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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 光と鏡と「量子」の不…  

「科学と宗教」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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1  平和への友情のネットワーク
 ログノフ 北米・南米訪問の大成功、おめでとうございます。
 池田 ありがとうございます。長い旅でしたが、おかげさまで元気に帰ってきました。
 ―― 今回のチリで、五十カ国目の訪問国になったとうかがいました。
 池田 ええ、そうです。
 ログノフ 五十カ国ですか。たいへんな歴史です。ロシアにもぜひ、近いうちにおいでください。
 池田 ありがとうございます。ゴルバチョフ元大統領もたいへんお元気のようですね。また必ずおうかがいします。私たちは貴国の変わらぬ友人ですから。
 ログノフ それはうれしいニュースです。楽しみにしています。
 池田 日本とロシアは、もっとお互いに知り合うべきです。より良い友好関係のために、文化交流、人間交流が必要です。
 ログノフ 私たちもそれを望んでいます。
 池田 仏法の根本は、いうまでもなく「慈悲」の精神です。「慈」というのはサンスクリットの「マイトリー(maitri)」から出た言葉で、「真実の友情」という意味をもっています。
 ログノフ すばらしい言葉です。
 池田 「真実の友情」ほど強いものはない。それを結ぶのは行動です。ゆえに、勇気と誠実の行動で、世界中に友情のネットワークを広げ、平和に貢献したい。それが仏法者としての私どもの原点です。
 ログノフ まさにその信念のとおり、池田先生は平和への行動を続けておられる。私たちのこの対談も、ロシアと日本の懸け橋となり、また友情のメッセージとなれば、これ以上の喜びはありません。
 池田 私のことはともかく、博士の今のお言葉には千鈞の重みがあります。
 ログノフ 時代は変化しています。私たちは次の世代への責任があります。その責任を果たすためにも、ともかく行動し、何かを残さなければなりません。
 その意味でも、広範なテーマになると思いますが、一つ一つ努力して取り組んでいきたいと思います。
 池田 ありがとうございます。幅広い科学の問題を、わかりやすく表現するために、いろいろご無理をお願いしてすみません。
 ログノフ いえいえ、私も楽しく対談させていただいています。何でもおっしゃってください。
2  宇宙の森羅万象を映す鏡
 池田 私はマイアミにいたのですが、日本の新聞によると、二月四日の夜、ロシアの宇宙船に大きな鏡をつけて、太陽の光を地球に送る実験があったそうですが。
 ログノフ 宇宙ステーション「ミール」から分離された貨物船「プログレス」が直径二十メートルの巨大な鏡を広げ、太陽光線を反射して地上に送りました。
 夜間の照明などに使い、電力の節約に役立てたいと考えているようです。
 池田 壮大な発想です。実験は成功ですか。
 ログノフ モスクワでは光をキャッチしたと発表されました。
 スイスのジュネーブでは、あいにく曇り空でとらえられなかったようです。
 ―― 日本では、五日の明け方、札幌周辺で見えたと聞いています。
 池田 ああ、そうですか。宇宙空間に鏡を浮かべるとは、よく考えましたね。
 ログノフ ええ。そういう意味では、月も一種の鏡の役割をしているといえます。ちょっとアバタがありますが。(笑い)
 池田 鏡というのは、おもしろいですね。いろいろな目的に使うことができる。
 ログノフ 鏡について、ロシアには、「自分の顔が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう」という諺もあります。(笑い)
