Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

不渡余行法華経の本迹 本因下種の妙法を直ちに修行

「百六箇抄」講義

前後
1  義理上に同じ直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり、今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり。
 まず表題の「不渡余行法華経」について考えてみたい。ここでいう法華経とは、もはや文上脱益の法華経ではない。寿量文底下種の南無妙法蓮華経のことであります。
 前回にも述べたように、同じく法華経といっても、広・略・要の三種があります。広説の法華経が一部八巻二十八品であり、略説の法華経が方便・寿量品であるのに対し、要説の法華経とは五字七字の南無妙法蓮華経のことをいいます。そのうち広説・略説の法華経が文上、要説の法華経が文底となります。
 表題の「法華経」とは、要説の法華経 南無妙法蓮華経 を意味しております。しかも、この法華経は「不渡余行」なのであります。
 「不渡余行」とは「余行に渡さず」と読む。「余行」とは、具体的には本果妙の仏、つまりインドの釈尊が説き示した四教八教の修行をいいます。すでに述べたように、本果の仏は、妙法を直ちに説くことができず、これを間接的に示すために、四教八教、迹本二門として説かざるをえなかった。これは余行の法門は、本因下種の法体たる妙法の部分部分を取り出して説いた教えにすぎないため、衆生成仏の本源の種子とはなりえないのであります。
 したがって広説・略説の二種の法華経も、要説の法華経よりみるならば、末だ本迹二門というように本因下種の妙法を部分に分かって説いたものであり、そこに立てられた行であるが故に「余行」となるのであります。
 「余行に渡さず」とは、仏道修行においてこれら余行の法門に渡らない、すなわち全く行じないということであります。
 それ故に表題の「不渡余行法華経の本迹」とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人が本因下種の妙法を、余行を交えずに直ちに行じられた修行のお姿を、「本」と「迹」に立て分けて論じられているのであります。
 本文に入って「義理上に同じ」とあります。「義理」とは意味や内容のことであり、本項の意味内容が前項の「本因妙法蓮華経の本迹」と同じであるとの仰せです。
 では、いかなる点で義理が同じなのでありましょうか。
 「本因妙法蓮華経の本迹」においては、本因下種の法体としての妙法蓮華経の本迹を述べているのに対し、ここではその下種の妙法を修行する立場における本迹を論じられているのであります。
  妙法は本因の下種を明かす故に四教八教の余行を説く必要は全くない。それが前項の「全く余行に分たざりし妙法」ということであり、すでに学んだところであります。その下種の法体たる妙法を修行するうえにおいても、やはり余行に渡る必要は全くない。まさに直達正観である。このように、下種の法体に約しても、また修行に約しても、ともに余行に渡ることはないのであります。そのことを「義理上に同じ」といわれているのであります。
 妙法は諸仏が直達した究極の法
  次に「直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり」とある。
  「直達の法華」とは直達正観の文底の法華経・南無妙法蓮華経のことであります。「本因妙抄」に「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」とお示しの通りであります。「直達正観」とは直ちに正観に達することであり、速疾頓成・即身成仏」と同じ意味であります。
  その直達の妙法が「本門」であるとの仰せなのです。それに対して、妙法を唱うる釈迦は「迹」となる。ここで「釈迦」といわれているのは文底の釈尊、すなわち久遠元初の自受用報身如来のことであります。
  久遠元初の修行における人と法とを本迹に立て分けて論じられているが故に「釈迦」と表現されているのであります。そのことは「総勘文抄」の「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」との表現や、同じ「百六箇抄」の「久遠名字の正法は本種子なり、名字童形の位、釈迦は迹なり」の表現など、これまで学んできた文に照らして明らかでありましょう。
  さて、この場合の本迹の立て分けが、久遠元初自受用報身如来の生命にはらまれた内証と外用の立て分けであることは、もはや論ずるまでもありません。
