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日蓮大聖人・池田大作

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色法妙法蓮華経の本迹 現実変革の仏法は色法の妙法

「百六箇抄」講義

前後
1  男子と成つて名字の大法を聞き己己・物物・事事・本迹を顕す者なり、又今日の二十八品・品品の内の勝劣は 通号の本なり勝なり・別号は迹なり劣なり云云。
 【講義】表題の「色法妙法蓮華経」の色法とは、わかりやすく言えば目に見える現象という意味であり、「色法妙法蓮華経」で事の一念三千である南無妙法蓮華経ということになります。「事」とは事実の意味です。
 すなわち、色法とは、凡夫の肉身、現実の振る舞い、形のある物等を意味している。したがって、色法の妙法とは、凡夫の肉身のうえに、また事実の振る舞いのうえに脈打つ妙法の当体、南無妙法蓮華経そのものを指すのであります。
 いうまでもなく日蓮大聖人の仏法は、現実を直視し、変革させていく仏法であります。色法に顕れる事実の証明以外に、仏法の真髄はありえません。ただ理論的に、宇宙森羅万象が妙法の当体であり、衆生の生命にも妙法のリズムが内在していると知っただけでは、末だ抽象的であり、観念の域を一歩も出るものではない。
 「理」において私たちが仏であるとしても、現実生活で餓鬼道に悩み、地獄に苦しんでいるのであっては、仏法の価値はありません。まだその段階までしか明かさない妙法は、いわば心法の妙法蓮華経の領域にとどまるといわざるをえません。
 生死の苦しみを流転している凡夫の身体のうえに、生活のなかに、南無妙法蓮華経という輝ける大生命の宮殿を開き、宿命転換させてこそ、色法の妙法であり、事の妙法蓮華経といえるのであります。
2  別しては久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の民衆救済の振る舞い、名字凡夫のお姿が、そのまま真実究極の色法妙法蓮華経であります。また、今時においては、大聖人ご自身の生命を図顕された人法一箇の御本尊が、事の一念三千の直体、色法妙法蓮華経にほかなりません。
 総じていえば、一切の衆生が、御本尊と境智冥合することによって、自己の五体のうえに顕現する慈悲と智慧の生命も、色法の妙法蓮華経にほかなりません。
 ここでは、日蓮大聖人即御本尊という久遠の大生命、すなわち色法妙法蓮華経に立って本迹を論ずることが、表題の趣旨と拝せましょう。
 本文には、まず「男子と成って名字の大法を聞き、己己・物物・事事・本迹を顕す者なり」と記されています。
3  「男子」は慈悲と勇気の実践者
 「男子と成って」とは、端的な表現であります。一切に責任を負っていく存在、また実践面を意味しております。無明の闇に包まれた社会の荒波に乗りいだし、苦悩の民衆救済に邁進する、という意味になります。
 前回も述べたように、百六箇抄では、生命の心法の側面を「女」と表現するのに対し、色法の側面、行動面を「男」と表現されている。大聖人において「男子と成」ることであります。
 ともすれば厳しい現実の問題から目をそらせ、抽象の世界に逃避しがちな生命の傾向性を克服し、慈悲と勇気の実践に立ち上がる者こそ、まことの凡夫であり、男子と成った、栄えある姿ではないでしょうか。
 次に「名字の大法を聞き」とありますが、この場合の「名字の大法」とは、名字凡夫の生命に脈打つ南無妙法蓮華経であります。
 「名字」は「名字即」のことです。この名字即について「三世諸仏総勘文抄」には、天台家の意を用いて「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す」と記されております。つまり、仏法がその人の一切の振る舞い、生活の根底にあるという意味です。
 なぜ「名字」という名がつけられているかといえば、名字を知ることが体を知ることであり、名前と体とが切り離しては考えられないことを示しているのです。