 池田 鏡には、事象をありのままに映す性質があるということですね。
 ―― ノーベル物理学賞を受賞した、日本の朝永振一郎博士は著書『鏡の中の物理学』(講談社)の中で、「じつは、物理学者には、やはり鏡に興味をもつ人がひじょうに多いようで、(中略)鏡の向うの世界と現実の世界との間の関係が物理学者の興味の対象になるのです」と述べています。
 ログノフ 鏡は物理法則の対称性を考えるうえで、示唆を与えてくれます。鏡や光は、量子力学の世界からみても、たいへん興味深いものです。
 池田 鏡は古くから、認識、なかんずく自己認識の手段として用いられてきました。
 哲学者プラトンは、「鏡を手に取ってあらゆる方向に、ぐるりとまわしてみる気になりさえすればよい」と言っています。
 そうすれば、「君はたちまち太陽をはじめ諸天体を作り出すだろうし、たちまち大地を、またたちまち君自身およびその他の動物を、家具を、植物を、そしていましがた挙げられたすべてのものを、作り出す」(『国家』藤沢令夫訳、岩波文庫)――と。
 このように、鏡が宇宙の森羅万象を映す働きに着目していたようです。
 ―― 新聞の名前で、英語なら「ミラー(mirror)」とか、ドイツ語ですと「シュピーゲル(spiegel)」と、「鏡」という言葉が多く使われているのも、「鏡のように世相を鋭く映す」ということを強調していると思います。
 ログノフ ラテン語で「鏡」を意味する「speculum」は、英語の「speculation(瞑想)」の語源に関係があるそうです。これなど哲学的な意味あいを感じます。
3  生命を磨く「自浮自影の鏡」
 池田 仏法哲学でも、鏡の譬えを用いて、じつに多くの法義が説かれています。「惣じて鏡に付て重重の相伝之有り」とあるとおりです。「相伝」とは、師から弟子へ伝えられる教法ということです。
 中国の天台大師は『摩訶止観』に、「譬へば明鏡の如し、明は即空に譬へ、像は即仮に喩へ、鏡は即中に喩う。合せず散せず、合散宛然たり」と、「空・仮・中」という三つの真理(諦)の側面が同時にそなわることを、鏡と像の関係に譬えています。
 ログノフ それはどういうことを説いているのですか。
 池田 まず、鏡にはもろもろの万法の姿――太陽も月も、人間や動植物も含めた森羅万象――が“像”として映る。しかし、これらの“像”は鏡に映せば見えるが、鏡を裏返したりすると映らない。その意味で、鏡の“像”は“仮のもの”であり“仮”に譬えられる。
 また、鏡の面にはすべてをありのままに映し出す“くもりのないこと”すなわち“明るさ”という特性がある。この“明るさ”は、一切を平等に差別なく映し出すことができる。この鏡の面のもつ性質は、物事の一貫した性分を示す“空”の概念に譬えられる。
 ログノフ なるほど、そういうことですか。
 池田 そして、鏡それ自体は、“像”と“明るさ”、すなわち「仮」と「空」をともに統合し、万物を映すという働きを顕現している。
 「合せず散せず、合散宛然」――合せずしかも散ずることもなく、しかも厳然と三つが合しつつ、かつまた散じてある。その統合性を「中」に譬えるのです。この「空・仮・中」の「三諦」は別々のものでなく、鏡と像の関係のごとく、融合し相即している。
 ログノフ 仏法の哲理は、緻密な思索に裏づけられているのですね。
 池田 さらに「三諦」に関して、もう少し哲学的にいえば、「仮諦」とは森羅万象は因と縁の和合によって、仮に成り立っているがゆえに、変化・流動を免れがたい。「空諦」とは森羅万象をつらぬく平等の性分であり、すべての物事は変化しゆくものであるという真理です。
 ログノフ おもしろい。
 池田 最後の「中諦」とは、「仮諦」と「空諦」の統合。すなわち、森羅万象は表面的には移り変わるものであるが、因果の法則にのっとりながら、因縁和合の現象として現れているという事柄そのものの真理をいいます。そして、これらの「三諦」はどの一つを欠いても真理が成り立たないし、さらにはどの一つにも他の二つを含んでいることから「円融の三諦」ともいいます。
