Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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久遠実成直体の本迹 久遠成道の生命を本迹に立て分ける

「百六箇抄」講義

前後
2  【講義】表題としてかかげられた久遠実成は、南無妙法蓮華経如来の寿量品における久遠実成であります。文上の五百塵点顕本をさすのではありません。
 この久遠実成について、御義口伝、久遠の事には「この品の所詮は…久遠とは南無妙法蓮華経なり、実成、無作とは開けたるなり」と訳されております。明らかにこの「久遠」は「久遠元初」である。故に南無妙法蓮華経それ自体であります。実成は「まことにひらけたるなり」と読み、「実」とは無作三身如来、「成」とは開くという意味でありますあす
 本当のものというものは生命のなかにある。生命それ自体から発したものでなければ虚飾であります。「実」ではなく「虚」であるというほかはありません。仏法の究極は、わが己心の宮殿を開くことにあります。久遠とは生命の淵源ともいうべき南無妙法蓮華経であり、その根本の法をわが胸中に開いていく以外に、自らの確固たる実像の人生はありえないことを、大聖人自らが示されているのであります。
 百六箇抄の久遠実成も、本文を拝して分かるとおり、久遠元初において、わが身は即、無作三身如来の当体蓮華仏であると覚知されたことであり、まさしく日蓮大聖人の久遠元初の成道を意味しております。
 表題に「久遠実成直体の本尊」と記されているのは、この久遠元初における成道の大生命を「本」と「迹」に立て分けて論ずるということでありあす。
3  妙法は宇宙と生命の根源の法
 本文に入って、まず「久遠名字の正法は本種子なり」と述べられていますが、この御文は、次にある「名字童形の位、釈迦は迹なり我本行菩薩道是なり」の文と関連させて拝するとよく理解できるでしょう。
 この場合、久遠名字の正法とは、いうまでもなく宇宙と生命の究極、久遠元初に脈うつ純正の一法、南無妙法蓮華経をさしています。その妙法が「本種子」であるとおおせなのです。「本種子」とは一切の根源の種子という意味であります。
 妙法が万物能生の種子であり、また三世十方の諸仏の成仏の根源の種子であることは、これまでも毎々述べてきた通りであります。ここで妙法を「本種子」とするのは、名字童形の位の釈迦を「迹」とされていることに対応するものであります。
 ちなみに、名字童形の位という表現は、名字即の凡夫の位を譬喩的に述べられたものと拝察します。一点の虚飾の装いをもこらさず、凍氷の逆境に吹きわたる春一番のごとく生命本然のはつらつとした振る舞いに光り輝く童形、妙法にいだかれた童子の姿にたくして、本有の凡夫の生命を描きあらわそうとされたのではないでしょうか。
 凡夫位の生命、その当体を外用の面からみれば「迹」となりますが、その内証は南無妙法蓮華経であります。あえて、童形と譬喩的に表現されているのは、外用のお姿が凡夫であることを強調されるためでありましょう。しかし久遠の本仏・日蓮大聖人は、あくまで凡夫即南無妙法蓮華経の当体であられます。
 いいかえれば久遠の自受用身即日蓮大聖人の外用の姿は凡夫であられても、この凡夫は単なる凡夫ではない。南無妙法蓮華経如来の当体の凡夫なのであります。何ら他人と変わらず、特別な人間ではないにもかかわらず、同時に妙法の当体であることを教示なされているのであります。絶妙なるリズムをもって脈打つ宇宙生命そのものであります。我が生命の内奥にも、宇宙生命が大リズムをもって鼓動しております。
4  わが身即妙法の当体の覚悟が大事
 私どもの立場から論ずれば、もともと、わが身は妙法の当体なのです。いや、宇宙森羅万象が、妙法蓮華経の直体なのです。わが色心の躍動も、万物を貫く生命賛歌の旋律もことごとく南無妙法蓮華経の輝ける顕現にほかならないのです。
 ただ、最大の重要事は、この厳粛な生命的真実を覚知するか、それとも、無明の暗雲に閉ざされて闇から闇へと流転していくかの問題であります。
 自己の色心が即妙法の直体であり、宇宙生命の当体であると覚知すれば、その身が名字凡夫の位のまま、究竟即の仏と開かれるのであります。逆に、無明の積雲をつき破れず、色心の内なる元初の太陽を開くことができなければ、未来永劫に、生死流転の苦悶をのがれる道はありません。
 日蓮大聖人は、久遠元初において、名字童形のわが身を、即、久遠名字の正法の直体であると覚知され、即座に妙覚果満の仏の大生命を体現されたものであります。
 総勘文抄には「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」と記されております。
