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日蓮大聖人・池田大作

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色法即身成仏の本迹 「色法」は価値創造の実践の面

「百六箇抄」講義

前後
1  親の義なり父の義なり、涌出品より已後我等は色法の成仏なり不渡余行の妙法は本・我等は迹なり。
 表題の「色法即身成仏」とはまず「事の即身成仏」ということであります。「色法」が目に見える有形の事物、肉身を意味することはいうまでもありません。それ故、凡夫の具体的な肉身をそのまま、即本有無作の三身如来と開く、一往は法華経本門、再往は日蓮大聖人の事の仏法を「色法即身成仏」というのであります。
 これに対して、法華経迹門に代表される釈迦仏法で説かれた即身成仏のことを「心法即身成仏」と称するのです。「心法」とは「色法」に相対して、無形の心や、精神を意味するところから、目に見えざる無形の真理観や認識観を、表しております。
 すなわち、釈迦仏法の場合、即身成仏といっても、結局は、凡夫の生命に仏性・仏種が内在するという普遍的な真理・哲理を説いたにすぎない。
 換言すれば、理論的に凡夫に即身成仏の可能性が具わることを明かしたに止まったといえる。これ「理具の」即身成仏であり、「心法即身成仏」と称するゆえんです。
 ともかく、無形の真理は有形の事実となって現れて、初めて、価値を生ずる。いかに高慢な哲理を説こうとも、有形の現実の上に具現化されなければ、所詮、虚妄であり、観念論、抽象論に陥ってしまうのであります。
 そこから、「心法」を単なる認識論とするのに対し、「色法」を、価値創造の実践とも捉えていくことができます。
2  生命の可能性を引き出す「父」の働き
 本文に入って「親の義なり父の義なり、涌出品より已後我等は色法の成仏なり」とあります。この御文は、該当する脱益仏法の項目と関連して拝するとよく理解できると思う。「脱の上での本迹の勝劣」では次のように説かれています。
 「心法即身成仏の本迹 中間・今日も迹門は心法の成仏なれば華厳・阿含・方等・般若・法華の安楽行品に至るまで円理に同ずるが故に迹は劣り本は勝るる者なり
 最初に「親の義なり父の義なり」とは、色法に関して述べられたものであることを明らかにしよう。これは「心法即身成仏」の横に小さく「母の義なり、地の義なり」と注釈されているのと対応するからであります。
 すなわち、心法が母、地の義になるのに対し、色法が父、親の義になるということです。
3  まず「心法」とは、さきに述べたように、衆生の生命に仏性・仏種を具え、即身成仏の可能性を有しているという、潜在・冥伏の側面です。すなわち、衆生の生命は、本来、仏種を内に抱き、いつでも成仏しうる可能性を宿している。そして「母」と「地」とは「母なる大地」ともいわれるように、ともに、生命能生の根源たる種子を宿し、これを誕生させ、守り育むところの可能性の宝庫であり、源泉であります。
 それ故、この釈迦仏法の心法即身成仏を、「母」「地」に喩えたのです。
 これに対し「親」「父」というのは、「母」により抱かれ守られていた生命を、実際に現実の荒波の中できたえ、訓練して、可能性を事実の上に引き出す働きを指している。「母」により温かく保護されていた生命が「父」の手により、厳しく鍛錬され、強靭な生命として開花するのでありあす。
 この可能性を引き出し、現実化する「父」の働きを日蓮大聖人の仏法の色法即身成仏にたとえられたのです。この「母」と「父」の両義があいまって「親」の義が完璧となることをいうことから「親の義なり」と仰せなのであります。
4  信心の歓喜が顕現されなければ理
 次に「湧出品より已後・我等は色法の成仏なり」とは、脱益仏法の本文 「中間・今日も迹門は心法の成仏なれば華厳・阿含・方等・般若・法華の安楽行品に至るまで理円に同ずるが故に迹は劣り本は勝る者なり」 に、一往、対応して述べられたものです。
 すなわち、爾前経と法華経の迹門十四品までを、“心法の成仏”と規定されたのに対し、法華経の本門十四品である「涌出品已後」を“色法の成仏”と相対されているからであります。
 一往、与えていえば、法華経文上本文には、国土世間があらわれ、因果国に約して、仏身の常住を明かしているが故に「事」となり「色法の成仏」となる。
5  しかしながら、再往、奪っていえば、真実の「事」「色法の成仏」は、文底独一本門による以外にはなく、文上の法華経本迹ともに「理」「心の成仏」となってしまうのです。それ故に「涌出品已後」とは、文底独一本門のことであり、事行の南無妙法蓮華経のことであります。
 したがって、「我等は色法の成仏なり」の“我等”とは、久遠元初の自受用身即日蓮大聖人および門下の私達のことを指していることはいうまでもりません。
 もちろん、生命は色心不二である。したがって、成仏といっても、色心ともに成仏であってしかるべきであります。ところで、どうして、独一本門の哲学は、色心の成仏を強調するのでありましょうか。
 それは、色心不二は大前提なのです。その上に立って、本門事の仏法は、具体的姿の上に、信心の歓喜の姿として顕現されなければならないことを言っているのだと考えられます。
 信心をした。しかし、感動の姿、歓喜の姿、人間としての行動ににじみ出る生命の息吹、慈悲と勇気と希望の振る舞いなくして、真に、仏法を持った姿といえるか。どこまでも、仏法の究極は、現実にあり、足下にあり、社会にあり、生活にあることを宣言されていると知るべきです。 たとえ、一枚の手紙であっても、人を奮い立たせることはできる。具体的な色法を通じての人間の通いなくして、どうして、事といえるのか。必ず、心法は、色法として顕在していく方程式を私達は、忘れてはならないと思う。
 さて、本文の最後の「不渡余行の妙法は本・我等は迹なり」の文は、すぐ上の「涌出品より已後・我等は色法の成仏なり」を受けるとともに、同時に表題の「色法即身成仏の本迹」の結論ともなっておりあす。
 「我等は迹なり」の“我等”とは、凡夫の姿としての“我等”です。有形の色法、すなわち、振る舞いや実践、行動に現れる凡夫の外面の姿は迹であるといわれているのです。
 なかんずく「涌出品より已後・我等は色法の成仏なり」との文と相応させれば、地涌の菩薩として、妙法を現実社会に弘通していく実践活動は、まさに“色法”であります。すなわち、地涌の菩薩の内証は妙法そのものであるあらです。
 凡夫の生命が即生活の上で、社会の中で、地涌の菩薩として振る舞うその振る舞いの中に、妙法の当体として色法がある。すなわちその五体に、音声に、姿の上に信心の歓喜をともないつつ輝くことが、色法の即身成仏であり、真実の発迹顕本なのであります。

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