 妙法を唱うる釈迦、とはまさに久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の外用の姿であり、振る舞いであります。それ故に「迹」となる。だがその内証には、直達の法華すなわち宇宙と生命の究極、南無妙法蓮華経の一法が脈打っているのであり「本門」となるのであります。
 では、何故に南無妙法蓮華経を「直達の法華」といわれたのでありましょうか。
 それは妙法が、三世諸仏が直立したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生が直達したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生に直達の正観を得させる力を内包されているからであります。
 「当体義抄」に「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減けつげん無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」とあります。
 すなわち、妙法は因果俱時・不思議の一法であるとの仰せである。それ故、この妙法を行ずるとき、仏因・仏果同時に得ることができるのであります。
 久遠元初における日蓮大聖人は、名字凡夫の姿のまま妙法を唱えられると同時に、直ちに正観に達せられたのであります。まさに「直達の法華」とは、妙法にはらまれた、仏因と仏果とを因果俱時ならしめる妙なる力を指しているのであります。それはまた、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の生命に脈打つ一法でもある。
2  宇宙生命の根源に直接触れる
 このことは、私たちの立場にもそのままあてはまるのであります。
 私たちが御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱えるとき、直接、宇宙生命の根源に触れることができ、それを基点として生活や社会の場に打って出ることができるのであります。
 これは私たちに約した直達正観であります。そこでこの直達正観の「直達」について少々考えてみたい。
 「直ちに達する」の「直ちに」は、さまざまな意義が考えられるが、まず「速やかに」とも表現されるように、時間的な速さを意味しております。先にあげた「速疾頓成」も、また法華経如来寿量品の「速成就仏身」も、共に速やかに成仏する、との意味であります。これは長遠な時間を要する歴劫修行に対する意義であります。
 歴劫修行の場合は、仏因と仏果の間が因果異時である。九界の衆生ははるか彼方に仏界の到達点を目指しながら、限りなく修行を積み重ねていかなければなりません。そこに漂うものは、果てしなき仏道修行の道程に対する嘆息であり、あるいは絶望的な悲嘆かもしれない。しかし歴劫修行には、必ず仏果に到達するとの保証はどこにもないのであります。
 これでは、いかに仏法が民衆救済を叫んでも、現実に衆生を救い得る力とはなりえない。ここに直達の正観すなわち速疾頓成を説く法華経、なかんずく日蓮大聖人の仏法が、出現したことのありがたさがあるのであります。
 衆生の生命の奥底には久遠元初以来、仏因と仏果とを因果俱時ならしめる妙法が厳然と貫かれていた。この妙法を唱えるとき、九界の衆生の仏因は速やかに仏果に達するのであります。
 爾前経においては、この衆生の生命の奥底に貫かれた因果俱時・不思議の妙法をあらわしていない。修行の目標としての民衆を生命の外側に置かざるをえなかったし、その故にそこに到達するための修行として歴劫修行を説かざるをえなかったのでああります。
 これに対して法華経は、仏果を凡夫の生命の内側に脈打つ実在と捉えた。だがそこにはこの仏果の体を説きあらわさず、文底に秘沈されていた。これを日蓮大聖人は初めて取り出してあらわされ、三大秘法の仏法として樹立されたのであります。それ故に大聖人の仏法においては、いかなる人も速やかに成仏することができることとなったのであります。「成仏」とは「仏に成る」ことではなく「仏と成る」と読まれたのも、まことにここに由来するのであります。
 この歴劫修行と直達正観との相違を明らかにするために、今、一つの身近なたとえを述べてみよう。
 ありえないことだが「悲しみ」を知らない人が仮にいたとしよう。それを生命の外にある対象とし、悲しみはいかなる精神現象か、何を縁として起きるか、それに伴う肉体的な現象は何かなどを研究しようとする。あらゆるケースを分析し、認識し、理解したとしても、なおかつその悲しみそのものに迫ることは難しいでありましょう。それはまさに歴劫修行にも等しいと思う。
