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日蓮大聖人・池田大作

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序文  

「百六箇抄」講義

前後
1  百六箇抄(血脈抄) 弘安三年 五十九歳 与日興
 具騰本種・正法の実義本迹勝劣正伝、本因妙の教主本門の大師日蓮謹んで之を結要す。万年救護写瓶の弟子日興に之を授与す云云、脱種合して一百六箇之れ在り、 霊山浄土・多宝塔中・久遠実成・無上覚王・直授相承本迹勝劣の口決相伝譜、 久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す。
2  【通解】この百六箇抄は、具に本種を騰すの正法の実義、言い換えれば、末法の正法である南無妙法蓮華経の真実の義を、脱益の釈迦仏法、下種益の南無妙法蓮華経を踏まえて、あらゆる角度から本迹の勝劣を明確に立て分けることによって、正しく後世に相伝するものである。
 本因妙の教主であり、独一本門の本仏たる日蓮が謹んでこの相伝を要約して結んだのが百六箇抄である。
 末法万年、未来永遠にわたって民衆を救済するために法水写瓶の直弟子たる日興にこの相伝を授与するものである。
 これは、脱益仏法についての本迹勝劣を説いたものが五十条、下種仏法についての本迹勝劣を説いたものが五十六箇条であり、合計一百六箇条からなっている。
 また百六箇抄は、文上の意においては霊山浄土、多宝搭中において久遠実成の教主大覚世尊より、日蓮がたしかに直授相承された本迹勝劣の口決相伝書であり、文底の意においては、久遠元初以来無始無終にわたって常住する本因本果の教主 霊山に迹を垂れて上行菩薩とあらわれ、末法に独一本門の本仏として再誕した日蓮が詮要した相伝書である。
3  【講義】この序として記述されている個所は、極めて簡潔な文章でありますが、ここには、百六箇抄のまさしく血脈抄である所以が明記され、更に本抄全体にわたる意味と概要が説かれているのであります。
 そこで、まず最初に、この序の意味を汲み取る前提とし、また同時に、百六箇抄の口伝を正しく理解するために、日蓮大聖人の仏法の根幹をなす哲理の一つである種・熟・脱の法門について概略しておきたいと思う。
4  種・熟・脱の意味するもの
 さて、種・熟・脱の種とは、種子を植えるという意味である。つまり下種のことであり、仏になる種子、仏種を植えることです。熟とは、植えられた過去の種子が、次第に育てられ、養われていきことを指し、脱に至って、下種された仏種が熟しきって、いよいよ成仏の境涯をあらわすのであります。
 仏の教法は、この種・熟・脱のいずれの功力をもっているかによって、下種益・熟益・脱益と分けて表現されます。
 たとえていえば、この大地に、植物の種子を植える。この種子を大地に植えつけるという利益が下種益である。大地におろされた種子は、土壌に含まれる豊かな栄養分と水分を吸収して、小さな芽を出すに至ります。
 その植物の芽に、陽光がさんさんと降り注ぎ、白雲が雨となって土壌を潤すにつれて、小芽は小樹となり、更には、天地を覆うような大樹へと成長していくはずです。その大樹には、生きとし生けるものが蘇生する春には絢爛たる花が咲き、灼熱の夏から万物成熟の秋の訪れとともに、見事な果実が枝もたわわに実るでしょう。
 同じく、衆生の生命という豊潤な大地におろされた仏の種子も、降り注ぐ陽光や栄養分をたっぷりと含んだ水分を得て、植物の種子が育ちゆくように、仏陀の慈悲の化導を得て、生命の大地から虚空に伸びゆく“生命の大樹”へと成長していくのです。
 時の流転とともに、この“生命の大樹”にも、華麗なる幸福の花が咲き、成仏の果実が豊かに実っていくはずであります。
 今、植物の生長過程を一つのたとえとしてあげたように、仏法もまた衆生の成仏にとって「種・熟・脱」いずれの利益をもたらすために説かれているのです。
 それ故に、壮大で深遠な哲理が説かれているとってもいつ、いかなる仏によって仏種が植えられ、また、この種子がどのようにして熟され、脱せられかという過程が明かされないかぎり、衆生の成仏にとっては全く空虚な教えとなり、架空のものとなってしまうのです。
 つまり、単なる論議・理論に終わり、現実の苦悩の衆生を救い得る実践力とはなりえないのです。「観心本尊抄」に「設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」とある通りであります。この文の中に「化の始終無し」と述べられているのは、種・熟・脱の法門は換言すれば、仏の化導の始終を表していることにもなるとの意味であります。仏の仏種をおろす化導が、いつから開始され、いつ衆生を仏にする脱を迎えるかという“始終”であります。開目抄文段に「問う種熟脱の其の義いかん、答う即ち化導の始終なり」とあることからも、上のことは明瞭でありましょう。
 故に、衆生にとっては、いかなる仏によって下種され、熟脱されるか、つまり化導されるかが、重大な問題となるのであります。
5  衆生の生命開く仏法の化導
 仏法は衆生の生命の真実の姿に鋭く迫った哲学であり、深遠な思想です。とともに、日々、哀楽の交差に生きる人々の悩みといかに取り組み、それを打開するかという、なまなましい実践論でもあります。いかに高慢であろうが、理論のみに終われば、力なき哲理といわざるをえません。
 仏法に限らず、およそいかなる修行にも、いつ入門し、いかにして終了するかという、過程があるのは当然のことです。学校にも入学と卒業がある。書道や茶道等においても入門と免許皆伝というべきものがあります。スポーツなどにおいても、この法理はなんら変わるところはない。すべて、生命のなんらかの向上のためには、化導ということが必要であり、その始終が明確になってこそ、一つの道を極めたということができるのです。仏法は、生命の奥底から根本的な触発・向上・完成のための教えです。そこに種・熟・脱という衆生をいかにして導いていくかの化導の始終がなければならないことは、いうまでもないでしょう。