 ログノフ 科学的にも、まことに興味深いものの見方です。
4  池田 また「自浮自影の鏡」というものがあります。
 日蓮大聖人は「鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり此の鏡とは一心の鏡なり」と、鏡像の譬えの究極が「自浮自影の鏡」、すなわち妙法を顕現した“心”を表すものであるとされています。この「自浮自影の鏡」という“磨かれた心”“澄んだ心”は、ありとあらゆるものの真実の姿を映し出します。
 煩悩で汚れた“心”を磨き、煩悩を菩提(仏の悟り)へと転換するとき、私たち一人一人の生命こそが、宇宙をつらぬく妙法そのものであることを、浮かび上がらせることができるのです。
 また、この後には「自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり」と述べられています。私たち凡夫の汚れた心を、明らかに照らし磨くための鏡として、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経」すなわち御本尊を御図顕くださっています。
 この御本尊を信じ拝するとき、わが生命に本来具わる尊厳なる姿(実相)を観、仏と同じ宇宙大の生命を湧現することができる。
 ログノフ なるほど。そういう深い意義になるわけですか。
 ―― 「拝む」とか、「祈る」というと、現代人には何となく非科学的な迷信といった抵抗感がありますが。
 池田 「祈る」ということは、人間にとって、きわめて崇高な精神の営みといえます。
 大乗仏教における「祈り」には、大宇宙の法則に合致して、この人生を歩んでいくという、人間本来の理想的な生き方がある。いわゆる“呪術”や“呪文”の類とは、根本的に異なるのです。
 ログノフ 私は、「祈り」とは“聖なるもの”と交流することだと思うのです。
 信仰をもっている人、祈りのある人には、苦難に直面したとき、乗り越えていく強さがあります。
 池田 イギリスの有名な天文学者フレッド・ホイル博士は、お会いしたさい、「現代の文明社会の中では、盲目的な“祈り”の力を信ずることは容易ではありません。しかし、真の“祈り”とは“祈り”というよりも、その本質は、いわば“宇宙へのメッセージ”であると思うのです。涯しなき宇宙にみずからのメッセージを送り、宇宙の“声”に耳を澄まして、その返事を聞く……」と、真摯に語られていました。
 ログノフ なるほど。“宇宙へのメッセージ”ですか。
 池田 ホイル博士は、生命という問題はこれからの私の課題である、という意味のことを謙虚に言われていた。人々が希求するのは、この宇宙と科学の時代にふさわしい開かれた精神性と、人生と社会に確かな創造の証をもたらす哲理ではないでしょうか。
 ログノフ これは大切な問題です。
 池田 ですから、歴史的にみて、この二千数百年の正統の仏教史のうえに建立された、生命哲理の「大法」は、光輝ある精神の再生をもたらすうえで、壮大な実証を示すものと私は思っております。
 ログノフ 信仰は、精神の充実をもたらします。二十一世紀は、宗教と科学がもっと啓発しあっていくことができるかもしれません。
5  高エネルギー加速器建造のころ
 ―― さて、ログノフ博士のご専門である「量子力学」「素粒子実験」は、ますます注目を集めております。
 プロトヴィノの博士の研究所では、加速器を使って素粒子を解明されているそうですが、目に見えない極小の素粒子を調べるために、巨大な加速器が必要だというのは、ちょっと不思議な気がするのですが……。
 ログノフ そうでしょうね。素粒子の世界は、十兆分の一センチ(10-13㎝)ほどの大きさです。もちろん肉眼ではまったく見えません。
 プロトヴィノに新たに建設中のものは、周囲二十一キロあります。また、アメリカのテキサス州では、周囲八十六キロの巨大な加速器の建設が始まっています。
 池田 周囲八十六キロといえば、東京二十三区がすっぽり入るくらいの大きさです。簡単にいうと、どういう実験ですか。
