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日蓮大聖人・池田大作

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久遠従果向因の本迹 本仏の本因の振る舞いを判別

「百六箇抄」講義

前後
1  本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩・久遠の妙法は果・今日の寿量品は花なるが故に従果向因の本迹と云うなり。
 まず表題の「久遠従果向因」について考えてみたい。ここでいう久遠とは、もはや久遠本果ではない。久遠元初の意味であります。
 したがって従果向因の「果」とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の本果たる御内証の境地をいい、「因」とは民衆救済のためにあらわされた九界の本因の振る舞いをいうのであります。
 すなわち、久遠元初の仏は九界の因を積んで果を得た仏ではなく、逆に、仏果を根底にしつつ苦悩の民衆を救わんがために、九界の凡夫の振る舞いを行ずるのであります。
 それ故「久遠従果向因の本迹」とは、久遠元初の仏が、本果の悟りから本因の振る舞いを行ずつというダイナミックな姿を、本と迹に立て分けて論じようとされているのであります。
2  本文に入って「本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩・久遠の妙法は果・今日の寿量品は花なるが故に従果向因の本迹と云うなり」とあります。
 この文に明らかなごとく「本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩」は人に約し「久遠の妙法は果・今日の寿量品は花」は法に約して、人と法の二つの側面から論じられていることがわかる。
 初めに「本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩」とは、久遠元初の仏たる日蓮大聖人の一身の当体に具わる本果妙・本因妙を指しておられる。したがってここでいう釈迦仏とは、文上の釈尊ではない。文底の釈尊の意であります。
 すなわち、本果妙とは、日蓮大聖人の御内証の境地たる久遠元初の自受用報身如来であり、本因妙は外用としての上行菩薩の振る舞いを指しているのであります。いいかえれば、久遠元初の自受用報身如来という本果の姿が本因となってあらわれたのが上行菩薩なのであります。
 端的にいえば久遠元初の仏の九界の振る舞いが上行菩薩であり、これを逆にいえば上行菩薩の振る舞いのなかに久遠元初の自受用身の仏の証得が貫かれているということなのです。
 御本仏日蓮大聖人を「本因・本果の主」と表現されているように、この外用上行の「本因」の御内証たる「本果」とは、因果俱時の大聖人の御生命そのものの姿を表しているのであります。
 しかしながら、御内証の久遠元初の仏の本果から本因があらわれると捉えるのが日蓮大聖人の仏法における従果向因であり、本迹に立て分ければ内証の本果が「本」、外用の上行菩薩の振る舞いが「迹」となるのであります。
3  大聖人の行動こそ従果向因の姿
 次に「久遠の妙法は果・今日の寿量品は花」とは、日蓮大聖人の御生命に脈打つ南無妙法蓮華経の根源の一法に約して述べられているところである。「今日の寿量品は花」の「花」とは「因」のことを表現されていることはいうまでもありません。「今日の寿量品」とは法華経文上の寿量品であり、総じて法華経全体を指しているのであります。
 日蓮大聖人は末法に御出現になって、勧持品をはじめ法華経のあらゆる経文をことごとく身読され、それはまさに、法華経を譲り受けられた上行菩薩の振る舞いそのものであったといえよう。逆にいえば、日蓮大聖人の振る舞いこそが法華経そのものなのであります。
 したがって南無妙法蓮華経という久遠の妙法の果を内証として秘められつつ、外用上行の振る舞いとして法華経を身読された日蓮大聖人のお姿こそ、まさに従果向因となるのであります。
 この場合「久遠の妙法」が「本」、「今日の寿量品」が「迹」となることはいうまでもありません。
 ともかく日蓮大聖人の民衆救済は、その御内証たる久遠元初の自受用報身如来の生命の絶えざる発現としてなされたものであった。大聖人が数多くの御手紙を通して弟子檀那を思いやられた慈愛の数々は、まさに久遠の仏の生命にみなぎる慈悲の発露であったといえるでしょう。
 人をやさしく包む言葉もあれば、人をして勇気ある行動へと駆り立てる言葉もあろう。また希望を与える言葉もある。しかし日蓮大聖人の言葉は、言葉を通して人々に本仏の生命の脈動が伝えられるようであります。
 たとえ一言であても、あるときは滝のごとく激しく、あるときは田園のごとく豊かに、あるときは静かな山のたたずまいにも似た趣をもって、さまざまな愛情を込めながら人々に伝わっていく、その響きの体はまさに、久遠の仏の生命であったのであります。