 いわんや、仏法の化導は、本来衆生の生命の内にないものを与えたり、上から下へ恩寵を与えたりするという類のものではない。元初の昔より衆生の生命に内在する尊き仏界の輝きを内から薫発せしめ、自ら悟らしめるための化導です。その故にこ・そ、それを涌現させるための作業が必要になってくる。「曾谷殿御返事」に「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」とある通り、肥沃な大地から豊潤な果実をあらわしいだすための「植え手」が仏であり、仏法の指導者の役割なのです。
 更に化導ということについて論及するならば、仏とは仏の悟りをもって教化するということであり、導とは仏道に導くことです。言い換えれば、化とは生命の変革、転換せしめることであり、導とは転換せしめた生命を、より完成へと向上せしめることであるといえるでしょう。鉄縄門よりもなお堅く閉ざせれ、煩悩の苦に繋縛された衆生の生命の門を開くのが「化」であり、衆生の生命を、大河の流れのごとく、成仏の大海へと向かわしめるのが「導」であるとってもよい。
 したがって、化導する仏の如何によって、衆生がいかなる転換をし、いかなる道を歩むかが決定されるのです。先ほどの書道やスポーツの例でいえば、我流の人や、技術の未熟な人のもとでは、その域を越えることができないばかりか、正常な発達を阻害することさえもある。まして法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり、幸不幸の根本の鍵である信仰において、いかなる師にも化導されるかが、その人の人生にあたって決定的な意味をもつことはいうまでもない。御本仏たる大聖人に化導を受け、その本眷族として自体を顕照できる私たちの福運を喜ぶべきです。
 ともあれ、種・熟・脱、化導の始終が明らかになったとき、初めて、生命の深き哲理が現実の上に燦然と光り輝くことを忘れてはならない。種・熟・脱の原理がなければ、仏法は無価値であるといっても、決して過言ではないのです。
 この種・熟・脱という重大事を、一切経のなかで初めて明確に説き示した経典こそ、法華経に設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なりほかなりません。「種熟脱の法門・法華経の肝心なり」との「秋元御書」の文も、そのことを明証しております。
6  釈迦仏法における種・熟・脱
 しかし、更に論じていけば、法華経に説かれた種・熟・脱の法門も、迹門、本門、文底と立て分けることが肝要であります。法華経迹門の立場では、過去三千塵点劫の時、釈迦が大通智勝仏の第16王子として、衆生に仏種を下したのが下種であり、釈迦在世今日に爾前経で仏種を養い育てたのが熟に相当します。法華経に入って迹門で未来成仏の記を授けられたことが脱になりましょう。
 本門の場合には、久遠五百塵点劫に下種し、大勝智勝仏及び今日の爾前・迹門までを熟とし、本門寿量品に至って得脱させるのが脱であります。
 以上の法華経・本迹二門の種・熟・脱の過程を見て明らかなように、いずれも釈尊の化導に終始していることが明瞭であります。故に法華経の文上の説法は、釈迦が過去においてすでに下種していた仏種を、熟し脱せしめるために説かれた法門であるといっても過言ではありません。化導される側の衆生もまた、釈迦有縁の衆生であり、このような機根の衆生を指して本已有善の衆生と称するのです。
7  本末有善の衆生を化導する大仏法
 ところが、末法という時代は、釈迦とは無縁の衆生、本末有善の衆生のみが出現して、五濁悪世の時代を形成しているというのが、大聖人の捉え方であり、また、仏法の眼からみた時代相の深い洞察であったのです。この本末有善の衆生に対する化導こそは、久遠元初の自受用報身如来による下種によらなければならない。その種子の本体は、寿量文底・三大秘法の南無妙法蓮華経なのであります。一生のあいだに種・熟・脱のすべての過程が一挙に具わるのです。更にいうならば、一瞬の生命の中に種・熟・脱を含むといってよい。「本因妙抄」に「因果一念の宗」とあるのはこの意であります。したがって、即身成仏が可能0568なのであります。これが、文底仏法における種・熟・脱の法門であります。
 若干、広く展開した論じ方になるかもしれないが、一生のあいだ、また一瞬の生命に種・熟・脱が含まれるという考え方のうえに立って、更に、大聖人と私たちの実践のあいだに種・熟・脱を論ずるならば、700年前、日蓮大聖人が出現され、大御本尊を建立されたのは、広宣流布の「種」を下されたことになります。今、私たちが広宣流布の春を迎えんとするのは、まさにその種子が薫発し、花開かんとしている姿であると考えられるでしょう。
 「三大秘法抄」にいわく「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」と。また「四条金吾殿御返事」にいわく「大陣すでに破れぬ余党は物のかずならず、今こそ仏の記しをき給いし後五百歳・末法の初・況滅度後の時に当りて候へば仏語むなしからずば一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん」と。すなわち、日蓮大聖人の出現が、後五百歳広宣流布の文の実証があるとの強き御確信の文です。大聖人は三大秘法の南無妙法蓮華経をもって、一切衆生の心田に下種された御本仏なのです。「御義口伝」にいわく「日本国の一切衆生は子の如く日蓮は父の如し」と。「総勘文抄」にいわく「一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり」と。
 日蓮大聖人の下種があり、日興上人以下の苦闘、そして創価学会において初代・二代会長をはじめとする多くの先輩の激闘が、その種を成熟させ、広宣流布の確かな流れが築かれ、開花したことを忘れてはならない。同時に、私たちの今日の戦いがまた、世界を舞台にした、より大きな広布史の下種作業となって、必ずや大輪の花を咲かせ、永遠に壊れざる果実を結ぶことも確信し、日々の着実な実践と取り組むべきであると思うのです。
