画家ギルランダイオの工房で徒弟となり、やがてメディチ家の愛顧を受けて彫刻家としての才能を発揮する。代表作に「ピエタ」「ダビデ」「奴隷」などの大理石像、絵画ではシスチナ礼拝堂の天井画「最後の審判」などがある。晩年はローマに移り住み、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任となった。
 民族大移動
 ヨーロッパで起きた、四世紀後半から六世紀末にかけてのゲルマン諸部族の大移動。中央アジアの遊牧騎馬民族であるフン族のヨーロッパ進入にともない、圧迫された西ゴート族がローマ帝国領内へ移住したことに始まる。
 フランク族、アングル族、サクソン族などが西ローマ帝国内やブリテン島、北アフリカに移動し、それぞれ部族王国を建設した。この移動により、四七六年に西ローマ帝国が滅亡してヨーロッパは中世に入った。
 メイア
 (一八九八年―一九七八年)ゴルダ。ロシアのキエフに生まれ、アメリカに移住して師範学校卒業。その後、シオニズム運動に参加してパレスチナに移住。ユダヤ機関の要職も務めた。
 イスラエル建国後、初代駐ソ公使を経て国会議員となり、労相、外相、一九六九年三月から首相を務めるが、第四次中東戦争の責任をとって七四年四月に辞任した。自伝『ゴルダ・メイア回想録』がある。
 メソポタミア
 チグリス、ユーフラテス川にはさまれた地域名。メソポタミアとはギリシャ語で「河の間」の意。紀元前五〇〇〇年ころから農耕民が定住し、シュメール文明に次いで、バビロニア、アッシリア文明、いわゆるメソポタミア文明が誕生した。
 蒙古は……
 ソ連の影響力の大きかったモンゴル人民共和国は、ソ連以外の国々との関係強化を図るようになり、一九九〇年代に入ると民主化が進んで、国名もモンゴル国となっている。
 モーセ
 モーゼとも。旧約聖書に描かれた、古代ヘブライ民族(イスラエル民族)の指導者。紀元前十三世紀頃、エジプトで奴隷として使われていたヘブライ人を率いてエジプトを脱出。シナイ山上で神ヤハウェから「十戒」を授かり、約四十年間にわたって荒野をさまよって、神が与えると約束したという地カナンに連れていった、とされている。
 毛沢東
 (一八九三年―一九七六年)中国の政治家、思想家。農家出身で、中学、師範学校で学んでいるときに革命思想に目覚める。一九二一年に中国共産党創立に参加。農民運動を指導し、朱徳と紅軍を組織。三一年に
 中華ソビエト共和国臨時政府を起こして主席に就任した。
 国民党軍の包囲のなか、三四年に長征を開始。その後、国共合作を実現するなどして抗日戦にあたり、勝利を得てから国民党政府との戦いにも勝って、四九年に中華人民共和国を樹立、国家主席となった。六六年に文化大革命を遂行するなど、晩年まで影響力を行使した。著作に『矛盾論』『実践論』など。
10  〈や行〉
 ヤスパース
 (一八八三年―一九六九年)カール。ドイツの哲学者。初めは精神病理学者だったが、人間の実存的な解明へと哲学的思索をすすめ、自己を包む絶対的なものへのかかわりを説く。仏教にも強い関心をもった。著書に『世界観の心理学』『哲学』『仏陀と竜樹』など。
 唯心哲学
 世界の根本の実在が心であるとする哲学。物を根本とする唯物哲学の反対。認識論のうえでは、観念論と同じ立場で用いられるが、ここでは、キリスト教という宗教を基盤にした、西欧での精神性を重視する様を言っている。
 ユーゴスラビア的な連邦
 ユーゴスラビアはクロアチア、スロヴェニア、セルビアなど、スラブ諸民族からなる連邦人民共和国。旧ユーゴ。本対談の後年、一九九一年、各民族が分離独立している。
 ユーラシア大陸
 アジアとヨーロッパを合わせた大陸の総称。地球上で最大の陸地で、全陸地面積の三六パーセントを占める。
 ユネスコ