 ところがひとたびその人が、愛するものを失うなど悲しみを体験したとき、探し求めてきたものを即座に悟るのであります。思い描いたものと異なるかも知れないし、似たものであるかもしれない。しかし、いかなる分析や認識とも違った圧倒的な実感をもって「悲しみ」の本体を知るでありましょう。そのとき、もっとも自分の生命の内にあった「悲しみ」の感情が実際に現れたことを知るにちがいない。これが直達の正観にあたるといえないであろうか。
 成仏の問題は、このたとえよりももっと深遠で重大であります。しかし直達の正観も、所詮は自らの内に脈打つ妙法に直接触れ、我が身即妙法の当体であることを実感することに尽きるのであります。
3  民衆と妙法を直結させる仏法
 ともかく「直ちに」は、時間的な速さを意味するのであります。だがそればかりではない。「直ちに」はまた、すでにこれまでにも触れたごとく、直接、直結の意味がある。
 この意味では極めて重大であります。すなわち日蓮大聖人の仏法は、私たちを妙法と直ちに結ぶことを説く、言い換えれば法と人との直結を説くのであります。それは同時に、御本尊と私たちの間にはいかなる媒介物も存在しないということを表すのであります。
4  中世キリスト教において、神と人間との間に、双方を仲介する教会や牧師が存在していたことは周知のことでしょう。本来、神と人間との間に絶対の断絶を置くキリスト教にあっては、両者の仲介役たる牧師や教界が存在する必要性は十分にあったのですが、しかし次第にそれらの権威や力が大きくなり、遂に民衆を隷属させるに至ったことは歴史的事実であります。
 近世初頭におけるルネサンス及び宗教革命運動は、根本的にいって教会や牧師の仲介を取り払い、民衆を直ちに神に直結させようとした試みであったともいえましょう。その結果、人間復興といわれる一つの特色をもったのであります。しかしながら、いかに人間を神に直結させようとしても、神を創造主、人間を被造物と説くキリスト教にあっては、おのずからそこに隔絶があるのもまた道理であります。結局、人間は神の権威の前に奴隷のごとく伏せざるをえないのであります。
 日蓮大聖人の仏法は、民衆と妙法を直結させた仏法であります。しかもその妙法は、民衆の生命の内に脈打つ実在である。これほど権威を否定し、人間の存在の尊厳性を高らかに謳い上げた宗教はない。私たちは、人間主義の宗教である偉大なる日蓮大聖人の仏法に巡り会えたことを深く感謝しつつ、日々の行学に励みたいものであります。
 妙法即御本尊と私たちが直結することこそ仏法の根本であり、極意であります。それはまた、あらゆる人々が御本尊と自分との関係に生きるということでもある。たしかに、妙法広布を推進する組織はなければなりません。だが御本尊と自分との直結という仏法の極意、本義に立つならば、組織はあくまで、この直結をより深くするという根本目的のための手段といっても過言ではないでしょう。この目的と手段をはきちがえるとき、その組織はたちまち権威主義とドグマに囚われ、民衆を苦しめる魔物と転化するのであります。
5  厳たる軌跡描く妙法根底の人生
 さて、本文の最後に「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり」とある。「芥爾計も違わざるなり」の「芥爾計も」とは、「少しも」との意である。言い換えれば「そおまま」ということであります。
 また「久遠名字の振舞」とは、名字即の凡夫のままで仏の振る舞いを行じられた久遠元初の自受用報身如来の姿を表されているのであります。
 したがってこの文は、末法今時の日蓮大聖人の修行は、久遠元初の自受用身の振る舞いをそのまま行じたものであるとの仰せであります。その元意は、久遠元初も南無妙法蓮華経、今も南無妙法蓮華経であるということであり、永遠に南無妙法蓮華経は宇宙と生命の根源に脈打つ直体ということであります。
 時代・社会に制約されることなく、時代・社会を超越しつつ、しかも常に時代・社会にその力用を現す普遍の妙法・日蓮大聖人はこの久遠元初の妙法を御本尊として図顕され、私たち末法の衆生に与えて下さったのであります。
 故に私たちが御本尊に向かって余行を渡さずに直ちに題目を唱えるとき、もったいなくも日蓮大聖人の生命に直ちに触れることができたのであります。しかもそれは、日蓮大聖人から、その命を部分に分かつことなく命全体をそのまま受け継いでいくことになるのであります。
 私たちが御本尊即妙法と直結するということは、まさに、宇宙生命の根源に帰することであります。
 日蓮大聖人の仏法は、変化し移ろいゆく無常流転の哲理ではない。元初の時より無始無終に南無妙法蓮華経の一法は常住の法として宇宙に脈打ち、生命の奥底に脈々と流れているものであります。
 故に、南無妙法蓮華経の一法に帰し、そこから発する人生こそ強く確固たるものはありません。