8  妙法こそ一切衆生を救う根源の法
 さて、この南無妙法蓮華経という根源の種子こそは、三世十方の諸仏が仏になりえた、得道できえた究極の一法にほかならないのであります。
 秋元御書にわく「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」と。
 また、日寛上人は「当流行事抄」において、玄文第七の「三世乃ち殊なれども毘廬遮那一本異らず百千枝葉同じく一根に趣くが如し」の文を引いて「本果の釈尊は万影の中の一影・百千枝葉の中の一枝葉なり・故に本果の釈尊の外更に余仏有るなり、若し文底の意は久遠元初を以て本地と為す。故に唯一仏のみにして余仏無し、何となれば本地自受用身は一月の如く本の一根の如し・故に余仏無し・当に知るべし余仏は皆是れ自受用身の垂迹なり」と、更に「横に十方に徧じ竪に三世に亘り微塵の衆生を利益したもう垂迹化他の功、皆同じく久遠元初の一仏一法の本地に帰趣するなり」といわれております。すなわち、日蓮大聖人は、あらゆる仏の本種である南無妙法蓮華経を説かれ、本末有善の末法の衆生に、直ちにこの究極の法門を下種してくださったのであります。これを下種益の仏法というのです。これに対して釈迦仏法は、すでに下種した衆生の仏種を熟し脱せしめることに焦点を定めた仏法ですから、脱益仏法と称するのです。
  その結果、化導する側の仏の身と位にも根本的な相違が生じます。すなわち、脱益の仏法の仏は色相荘厳の極果の位であり、下種仏法においては凡夫即極、名字究竟の位です。この故に、脱益仏法を本果妙、下種益の仏法を本因妙というのです。
 この本因妙・本果妙ということについては、後に詳しく論じていきたいと思っております。
 なお、脱益の釈迦仏法が、一切衆生を脱せしめたかというと、そこにおのずから限界があった。釈迦仏法の最高峰たる法華経においても、五千の上慢の方便品における退座をとどめることはできず、化導することはできなかった。また、虚空会の説法にあたって、宝搭品で三変土田して国土を荘厳した際も、四悪趣の衆生・諸天人は他土に置かれ、その化導に浴することはできなかったのです。一切衆生皆成仏道の法華経においても、現実には化導に漏れる衆生があったということであります。
 日蓮大聖人は、御自身を旃陀羅の子といわれ、貪瞋癡の三毒熾盛の凡夫身であることを明確にされて、一切衆生と同苦しながら救うことを宣言されている。その故にこそ、三類の敵人いよいよ強く、大聖人の前途に現われたのであり、また私たちの広布達成の道程にも立ち塞がるであろうことを忘れてはならないのです。大乗の精神とは、多くの衆生を彼岸に到らせるところにあり、どれだけの衆生を化導し成道せしめるかに法の勝劣があるとするならば、下種仏法と脱益仏法の根本的勝劣は、ここに明確にあることを知っていただきたい。万人に光を与えるに力至らぬ脱益仏法を月にたとえ、遍く全人類に、さんさんと功徳の慈光を注ぐ下種仏法を太陽にたとえられたのも、むべなるかなと思うのです。
 このような釈迦仏法を迹として、日蓮大聖人の仏法を本とし、その勝劣を106箇の箇条として説かれたのがこの百六箇抄なのです。
 この本迹、つまり本抄の末文にある「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の文のごとく、なぜ本迹を立てるかということについて、文を追って論及していきたいと思います。
 百六箇抄はいうまでもなく、106箇にわたる本と迹の立て分けを論じた御抄です。種に56箇、脱に50箇の立て分けがなされております。脱の50箇は釈迦仏法における本迹の立て分けであり、種の56箇は釈迦仏法の本迹をともに「迹」日蓮大聖人の仏法を「本」とする立て分けであります。
9  釈迦仏法に遥かに勝る独一本門
 このことについて、日寛上人の「観心本尊抄文段」には「本迹の不同実に天地の如しと雖も、若し文底独一の本門の事の一念三千に望み、還って彼の迹本二門の一念三千を見れば殆ど竹膜を隔つとなり」とあります。
 すなわち日蓮大聖人の仏法からみるとき、釈迦仏法にける本迹の相対がたとえ天地水火の相違であっても「竹膜を隔つ」にすぎなくなるのであります。
 日寛上人は、これをたとえて、一尺と一丈との差は大変なものであるが、十丈からみれば、その一丈と一尺の差はわずかなものになると述べられている。
 もう少し今日風にいうならば、ちょうど10㎝の草花と10mの大木を地上で見ると天地のような差であっても、空から見れば、両者の差はほとんどなく、竹の節と節の間にある膜を隔つほどしかない、ということになります。このたとえは、日蓮大聖人の独一本門の仏法が、釈迦仏法に比し、いかに高く勝れたものであるかを述べているのであります。
 大聖人の仏法においては、迹門は理であり、事の仏法である本門からみるならば、はるかに劣り、どこまでも事を根本にすべきであることが説かれています。
 「理」とは、いうまでもなく理論であり、「事」とは、一往、事実の姿であるといってよいでありましょう。「治病大小権実違目」にいわく「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり」と。
 また更に、今度は釈迦仏法全体を迹として、日蓮大聖人の仏法を本、独一本門として、同じ「治病抄」の最後には「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり」と説かれています。これは、釈迦仏法としての天台家の仏法全体を迹門の理観とし、日蓮大聖人の仏法を事の仏法と立て分けられているのであります。
 では、なぜ本門の事が勝れ、迹門の理が劣るのでしょうか。
 それは、理も重要でありますが、現実に人々を教えるか否かということが、仏法の最重要問題であるからであります。