 私たちの振る舞い、生命活動も、一人一人の名前で表現されます。これと同じように、妙法という名字を知り、仏法がその人の生活にそのものになっている状態を「名字即」というのです。
 また「御義口伝」には「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」とあります。わが生命活動が南無妙法蓮華経の体内のものとなるということであります。一切の活動の根底に妙法を脈うたせていく、この名字即の姿勢を追ってこそ、南無妙法蓮華経を聞きうるのであります。
 「御義口伝」の「如是我聞の事」には、法華文句を引用した後に「所聞の聞は名字即みょうじそくなり法体とは南無妙法蓮華経なり」と記されております。
 この場合“聞く”とは、単に、耳という感覚器官で受容し、認識し、記憶するということではない。生命全体で信受し、聞くのであります。我見や慢心やエゴの心で聞くということでもない。
 我見や慢心のエゴを一切ぬぐい去って浮かび上がる生命それ自体、つまり名字の我をもって、名字の大法に迫っていくのであります。法も赤裸々な生命の真実相を明かした名字の大法であり、その法を聞くのも、全生命をかけた名字即の信心で聞くのであります。そのときの凡夫の生命に、妙法の満々たる血潮が流れ込んでくるのであります。つまり、妙法の血潮の、心法から色法への顕現であります。
4  生命・社会の連続革命示す
 さて現文には「男子と成って名字の大法を聞き己己・物物・事事・本迹を顕す者なり」と記されております。
 この文は、行動の真っ只中で名字の大法を色法の世界へと顕現されるとき、己己・物物・事事において、本迹を顕す者となるのである、という意味に拝せましょう。
 「己己」とは自己自身です。「物物」とは、その自己を取り巻く環境世界になります。つまり「己己」が正報であり「物物」が依法となるのです。
 そして、正報と依報との間に生ずる事象を「事事」を表現されているのです。「事事」とは「こと」もしくは「できごと」の意味であります。
 故に、数限りない大小のさまざまな事件、あらゆる生活場面での他者との出会い、物との触れ合いが「事事」の具体的な内容となりましょう。
 したがって「己己・物物・事事」で、生命主体を含んだ宇宙森羅万象の一切の営みを指しているのであります。
 では、万物の営みにおいて、本迹を顕すとは、いかなる意味でしょうか。
 まず、己己の当体、つまり正報において本迹を論ずれば、人間として存在している。その生命自体が本、私たちの社会に示す姿は迹となります。家庭の主婦、サラリーマン、学生といった姿は、ことごとく迹である。さらに、永遠の生命を本とすれば、現在、こうして人間として存在していることさえ、迹となりましょう。
 これらはすべて、本体が落とす影のように無常の存在にすぎないのです。このような生滅流転の人間存在の内奥に脈々と躍動する常住不滅の名字の妙法、南無妙法蓮華経の体であり、本となるのであります。
 己己の当体に本迹を「顕す」とは、迹の振る舞いのうえに、本の妙法の働きを顕現させることを意味しております。そのとき、生命の諸活動は、本体に照らされた迹として、本然の力用を最高度に発揮するに違いありません。
 これを現代の言葉でいえば、人間革命というのであります。
5  次に、動物、いいかえれば依報における本迹でも究極の本は妙法以外にはありえません。有為天変の現象が迹であり、その営みを貫く不滅の当体が本となる。その本を覚知して、妙法による環境革命をなしゆくことが、物物において本迹を顕す者となることであります。
 妙法という蘇生の清水を得て、依報もまた、生き生きと常寂光の国土へと蘇ってくるのでありましょう。
 さらに、事事において本迹を顕すとは、現実生活のあらゆる場面が、そのまま本迹を顕す場であるということであります。自己自身の生活を取り巻く小さな「出来事」でも一つ一つ妙法の力によって乗り越えていくという着実な実践が、事事にいて本迹を顕すことにほかならないと思うのです。