 その人生はもはや、激風や暴風のなかにあってもろくも散りゆく木の葉のごときものではない。否、むしろ妙法根底の人生は、劇風や暴風を自らの飛躍のための土台としていくような逞しくも強靭な旅路となるに違いない。
 厳とした、この妙法の一法が胸中の肉団に輝いているかぎり、わが人生もまた厳たる軌跡を描いていくことは必定であります。
 どうか皆さん方は、片時も仏法の真髄が御本尊と自分との直結にあることを忘れないでいただきたい。
6  大聖人内証の大生命を明示
 下種の法華経教主の本迹
 自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。
 表題に記された「下種の法華経」とは下種仏教の法華経であり、脱益寿量品の文底に秘沈された本因妙の南無妙法蓮華経のことを意味しております。この一法は、一切衆生を成仏せしめる根源の種子である故に、下種益の法華経となるのであります。
 それに対して文上の法華経二十八品は、本果妙の教主である釈迦の脱益の法華経であり、また像法出現の天台の説いた摩訶止観の熟益の法華経であることはすでに述べた通りであります。
 さて、南無妙法蓮華経は、久遠元初の自受用報身如来の大生命に脈動する一法であり、同時に、末法御出現の本因妙の教主である日蓮大聖人が所持され、弘通された根源の法であります。
 故に「下種の法華経の教主」とは、久遠元初自受用報身如来、即末法の御本仏・日蓮大聖人のことを意味するのであります。
 今、下種の法華経を弘通される教主、つまり日蓮大聖人の大生命について、本と迹とで論じていくのが、表題の主旨であります。
7  実践の尊さを示した外用の姿
 「百六箇抄」の文については、日寛上人が「当流行事抄」のなかで取り上げて論じておられますので、それにしたがって解明していくことにしたいと思います。日寛上人はこの本文全体を、まず二つの大段に立て分けて論をすすめておられます。
 「当流行事抄」には「文に二段あり初めは是れ従本垂迹なり、次は是れ本迹顕本なり。故に其の教主は某なりと云うなり。故に知んぬ蓮祖は即ち是れ自受用身なり。是の故に応に知るべし下種の教主は但是れ一人なり、謂く久遠元初の教主にも自受用身・末法今時の教主も自受用身なり。久末一同之を思い合わすべし」と記されております。
 「初めは是れ従本垂迹」とは「自受用身は本・上行日蓮は迹」の御文のことを言われております。従本垂迹とは、本従り迹を垂れる。という意味であります。
 末法において、日蓮大聖人は、法を弘める立場では、上行菩薩の再誕という姿をとられました。しかし、この上行日蓮としての外用の振る舞いは、あくまで、本地自受用身報身如来の大生命が脈打っていました。大聖人は、本地である久遠元初の血脈を内奥にたぎらせつつ、上行菩薩としての振る舞いを現じられたのであります。これが日蓮大聖人における従本垂迹の姿であります。
 しかし日蓮大聖人は、竜の口法難において外用上行の迹をはらって、内証の境地たる久遠元初の自受用報身として、本を顕されました。「開目抄」に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」とある通りであります。ここに記された魂魄とは、久遠元初の自受用報身という大聖人の内証の生命それ自体であることはいうまでもありません。
 竜の口の頸の座を通じて、凡夫をなげうち、久遠元初の本地を開顕された厳粛なる事実こそ、まさに、末法御本仏における発迹顕本であると拝すべきであります。
 なぜ大聖人は、外用の姿をひとまずとらえられたのであろうか。それは、経文に即して、どこまでも経文通りの実践をしきった姿を人々に知らせるためでられた。すなわち、実践の尊さ、強さ、偉大さを示すためであられた。
 だが、もしその大聖人の外に顕れた姿のみに終始し、内なる元初の光線を弟子たちに知らしめなければ、また、後世にとどめておかなければ、大海の表面のさざ波に人々は目を向けるだけであろう。その奥に広がる大海の心、すなわち内証に脈打つ生命というものを知らしめる必要があった。その外用から内証への回転劇こそ、竜の口法難であったのです。また、この「百六箇抄」の文において、大聖人の御内証を明かしてくださったのであります。まことにありがたいことではありませんか。
8  末法の御本仏を説いた寿量品
 「百六箇抄」では、第二段がは発迹顕本をあらわしております。「我が内証の寿量品と脱益寿量の文底の本因妙の事なり、その教主は某なり」の御文がそれであります。
 この御文を通して大聖人は、自らが本因妙の教主であり、自受用報身如来であられることを、一切衆生に向かって宣言されております。故に「其の教主は某なり」と断言されておりますが、私は、この第二段全体を解明するにあたって、次の順序で論を進めていきたいと考えております。