 天台大師が表現した内容に「本より迹を垂る」という言葉があります。迹より本が生まれるものではない。「本」を事実、「迹」を理論とするならば、「本」たる事実から「迹」の理論が位置づけられてくるのであります。理論は一つの物差しである。したがって理論は事実を説明する規範とはなりうるが、それがすべてではない。作々発々と振る舞う生命自体が事で、その事実から普遍化されたものが迹門であります。
 もし、迹理を根本といていくならば、「天月を識らず但地月を観ず」とあるがごとく、仏法の生命力を失い、教条主義に陥り、固定化、ドグマにとらわれた行き方になってしまうことは、幾多の現実社会、ならびに歴史をみても知悉できるところであります。
 これに対し、事を根本とするならば、雄大な宇宙生命のリズムを奏でながら、しかも、そこに普遍性の理を伴いつつ、時代社会をリードし、常に新鮮な息吹をたたえて進むことができるのであります。
 本来、仏法は一個の人間生命それ自体が真理であり法であると洞察したこころから出発しているのであります。真理を人間生命を越えたところにあるとし、その心理から人間を規定するものではない。そのことを最も明瞭に宣言されたのが日蓮大聖人の仏法なのであります。一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり
 「三世諸仏総勘文教相廃立」にある「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」とのあまりにも有名な御文は八万四千という膨大な量に広がった経典も、詮ずるところは、一個の人間の生命を記述したものであり、それを一歩も出ないとの結論であります。
 この「人間」という一個の生命の事実相から出発し、人間、社会、宇宙の振る舞いに顕現するのが事の仏法であります。逆に理の仏法とは、生命の事実相を抽象化し、理論化したものであります。
 戸田先生はよく迹門の理は家の設計図に、本門の事を家それ自体にたとえられて、わかりやすく説明されましたが、迹門はあくまで、作々発々と振る舞う生命自体を設計図として描いたものにすぎない。設計図はどこまでも設計図です。どんなに精密な設計図を幾枚重ねても、遂に生命そのものとはならないでしょう。
 もう少し卑近な例でいえば、恋愛とは何かという説明は「理」であります。事実、胸中に脈打つ燃ゆる感情そのものは「事」であります。これと同じように、例えば、いかに一切衆生に仏界があると説かれている法華経の真理を認識しても、それ自体、仏界の事実の顕現とはならないのであります。
10  本仏の生命に触れることが大事
 また、釈迦仏法には、三千塵点劫、五百塵点劫という長遠な過去にさかのぼり、そこに深遠な哲理が秘められているかのごとく、精密な理論を展開していますが、やはり一幅の設計図にすぎず、本源の生命そのものを指し示すための手段なのであります。
 総じて、哲学や思想というものが、慨して民衆から遊離し、観念的な理に低迷しているのも、ひとえに、人間を人間たらしめている生命そのものを全体として把握しきれていないからこそであると思います。
 日蓮大聖人は、三千塵点劫、五百塵点劫という一時点を想定する幻想の過去をたたき破って「久遠元初」「久遠即末法」「久末一同」と説かれたのであります。
 今、ここに、鼓動し、律動し持続しつつある生命それ自体を凝視し、久遠より流れる法と力を見いだし、そこに一切の淵源があると喝破されたのであります。
 「久遠即末法」とは、大御本尊即日蓮大聖人の御命のことであります。大聖人の命そのものが久遠元初であり、もったいなくも、御本尊に南無して唱題する私たちの生命もまた久遠元初に生きていくのであります。
 「観心本尊抄文段」には「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」と述べられてているとおりであります。
 以上にみてきた、本迹、事理の勝劣は、また、私たちの生活やあらゆる行動、振る舞いに応用展開できるのであります。
 まず、私たちの信心の基本である信・行・学が、なぜこの順序になっているかについても、事と理の立場から明瞭になるのであります。
 たとえ、仏法実践の姿勢なく、どんなに御書を訓詁注釈的に拝読しても、そこには、末法の御本仏・日蓮大聖人の生命の鼓動はない。不変真如の理の教学には、信心の血脈はない。ただただ、南無妙法蓮華経を唱え弘教に励む私たちの一念の作動のなかにしか大聖人の仏法は存在しえないのであります。
 大聖人御自身も、現実の変革を遂行する実践、振る舞いのうえに相関して、経文を身読されていたからであります。
 開目抄の「勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし」とも、また「日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ」等の言葉はその証明でもあります。
 御書は、この大聖人の実践行の結果書き留められたものであります。それ故に、私たちもまず、御本尊への絶対の信を根底とし、更に、広宣流布という民衆救済の実践行を振る舞う生命の躍動のうえに、御書を拝読したときに、日蓮大聖人の久遠元初の御生命に直接触れることができるのであります。つまり、本仏の御生命に我が生命が触れること、感応することが「本」でり、事であり、随縁真如の智の教学となるのでありあす。
 実践もなく、歓喜もなく御書を教条的に読んであるのは理であり、迹であり、偏狭とならざるをえない。したがって、信・行・学の順は、決して変えることのできない、私たちの信心修行の鉄則なのであります。
11  本迹とは生き方の規範
 以上、「事」と「理」の観点から述べてきましたが、それは迹門が「持続し動いている生命」をいったん固定化させ、その断面図を分析しているから理なのであり、本門は、その生命を、流れるうえからの事実の把握をしているから事であると、私は考えるのであります。その意味から、迹門は「空間」の側面、本門は、それを含めて「時間」に焦点があてられているとも論ずることができます。