 この場合、釈迦如来とは、名字凡夫位の釈迦、つまり、久遠元初の自受用身如来であります。「我が身は地水火風空なり」とは、わが身即全宇宙であり、妙法蓮華経の当体であるとの意味です。境智の二法からすれば、「我が身」等が境となる。その境を覚知する「知」が智となる。この境地が冥合するところに、凡夫の当体のまま、即座開悟の無作三身如来の大生命が顕現するのであります。
 このような観点から、久遠名字の正法と名字凡夫位の釈迦を本迹に立て分ければ、外用の面である凡夫童形の釈迦が迹となり、その内証に脈うつ久遠の妙法蓮華経が本となるのであります。
 さて御文には「名字童形の位、釈迦は迹なり」にひきつづいて「我本行菩薩道是なり」と記されております。この御文は、いうまでもなく南無妙法蓮華経如来の寿量品における「我本行菩薩道」とは、久遠元初の自受用身即無作三身如来の外用の面の振る舞いであり、行動であり、示同凡夫のお姿であります。故に「迹」となるのであります。
5  凡夫の振る舞いの中に真実の仏法
 末法に出現された久遠の本仏、日蓮大聖人は、妙法を広める立場では上行菩薩の再誕というお姿をとられました。これ、日蓮大聖人の「我本行菩薩道」であると拝されるのであります。
 しかし、大聖人の本地は、あくまで、久遠元初の南無妙法蓮華経如来であられます。
 仏といっても、凡夫の振る舞い、他の人間、衆生と同じ姿、行動をとられている。そこにしか、真実の仏法は存在しえないからであります。だからといって、もし名字童形の姿のみをみて本仏の大生命に脈動する南無妙法蓮華経如来という根源の法への開眼がなければ、大聖人の御内証を洞察することも自身の成仏得道も永遠に不可能となるのでありあす。大聖人の御在世当時にも、垂迹上行菩薩の再誕としてのお振る舞いしかわからず、久遠の本地にするどい信心の眼を開くことができなかった人たち、荒れくるう大難の怒涛にまきこまれて、ひとたまりもなく退転してしまったのであります。「我本行菩薩道」という外用の行動のまっただなかに、元初の光輝をはなちつづける自受用身即南無妙法蓮華経の大生命に肉薄し、その宇宙をもゆり動かす血脈をうけつぐ、如説修行の信心をふるいおこしていただきたい。わが胸中に、久遠の血脈を流れかよわしめた凡夫にしてはじめて、大聖人のまことの弟子と呼ばれるにふさわしいことを、改めて強調しておきたいのであります。
 百六箇抄の現文の最後には「日蓮が修行は久遠を移せり」と記されております。また、本因妙抄には「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」とあります。
 ともに、久遠元初の自受用身も、末法今時の日蓮大聖人も、その「行」と「位」が全く同じであり、名字即の凡夫の当体のままの仏の振る舞いである故に、日蓮大聖人は全く久遠元初の自受用身即無作三身如来であられるとの御言葉であります。これ、本仏の生命に約しての「久遠即末法」「久末一同」の原理です。
 日蓮大聖人の生涯は、人類をおおう無明との壮絶な戦いの連続であられました。宇宙に瀰漫する魔性との、自らの生命をとしての戦いの一生であり、人間究極の荘厳なる道を歩まれたのが、末法の御本仏・日蓮大聖人であられます。
 身に寸鉄をおびることなく、一片の権力、名声をもかえりみることなく、ただひたすら、一人の凡夫僧としての当体のままに、無明の積雲を吹きはらい、久遠の太陽として輝きわたらせられた生涯、これまさしく、久遠の直体を末法に顕現し、宇宙生命の根源に発する大慈大悲の“修行”を末法今日に移された間断なき激闘であられたといえるのではないでしょうか。
 弁殿尼御前御書にいわく「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」と。故に、日蓮大聖人が、その最終章において御本尊を建立されたということは、とりもなおさずご本尊こそが、無明を吹きはらう唯一絶対無二の当体であるといえるのであります。
 久遠の開顕は、宇宙に遍満する第六天の魔王、元品の無明との戦いの最中にある。元初の太陽の無限の慈悲に浴するには、無明の厚い壁をたちきらねばならない。わが身即妙法との覚知は、単なる観念の問題ではない。わが生命の内なる魔性を打ちやぶらなければ、無作三身の智慧と力を体得できるはずもない。すべてが夢中の幻事と化してしまうであろう。
 御義口伝には「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」とあります。御本尊への絶対の信、令法久住を願う赤誠の祈りのみが、よく元品の無明を断破し、元初の太陽を開きあらわしうるものであります。