 ログノフ 加速した高エネルギーの粒子同士を衝突させると、いろいろなものが飛び出してきます。それらをとらえることによって、素粒子の様子を調べるのが、加速器実験の目的です。
 池田 どのくらいのスピードで、ぶつけるのですか。
 ログノフ 粒子はほとんど光速に近い速度になります。
 電子や陽子のような電気を帯びた粒子を、電磁石の力を利用して、巨大な円をぐるぐる回しながら加速し、高いエネルギーを与えて衝突させます。そこで生じた粒子の変化を、「検出器」によって目に見える形にするのです。
 池田 現在、世界各国の物理学者たちが、新しい発見のために、巨大な加速器を使って、実験を繰り返しています。ログノフ博士の研究所では、何人くらいの人が働いていますか。
 ログノフ 全部で八千人います。とくに私たちは教育にも力を入れていまして、ここで発見された新しい知識を、学生たちも利用できるようにしたい、と心を砕いています。
 池田 それはすばらしい。
 ログノフ こうした巨大な設備を必要とする学問は「工業科学」ともいうべきものです。
 ですから、純粋な意味での学者は、五百人しかいませんが、その研究が順調に行われるためには、側面からサポートする人が何千人と必要です。
 池田 この大きな事業を興すにあたり、博士はまず、プロトヴィノの街づくりから始められた、とうかがいました。
 ログノフ そうです。当時は、病院も学校もありませんでした。
 池田 すべてが“ゼロ”からの出発で、ご苦労も多かったことでしょう。
 ログノフ 全精力を投入しました。所長である私はすべての決裁をしなければなりませんでした。導入することになったテプリャコフ教授の加速器は、わが国で独自に開発したもので、高度の精密さ、計算力、学識が要求される、非常にデリケートな機械でした。
 多くの人々は、そんなものは作動しない、なんでそんなものを造るんだと強く反対しました。しかし、私はそれでもやろうと決めました。結果的には、その決断が正しかったのです。
 池田 このお話は初めてうかがいました。
 ログノフ その後、私は反対していた人たちに、「あなたたちは反対していましたよね」と言いましたが、彼らはそんなことは覚えていないんです(笑い)。その人たちにとっては、その場だけの言葉だったのかもしれませんが、私には自分で決断しなければいけない責任があったので、はっきりと覚えています。
 池田 わかります。私も同じような経験を何回もしてきました。道をつくる人の苦労は、つくった人にしかわからないものです。
 ログノフ 私が加速器の建造にあたったとき、何人もの管理職が、露骨に“内政干渉”してきました。当時、私はまだ若かったので、そういう愚か者とは闘わなくてはいけないと思い(笑い)、いろいろな方法を見いだし立ち向かいました。もちろん、聡明な人もいました。そういった人たちの助力で、仕事をやっていくことができました。
 池田 研究所を創設したころの、最も印象深い思い出は、何でしょう。眠れないほど興奮したような発見とか。(笑い)
 ログノフ まあ、アイデアが浮かんで眠れないということは、よくありますけれども……(笑い)。私がいちばん苦慮したのは、加速器の中で、衝突によって一度に生じるたくさんの粒子を、いったいどうやってとらえればいいのかということです。複数の粒子の誕生を描写する、何らかのシンプルなアプローチはないものかと、仲間と一緒にずいぶん考えました。その方法を作り上げたことが、私の最高の思い出であり、誇りになっています。
 池田 いつごろのことですか。
 ログノフ 加速器がスタートアップする一九六七年ごろでした。専門的になりますので、説明は省きますが、その方法は「インクルーシブ・プロセス(包含過程)」と呼ばれています。
 池田 今ではもう、全世界の物理学者がこの方法を用いていると聞きましたが。
 ログノフ おかげさまで、実験の主流として定着しています。
6  ミクロ世界の不思議「粒子の誕生」