 例えば一人の人を見る場合、その人のある一時点の行動や振る舞いを見て、それだけでその人の人格を決めるのは、部分観で、横に空間的な側面を切って評価したにすぎない。本門の全体観は、ある一時点の行動や振る舞いをそれだけで評価せず、その人の過去にしてきた行状、振る舞いや未来への可能性を含めて、過去・現在・未来という時間的流れに拡げて捉えていく立場となります。
 空間的な迹門の捉え方とは、活動し変化している人間の生命を、現在の一時点で立ち切り、その断面を見るものです。時間・空間にわたる本門の捉え方は、横の断面を見ると同時に、それをもう一度、縦に過去・現在・未来と流れる時間に即して、変化流動のなかに捉えていくものです。どちらのほうが、よりよく人間を捉え得るかは、おのずから明らかでしょう。少しこれを、わかりやすい例をもって示してみよう。
 ギリシァの哲学者ゼノンが唱えた有名な逆説の一つに「飛ぶ矢は静止している」というものがあります。
 飛んでいる矢であっても、その一時点をとらえれば静止している。例えば飛んでいる矢を高速度カメラでとったとき、止まっているように見えるのと同じです。その止まっている矢を、いくら継ぎ合わせても、ゼロにゼロを加えているようなものであり、矢は前へ進まない。したがって飛んでいる矢は静止していることになるというものです。
 これは、一時点をとらえた矢を表面的にしかみないところに、根本的な誤りがある。止まっているように見える矢も、運動しようとする力と方向、エネルギーをもっております。したがって全くの一点だけをとらえて止まっているように見える矢も、それに加えて一定の時間として見るならば、早いスピードで飛んでいることがわかる。運動している物体は、一時点の断面だけでなく、連続した時間のなかでみるべきことを教えた原理であるともいえましょう。
 また、私たちの五陰仮和合の生命は、一瞬もとどまることなく動いている。エネルギーに満ちた存在です。これを一時点の断面だけでみようとするのは、あたかも飛んでいる矢を静止させてみようとしているようなものでありましょう。「因」と「果」の織りなす連続した時間のなかで生命を捉えてこそ、真実相に迫りうるのではないでしょうか。本門が迹門より一歩深い洞察に立っているのは、この観点からもいえると私は思うのです。
 この関係を釈迦仏法でいえば、迹門では、始成正覚の仏と説かれ、釈尊の仏としての生命は、今世にはじめて生じたもので、その根源が明かされていません。また、本門寿量品において五百塵点劫の昔に仏になったことが説かれたとしても、それも、ただその原因は、菩薩道を行じたというだけで、結果のみが表になっています。
 それに対して、御本仏・日蓮大聖人は、大宇宙とともに、元初よりの南無妙法蓮華経を説き明かし、それを大聖人の事実の行動のうえに顕現されたのであります。まさしく、一個の生命に律動している根源の大リズムを捉えたというべきでありましょう。
 以上、本迹相対が、私たちの生活、ものの見方、考え方にまで、応用・展開できることをみてきましたが、「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の本抄の末文のごとく、一切にわたって本迹ということがあるのです。本迹とは、たんに仏法上の原理ではない。私たちの行動原理であり、また、生き方の規範そのものであると申し上げておきたいのであります。
 これから序分に入りますが、序分の一つ一つは重大な意味をもっております。一つの問題を論ずるのに、相当の時間をかけて論じなければならない問題が含まれているけれども、本文のなかに含まれているものもあるので、ここでは簡単に説明しておきたい。
12  釈迦仏法は本種=妙法を指向
 「具謄本種」
 この文は、妙楽大師の法華文句記巻一にある「雖脱在現・具謄本種」から引かれたものであります。「脱は現に在りと雖も、具に本種を謄す」と読みます。
 したがって、この文の意味は、釈迦仏法では、所化の衆生は、寿量品の説法を聞いて得脱したとするのであるが、その成仏の根本をたずねてみれば、寿量文底に久遠の下種が蔵されており、その本種を覚知することによって妙覚の位にのぼりえたのである、ということになります。「謄」とはあげる、登らせるの意で、脱益の経文に謄写版のごとく、種の仏法が浮かび上がっているとの意味です。
 釈迦仏法の衆生は、修行によって、あるところまでさかのぼると、文底仏法を悟る衆生なのです。寿量品を開いて得脱した仏のようであるが、寿量品の文底にある南無妙法蓮華経を悟って成仏したのです。したがって、文底の目より見れば、寿量品そのものが下種の仏法を浮かび上がらせているのです。
 ですから、釈迦仏法は大聖人の仏法に至る説明書であるといってもよい。釈迦が寿量品で一体何を説こうとしたのか、大聖人の生命には、ありありと浮かび上がっていたにちがいありません。
 大聖人の眼からみるならば、二十八品の文々句々がすべて南無妙法蓮華経を明らかに示していたことでしょう。「撰時抄」に「迦葉・阿難・馬鳴めみょう・竜樹・無著むじゃく・天親・乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」とあるとおりです。二十八品ことごとくが、大聖人のお振る舞いの説明であり、御本尊の説明となるのです。
 釈迦仏法は「脱益」です。釈迦仏法に含まれているものは、すべて南無妙法蓮華経の指向です。言い換えれば、在世の衆生のために説かれたかにみえる法華経も、再往は滅後の衆生、なかんずく末法の衆生のために、南無妙法蓮華経を秘沈しつつ説いた法であるかということが具謄本種なのです。
 この原理は、仏法に限らず、すべての思想、学問に通ずることでもあります。いかなる学問も、求めるところは究極の一法、すなわち本種であることはいうまでもありません。
 物理学の分野において、粒子論を打ち立てたハイゼンベルグは、大宇宙の根本法則ともいうべき「宇宙方程式」を提示したことがあります。この方程式自体当否は物理学の問題でありますがその試みそのものが、物理学の視点からの「宇宙の原理」への肉薄であると思う。