 例えば、一人の悩んでいる人に出会ったとする。その出会いということ自体は生命の一つの現象であり、迹である。しかし、そうした出会いをとらえて、共に悩みつつも相手の人の生命の内奥から仏界の力強い生命力を顕現させることができたとする。悩める人の生命にわき上がる妙法は、いかなる苦悩をも打ち破るエネルギーを、満々とたたえていくことでしょう。ここにおいて、その出会いは、単なる迹の姿ではなくなってしまうのであります。
 一つの出会いの場に妙法の力が波打ち、生命と生命が感応し、妙法の光明に照らされた本然の「出来事」となるのであります。いかしその「本」は、「出会い」という「迹」によらなければ絶対に顕れない。迹のうえに本を顕すというのはそういうことです。
 ここで本文の前半を要約すれば、己己において本迹を顕すとは人間革命、動物において本迹を顕すとすれば妙法による環境革命、事実において本迹を顕すとは、人間革命・環境革命をなしゆく場、出会いをいうのであります。
 波乱の現実社会の真っ只中にあって、妙法を体得した者は、自己の生命活動はもとより、万物の営み、あらゆる生活場面の奥底に、常住にして不滅の一法を覚知することができる。その根源の法を体現することによって、自己の生命変革のみならず、依報の変革、社会変革を成し遂げていく主体者になりうるのであります。
 さらにいえば「己己・物物・事事」とあるように、瞬間・瞬間の生命変革であり、環境革命であり、生活・文化・社会の連続革命を指し示していると、拝せられるのです。
6  法華経を色読された大聖人
 本文の後半に入って「又今日の二十八品・品品の内の勝劣は通号本なり・別号は迹なり劣なり云云」と記されております。
 この文は、法華経二十八品につて本迹を論じたものであります。ここにいう通号とは、各品が妙法蓮華経方便品・妙法蓮華経如来寿侶品というふうになっておりますが、その表題に共通する「妙法蓮華経」であります。別号とは、各品の内容を示す表題の部分です。例えば「方便品」「如来寿量品」等が別号に相当します。
 「妙法蓮華経」の元意について日寛上人は「報恩抄文段」において「如是我聞の上に妙法蓮華経の五字は即ち本因所証の妙法なり、この本因所証の妙法に通じて一部八巻を収む」と教えておられます。
 すなわち、妙法蓮華経とは、久遠元初の自受用身如来の証得された南無妙法蓮華経を指すのであります。
 また「方便品」等の別号は、各品それぞれに説かれた法門の内容を表示するものと考えられましょう。
7  さて、南無妙法蓮華経と各品の法門との関係を「御義口伝」には次のように説かれています。
 「品品の法門は題目の用なり体の妙法・末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや、此の法門秘す可し秘す可し、天台の「綱維こういを提ぐるに目として動かざること無きが如し」等と釈する此の意なり、妙楽大師は「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と」と記されています。
 ここに明記されているように、南無妙法蓮華経が体であり、各品の法門は用であります。法華経二十八品の法門は、ことごとく体である妙法から説きあらわされたものにほかなりません。故に、題目のなかに二十八品の全体が包含されるのであります。
 天台のたとえを借りれば、題目が網維、すなわち大網であり、二十八品を網の目と表現することもできましょう。
 このような理由から、現文では、通号が本であり勝である。そして別号が迹であり劣であると述べられているのです。
 つまり、この場合の本と迹は、体と用の関係であります。当然、本体である妙法が勝れ、その妙法の働き、作用面を解明した二十八品の各品の別号が劣ることになりましょう。
 日蓮大聖人は、本体である南無妙法蓮華経と、その力用を説いた二十八品とを、明確に立て分けられました。さらに、妙法という本体によって、迹の法華経を生かし、活用することを教えられたのであります。これ法華経において、本迹を顕すっことにほかなりません。