 まず最初に、内証の寿量品ということについて、少々解説を加えておきたい。次に、発迹顕本の御文の前半、つまり「我等が内証の寿量品とは、脱益寿量の文底の本因妙の事なり」を通して、内証の寿量品と南無妙法蓮華経との関係性を論じていくことにいたします。そして、最後に「其の教主は某なり」との御文を中心に第二段全体を拝したいと思います。
 さて、第一の項目について述べてまいりますが、周知のごとく、寿量品の最も重要な意義は、発迹顕本にあります。しかしながら、ひとことに顕本といっても、そこにあらわれた本地がいかなるものかによって、異なってくる。故にこれを文上顕本と文底顕本に立て分けるのであります。
 文上顕本とは五百塵点劫成道という本地を顕したことであり、文底顕本とは久遠元初という本地を顕したことであります。つまり、寿量品第十六を五百塵点劫成道の釈尊の顕本の品として理解していくことを、文上の寿量品といいます。それに対し、同じ寿量品を、久遠元初の自受用報身の顕本の品であると理解していくのが、日蓮大聖人の内証の本地を顕した品としての読み方であり、故に、内証の寿量品と称するのであります。
 例えば「我実成仏」という文を、その文のままに読めば、ということは文上の寿量品で読めば、五百塵点劫の成道を指し、て「我実成仏」と説いたのであり、それは文上顕本になります。もし、久遠元初の成道を指して「我実成仏」と説くというのならば、これは文底顕本であり、文底の寿量品、内証の寿量品の読み方となります。
 日蓮大聖人は「御義口伝」において、寿量品の説法をされていますが、そこでは、文上の寿量品としてではなく、文底の寿量品、内証の寿量品としてこれを読まれております。また、恩師戸田先生が、寿量品講義に際して、文上と文底の両様の読み方を懇切に教えられたのも、その正意は、内証の寿量品を説かんがためでありました。私どもが勤行において寿量品を読む正意も、文上脱益の寿量品をよむのではない。まさしく、寿量品の2000余文字の経文を、日蓮大聖人の仏法の説明として読んでいくのであり、このことを文底下種の寿量品、内証の寿量品として読む、ということであります。
 「百六箇抄」の現文によれば、内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙、すなわち南無妙法蓮華経のことである。と説かれております。すなわち、内証の寿量品と南無妙法蓮華経とは不二なのであります。
 しかし、この内証の寿量品と妙法五字を、更に厳密に立て分ければ、それは能詮と所詮の関係にある。つまり、内証の寿量品の2000余字が能詮で、南無妙法蓮華経の七字が所詮となります。この場合、能詮・所詮の詮は、事理をよく説き明かすという意義を含んでおります。したがって、内証の寿量品と妙法が能詮・所詮の関係にあるということは、内証の寿量品の説明する体こそが、南無妙法蓮華経であるという意味になるのであります。
 すなわち、内証の寿量品とは、久遠元初の本地を顕現された日蓮大聖人の内なる生命を顕し、それを述べた経文ということであります。
 それは、大聖人の悟りに即して寿量品をみたとき、その言々句々ことごとくが、久遠元初の自受用報身、即末法の御本仏の大生命、振る舞いを説き明かした経文となるのであります。故に、寿量品の一文一句にして、大聖人の生命に躍動する宇宙生命の当体、南無妙法蓮華経の説明にならないものは何一つないのであり、寿量品に説かれるものは、すべて大聖人の一仏、妙法の一法以外の何ものでもないのであります。
9  下種の教主は”ただ一人”の大確信
 さて「百六箇抄」の現文では、以上に述べてきた論旨を踏まえて、大聖人は自ら「其の教主は某なり」とおおせであります。
 つまり、脱益寿量品のその文底に秘沈された妙法を説く仏、本因妙の教主は、大聖人ご自身であるとの宣言であります。
 第二段全体の御文が、脱益寿量の“迹”を打ち破って、文底本因妙の“本”を顕わしている。すなわち「発迹顕本」になっていることは明らかでありあす。
 では最後に、大聖人は何故に「其の教主」つまり、本因妙の教主は「某なり」といわれたのでしょうか。いいかえれば、何故に、ほかならぬ「某」という言葉を選ばれたのでしょうか。私は、この言葉のなかに本因妙の教主、下種の教主は、大聖人ただ一人であり、他の誰人もありえないという確固たる大確信がみなぎっていることを観ずるのでありあす。
 論理的に言えば「その教主は日蓮なり」というと、冒頭の「上行菩薩は迹」という御文とつながり、大聖人御自身は“迹“の面だけの存在ととられるおそれがある。「某なり」といわれていることによって、本地自受用身垂迹上行を含んだ全体が、末法本因妙の仏法の教主であることが明らかとなるのであります。
 大聖人は、人々の信心の眼を外用から内証へと開かしめるために「某」を第一人称と選ばれたのではないでしょうか。私には「某」という表現のなかに、大聖人が大宇宙をも動かす久遠の原動源を内に感じつつ叫ばれているとの、何にもまして強い響きを感じないわけにはいかないのであります。