6  久遠の激闘をそのまま末法に移す
 「日蓮が修行は久遠を移せり」の「移せり」に重大な意味が包含されていると思うのです。「移せり」とは「そのまま」ということであります。日蓮大聖人は、本地自受用身の再誕としてこの末法に御出現になられました。久遠における元品の無明との戦いの高らかな勝利の宣言が、久遠元初の成道であり、久遠実成にほかなりません。その久遠の激闘をありのまま末法の世に移されたことは、今述べた通りであります。
 私たち弟子に約してこの文を読むならば、こうして広布の庭に戦っていることが、そのまま久遠を移していることでもあります。私たちが現在、御書講義ができるのも、妙法を聞くことができるのも、すべて久遠をそのままに移した姿であり、久遠においてもまさしく“その通りであった”ということでもります。
 久遠元初の荘厳なる儀式、たしかに私たちにも無作三身の仏の子として、晴れやかに自受用身の絶妙なる説法に耳を傾け、無作三身如来の師子吼に歓喜の血潮を湧きたたせたのでありあす。無明を打ち破る弘教の法戦に、妙法を高らかに唱えながら勇んで直参していたのであります。その久遠の儀式を、全くそのままに末法に移す。「久末一同」の義と表現する他はありません。
 したがって「久遠即末法」とは、この濁乱の世に、御本仏のあとをつぎ宇宙生命の当体、南無妙法蓮華経を現実に呼吸しつつ、久遠の戦いをそのままに生きて生き抜くことであります。これ、末法における瞬間、瞬間の久遠実成なのであります。驕慢におぼれず、臆病心に堕せず、名誉と権力にいささかもこびることなくまっしぐらに、まことの凡夫道を貫く人間生命の内奥にのみ、無作三身の究竟の仏が顕現するのであります。わが胸中の真如の都がまばゆいばかりの光沢を放って開かれるのであります。
 どうか皆さんは、末法の御本仏・日蓮大聖人の直弟子として、元初の陽光をさんさんとあびながら、人間究極の“久遠の道”を堂々と闊歩する歓喜の人生を貫き通していただきたいのであります。
7  久遠本果成道の本迹
 名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり 直に唱え奉る我等は迹なり。
 【講義】まず表題の「久遠本果成道」について申し上げると、前項の場合と同じく、ここも久遠元初成道をいわれております。
 普通久遠本果といえば、久遠五百塵点劫の本果第一番成道の釈尊をいうのでありますが、ここでは、久遠元初の成道をさしていることは、「名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり直に唱え奉る我等は迹なり」と言われていることからも明らかであります。久遠元初の成道は、さきにも述べた通り、日蓮大聖人が名字凡夫のままで無作三身と開悟されたことをいうのであります。
 私たちに約していえば、日々の勤行・唱題によって、元初の南無妙法蓮華経如来と現われたことをいうのであります。
 この「名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり直に唱え奉る我等は迹なり」という文については「直に唱え奉る我等」とは、凡夫の姿としての“我等”であり、これは外用の辺であり「迹」となるとの仰せであります。しかしその凡夫の生命は内側に「名字の妙法」を所持し抱いているのであり、この内証の生命の当体をみるならば「本」となるのであります。
8  直に唱える題目で元初の生命開く
 「持つ処」の“処”とは、凡夫の生命がそのまま妙法の体であることを表すが故に「直躰の本尊」となるのであります。
 したがって、凡夫の私たちが題目を“直”に唱えるということは、自身の生命を、つねに「本」へ「本」へと回転せしめる原動力となっているのであります。
 「直に」とは間に雑物を入れないこと、純粋、強盛な信心で御本尊に直結していく姿勢をいわれている。この「直に」の姿勢が大切なことは改めて論ずるまでもないでしょう。
 傅大士の釈にいわく「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し、時時に成道し、時時に顕本す」と。
 御義口伝に「第四与如来共宿の事」において引用された余りにも有名な文であります。
 仏とは、いうまでもなく御本尊であり、同時に私たちの奥底より“如々として来る”元初の生命であります。
 それ故、妙法を唱える私たちは、朝になれば元初の生命とともに起き、夜になれば元初の生命とともに床に臥すのであります。すなわち、私たちが行住坐臥と振る舞う一挙手一投足に、久遠元初の生命に脈打っているということであります。