 国連教育科学文化機関。一九四五年に議決されたユネスコ憲章にもとづいて翌年に成立。平和の精神こそ安全保障に寄与するという主張のもとに、教育・科学・文化を通じて諸国民間に協力をうながし、世界の平和と繁栄に貢献することを目的としている。本部はパリ。日本は五一年に加入。
11  〈ら行〉
 ライシャワー
 (一九一〇年―一九九〇年)エドウィン。アメリカの歴史学者、外交官。東京生まれ。ハーバード大学教授。一九六一年―六六年、駐日大使を務めた。
 リビア攻撃
 リビアの指導者カダフィーは、アメリカを激しく非難し、テロ集団を支持していたが、一九八六年四月、西ベルリンのディスコが爆破され、アメリカ人の兵士の一人が死亡し、民間人にも多数の死傷者が出た事件を機に、アメリカは大規模な爆撃をリビアに加えた。しかし、アメリカの同盟国に作戦反対の声が上がり、ヨーロッパでは抗議運動が高まった。
 両者は平和に……
 一九七五年に、キリスト教徒とイスラム教徒との間で内戦状態となり、その後、政情不安な状態がつづいている。
 量子力学
 二十世紀に入り、分子、原子、素粒子などの極微の世界を追究するようになって登場した力学。量子力学ではエネルギーを不連続で、ある単位の整数倍の量とするが、その単位となるものを量子という。
 ルイ十五世
 (一七一〇年―七四年)フランスの国王。王としての力量に欠け、国家財政を困難にしたうえ、七年戦争でイギリスに敗れてカナダとインドの領土を失い、王権の弱体化を招いた。次の孫のルイ十六世のとき、フランス革命(一七八九年)が起こる。
 ルッカ
 イタリア中部の都市。十三―十四世紀に毛織物、絹織物生産で先進的地位を誇る。今なお旧市街は城壁に囲まれ、中世そのままの姿を残している。
 レーガン
 (一九一一年―)ロナルド。アメリカの政治家。映画俳優出身で、カリフォルニア州知事を経て第四十代大統領に。一九八七年、ソ連のゴルバチョフ書記長と、中距離核戦力(INF)全廃条約に調印した。
 レーニン
 (一八七〇年―一九二四年)ウラジーミル・イリイチ。ロシア革命を指導し、世界初の社会主義国家(ソビエト社会主義共和国連邦)を実現。学生時代から活動を始め、退学の後にはマルクス主義による革命運動に進んだ。帰国、亡命を繰り返すなか、一九一七年に武装蜂起してプロレタリア独裁の新政権を打ち立てる。マルクス主義を理論的にも強化し、著書に『帝国主義論』『国家と革命』『唯物論と経験批判論』など。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ
 (一四五二年―一五一九年)イタリア・ルネサンス期の画家、建築家、彫刻家、科学者、技術者。多方面に天才を発揮して「万能の人」とされる。フィレンツェの公証人と農民の娘の間に、ヴィンチ村で生まれた。
 十代半ばに、絵画、彫刻をはじめ多彩な才能をもつアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房の徒弟となる。一四八二年にミラノに移り「最後の晩餐」を描く。その後、フィレンツェ、ミラノ、ローマなどを遍歴している間に「モナ・リザ」を描いた。対象そのものを認識することに徹した観察力は、自然認識にも示され、あふれんばかりの技術的、工学的アイデアとあいまって近代科学にも通じていく考察ともなった。一五一六年、フランスに赴いたまま生涯を終える。
 「歴史の意味……」
 一九四七年執筆。「シュペングラー―直観としての歴史」「トインビー―経験科学としての歴史」「カント―歴史と人間の道徳体験」と終章「責任の意識」の主要四章からなる三七七ページの草稿。「処女論文」の項を参照。
 レジスタンス
 フランス語で抵抗運動の意。とくに第二次大戦中、ドイツの占領下に置かれたフランスでの地下抵抗運動をさすが、各国の抵抗運動にも使われる。
 レミントン
 (一八六一年―一九〇九年)フレデリック。アメリカの画家、彫刻家、イラストレーター。ニューヨーク州カントン生まれ。西部に旅行以来、カウボーイと先住民との争いを題材とする作品を制作する。