 物質を構成する根源的な粒子を追求してあらわれた素粒子も、その数が数百に増えるや、更に根源的な基本粒子の追求がなされ、相対性理論と粒子量の統一への試みもなされることは、まことに興味深いことです。
 また、心理学の分野は近年、画期的な進展をみせていますが、人間生命の奥深く目を向けたユング心理学等では、生命の最も奥底に「自己と名づける当体を設定している。人間生命の奥底に、自己自身としか名づけられないような当体を見いだしていることも、まさに「本種」をさぐろうとする努力であるといえましょう。
 さまざまな分野で求めようとしている本種の、更に奥底にある根源の種子こそ、南無妙法蓮華経です。これは、すべての分野の土台となる哲学・思想の「宇宙方程式」であり、真実の「自己」の当体でもあります。あらゆる学問・思想は、やがてこの根源の種子に接近するであろうことを、私は深く確信してやまないのです。
13  大聖人は成仏の根本因を植える仏
 本因妙の教主
 本因妙の教主とは、本因妙の仏法を説く仏であり、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人である。
 日蓮大聖人を本因妙の教主と呼ぶ理由は、次の文底秘沈の問答のなかに明瞭に記されています。
 「文底秘沈抄」には「問うて云く教主とは応に釈尊に限るべし、何ぞ蓮祖を以て教主と称すや。答う釈尊は乃ち是れ熟脱の教主なり、蓮祖即ち是れ下種の教主なり。故に本因妙の教主と名ずくるなり」とあります。
 教主とは、自らの体得した法をもって民衆を教化する人をいうわけですが、仏法において教主といえば、ただ釈迦に限ると思っている人もいるでしょう。
 しかし、釈迦は、過去に下種された衆生の仏種を、熟し、脱せしめる教え、つまり脱益仏法を説く仏にすぎません。釈迦の教法には、熟・脱の功徳をそなえているにすぎないのです。下種を本因とするのに対して、熟・脱は本果となりますから、釈迦を本果妙の教主と呼ぶのです。
 また、寿量品の釈迦といえども、本果第一番成道を遂げた久遠実成の仏にすぎないのです。仏の資格からいっても、釈迦は本果妙の仏となるのです。
 ところで大聖人は、本末有善の衆生に、成仏の根本因たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植える仏ですから、本因妙たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植え付ける仏ですから、本因妙の教主に名づけるのであります。大聖人の仏法には、種・熟・脱の功徳がことごとく内包されていることはいうまでもありません。
 また、大聖人の本地は久遠元初の自受用報身如来ですから、本因妙の仏と称するのです。このことについては、本文に入って再び展開することにします。
 久遠元初自受用報身の再誕としての日蓮大聖人こそ、本果妙の教主・釈尊の仏法を遥かに越える本因妙の大仏法を説示する本仏であり、末法万年の衆生を救済できる教主のです。
14  「本因」の姿勢こそ未来を開く鍵
 恩師戸田城聖先生は「本因妙の仏法」についての講演で、生命論のうえから、大要次のようなことを話されたことがありました。
 生命は厳然たる因果の法則に支配されており、しかも瞬間の連続であり、瞬間以外には、生命の実在はない。
 私たちは、その瞬間に幸福を感じ、不幸をみ、希望をもったり、失望したりする。まさに瞬間こそが、生命の全体といえる。
 この因果に支配され、幸・不幸を感ずる瞬間を「因」「果」のいずれの視点から捉えるかによって、実は未来の発展があるか否かが決定される。すなわち、瞬間を過去からの「結果」であり、結実のみがすべてであると考えるのが「本果」、つまり釈迦の仏法である。ここには、もはや未来の発展はない。
 これに対して、瞬間を未来の「原因」とする、あるいは「原因」でなければならないと決定するのが「本因」つまり日蓮大聖人の仏法である。
 しかもこの「原因は」、久遠に通じた原因であって、根も深く、理も法界に徹している。即ちこの「原因」とは、南無妙法蓮華経である。
 したがって、本果妙の仏法である釈迦仏法との相違は天地雲泥である。私たちが本因妙の仏法の根源の当体である大御本尊を信じ行じていくならば、いかなる困難をも変毒為薬できる。その生活は、久遠の因を根本とした活動であり、大御本尊の功徳によって測り知れない生命力が湧現し、仏力・法力による確たる結果が生ずるのである。
 この戸田前会長の講演は重大な内容を示していますが、これに基づき生活に約していえば、本因妙とはひとくちでいえば、常に出発点に立っていく行き方です。過去の栄光に包まれて功績等に生きる生き方は脱益であり、過去の人です。常に未来に生きる人こそ、本因妙の人であるといえます。
 御本尊にも「現当二世」とありす。御本尊がすでに本因妙です。故に、本因妙の人、常に前進の息吹を満々とたたえている人が、御本尊と境智冥合できる人であることを知ってください。退く人、過去を追っている人は御本尊と境智冥合できる道理はないのであります。
15  上行は大聖人の生命の働き
 「霊山浄土・多宝塔中・久遠実成・無上覚王・直授相承本迹勝劣の口決相伝譜」
 この文は、大聖人が地涌の菩薩の上首である上行菩薩として、法華経の会座において、本迹勝劣の口決相伝を久遠実成の釈迦より直授相承せられたことをあらわしています。
 法華経の文上の義にのっとおっていえば「霊山浄土」とは、宝搭品の説法が行われた場所でありあす。「多宝搭中」とは、宝搭品の儀式の時、宝浄世界から湧現した七宝の搭の中という意味があります。「久遠実成・無上覚王」は、五百塵点劫に成道した無上の覚者、つまり仏をさします。
 上行菩薩は六万恒河沙の地涌の菩薩の上首として、神力品において釈迦滅後末法に法を弘めるために付嘱をうけたと、法華経には明記されております。