 なお、教主ということに関して申し上げれば、法律の大家はいわば法律の教主であり、経済の大家は経済の教主であります。医学のことは医師がその教主となる。
 だがこれは、いわば世間の分々の一つの教主の姿ということができよう。日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経という宇宙と生命の根源に脈打つ根本法則を体達された教主であります。故に、我が生命と宇宙に流れている究極の法則は日蓮大聖人御自身がすべて御存知でられる。「其の教主は某なり」の一言のなかに、末法今時において、生命の根本解決の法、仏法についてはだれの言をきくべきかを明確に宣言された、大確信と大慈悲のお心と感じるのであります。
10  真実の三徳を具備した大聖人
 下種の今此三界の主の本迹
 久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり。
 まず表題に掲げられた「下種の今此三界の主」とは、下種仏法における主師親三徳具備の仏、すなわち久遠元初の自受用報身如来即末法の御本仏・日蓮大聖人を表しております。
 いうまでもなく「今此三界」は文上法華経の譬喩品に記された有名な偈頌の冒頭の言葉であります。
 その偈は「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し、唯我一人のみ、能く救護を為す」というものでありましょう。
 この文が、釈尊自ら主師親の三徳を具備した仏であることを初めて宣言した文でることは、改めて論ずるまでもないでしょう。
 そして、ここでは、主の徳を表す「今此三界皆是我有」つまり「三界の主」をもって、三徳を代表として仏の異名とされているのであります。なぜなら、主の徳とは眷属を守り利益する力を意味します。仏はまず、迷い、懊悩する衆生が住む三界六道の世界の主でなければならないということであります。三界の主であって初めて衆生を慈愛で包む親としての働きも、衆生を教化し導く師匠としての働きも十全に発揮することができるのであります。
 阿弥陀仏のごとく、三界の現実世界を遠く離れた西方浄土に存在する仏では衆生を救済することができないのは明らかでありましょう。また大日如来や華厳経の仏のように、単なる理想上の架空の仏であってはならない。
 ともかく、衆生を済度する仏は、どこまでも、苦悩する民衆が生活し、矛盾や不合理の渦巻くこの三界という現実世界の主であるべきことを謳い上げたのが、譬喩品の「今此三界」の文であったのです。
 しかしながら、どれだけ釈尊が自ら主師親三徳の仏であることを説き「今此三界の主」であることを宣言しても、所詮、それは脱益の法華経にすぎない。
 真実にして究極の「今此三界の主」は、寿量品文底の仏、すなわち日蓮大聖人であることはいうまでもありません。
 それ故に、表題の「下種の今此三界の主の本迹」は、真実究竟の主師親三徳の仏である日蓮大聖人のご生命を「本」と「迹」とに立て分けて論じようとされているところであります。
11  民衆を厳護される崇高な一念
 本文に入ってまず「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」とあります。
 これは、表題の「下種の今此三界の主」を受けて、日蓮大聖人こそが末法の御本仏であり、宇宙におけるただ一人の「今此三界の主」であることを宣言された有名な御文であります。
 私はこの御文に接するたびに、日蓮大聖人の民衆を厳護され、慈愛される一念の崇高さに、込み上げてくる感動を禁じ得ないのであります。更に、この御本仏の内なる境涯の無限の広さと雄大さに触れて、己が生命に歓喜の炎が燃え上がらない人があるでしょうか。
 文中の、久遠元始とは久遠元初のことであることはいうまでもありません。
 また「天上天下・唯我独尊」とは、釈尊誕生のとき、七歩歩いて唱えたという伝説と共に、誕生偈としてよく知られた言葉であります。
 その意味は「天上天下、すなわち全宇宙において、仏のみ独り尊き存在であるということであり、そこから仏界の生命、仏性というものの尊さを最大限に称えた言葉となるのであります。
 ところで、常識からいって、いかに釈尊といえども、生まれた直後のときに、こんな言葉をいうはずはありません。その意味するところは、おそらく、釈尊がこの世に仏陀となるべき使命をもって生まれてきた人であることを示そうとしたものでありましょう。そして、更にいえば、この世で最も尊き価値を有するものは、人間の生命であることを述べようとしたものでありましょう。