 ログノフ ミクロの世界において、いちばん不思議なのは、「粒子の誕生」というドラマです。
 たとえば、私たちが生活しているこの世界で、二つの車がぶつかったら、何もいいことはありません。しかし、光速に近いミクロの世界では、違ってきます。二つの粒子が、高エネルギーに加速されてぶつかったとすると、そこからまったく違う新しい粒子が生まれるのです。二台のボルガ(ロシアの自動車)がぶつかって、新しい日本の自動車が生まれるというか。(笑い)
 池田 おもしろい。この現象はどのように説明できますか。
 ログノフ 極小の素粒子の世界では、今の譬えではありませんが、現実に「エネルギー」が「物質」に変化しうるのです。これはアインシュタインの相対性理論から導かれます。私たちはそのプロセスを研究しているのです。
 池田 たとえば、陽子と陽子がぶつかった場合、何ができますか。
 ログノフ それは一通りではありません。加えるエネルギーのレベルによっても、さまざまに変わってきます。
 陽子同士の衝突反応はきわめて複雑なものになり、そこでは中性子、重陽子、パイ中間子をはじめ、多くの粒子が花火のように生成されます。その種類は合計で百以上にもなります。
 ―― そんなにたくさんの粒子ができるんですか。
 ログノフ そうです。新たな素粒子が次々と発見される状況を、「粒子の動物園」と呼ぶ人もいます。(笑い)
 池田 物質の究極とは何か。物質を細かく分けていったときに、これ以上分けられないものは何か。
 ―― これはギリシャ以来、人類が求めてやまなかったテーマです。
 科学の進歩とともに、その究極の単位は、「原子」「原子核」、そして電子、陽子、中性子などの「素粒子」と、より小さなものになってきました。この分野の将来の見通しはどうですか。
 ログノフ 「素粒子」もどんどん新しい種類が発見され、その数は現在では三百種類以上にのぼり、それらの粒子が究極的な構成要素であるという見方は後退してきました。
 池田 最近では、「素粒子」自体も複雑な構造をもち、「クォーク」や「レプトン」といった基本粒子から成ると考えられていますが。
 ログノフ そのとおりです。しかし、「素粒子」といっても、内部構造をもっていないとは断言できない。さらに高いエネルギーを与えて調べてやれば、より基本的な粒子が見いだせる可能性があります。ですから、物質の究極への探究は、今後も物理学の重要問題でありつづけるでしょう。
 ―― 「原子」のさらに奥のミクロの世界で、粒子が互いに作用し、変転きわまりない生成消滅を展開しているとは、まったく驚くべきことです。
 ログノフ ミクロの世界では、物質とエネルギーとが自在に変化します。
 古典物理学の「原子論」のように、究極不変の単位を求めていく方法は、いまや根底的な見直しを迫られているといえます。
 池田 そうですか。物理学をはじめ現代の“知の最前線”が模索している方向性は、仏法の「縁起」の考え方に近づいているように、私は思います。
 つまり、この現象世界には不変の実在といったものはない。すべてが個々に独立して存在しているのではなく、なんらかの「縁」によって起こるというか、相互の関係性のうえに成り立っていると説くのです。
 ログノフ 仏法にはそういうことも説かれているのですね。
 池田 宇宙のあらゆる存在は、“個”と“個”が相互に依存しあいながら、“全体”を支えている。また、その“個”の中に“全体”も反映されている。
 仏法のこうした哲理は、“個”と“全体”の調和という課題に対しても、なんらかの示唆を与えうるのではないかと思います。
 ログノフ 非常に現実的な考え方です。
7  光の二重性――「粒子」と「波動」
 ―― 光も「量子力学を解くカギ」といわれますが、光といえば、太古の人々がまず見てきたのは、太陽、月、また星々の放つ光です。
 池田 今では、望遠鏡ではるか何十億光年先の星まで知ることができる。
 可視光線で観察できる最も遠い天体はどのくらいの距離ですか。