 どんなに苦悩の限界にあるときも、また行き詰まっての働きのとれないようなときにも、私たちの直下に元初の生命は如々として来っているからであります。
 仏法の肝要は、この妙法の直躰を開くか否かの問題しかない。
 「開とは信心の異名」とある通り、御本尊に向かって“直に”題目を唱えるとき、そのまま元初の生命が開かれるのであります。
 それは同時に苦海を克服し、行き詰まりを打開する雄々しい生命力と智慧が湧き出ずることを意味しているのであります。これまさに「時時に成道」の姿であり「時時に顕本」の姿なのであります。
 「時時に顕本」とは、私たちが題目を唱えるたびごとに、凡夫としてのこの生命に、その本地たる南無妙法蓮華経如来を顕現することであり、直躰の本門を開顕することであります。
 「時時に成道」とは、私たちが題目を唱えるたびごとに、久遠本果の成道を果たしていくということであります。
 ともかく、行動・実践・振る舞いという外面にあらわれた姿を「迹」、その内側にあって、無始無終の常住に本有の妙法を「本」として立てわけられたのであるが「久遠本果成道の本迹」なのであります。
 この観点に立てば、先にふれたごとく、仏といっても、その振る舞い、行動は、全く凡夫のそれと異なるものではない。否、外面からみるかぎり、凡夫そのものの振る舞いなのであります。
9  妙法に生きぬく中に自在の境涯
 末法の御本仏・日蓮大聖人も、食事をされたり、歩かれたり、横になられたり、などの所作は、全くありのままの凡夫の振る舞いと、なんら変わるものではない。この外面の姿だけを見れば「迹」でありますが、そこに、即南無妙法蓮華経如来、御本仏の大生命が貫かれていたのであります。
 「諸法実相抄」にもいわれているが「日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」と日本国の上下万民から迫害されている凡夫僧としてのお姿は“迹”であり、この内証の御本仏としての御境涯は見抜くこともできないし、いかなる権力をもってしても如何ともできない金剛不壊の境地であることを吐露されているのであります。
 総じて私たちも、生死流転の姿は免れない。笑うときもあれば、泣くときもあろう。その次元では人間は全て同じであるといってよい。
 しかし、妙法を受持しない他の人々は、その次元、立場にとどまり、胸中にある常住の妙法を開く鍵を持たないのであります。その結果は、波浪に呑み込まれて、木の葉のごとく翻弄される人生を歩む以外にない。
 それに対して、私たちは同じ凡夫であっても、胸中に妙法をたもち、日蓮大聖人の御命を抱いているのであります。
 この大地に根を下ろした盤石の根の上に、常識人、社会人としての振る舞いをまっとういているのが私たちなのであります。
 体外の人々と体内の私たちの間には、同じ人間凡夫としての外面の姿は同じです。そのよって立つ基盤が全く異なることを私たちは深く認識したいものであります。
 再び「総勘文抄」の文を引用すれば「一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為しふるまいとふるまう行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」とあります。
 これは、妙法に生き抜く私たちの作々発々と振る舞うところ以外に、真実の自在の境地、生命の根源の自由、したがって、真の人間尊厳の現実はないという御教示であります。
 妙法に生きる私たちの行住坐臥は、こんこんと湧き出る元初の生命に照らされて「過も無く障りも無き」自由自在の境涯になっていくのであります。自在な振る舞い。それは決して外なる条件をいかに変革しようとしても、得られるものではない。己が生命の内から本然と発する無作三身如来の躍動により顕現するものなのであります。
 また「一切の法は皆是れ仏法なりと知る」とは、名字即のことであります。それはまた、単に観念で知るということではなく、受持即観心であり、大御本尊を信受し、題目を唱えることによってのみ開かれる生命自体の智慧であります。
 そのときのわが身は、日蓮大聖人即御本尊と境智冥合して行住坐臥の振る舞い、ことごとくが、大宇宙のリズムと合致した、真実の自由の境涯、自在な境地になるとの仰せであります。
 私たちは、この自身の生命の宝庫、「直躰の本門」を常に開くことができる己が福運に目覚め、誇りを持ち続けたいものであります。いかなる障魔が競いおころうとも、いかなる悪口、罵詈にあおうとも“内証にはいかんが及ばん”との決意も固く、不退・不動の信心を貫き通していただきたいことを、切に望むものであります。

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