 「唯我独尊」というと、なにかただ己一人のみ尊いという独善のように聞こえるが、ここでいう意味ではそうではない。恩師戸田先生が「仏とは生命である」と叫ばれたことを、想起していただきたいものであります。
 この世で至上の価値をもつものは生命以外にはないという仏法の究極の結論なのであります。
 生命に勝る価値はない。生命を無上のものとし、至極のものとする考え方が、そこににじみ出ているのであります。
 これに比べれば、国家の権威も、資本の価値も、また権力に付与されるいかなる価値もものの数ではない。それが真実の法華経という仏法の思想なのであります。
 しかし、生命がいかに尊いと説かれても、それだけでは現実には納得いかないのも事実であります。
 その生命の光を発揮させるものは何か。
 それを日蓮大聖人は、釈迦仏法よりもより根本的に、南無妙法蓮華経以外にないと決定されたのです。
 久遠元初以来、無始無終の大宇宙に脈打つ南無妙法蓮華経 これこそが、まさしく「唯我独尊」であることを明言されたのであります。日蓮大聖人が、あの流罪の地・佐渡で「日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と仰せられた、大確信の御言葉を思うべきであります。
 日蓮大聖人は、この言葉を文底下種仏法の立場から読まれて、久遠元初以来、真実に「唯我独尊」なるものは、大聖人の御生命に脈打つ、自受用身即事の一念三千の直体であると述べられているのであります。
 「唯我独尊」の「我」とは、これまでに何度も述べてきたように、久遠元初の自受用報身如来の生命であり、宇宙と生命の根源に脈打つ一法、南無妙法蓮華経それ自体であります。
 これを国土世間の側から捉えるとき、日蓮大聖人が久遠元初以来「今此三界の主」であり「唯我独尊の御本仏」であられたということは、全世界地球全体が、本来、妙法の脈打つ寂光土であり、久遠元初の仏の常住の浄土であるということを意味しているのであります。
 また「天上天下・唯我独尊」とは、これまで論じてきたように、別しては末法の御本仏・日蓮大聖人ただ御一人でありますが、今度は、日蓮大聖人の生命即御本尊を受持し、信心修行に励む私たちの生命もまた、総じては「唯我独尊」となるのであります。私たちが三大秘法の御本尊に向かって妙法を唱えるとき「我が身即ち一念三千の本尊・蓮祖聖人なり」と日寛上人の仰せのごとく、私たちの生命もまた、日蓮大聖人の御生命と顕れるのであります。これすなわち、私たちに約した「唯我独尊」とは、であり、なんとありがたいことではありませんか。
12  最高の尊厳性を確立する法
 そこで「唯我独尊」の意味するものにつて、少し広く考えてみたい。
 まず「唯我れ独り尊し」というのは、先ほど申し上げたように決して傲慢や思い上がりの言葉ではないということであります。こうした傲慢や貪欲の殻をつき破って、真実の「我」というものを知り得た人にして初めて言える言葉であるように思う。
 ある哲人は、人間を、本当の自分、真実の我に出会うために彷徨する旅人にたとえ、素晴らしいたとえであると私から願っております。
 人間が織りなす、さまざまな人間模様において、本来の己、真実の我というものをつかみえた人は幸せであり、そうでない人は不幸にちがいない。
 どんなに社会的に有名であっても、また、大きな権力を掌中にしても、真実の我を把握しえない人は、孤独地獄の暗闇で悶え続けねばならないのであります。このことは、具体的に例をあげるまでもなく、明白な事実であります。
 逆に、無明の庶民であっても、本来の我に到達した人は無上の幸せを満喫し、堂々たる人生道を、悠々と歩むのであります。
 その意味では、人間だれしも「天上天下・唯我独尊」と胸中から発することのできる境地を探し求めているといえるのでありましょう。
 だが、この「我」は、単なる理性による思索や認識によって把握できるものではない。あくまでも信を根本に、体験的に体得する以外にないのであります。
 ここに、人間にとっての宗教の必要性が起こってくるのであります。
 しかし、その宗教においても、真実の我に出会うためと称し、いたずらに「無私」や「無心」を説いて、自己犠牲による他人への奉仕を勧めるものが多い。これでは、かえって主体性を喪失し、人間としての誇りも品位も失ってしまうことは火を、見るよりも明らかであります。釈迦仏法はおおむね、この経過をたどってきたことは論ずるまでもありません。
 日蓮大聖人の仏法は、人類一人一人が希求してきた、真実の「我」を、宇宙生命たる南無妙法蓮華経の大生命に捉えたのであります。この大生命こそ、無始無終にわたって常住しつづけ、リズムを打って宇宙に脈打つとともに、私たち衆生の存在の源底を貫く直体なのであります。
