Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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久遠自受用報身の本迹 「男」とは色法、「女」とは心法の面

「百六箇抄」講義

前後
1  男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。
 表題の「久遠自受用報身」とは、いうまでもなく、末法の御本仏日蓮大聖人のことです。すなわち、日蓮大聖人御自身の境地を本迹に立ち分け論じられているのが本項であると理解してください。これは、次の項目である「色法即身成仏の本迹」とも深く関連している。
 そこで大聖人は色法即身成仏を「父の義」とされ、それに対し心法即身成仏を「母の義」とされている。故に、ここでいう「男」というのも、生命の色法の面をとらえたものであり、「女」とは生命の心法の面をとらえたものとも考えられる。
 心法というのは、内面性であり、これに対して、色法というのは、外に現われた具体的な姿、行動、形を表します。
 この観点を前提にした上で、人を救いたいという一念の発露を心法と捉え「迹」とされ、現実に人を救う行動、振る舞いを、色法と捉え「本」とされているのであります。
 では、何故、心法の面を「女」と表現し、色法の面を「男」と表現されたのでありましょうか。まず、心法の面でありますが、心の持つやさしさ、また繊細にして鋭敏な内面性という特質から論ずることができると思います。
 また、誤解があってはなりませんが、一往一般論でいえば、心法とは隠れた存在を指します。それを、象徴的に女性の義とされたと考えられます。
 それに対して“表に立つ”という色法の面を、男性の義と表現されたとも考えられます。
 したがって、この本文は具体的な男性と女性を比較して、その勝劣を論じられたものではない。「男」として表現された色法の面、「女」として表現された心法の面を、本迹に立て分けられて、その勝劣を論じられたものであることを、大前提として、踏まえておきたいのであります。
 しかも、その「心法」「色法」を久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の境地における本迹として立て分けられております。すなわち「男は本・女は迹」というのは、御本仏日蓮大聖人の御一身の境地の心法面を「女」、色法面を「男」としての本迹なのであります。
 日蓮大聖人が、弟子達に対してとられた、やさしくも繊細な心づかいや、また一切衆生を温かく包容し、救済されんとした大海の如き心を「女」の義とされたのです。それに対して、現実に荒れ狂う社会の中で、権力に立ち向かわれ、弾圧と戦い抜かれた面を「男」の義と捉えられたのです。この大聖人の一身に備わる、色心の二面を本迹に立て分けられ、現実に一切衆生を救う「色法」即行動面を「本」とし、「心法」を迹とされたのです。すなわち色法のみでは、また迹理にすぎません。色法という姿、形に顕現されて初めて、色心不二となり、本門となるのであります。
 この本迹こそ御本仏日蓮大聖人の一身の妙用であり、不可思議な境地であるが故に「知り難き勝劣」と説かれているのです。したがって、また、この甚深の義を、後世に「能く能く伝流口決す可き者なり」と述べられている。
2  男女の根本的平等観を説く仏法
 元来、仏法では「男」「女」という問題を固定化して捉えてはいない。男性の中にも女性を認め、女性の中にも男性を認めて、しかもその上で、根本的平等を説いているのであります。
 御義口伝には「是れ又妙法蓮華経の提婆竜女なれば十界三千皆調達竜女なり、法界の衆生の逆の辺は調達なり法界の貪欲・瞋恚しんに・愚癡の方はことごとく竜女なり」とあります。
 すなわち、総じて、一切衆生の生命には、竜女の性質も調達の性質もともに包含しているのであり、その本性には男女両面を備えていることがうかがえます。
 更に、御義口伝には、一往、男性を「陽」女性を「陰」とされながら「陰陽一体にして南無妙法蓮華経の当体なり」とあります。
 すなわち、「陰」とは隠れた無形の面で、女性の義を表し、「陽」は、有形の結晶で男性の義を表現されていますが、ともに、南無妙法蓮華経の当体であるとの意味です。換言すれば、男女とも、久遠元初の妙法即日蓮大聖人の御生命の発露であると述べられているのです。ここに、真の根本的な平等観が説かれています。
 この真実に根本的な男女間に立って、法華経提婆達多品の「変成男子」の思想を据え直すならば、次のようになります。
 竜女が、男子に変成する直前に「我大乗の教えを闡いて苦の衆生を度脱せん」と宣言していることを思い合わせるとき、実際に、具体的に苦の衆生を救済するという対外的な行動、振る舞いに出ずる面を“男子”と捉えるのであります。それ故に、竜女が“男子”に変成したとは、竜女自身の中にあったそれまでの自愛のみに生きようとする心法面の特質を克服して、色法面、すなわち、現実に人々を救う有形の実践に歩み出したことを指しているのであります。
