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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 「脳」と「心」の妙な…  

「科学と宗教」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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12  創造性の源泉「九識心王真如の都」
 ―― 話がちょっと前後しますが、仏法では、記憶はどこに蓄えられると考えるのでしょうか。
 池田 「九識論」でいえば、第八の“阿頼耶識”です。“阿頼耶識”は“蔵識”ともいい、記憶を“種子”として蓄える場所という意味があります。
 ログノフ 記憶の“蔵”ですか。おもしろい。
 池田 そうです。仏法で説く“種子”の分類には、この“記憶の種子”をはじめ、さまざまな“業(行為)の種子”もありますが、ここでは略させていただきます。
 ログノフ その“記憶の種子”に、個人の体験や情報が、蓄えられるわけですか。
 池田 そのとおりです。しかし、“阿頼耶識”が個人という次元に限定されたものでなく、時間的にも空間的にも壮大な広がりを内包していることは、前にも申し上げたとおりです。そして、仏法の仏法たる所以は、“阿頼耶識”のさらに深層に本源的な生命を洞察していることです。
 ログノフ それが「九識論」の最後のものですか。
 池田 そのとおりです。それは、人間生命という“内なる小宇宙”の最深部をなし、かつ“外なる大宇宙”と一体となって融合しゆく、宇宙生命そのものの次元なのです。
 この当体を天台は、“根本浄識”と呼び、日蓮大聖人は“九識心王真如の都”と表現しました。仏法では“創造性”の源泉を、この本源的な生命に求めています。
 ログノフ 初めてうかがいました。こうした志向性は東洋独特のものですね。
 池田 人類に偉大な光を与えた発見や業績には、必ずといってよいほど、大いなる“創造性”が躍動しています。
 先ほど博士が言われた“創造性”を開発するための“順序だてられた絶え間ない作業”というのは、仏法的には“阿頼耶識”における“記憶の種子”の強化ととらえることができます。
 ログノフ なるほど、なるほど。
 池田 間断なき努力、徹底した思索……そうした精神的格闘が極限まで高められたとき、つまり“記憶の種子”が限界まで強められ、その境界を突破したとき、“阿頼耶識”の内部において劇的な変転が起こります。その瞬間に、生命の最深層から独創的な智慧の光明が輝きわたるとみることもできると思います。
 ログノフ なるほど。仏法が科学の眼からみても、たいへん現実的かつ実践的な宗教であることがわかる気がします。

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