 これをうけて日蓮大聖人は「三大秘法稟承事」に「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」と述べられています。いまここで記されている文は、この「三大秘法抄」の文意にも通じることでしょう。
 日蓮大聖人が多宝搭中において久遠実成の釈尊より口決相伝されたといわれていることについては、更に深義があります。
 文底より論ずれば、その霊山の座は久遠の座であり、その立場に立てば、釈尊とは無作の報身、多宝とは無作の法身を意味しています。そしてその座に集まった十方分身の仏とは、無作の応身を意味します。
 すなわちこの文は、無作三身の生命を継承したという意味がこめられているのです。
 更に上行菩薩として、妙法を直受相承されたことにも言及するならば、上行とは常楽我浄の四徳波羅蜜に配していえば「我」にあたり、それは永遠に持続する生命そのものをいいます。すなわち大聖人が上行菩薩であるということは、永遠に続く生命、妙法それ自体であるという甚深の意味が含まれていると拝することができましょう。
 上行は日蓮大聖人の御生命の働きの名であります。内証は久遠元初の自受用報身如来であることはよくご存知のとおりです。その久遠元初の自受用報身如来の生命を継承したということをまさに明らかにされたと拝さなければなりません。
 その故にこそ、このあとの文で、本因本果の主として大聖人が詮容されるという内容が続くのです。
 法華経は釈迦己心の説法であるとは、戸田先生の教えであります。とするならば、虚空会の儀式も、歴史的な事象として捉えるのではなく、生命と生命の荘厳なるドラマであると洞察してこそ、法華経を真実に読んでいることになると申し上げたい。
16  大聖人こそ久遠元初の仏
 「久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す」
 この文は、文底の意にのっとった解明であります。「久遠」とは久遠元初であり、「名字」とは名字凡夫の位を指します。「本因本果の主」とあるのは、本有常住の十界の因果を具時にそなえた仏、という意味であります。
 故に「久遠名字より已来たる本因本果の主」の文は、久遠元初において、名字凡夫位のままで、我が身は即妙法の当体であると開悟され、即時に、究極の仏果が得られてより以来、すなわち無始無終にわたって常住する本因本果の主である、と拝せるのであります。
 これ、日蓮大聖人の久遠元初における成道であり、久遠元初の自受用報身即日蓮大聖人の生命が、永劫の過去から無限の未来にわたって本因本果の主として常住されていることをあらわした御文でありあす。
 さて、日寛上人は「文底秘沈抄」において、この文全体を引用された後、次のように教示されております。
 「若し外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若し内証深秘に望まば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知りぬ本地は自受用身・垂迹は上行菩薩・顕本は日蓮なり」と。
 この場合、外用浅近とは、衆生を教化するために外面にあらわされた働きを指します。
 つまり、法華経文上に記された儀式にのっとった姿をいいます。外用の姿は、まだ大聖人の生命の、浅く近い辺をあらわしているにすぎません。
 これに対し、内証神秘とは、大聖人の生命内奥に実証された本仏の境地そのものを指しています。究極の境地は、生命の奥深く秘沈されているものであります。
 ところで、外用浅近の立場からすれば、日蓮大聖人は上行菩薩の再誕である。
 大聖人は、法華経神力品において、本化地涌の菩薩の上首として、末法における妙法弘通の別付嘱をうけられました。そして、末法に生をうけられた大聖人は、法華経の予言どおり、妙法を弘通されたのであります。
 しかし内証神秘の立場から論ずれば、大聖人はまぎれもなく久遠元初の自受用報身如来であられます。大聖人の悟りの生命は、久遠実成の釈迦を遥かに越えた久遠元初の本地の境地そのものなのであります。
 もし大聖人が単なる釈迦仏の使いであるとすれば、釈迦仏法の力が消滅する末法の世に出現されても、何の意味もないことになってしまうでしょう。
17  内証深秘に肉薄する信心が大事
 日蓮大聖人は本地自受用身の再誕として、本末有善の一切衆生を救済しうる久遠の大仏法を掲げて、末法に出現されました。これ内証神秘の「辺」であります。
 故に「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」の文は「再誕」の文字を「本地自受用報身」と「垂迹上行菩薩」の両方にかけて拝していかなければなりません。
 すなわち「垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」と読めば、外用浅近の辺になります。「本地自受用身の再誕・本門の大師日蓮」と読んで初めて、内証深秘の領域に達するのです。
 事実大聖人は、上行菩薩としての外用の姿をあらわされながらも、竜の口の頸の座において発迹顕本されております。
 開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」とあるように、大聖人は頸の座において、上行菩薩の再誕としての迹の姿をはらわれ、久遠元初の自受用報身の再誕としての本地の生命を開顕されたのであります。
 この発迹顕本を指し「文底秘沈抄」には「顕本は日蓮なり」と述べられています。
 したがって「百六箇抄」は、文底の意からすれば、本地自受用報身が霊山においては垂迹上行菩薩とあらわれ、末法には独一本門の大師として再誕された日蓮大聖人の詮要した相伝書であるということになるのであります。
 以上のべてきたように、大聖人は久遠元初の本仏の生命をあらわしているのでありあす。また、そして、この久遠元初の仏としての生命をそのまま御本尊として顕わされ、万年の未来のために残されているのであります。ゆえに私どもの信心に約して拝すれば、元初の生命はただ御本尊への信心の二字のなかにあるのです。