 ログノフ そうですね。準星(クェーサー)だと約百億光年くらい先まででしょうか。
 池田 地球の誕生は約四十六億年前です。地球ができる五十億年以上も前に発生した光を、今、見ることができるということですか。
 ログノフ あるいは、星そのものは爆発してなくなっているけれども、太古の昔に放たれた光を、現在地球で観測しているという場合もあるでしょう。
 池田 光は無限の宇宙を走る“永遠の旅人”といえますね(笑い)。これからの天文学の成果が楽しみです。
 ところで、宇宙の彼方から光が届くということは、光は真空を伝わるということですね。
 ログノフ そうです。宇宙空間はまったくの真空に近い状態です。その真空を光が伝わるというのは、たいへんに不思議なことです。
 池田 音は宇宙空間では伝わりませんね。
 ログノフ 音というのは空気などの媒体を介して伝わる「波」ですから、真空の宇宙空間では伝わりません。宇宙は音のない、静寂の世界です。
 ―― 真空の中を光が伝わり、音波が伝わらないということは、光は「波」とは違うのですか。
 ログノフ そこに大きな問題があるのです。十九世紀の物理学においては、光は「波」であるという考え方が支配的でした。
 池田 十九世紀の初め、イギリスの科学者ヤングが行った実験は有名です。
 ログノフ 彼は、光が「波」の性質をもつことを明らかにしました。二つのスリット(隙間)の開いた板に光を当てると、後方のスクリーンに、“波の干渉”に特有な縞模様ができるという実験を行いました。
 その後、マクスウェルによって、光は電磁波の一種であることが示され、光は「波」であることが常識となりました。
 池田 当時は、この大気や宇宙空間が、光を伝える媒体(エーテル)で、ぎっしり満たされていると考えていたそうですが。
 ログノフ 物理学者の間では、この“エーテルの謎”をめぐって大論議が起こりました。
 たとえば、光の速度は秒速約三十万キロですが、これほどの高速度で光が「波」として伝わるためには、その振動を伝える媒質は、よほどの固さをもっていなければならない。こんなことはありえないと。
 池田 なるほど、そうですね。
8  ログノフ この“エーテル論争”に終止符を打ったのが、アインシュタインの「相対性理論」でした。彼は光速度不変の原理を採用し、「真空は光を伝える性質をもつ」として、“エーテル”という発想を使わない、新しい物理学の体系をつくりあげました。
 池田 大胆な発想の転換が、物理学を一変させたわけですね。
 ログノフ “光の謎”の探究は、二十世紀の物理学の二大潮流である相対論と量子論を生みだしました。そのいずれも、アインシュタインが扉を開く役割を演じています。
 ―― たしか、アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞したのは、「光電効果」の研究でしたが。
 ログノフ ええ。「光電効果」というのは、光を金属の表面に当てると、電子が飛び出す現象です。彼は光を「電磁波」としてではなく、「光量子」というエネルギーの塊、いわば「粒子」の振る舞いをするものとしてとらえ、実験結果を見事に説明しました。
 ―― 科学史の新しい扉が開かれていったわけですね。
 池田 たしかに、アインシュタインの「相対性理論」等の発見は、二十世紀の偉大な出来事でした。しかし、それが人類を破滅させる核兵器を造り出した歴史の教訓を、私たちは後世に語り残していかねばならない。
 それが今世紀を生きた知性の、共通の思いではないでしょうか。
 ログノフ ひとたび核兵器を使えば、いかなる規模の衝突も、すべて人類の滅亡につながります。なぜなら、一時に人類を損滅させなくとも、核兵器の使用によって、人類の生存の基盤が確実に失われていくからです。
 池田 科学は物質の内なる力を解き放つことによって、巨大なエネルギーを引き出しました。人間もまた内なる善の潜在力を顕在化させていくことが、必要な時代と思います。
 ログノフ おっしゃるとおりです。