 先ほども述べたごとく、南無妙法蓮華経即御本尊に私たちが妙法を唱えるとき、我が存在の奥底より、真我とも大我ともいうべき宇宙生命が、あふれるように湧き上がり、真実の我に到達した者のみが知る歓喜と充実感を得ることができるのであります。
 そのとき、私たちはもはや、かの哲人が語ったような、真実の我を求めて彷徨する不安定な旅人ではない。瞬間瞬間、我が生命の奥底より泉のごとくあふれる真我を根底に、障魔の荒れ狂う現実の真っ只中で、逞しく自己変革をなしゆく不動の主体者となっているのであります。
 真実の宗教は、自己を没却してくものではない。唯我独尊とあるごとく、最高の尊厳性を確立することであり、仏は「今此三界の主」とあるごとく、この自身の大慈悲をもって世界全体、否、宇宙全体を包んでいくのであります。
 一人の人間を救うことのできる喜びは、自分一人の喜びよりも、はるかに偉大な歓喜であります。
 もはや、真実の信仰者は、この荒れ狂う怒涛のなかに没しゆく、悲しき運命の人ではない。
 その怒涛の最先端に立ちながら、自らの生命の光によって希望の未来を開きゆく、勇気ある実践者であります。
13  諸仏は久遠の本仏から生じた影
 次に、本抄の文は「久遠は本・今日は迹なり」と続いております。これは表題に掲げられた「下種の今此三界の主」たる日蓮大聖人の生命を「本」と「迹」とに立て分けられているところです。すなわち、久遠元初の自受用報身如来が「本」であるのに対して、3000年前に出現したインド応誕の釈迦仏は「迹」であるということであります。
 ここにおける「本」と「迹」の関係は、従本垂迹であります。つまり、インド応誕の今日の仏は、久遠元初の自受用報身如来から出生した影の仏であるということです。更にいえば、久遠元初の自受用報身如来を「体」とすれば、今日の釈迦は「用」となるのであります。
 否、単に今日の釈迦のみならず、五百塵点劫本果第一番成道道の釈迦をはじめ三世十方の諸仏すべてが、久遠元初の自受用報身如来の「用」の仏となるのであります。
 日寛上人は、この関係を「当流行事抄」において、玄文第意七の「三世乃ち殊なれども毘廬遮那一本異らず。百千枝葉同じく一根に趣くが如し」の文を引いて「若し文底の意は久遠元初を以て本地と為す。故に唯一仏のみにして余仏無し、何となれば本地自受用身は天の一月の如く木の一根の如し、故に余仏無し、当に知るべし余仏は皆是れ自受用の垂迹なり」と、明快に論じられている。
 更に「横に十方に徧し竪に三世に亘り微塵の衆生を利益したもう垂迹化他の功、皆同じく久遠元初の一仏一法の本地に帰趣するなり」ともいわれています。
 すなわち日蓮大聖人は、あらゆる仏の本種である南無妙法蓮華経を所持された根源の御本仏ということであります。
 しかも、日蓮大聖人は、あらゆる仏を出生させた根源仏であるが故に、もはや脱益本果の釈迦仏のごとく、我が身を飾り、色相を荘厳する必要はないのであります。
14  凡夫の姿で人々を救う末法の仏
 後の文である「三世常住の日蓮は名字の理生なり」とは、まさに、諸仏能生の根源法たる久遠元初自受用身即日蓮大聖人が我が身を飾らず、ありのままの凡夫として、一切衆女を救われているところであります。
 「三世常住の日蓮」とは、御本仏・日蓮大聖人こそ、久遠元初の自受用報身如来であり、三世にわたって常住する根源の仏であるということです。
 これを生命論で述べるならば、宇宙と生命の根源・南無妙法蓮華経の一法が無始無終に躍動し、その力用を、生きとし生けるものすべてに及ぼしていることを表しているのでありあす。したがって、私たちが妙法を唱えつつ、苦楽の交差のなかで生活している今ここに妙法の慈悲と智慧の力用は脈々とあらわれているのであります。
 まさに、如々として来たっているか、三世常住の南無妙法蓮華経の如来なのです。
 この如来が、700年前に日蓮大聖人と顕現され、名字即極のお姿のまま、暗闇の末法の悩みに打ち沈む衆生を救済された。そのお姿こそ「名字の利生」になるのであります。
 そして、今日において、私たちが妙法即御本尊に題目を唱えたとき、凡夫そのままの我が生命の奥底から、宇宙生命がふつふつと湧き上がり、我が身即南無妙法蓮華経如来とあらわれたとき、その瞬間、日蓮大聖人の「名字の利生」の功徳に浴したことになるのであります。
 もったいないことに、私たちは日夜、御本尊を縁として、三世常住におわします日蓮大聖人の「名字の利生」にあずかっているのであります。今度は、私たちが妙法即御本尊を根底に、名字即の凡夫の姿のままで、人々を利益し、救っていくことが、私たちの「名字の利生」になっていく、それはすなわち、三世常住の日蓮大聖人の御生命を一切衆生に継がしめる崇高な活動なのであります。
 私たちは今日もまた、日蓮大聖人の「名字の利生」を担うため、輝ける地涌の菩薩の使命をはたしゆくことを、ともどもに誓い合おうではありませんか。

1
1