 したがって「変性男子」とは、竜女自身における心法から色法への転換をいうのであり、生命の姿勢の変革を表現しているのです。結局、本当の人間の本源性とは、男性は、男性の特質を最大限に発揮しつつ、女性を包含することであり、女性は女性の特質を最高度に発揮して、しかも男性を包含していくことなのであります。
 一律に、男女同一というのではない。それぞれの役割をにないながら、ともに、無作三身如来の生命を発現していくところに、真の平等があるといいたいのであります。
3  久成本門為事円の本迹
 上行所伝の妙法は名字本有の妙法蓮華経なれば 事理倶勝の本なり、日蓮並に弟子檀那等は迹なり。
 前項が、大聖人御自身の境地を本迹に立て分けたのに対して、これは、御本尊即事の一念三千の上の本迹を立て分けられたものです。表題の「久成本門」とは、久遠実成の独一本門という意味です。そして、久遠実成とは、これまでも出てきたごとく、文上の五百塵点劫の成道ではなく、正しく、久遠元初の自受用如来の成道をさすのであります。
 すなわち、久遠実成は、久遠元初において凡夫の当体本有のまま、即、無作三身の仏と開覚したことをいうのです。この久遠元初の自受用報身如来の大生命に脈動する一法こそ、名字本有の妙法、つまり南無妙法蓮華経に他なりません。
 また、この名字の妙法こそ、法華経寿量品の文底に秘沈された究極の当体である故に本門の中の本門、文底独一本門と称するのであります。
4  御本尊それ自体が事円
 日蓮大聖人は、久遠元初の自受用身即無作三身如来の再誕として、末法濁悪の世に御出現になられ、凡夫僧のお姿のまま、苦悩の民衆のまっただなかにとびこんでいかれました。
 そして、波乱の生涯の最終章において、時機到来を観取されて、久遠元初の妙法であり、宇宙一切の変化の本源力である南無妙法蓮華経を、一幅の大御本尊として顕され、末法の底しれぬ無明の闇にしずむ一切衆生にさずけられたのであります。
 この、慈愛あふれる本仏の厳粛なる所作を百六箇抄の現文では「久遠本門を事円と為す」と表現されたと拝察したい。
 ここに記された事円は、いうまでもなく、事の一念三千の本尊のことです。
 円は円融円満の法、すなわち、一念三千を意味しておりますが、事円とありますように、単に、一念三千の法理を知ることではない。つまり、理円にとどまらず、あくまで事円なのです。
 もし、法界森羅万象が一念三千の当体であり、四季をおりなす大自然の変転も、生きとし生けるものの絶妙なる営みも、すべてが、妙法の息吹をたたえていると洞察するだけならば、いまだ理円の領域を一歩も出るものではなく、所詮、観照の哲学という他はない。
 荒波の現実に苦闘する凡夫の生命の内奥から、価値を創造し、福運をつちかう仏界の大生命を湧現させ、事実の上で、輝ける妙法の当体として生きる人生へと転回せしめるものでなければ、仏法の真実の意義はない。不幸の泥沼にあえぐ庶民をさして、妙法の当体であるといかに力説してみても、ただ、それだけでは無慈悲のそしりさえ免れえないと思う。
 ここに、日蓮大聖人の大慈悲は、万物は一念三千の当体であるとの方程式を、久遠の本仏の魂魄をとどめた御本尊という価値創造の直体のうえに、具現化なされたところにあるのであります。
 いいかえれば、理円の究極を包含しつつ、それを見事に実践化した事円こそ、御本尊なのです。
 御本尊それ自体が事円であります。事の一念三千の当体であるが故に、この御本尊を信受し境地冥合することによって、凡夫の色心の奥底から、偉大なる仏界の大生命を顕現できるのであります。このような、御本尊即日蓮大聖人の生命において「本」と「迹」を立て分けて論ずるのが、この表題の趣旨といえましょう。
5  上行所伝とは久遠元初の儀式
 さて、本文に入って「上行所伝の妙法は名字本有の妙法蓮華経なれば事理倶勝の本なり」と記されております。
 まず「上行所伝」ということに関して、次の御義口伝の御文を併せて論じていきたいと思います。
 御義口伝「寿量品・第二十五建立御本尊等の事」には「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とあります。日蓮大聖人は、外用の立場で、地涌の菩薩の上首上行して、霊山において、教主大覚世尊より、三大秘法の御本尊を面授口決された。
 そして、今、大聖人の一身に持っておられる。故に、本尊とは、末法の法華経の行者である日蓮大聖人の一身の当体でると拝することができましょう。
 いま、この百六箇抄「上行所伝」等の文も、同じく、かの荘厳な神力品の儀式を意味して言われたものと拝するのです。すなわち、霊山会上において、上行菩薩の所伝した妙法は、久遠元初の名字本有の南無妙法蓮華経、即事の一念三千の本尊であるから、事理俱勝なのである、と拝せましょう。
 しかし、このように理解するのは、いまだ外用の辺といわなければならない。御義口伝の文とともに、さらに深く、内証の辺より会得していかなければ、大聖人の真意には、到底、迫りえないのです。