8  しかも、その「教える」というのは、理として説いたことではない。大聖人御自身の生涯にわたる生命活動、色読のうえに、事実として証明されたのであります。
 すなわち、通号は本、別号は迹ということを、大聖人ご自身の生命、実践に約して述べれば、久遠元初自受用報身如来たる大聖人が妙法蓮華経の当体であるということが本、二十八品のことごとくを色読されたことが迹となるということであります。
 日蓮大聖人の、一切の苦悩の民衆を救済する振る舞いは迹であります。その振る舞いそのものが、法華経二十八品の色読となっていたのであります。しかし、大聖人の、第六天の魔王と戦う振る舞いの上には、久遠の妙法蓮華経が大潮流となって、脈打っていた。本仏の色法のうえに光輝を放ち続ける妙法が本となるのであります。
 行動する色法に妙法を顕現させた生命が、法華経を自由自在に駆使して、末法万年の民衆を救済するために、横暴なる権力に挑戦し、身命に及ぶ大難にあうことも潔しとされたのです。
 ここにおいて、迹の法華経はことごとく大聖人の色法に展開する法華経、すなわち本体である南無妙法蓮華経の力用として、本来持っている機能を最大限に発揮できたのであります。
 大聖人が赴かれるところ、いかなる場であっても、歓喜の嵐が巻き起こったにちがいありません。たとえ、寒風吹きすさぶ荒廃の場所であっても、元初の陽光が春風に映える寂光の都へと変転したものでありましょう。御本仏の言説にして庶民の苦悩を根底から抜き取らない一言一句もなかったはずであります。また、久遠の大生命に触れ得た人は、ことごとく未来を生きる勇気と希望と不屈の意志を与えられたと思う。
 まさしく大聖人は作々発々と振る舞う生命自体が「己己・物物・事事・本迹を顕す者」であられたのであります。
 私たちもまた、大聖人の直弟子として、御本尊と境智冥合することによって、わが色法のうえに妙法を顕現させ、瞬間瞬間の活動が自己の生命変革であり、依法の蘇生であり、また社会の変革に貢献する栄光の生涯を貫きたいものであります
9  元始の遠近を尺度に勝劣を判ず
 妙楽疏記九に云く故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり、籤十に云く、今日は初成を以て元始と為し爾前迹門は大通を以て元始と為し[爾前]迹門本門は本因を以て元始と為し[迹門]本門は本因を以て元始と為す[本門]。此の釈は元始本迹・遠近勝劣を判ずるなり、本果妙は然我実成仏已来猶迹門なり、迹の本は本に非ざるなり、本因妙は我本行菩薩道真実の本門なり、本の迹は迹に非ず云云、我が内証の寿量品は迹化も知らず云云、重位秘蔵の義なり本迹と分別する上は勝劣は治定なれども末代には知り難き故云云。
 【通解】妙楽大師の疏記の九には「故に、迹門に説かれた真実の法門は、本門に対すれば末だ虚妄にすぎない、ということを知ることができる」とある。同じく妙楽の籤十には、次のように説かれている。
 「爾前経では、釈迦在世は三十成道をもって根本の始まりとし、迹門では大通智勝仏の過去三千塵点劫をもって始まりとし、本門では久遠五百塵点劫成道のために釈迦が行じた本因の菩薩道をもって元始とするのである」と。
 元始をどこに置くかについて本迹を立て分け、その遠近をもって勝劣を論じているのである。
 この方式を受量品の本果妙の文と本因妙の文との相対にあてはめてみれば、本果妙は本門寿量品の「然我実成仏已来」の文に明かされた。釈迦の久遠五百塵点劫成道を本果とするのである。
 しかし、久遠元初の自受用報身如来の成道を元始とする独一本門に対すれば、なお迹門にすぎない。
 それ故に、釈迦仏法における「我実成仏」の本門は、どこまでも“迹”の域を出ないのである。
