Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

久遠自受用報身の本迹 「男」とは色法、「女」とは心法の面

「百六箇抄」講義

前後
6  事理俱に最勝の民衆仏法
 ここに、事理俱に勝れるとある。“俱に”重大な意義がこめられておりましょう。
 法理が低劣であり、それを実践する人間生命を完璧に説きあかしたものでなければ、その法理に忠実になろうとするほど、理想と現実のキャップに悩み、苦しみぬかねばならないでしょう。その結果、二重人格者をつくりだしたりしたり、また、低劣な理を権力で強制して、はつらつたる人間性を抑圧してしまうことにもなりかねないはずです。
 また、法理が勝れていても、その理を弘教する人間生命の力が劣っていれば、釈尊のように自らの色相を荘厳し、民衆の渇仰心をおこさせなければならないのです。
 事理俱に最勝である久遠生命の仏法であるからこそ、大聖人は名字凡夫の当体のまま、民衆の荒波のなかで戦われたのであります。つまり、事理俱勝であることが、民衆仏法となりうる基本的な要件であるといえましょう。
 さて、現文では、妙法が事理俱勝の「本」であると訳されていますが、この「本」は、次の「日蓮並びに弟子檀那等は迹なり」の「迹」と相対されております。
 日蓮大聖人は、法を弘める立場では、一往文上の上行菩薩の姿をとられました。これ久遠元初の自受用身即日蓮大聖人の、示同凡夫としての外用の振る舞いでありあす。即ち御本尊が「本」、御本尊と境地冥合しゆく凡夫が「迹」であります。しかし、大聖人の御内証は、あくまで久遠の本仏であられる故に「本」なのであります。
 この点に関しては、すでに前回、論じておりますので、ここでは、省略いたします。
 ただここに「日蓮並びに弟子檀那等」とありますが、この「並に」に着目して拝さなければなりません。「並に」とは「同じく」ということです。この御文からも、大聖人に直結し、大聖人の振る舞いとその精神を根本とすべきであるとのお心が如実にうかがわれるのであります。
 日蓮大聖人は、その崇高なる生涯を、一片の権力をもこびることもなく、一介の凡夫僧として貫き通されました。私どもも、また、大聖人の正真正銘の弟子であるならば、凡夫の当体のまま、庶民のなかの庶民として、勇んで妙法広布に邁進すべきでありましょう。
 断じて、権力の魔性にみいられてはならない。名声の甘言に心をうごかされてはならない。
 虚飾の装いをこらし、擬装の仮面をつけるところに、仏法の清流は流れゆくはずもないからであります。民衆の苦悩としてひきうける人間究極の当体にのみ、妙法の珠玉の英知が輝くのであります。
 たしかに、大聖人は名字凡夫の姿であられた。だが、これこそ一切の虚像をかなぐりすてた凡夫の実像のなかにしか、久遠の仏法は生きないことを、御自身の振る舞いを通して教示なされたものと思うのであります。
 さらに一歩すすめていえば、大聖人は単なる凡夫ではない。外用の迹の姿の内面には、久遠本門の英知と情熱の炎が赤々と燃えさかっていた。そお炎はまぎれもなく、元初の太陽の真紅の炎だったのであります。私どもも、大聖人に直結する弟子として、単なる凡夫ではない。我が生命の心王を御本尊に直結させながら、現実に荒れ狂う怒涛に生きる大凡夫の自覚でなければならない。
 諸法実相抄には「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」と記されております。
 日蓮大聖人の心をわが心として、末法の御本仏の民衆救済への大情熱をわが生涯の使命として戦う勇者が、地涌の菩薩である、地涌の戦士の使命に目ざめ、生きぬくことが、そのまま、久遠元初の自受用身の本眷族になるとのおおせであります。
 今生に、凡夫の一人として生をうけた目的は、法華弘通にある。 その、宇宙生命の淵源に達する永劫の使命感に立脚する人にはじめて「日蓮並びに弟子檀那」の「並に」の二文字を、色心の二法で読みきる凡夫となりうると確信いたします。

1
6