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日蓮大聖人・池田大作

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久遠元初直行の本迹 久遠即末法の原理を展開

「百六箇抄」講義

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2  【講義】まず、表題の「久遠元初直行」とは、久遠元初の南無妙法蓮華経を末法今日、直ちに行ずることをいい、それは即ち、御本仏・日蓮大聖人の下種仏法そのものであります。
 本文に入って「名字本因妙は本種なれば本門なり、本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり」とあります。名字即の凡夫が行ずるこの下種仏法が「本」であり、釈迦仏法はその「本」より出でた「迹」であるとして、その勝劣を論じられているところであります。
 ここで、名字本因妙は、下種の日蓮大聖人の仏法、本果妙は脱益の釈迦仏法であることはいうまでもない。
 「久遠釈尊を口唱を今日蓮直に唱うるなり」の久遠とは久遠元初のことであります。
 釈尊とは、仏の異名であり、したがって、久遠の仏とは久遠元初の自受用報身如来のことであります。久遠元初の仏が唱えた南無妙法蓮華経を日蓮大聖人はそのまま唱えられているという意味であります。
 この「直」の言葉には深い意味がこめられています。それは、本果妙が「余行に渡る」ということに相対する言葉であります。
 この「余行に渡る」については、後に説明いたしますが、ともあれ、日蓮大聖人は、釈尊の如く、自らを色相荘厳して飾り、様々な教説を説きながら衆生を導いていったのではなく、直ちに久遠元初の南無妙法蓮華経を末法において唱えられ流布されたのであります。
 この御文の内容には、重大な意義をはらんでおります。それは釈尊の日蓮大聖人の仏法との勝劣相対にとどまらず、まさに、末法今時の修行がそのまま、久遠元初であることを意味し「久遠即末法」という大原理が展開されているのであります。
 そのことについては、この項目の最後に、ふれたいと思います。
3  成仏の本因明かさぬ釈迦仏法
 まず、順序を追って、今までのことと若干重複いたしますが、釈迦の本果妙の仏法と日蓮大聖人の本因妙の仏法との関係を明らかにしていきたい。
 釈迦は法華経如来寿量品第十六において、それまでの始成正覚の立場を打ち破って、五百塵点劫の成道、すなわち久遠実成を説き明かしました。
 「我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫」との宣言こそ、法華経本門の眼目であり、骨髄であったのであります。
 久遠実成を明かした釈迦は、五百塵点劫に証得した仏果をもって、一切衆生を自らの境涯と等しくするために、以来、五百塵点劫において結縁した衆生が住するところの娑婆世界に常に垂迹し、種々の方便をもって衆生を化導し利益してきたことをもあわせて寿量品で説いたのであります。「娑婆世界説法教化」「常住此説法」等の説法はそのことを示しております。
 しかしながら、五百塵点劫に成道した釈迦はあくまでも久遠元初の妙法を因として仏果を得た果分の仏にすぎないのであります。
 しかも、釈尊は、その果分を本地として中間、今日の説法や化導を展開してきたことを述べるだけで、自らが成道し得た肝心の久遠元初の本因については、最後まで明かされなかったのであります。
 もっとも、五百塵点劫に成道するために行なった修行については「我本行菩薩道」とだけは示されているのではありますが、ただ菩薩の修行をしたことを述べるのみで、何時、いかなる方法により成仏を得たかについては、ついに明かされておりません。それ故、釈迦仏法を本果妙というのであります。
 それに対し、久遠元初の本因下種たる南無妙法蓮華経は三世十方の仏菩薩の能生の根源であります。日蓮大聖人は、本因下種の南無妙法蓮華経を「我本行菩薩道」の五十二位の本因初住の文底に見いだされ、元初の妙法こそ釈尊の五百塵点劫成道の根源であり、本源力であったとされたのです。
 この三世諸仏の成道の本因たる南無妙法蓮華経を一切衆生に直ちに説かれたのが、末法の御本仏・日蓮大聖人なのであります。それ故に、本因妙というのであります。
 以上の本因妙と本果妙の関係をもとに本文を読めば、名字本果妙とは、名字即のまま究竟即であるという因果倶時・不思議の一法たる南無妙法蓮華経であります。この原理は、実は重大な哲理であり、これについては後にゆずるとします。
 さて、妙法は本種、すなわち、三世十方の仏を成仏させた根源の種子であるが故に、本門中の本門、独一本門の法門となるのであります。それに対して、本果妙の釈迦仏法は「余行に渡る故に本の上の迹」となるのです。“余行に渡る”とは、本果妙の仏は成仏の本源の種子を直接説かずに、これを間接的に示すために、四教八教、法華経本迹二門を説くということであります。