 日蓮大聖人の振る舞いは、久遠元初という究極の生命に支えられた生命の回転であった。あふれてやまない生命力のしぶきと、その根源に脈打つ妙法の大リズム、この本然の妙と辛労を尽くした社会への律動の冥合 これが日蓮大聖人の従果向因の尊き姿であったのです。
4  さて、このことに関連して、従果向因と従因至果との関係の上から少々論じておきたい。それはひとえに、これまで論じてきた日蓮大聖人の仏法における従果向因の法門をよくよく理解するためであります。
 端的にいえば、従因至果とは「因従り果に至る」ということであり、従果向因とは、逆に「果従り因へ向かう」ということであります。
 まず、釈迦仏法は九界の衆生が仏界を求めてかぎりなく修行を続けていく仏法であります。しかも、その目標とすべき仏界にいつ到達できるかわからないといった、非常に不安定な因果俱時の仏法である。
 それ故に、九界の衆生にとっては、仏界の界を限りなく求め続ける歴劫修行の行き方となり、生活、社会のうえに仏法の力を示していくような余裕はない。むしろ彼方の真理を求めて現実から邁進しつつ修行のさすらいの旅を続けざるをえない。
 これに対し日蓮大聖人の仏法は、従果向因の仏法であります。それは、九界の衆生が御本尊にひとたび唱題すれば、仏界の生命が直ちに達することのできる因果俱時の仏法であります。
 御本尊への唱題によって瞬時に仏界の果が得られる故に、この湧現した仏界を根底にしつつ、今度は、民衆救済のために社会や生活の九界の場に向かうことができるのでありあす。
 以上のことから、従因至果は「理」、従果向因は「事」ともいえるでありましょう。
5  従果向因を実践した戸田前会長
 ところで日蓮大聖人の従果向因の行き方を現代において、ありのままに実践されたのが、恩師戸田先生の悟達であったといえるのでありましょう。
 戸田先生は当時興隆しつつあった仏教学の経典の捉え方を、十分に知っておられながらも、決してこの学問の研究方法によられなかったのであります。それは、仏教を歴史的、発展的に捉えていく従因至果的な仏教学の行き方によっては決して真髄を捉えられないことを見抜かれていたからであります。
 戸田先生はあくまで、日蓮大聖人の御書にのっとり、大御本尊への唱題の行を持続させながら、久遠の仏法によって法華経を読みきられたのであります。まさにあの「仏とは生命である」との悟達は、この従果向因の行き方から生まれたのであります。
 そしてその悟達をもとに、法華経並びに一切の経典を生命論の立場から捉え直され、仏教を現代的に開く画期的な展開をされたのもまた、従果向因であります。ここに未曾有の創価仏法運動の原点があったことは、もはや申すまでもありません。
 今日まで世界の多くの人々が幸福を語り、平和を語り、勇気や希望を語ってきた。しかしながら、はたしてそれらの言葉のなかに、生命の奥に光る真実の悟達があったであろうか。否、それらはことごとく無明の闇に閉ざされ、迷いの暗雲に覆われた力弱い哀音にすぎなかったといえる。
 所詮は、悟達からほとばしりでる従果向因の発言ではない。絶えず九界の迷いのなかに浮沈するうたかたのごときものであった。まさにそれは、なんらかの方向性をももたず流れに漂う、悟達の主人なき船にたとえることができる。
 それに対しいて私たちの哲学には、その淵源なる末法御本仏・日蓮大聖人の悟達がある。すなわち、創価学会の仏法運動が、地道な道程を歩みながらも力強き建設の足音を高く前進しているのは、ひとえに従果向因の革命的な運動であったからであります。
6  また、今度は私たちの信心と実践に展開するならば、私たちの日々の勤行・唱題は、一往は九界から仏界に至るための修行であり、従因至果といえます。しかし再往考えるならば、それ自体が即仏界であり、社会・生活への妙法の湧現活動になっていく。これ、従果向因であります。
 また私たちの勤行・唱題において御本尊に帰していく、すなわち妙法に帰していく姿は、従因至果であります。しかし同時に、因果俱時に仏界を湧現して妙法の智慧に命いていく姿は、従果向因といえるでありましょう。
 すなわち帰命の二字のなかに従因至果・従果向因の二方向が同時に包含されているところに、日蓮大聖人の仏法の卓越性があるのであります。
 ともかく、毎日の御本尊に唱題し、学会の諸活動に邁進している事実自体、内証は日蓮大聖人の本眷属たる地涌の菩薩としての久遠元初の本地に住しているのであり、その元初の本地から、外用の振る舞いとして民衆救済の活動を展開していくのであると捉えて、久遠の流れに棹さして前進していきたいものであります。それが「久遠従果向因」を身で読みきっていく実践なのであります。

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