 これに対して、本因妙は、寿量品に説かれた「我本行菩薩道」の文を指すのであるが、その本因初住の文底に見いだされたのが、真実の独一本門・南無妙法蓮華経なのである。この独一本門を開顕した「我本行菩薩道」の文は文底が顕れた後の迹であるから体内の迹であり、もはや文上の釈迦仏法としての文意の迹ではないのである。
 この文底独一本門を開顕した寿量品、すなわち日蓮大聖人内証の寿量品は、迹化の菩薩の夢にも知り得なかった御本仏の悟りの法門である。
 したがって、重々の底に位置する、仏が秘して説かなかった甚深秘奥の法門なのである。
 主文において本因妙の仏法を本、本果妙の仏法を迹と分別したうえは、その勝劣は明らかに定まっているのであるが、仏法雑乱の末代にあっては、知り難い故に、後世のために迹を加えておくものである。
10  大聖人の仏法は本因妙の法
 【講義】本文全体は「妙楽疏記九に云く‥‥此の釈は元始本迹遠近勝劣を判ずるなり」の前半と、「本果妙は‥‥末代には知り難き故云云」の後半からなっています。
 前半の中心は、法華経文上の本文と迹門の勝劣を、元始の遠近によって判じておられる。つまり、迹門の元始が大通三千塵点劫にさかのぼるのに対し、本門の元始はさらに遠く釈迦の五百塵点劫成道以前の本因にさかのぼっている故に、本門は勝れ、迹門は劣ると判じているのであります。
 後半は、この前半の法華文上における本迹勝劣をうけて、元始の遠近という尺度を、寿量品の本果妙の文と本因妙の文にあてはめ、そこから一挙に、釈迦仏法を迹門、日蓮大聖人の仏法を本門とする本迹勝劣が判ぜられていくのであります。
 まことに、見事な判釈というほかありません。
11  迹の本は本に非ざるなり
 本果妙は寿量品に「我実に成仏してより已来」とある通り、釈尊の久遠五百塵点劫の成道を指している。この五百塵点劫は、釈迦仏法において、その最も遠い過去にまでさかのぼったものであるけれども、しかし、この五百塵点劫の本果も、久遠元初の自受用身如来の成道からみれば、なお迹門にすぎないということである。
 つまり、日蓮大聖人の仏法からみれば、釈迦仏法全体が迹門となり、本果妙は、その迹門のうえにおける本門にすぎないのです。
 「迹の本は本に非ざるなり」とは、たとえ本果妙が釈迦仏法における本であっても、日蓮大聖人の独一本門の本ではないということであります。故に、本果妙を究極とする釈迦仏法を「本果妙の仏法」と称するのです。
12  本の迹は迹に非ず
 これに対して本因妙は、同じく寿量品に「我本菩薩の道を行じて」とある通り、五百塵点劫の本果を得るために衆生が行じた本因の菩薩道のことであります。
 しかし、この本因の菩薩道の文底に、南無妙法蓮華経が秘沈されていたことは、これまで何回も述べてきた通りであります。
 日蓮大聖人は釈迦が行じた本因の菩薩道における五十二位の段階のうち十信を経て十行の最初の位である初住位において、釈迦は南無妙法蓮華経を覚知して不退の境涯に入ったのであると洞察されております。すなわち「我本行菩薩道」の本因妙は、その文底に妙法を秘沈しているが故に、真実の本門、文底独一本門のうえの迹となると教えられているのです。
 同じ「我本行菩薩道」の本因妙の文を、五百塵点劫の本果のための本因妙と捉えれば「迹」にすぎない。だが、文底の南無妙法蓮華経を秘沈した文と捉えれば、独一本門の「本」に基づいた「迹」となるが故に「本の迹」となるのであります。
 これは、もはや単なる迹の域ではなく、本の迹となるとの意であります。
 それ故に、寿量品の本因妙を文底に見いだされた日蓮大聖人の仏法を「本因妙の仏法」というのであります。
13  我が内証の寿量品
 文上寿量品の本因妙の文たる「我本行菩薩道」の文底に見いだされた独一本門・南無妙法蓮華経ことであります。
 したがって、寿量品といっても、南無妙法蓮華経体内の寿量品、逆にいえば、妙法により開会された寿量品であります。
 この「我が内証の寿量品については、いずれ「下種の法華経教主の本迹」のところで、詳しく展開していきたいと思います。

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