 「当流行事抄」には、「本果の儀式全く今日に同じ四味及以迹本二門今文に顕然なり」とあります。釈迦在世においてとった説法の方式と、久遠本果においてとった方程式は同じであるというのです。ただ、釈迦在世の姿を遠い昔に移しただけのことなのです。
 つまり、釈迦仏法は説法する仏が、たとえ五百塵点劫の本果第一番成道の仏という立場であっても、三千年前の今日という立場であっても、自分を成仏せしめた本因の妙法を説くことができないため、まず四味を説き、次に法華経迹本二門と種々の方便をもって説き進めたというものであります。したがって四味八教と余行にわたって説法する本果妙の仏法は、本因妙の独一本門から見るとき「迹中の本」であり、南無妙法蓮華経という「本」の上に成り立つ迹でありあす。ここに本迹勝劣が明らかであります。
4  革命的な凡夫即極の思想
 では、いったいどうして本果妙の仏は余行に渡るのでありましょうか。なぜ、久遠元初の妙法を直ちに衆生に示すことができないのでありましょうか。
 一つには、凡夫名字即のままで仏となる妙法を説くには、大難が競い起こることが必定であり、本果妙の仏には大難に打ち勝つ力と資格に欠けていたからであるというべきでありましょう。
 それ故、釈迦にせよ、天台にせよ、自らを高く持して、深遠な法は、あくまで奥にひそませている形をとらざるを得なかった。そして、民衆に渇仰の心を起こさせて衆生を導く以外になかったのであります。
 また、民衆こそ本当の仏であると宣言するには、いまだ、時代、社会が許さなかったといえるかもしれない。内にはそれを知っていたとしても時代性、民衆の機、歴史の推移の上から、やがて末法に出現するであろう御本仏に一切を託しつつ間接的な説き方にとどめたのでありましょう。これに対し、大聖人は末法万年にわたる崩れざる大法としての民衆こそ、凡夫こそ、本仏であると、我が身に大難がふりかかるにも顧みず、宣言されたのであります。「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」と「諸法実相抄」で明らかにされた通りであります。
 本果の仏と本因の仏との相違は、まさに「教弥実なれば位弥よ下く、教弥よ厳なれば位弥よ高し」の言葉に要約されております。
 その教が深く真実を究めれば究めるほど、その法を説く人は、自らを民衆の大地に置いていくのであります。逆に経が権であれば虚栄虚飾で自分を高く見せなければならないというのであります。
 その意味で、御自身凡夫位のままにおいて、凡夫こそ本仏なり、と宣言された日蓮大聖人の仏法は、それまでの宗教の考え方を転換した宗教革命であるとともに、この革命を生き抜かれた大聖人の生涯こそ壮大なる宗教の逆転劇であったと申し上げてもよかろうと思うのであります。
 「久遠釈尊の口唱を日蓮直に唱うるなり」の文は「久遠即末法」「久末一同」を表されたものであり、まさに日蓮大聖人の仏法の革命性、本源性を余すところがありません。
 「直に」とは「即」と同義であります。「今」とは末法であり、したがってこの文の意は久遠即末法ということであり、日蓮大聖人は、久遠元初の妙法の直体であられる、ことを意味します。それは正像末と次第に教法の移りゆく夕日の如き、宗教ではない。あたかも、元初の太陽の生命をはらんだ黎明として御本尊の出現があったのであります。
 この大聖人の仏法の本義に立てば、ただ今が久遠元初であります。この瞬間瞬間の生命以外に南無妙法蓮華経という大仏法はないのであります。
5  妙法広布に戦う現在こそ久遠元初
 久遠元初とは歴史的過去ではない。遠きかなたのことでもない。この瞬間に永遠を凝結させている、大海のごとき大生命そのものであり、満々たる力と息吹をたたえているものであります。「御義口伝」にいわく「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」とあります。久遠は通常「時の無窮なこと」「遠い昔」「永遠」というように理解されております。
 しかし、日蓮大聖人の仏法の眼からみるならば、久遠とは時間的な意味も含めて、大宇宙の本源、生命の根源の意義にまで及ぶのであります。無作本有常住の生命、無始無終の生命であり、久遠元初自受用報身如来の御生命を指すのであります。同じく「御義口伝」に「久遠とは南無妙法蓮華経なり」とあるごとく、久遠元初とは、一言にしていうならば南無妙法蓮華経それ自体であります。
 さらに南無妙法蓮華経と唱うる私達の生命もまた久遠元初を開いているというべきでありあす。
 故に、私達が常に御本尊を受持し広布のために戦うことこそ自体が、久遠の仏法兄弟の姿となっていくのであります。この元初の生命に綴られた尊い歴史というものは、永遠に消えることなき信心の元初の経典として輝いていくに違いありません。私達は今こそ、元初の朝の日の出を迎えている信行学の日々と銘記したい。

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