 ところで、今世紀の初頭には、光の正体について、二つの考え方が出てきました。ある種の現象では「波動」として振る舞い、また別の現象では「粒子」として現れる。こうして、“光の二重性”という認識が生まれました。
 ―― 日本のある物理学者の一般向けの量子力学の解説書(都筑卓司『不確定性原理』講談社)に、当時(一九六九年)大人気だった『巨人の星』という野球漫画のことが出ていました。その物理学者は、主人公の投手・星飛雄馬が投げる“消える魔球”は、漫画の作者が量子力学から発想したとしか思えないというのです。
 池田 そうですか。物理学者もわれわれ素人に、少しでも難解な量子論を理解させようと、苦労されている。(笑い)
 ―― “消える魔球”つまり“量子ボール”は、打者の前で消えて、捕手のミットに入ったときに、初めて姿を現す。量子力学の法則ならば、雲か霞のように広がったまま、打者の前を通り過ぎても不思議はないというのです。
 ログノフ 私は野球のことはよくわかりませんが、漫画が量子力学の説明に生きてくるとは、驚きました。(笑い)
9  量子力学の描く「ミクロの世界」
 ―― それにしても、光が「波」であり、かつ「粒子」であるとは、科学者は困ったでしょうね。
 ログノフ ええ。しかし、これは光に限りません。フランスのド・ブロイは、光および自然界のすべての物質は、波動性および粒子性を、同時にもつにちがいないという考えを提起しました。
 池田 これはどういう実験で確認されましたか。
 ログノフ 一例をあげれば、先ほどのヤングのスリットの実験で、「粒子」である電子を使った場合でも、スクリーンには縞模様ができます。奇妙なことに、電子が二つのスリットを同時に通って、「波」のように“干渉”を起こすのです。
 池田 電子のように「粒」であり、「波」でもあるというのは、いったい、どういうことなんでしょうか。
 ログノフ 古典物理学の概念から説明しようとすると、完全に行き詰まってしまいます。
 量子力学では、その実体が何であるかは、ひとまず問題にしません。それよりも、何が実験的に首尾一貫してわかるかを問題にします。そのために持ち込まれたのが「状態」という概念です。
 池田 なるほど、なるほど……。
 ログノフ 量子力学では「数学」という道具を使って、その「状態」を表します。少々専門的になりますが、シュレーディンガーは状態の時間的変化をとらえ、ハイゼンベルクは同じことを、違った立場から表現しています。
 池田 実体としてはとらえられないけれども、その「状態」はきちんと表現できるということですか。
 ログノフ そのとおりです。
 「状態」についての解釈はさまざまあります。現在、最も標準的な解釈では、「状態」を数値に表現したものは、「確率」を表しているとしています。
 ―― 現代物理は「数学」になってしまったといわれるのも、うなずけますね。
 ログノフ ミクロの世界では、実際の現象に、古典的な意味の因果律は成り立ちません。しかし、実際の現象とは直接的に関係のない「抽象的な状態」という概念を導入することによって、ミクロの世界の因果律が正確に表現できるのです。
 量子力学への移行とは、ミクロ世界の抽象的な記述への大いなる飛躍です。それは数多くの実験的な事実によって完全に裏づけられ、私たちの自然認識を豊かにしてくれています。
 池田 先ほども紹介したイギリスのホイル博士は、「大きな辞書一冊の言葉をマスターしていれば、非常に多くのことがらを明快に表現できる。“詩”の大家にもなれる。それと同じように数字を駆使することによって、多くを表現できます」と、数学のおもしろさを語っていました。
 宇宙の真理に迫るうえで、数学は量子の世界のような、人間のイメージを超えた状態も、表現できるということですね。
 ログノフ さらに確認されたことは、ミクロの世界では、観測することによって、そのもの自体の状態が変わってしまうのです。
 ―― と言いますと……。
 ログノフ 普通、私たちが物を“見る”というのは、対象に当たった光の反射を、視覚がとらえることです。そこでは、対象と観測する主体とは、まったく別の存在です。