 日蓮大聖人の深奥の境地からすれば、霊山とは久遠元初であり、霊然会上の儀式は、久遠の生命の会座に展開する宇宙大の雄荘なる儀式となるのです。また、教主大覚世尊は、久遠元初の自受用身即無作三身如来に他なりません。
 上行は、生命論に約すならば、三世にわたって常住する生命の“我”それ自体であります。
 故に「上行所伝」とは、久遠元初の自受用報身如来から、上行としての生命の“我”に、名字本有の南無妙法蓮華経をうけついだ久遠元初の儀式をさすのです。
 儀式といい、所伝と称して、それは、単なる形式ではない、また観念的所作であるはずもない。
 宇宙の源泉たる久遠元初の自受用身の体内に激しく鼓動する妙法それ自体、久遠の所伝は、まぎれもなく、そのすべてが、上行という生命の中核に流れこんだ事実をさすのであります。このような理由から、百六箇抄の本文では上行所伝の南無妙法蓮華経が「事理俱謄の本」であるといわれたのです。
 この場合、事は、妙法の事実の発動そのものであります。また、理とは、その妙法の理が法界に徹していることであります。
6  事理俱に最勝の民衆仏法
 ここに、事理俱に勝れるとある。“俱に”重大な意義がこめられておりましょう。
 法理が低劣であり、それを実践する人間生命を完璧に説きあかしたものでなければ、その法理に忠実になろうとするほど、理想と現実のキャップに悩み、苦しみぬかねばならないでしょう。その結果、二重人格者をつくりだしたりしたり、また、低劣な理を権力で強制して、はつらつたる人間性を抑圧してしまうことにもなりかねないはずです。
 また、法理が勝れていても、その理を弘教する人間生命の力が劣っていれば、釈尊のように自らの色相を荘厳し、民衆の渇仰心をおこさせなければならないのです。
 事理俱に最勝である久遠生命の仏法であるからこそ、大聖人は名字凡夫の当体のまま、民衆の荒波のなかで戦われたのであります。つまり、事理俱勝であることが、民衆仏法となりうる基本的な要件であるといえましょう。
 さて、現文では、妙法が事理俱勝の「本」であると訳されていますが、この「本」は、次の「日蓮並びに弟子檀那等は迹なり」の「迹」と相対されております。
 日蓮大聖人は、法を弘める立場では、一往文上の上行菩薩の姿をとられました。これ久遠元初の自受用身即日蓮大聖人の、示同凡夫としての外用の振る舞いでありあす。即ち御本尊が「本」、御本尊と境地冥合しゆく凡夫が「迹」であります。しかし、大聖人の御内証は、あくまで久遠の本仏であられる故に「本」なのであります。
 この点に関しては、すでに前回、論じておりますので、ここでは、省略いたします。
 ただここに「日蓮並びに弟子檀那等」とありますが、この「並に」に着目して拝さなければなりません。「並に」とは「同じく」ということです。この御文からも、大聖人に直結し、大聖人の振る舞いとその精神を根本とすべきであるとのお心が如実にうかがわれるのであります。
 日蓮大聖人は、その崇高なる生涯を、一片の権力をもこびることもなく、一介の凡夫僧として貫き通されました。私どもも、また、大聖人の正真正銘の弟子であるならば、凡夫の当体のまま、庶民のなかの庶民として、勇んで妙法広布に邁進すべきでありましょう。
 断じて、権力の魔性にみいられてはならない。名声の甘言に心をうごかされてはならない。
 虚飾の装いをこらし、擬装の仮面をつけるところに、仏法の清流は流れゆくはずもないからであります。民衆の苦悩としてひきうける人間究極の当体にのみ、妙法の珠玉の英知が輝くのであります。
 たしかに、大聖人は名字凡夫の姿であられた。だが、これこそ一切の虚像をかなぐりすてた凡夫の実像のなかにしか、久遠の仏法は生きないことを、御自身の振る舞いを通して教示なされたものと思うのであります。
 さらに一歩すすめていえば、大聖人は単なる凡夫ではない。外用の迹の姿の内面には、久遠本門の英知と情熱の炎が赤々と燃えさかっていた。そお炎はまぎれもなく、元初の太陽の真紅の炎だったのであります。私どもも、大聖人に直結する弟子として、単なる凡夫ではない。我が生命の心王を御本尊に直結させながら、現実に荒れ狂う怒涛に生きる大凡夫の自覚でなければならない。
 諸法実相抄には「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」と記されております。
 日蓮大聖人の心をわが心として、末法の御本仏の民衆救済への大情熱をわが生涯の使命として戦う勇者が、地涌の菩薩である、地涌の戦士の使命に目ざめ、生きぬくことが、そのまま、久遠元初の自受用身の本眷族になるとのおおせであります。
 今生に、凡夫の一人として生をうけた目的は、法華弘通にある。 その、宇宙生命の淵源に達する永劫の使命感に立脚する人にはじめて「日蓮並びに弟子檀那」の「並に」の二文字を、色心の二法で読みきる凡夫となりうると確信いたします。

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