 ロイド
 (一九〇四年―七八年)イギリスの政治家。マクミラン首相時代に活躍。国防相、外相、蔵相などを歴任、下院議長も務める。
 老子
 中国の春秋時代末の思想家。道家の祖。宇宙の根本の実在、理法である「道」を説き、自我を捨てて無為自然であれば、社会は平和になり人々は幸福になる
 とした。
 ローデシア
 アフリカ南部にあった旧イギリス植民地。南北ローデシアに分割統治されていた。一九六四年に北ローデシアがザンビア共和国として独立。南ローデシアをローデシアと呼んだが、八〇年にジンバブエ共和国として独立を実現。
 キッシンジャー氏は七六年に二度アフリカを歴訪。フォード大統領は「国務長官のアフリカ旅行は失敗の危険もあるが、現地の当事者による問題解決を援助するうえで建設的な役割を果たすだろう」と語る。キッシンジャー氏はアフリカ歴訪の最後の九月に「私はブラック・アフリカ諸国大統領と一緒に練り上げた考えを南アに伝えた。私は目標達成に向けてめざましい進展があったと信ずる」と発表。ジンバブエ独立の契機をつくる。
 ローマ帝政
 紀元前二七年、カエサルの甥で養子となったオクタウィアヌスがローマを統一、帝政時代を実現した。三九五年に東ローマ帝国と西ローマ帝国とに分裂。
 最盛期の版図は、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はイギリスにまでおよび、古代西洋では最大の帝国となった。ギリシャの模倣的文化だったが、軍事、土木、建築、法制にきわめて優れた才能を発揮した。
 ロシアとか……
 ロシア革命(一九一七年、ツァーリズムを打倒しソビエト政権を樹立)とドイツ革命(一九一八年、帝政を倒し共和政府樹立)をさす。
 ロスコ
 (一九〇三年―七〇年)マーク。ロシア出身のアメリカの画家。抽象表現主義の代表画家として知られる。あいまいな境界の矩形の色面を配列した絵は、内面的宇宙の広大さ、奥深さ、複雑さを個性的、直接的に表現しており、静けさとともに、なんらかの噴出を予兆させる生命感を漂わせている。
 ロック
 (一六三二年―一七〇四年)ジョン。イギリスの哲学者、政治思想家。医学にも通じた。哲学者としてはイギリスの経験論を基礎づけ、人間は本来“白紙(タブラ・ラサ)”の状態であり、観念、知識は生得のものではなく、感覚、知覚による経験に由来する、とした。王政復古期の対立抗争のなかオランダに亡命したが、名誉革命後に帰国、重職についた。
 ホッブズの社会契約説を受け継ぎ、契約によって国民は政府に服従する義務があるが、生命・自由・財産を侵す、つまり契約に反するような政府に対しては人民は抵抗権・革命権があり、政府を解体できる、と主張。また、権力の分立を説いて近代民主思想の祖型を築き、フランス革命やアメリカの独立に思想的影響を与える。主著は『人間知性論』『市民政府二論』。
12  〈わ行〉
 ワイエス
 (一九一七年―)アメリカの画家。高名なイラスト画家の父に絵を学ぶ。アメリカの地方の自然や人物を細密精緻な写実で描き、不安、陰鬱、求めてやまぬ渇望の雰囲気を表現している。代表作「クリスティナの世界」。
 ワシントン
 (一七三二年―九九年)アメリカの初代大統領。英国に対する独立戦争にさいし、植民地軍司令官として活躍、独立を獲得した。一七八九年に大統領に選出され、建国の父として尊敬されている。
 私の両親……
 一九二三年五月二十七日、ドイツ南部フランケン地方の小都市フュルトで、教員を務める父・ルイス、母・パウラの間に生まれる。
 私は、日中の……
 中国脅威論が高まるなか、一九六八年九月八日、東京・両国の日大講堂で開かれた第十一回学生部総会の講演で歴史的な提言を行った。七二年九月、日中の国交は回復した。

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