 しかし、ミクロの世界では事情は異なります。電子の位置を測ろうとして光子(光の粒子)をぶつけると、電子は光子にはじき飛ばされ、前とは別の運動状態になります。
 池田 観測すること自体が、対象そのものの姿を変えてしまうのですね。
 ログノフ ええ。物理的にいうと、観測者は電子の位置と運動の様子を、同時に知ることはできないのです。
 池田 それが「不確定性原理」ですか。
 ログノフ そのとおりです。電子そのものにまったく影響を与えず、観測することは不可能です。言い換えると、観測するしないに関係なく、客観的に存在するはずの電子の本来の姿を、知ることはできないということです。
 主体と客体の独立を前提とする、デカルト以来の科学の方法が成り立たないのです。
 池田 きわめて哲学的な問題にかかわってくるということですね。量子力学の登場は、ミクロの世界における実在性への疑問であり、このことは、私たちの住むこの宇宙や自然さえも、素朴な客観的実在と考えることを許さない、思想的な問題をも含んでいます。
10  万物の実相を解く「円融三諦論」
 池田 この量子力学の描くミクロの世界の様相と、先ほどもふれた仏法に説かれる「円融三諦論」との、物質的側面での“類似性”に、私は着目したい。
 ―― 「三諦論」ですか。
 池田 中国の天台が法華経にもとづいて体系化した「円融三諦論」は、“観念観法”を主軸として、人間自身を含む万物の実相を洞察した仏法哲理の一つです。
 一方、量子力学は観測によって現象を把握し、「抽象的な状態」の概念によって表現しえた、ミクロ世界の法則といえるでしょう。
 対象に迫る方法論はまったく違っていても、そこに浮かび上がる「万物の様相」には重なり合うものがあるように思われます。
 ログノフ それはおもしろい。量子力学と仏法哲理に“類似性”が見いだせるならば、私にとっても、きわめてすばらしい発見です。
 池田 天台が「円融三諦」という万物の有り様についての思惟を導き出した“観念観法”のなかに、「三観」という認識法があります。つまり、万物の実相を「三観」という方法によって、洞察しようとしたのです。「三観」というのは、“空観”“仮観”“中観”という三つの側面からの認識の仕方です。
 まず“仮観”ですが、私はこの見方を、量子力学の方法論と比べてみたとき、物理学的な「観測」にあたるのではないかと思うのです。「観測」の方法に応じて、素粒子はこの大宇宙の物質場から、あるときは「粒子」として出現したり、またあるときは「波動」として現象面での姿を見せる。
 しかし、それは「観測」の方法によって左右される以上、当体そのものの姿とは異なる。これは万物が因と縁との和合によって仮に成り立っているとみる“仮観”に通じる。
 ログノフ それでは、「抽象的な状態」や「波動方程式」といったものは、仏法からみると……。
 池田 ミクロの世界では、実体そのものはわからないが、そこにそなわる抽象的な「状態」や「性質」は、シュレーディンガーやハイゼンベルクの方程式によって正しく表せます。
 “空観”とは物事に固定的な実体はないとして、万物をつらぬく性分を見ていくものですが、これらの方程式は、その「空諦」の一分にあたるのではないか……。
 そして、現象とそれをつらぬく普遍の理――その両方を統合しつつ、物事の本質へと迫る探究の姿勢が“中観”に相当するといえます。この「三観」「三諦」は、存在と認識の一体性を的確にとらえつつ、人間と宇宙をつらぬく万法の当体を把握しゆく、ダイナミックな哲学だと思います。
 ログノフ たいへんに興味がわくお話です。
 池田 西洋においては、科学と宗教は長い間対立してきた歴史があります。大乗仏教という東洋の英知との出合いは、科学と宗教が協力しあう大いなる土壌を作っていくと、私は確信しております。

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