 私たちの生命は、過去遠遠劫からの宿命を背負い、また染法の厚い雲に覆われているかもしれない。しかしながら、久遠元初の生命は、それより更に淵源となる太陽であります。したがって、それが塵埃、雲をすべて払拭していける、最も偉大な生命を、我が胸中に湧現させていくことができるのです。
 釈迦仏法が、過去遠遠劫よりの宿業を、遥かな歴劫修行の山河を越えて解決しなければならないのに対して、受持即観心の透徹した信心で瞬時に転換し、晴れやかな人生を開くことができるのも、大聖人の久遠元初の力強き生命を、我が胸中に湧現させるからであります。
18  いよいよ今回から百六箇抄の各項目の部分に入ってくわけでありますが、本抄における記述は、まず脱益仏法の立場を論じ、次に、下種仏法の本迹にうつるという順序になっております。しかし、大聖人の正意が「種の上の本迹勝劣」を明確に論じることにあることはいうまでもありません。
 そこで私は、この講義にあたっては本抄の順序を異なってまいりますが、最初から下種仏法の本迹の項目を中心に拝していきたいと思います。つまり「種の上の本迹勝劣」の項目をとりあげ、それを論じるなかで、必要と思われる脱益部分の該当部分にも論及していく方法をとってまいります。
19  事の一念三千・一心三観の本迹
 釈迦三世の諸仏・声聞・縁覚・人天の唱る方は迹なり、南無妙法蓮華経は本なり。
 まず、表題の「事の一念三千・一心三観の本迹」というのは、「事の一念三千」と「事の一心三観」との「本迹」ということであり、「事の」というのは一念三千・一心三観の双方にかかるのである。
 そして、一念を本・三千を迹、一心を本・三観を迹と立て分けるのであります。
20  人法体一の深理を顕す
 結論からいえば、事の一念三千とは、御本尊であり、事の一心三観とは、日蓮大聖人の無作三身の御振る舞いであります。
 しかも、それは、「法」と「人」の関係を表しており、事の一念三千が法となり、事の一心三観が人となるのであります。「事の一念三千・一心三観」で人法体一となっているのであります。
 まず、事の一念三千、すなわち御本尊の相貌についていうならば、中央の「南無妙法蓮華経・日蓮」が事の一念三千「一念」にあたります。左右の十界三千は南無妙法蓮華経の力用であり、大聖人の仏法における事の上の迹となるのであります。
 次に、一心三観の「一心」とは、日蓮大聖人の一念の心法であります。すなわち、それは南無妙法蓮華経の御生命であります。
 したがって、この御生命から発するところの御本仏の衆生を救う振る舞い、民衆を救う智慧、それらの双方を備える本仏・日蓮大聖人の御当体がすべて南無妙法蓮華経の三身であるとの悟達を一心三観というのであります。
 日蓮大聖人の御当体についていえば、一念の心法である南無妙法蓮華経が「本」となり、そこから、現われた三身は「迹」となります。
 ここでいう迹は、日蓮大聖人の仏法と釈迦仏法を相対した上でいわれるものではなく、いうなれば「体」に対する「用」の意味に使用されているのであります。
 本文の「釈迦三世の諸仏・声聞・縁覚・人天の唱る方は迹なり」とは、御本尊左右の十界三千を意味します。文中「唱る」とは、左右の十界三千ことごとく南無妙法蓮華経と唱えている姿であり、本有の尊形となるのであります。
21  御本尊受持が事の一心三観
 今度は、事の一念三千を私達の信心の対境である御本尊とするならば、事の一心三観とは私達の信心修行に約すことができるでありましょう。
 信心に約せば、「一心三観」の「一心」とは、私達の信心の一心であり、「本」であり「体」になります。「三観」とは私達の御本尊受持の姿、行動であり、これは「体」に対して「用」となる。
 すなわち、私達が御本尊を信ずる「一心」という本から出発して、一切の生命活動を行ない、生活を送っているというのが、まさに、事に基づいた用なのであります。
 釈迦仏法においては、一念三千の「一念」、一心三観の「一心」は、宇宙普遍の理である妙法蓮華経をあくまで理として説かれたにすぎないのであります。したがって、そこから三千の法を説き、一心を内観するとはいっても、理の領域を出ないのであります。
 「脱の上の本迹勝劣」では次のように述べられています。
22  理の本迹一念三千・一心本迹三観本迹
 三世諸仏の出世成道の脱益寿量の義理の三千は釈迦諸仏の仏心と妙法蓮華経の理観の一心とに蘊在せる理なり。
 この場合、一念三千が境、一心三観が智となることはいうまでもありません。
 釈迦仏法においては、一念を三千と観じていくのが一心三観であります。いいかえれば、三千世間を空仮中の三諦と観じていくことが一心三観であり、つまり一心三観は一念三千を自身に観じていく方法であります。
 それ故に、釈尊三世の諸仏が一念三千・一心三観によって成道したといっても、結局は理にすぎないのであります。したがって、義理の一念三千では、真実の三世諸仏の成道はない。事の一念三千にいたって、三世十方の諸仏、また、あらゆる衆生の成仏の道が開けるのである。「南無妙法蓮華経」という根本の法理、電源に通じてこそ、一念三千という電灯に、灯が点ぜられるのであります。
 私達の場合は、さきほども述べた通り、事の一念三千が御本尊になり、その御本尊を信受することが受持即観心で、事の一心三観になるのであります。
 ありがたいおとに、下種・独一本門の仏法を持った私達は自らが苦しみ、悩み、ある場合は楽しむのも、一心の妙用としてあらわれる南無妙法蓮華経の所作であります。つまり、妙法という大網の中に動きゆく網目であるといってよい。
 迹といっても、本に基づかない迹というのではなく、独一本門という確固とした基盤に立った迹であります。あたかも一念の働きを心王と心数に分けたとき、心王を本とし、心数を迹とするごときものであるといえましょう。
 妙法を知らない人々は、大網を失ったようなものです。機関士や、そして、羅針盤を失った船のようなものであります。また糸の切れた凧のごとく人生の大海、大空を放浪者としてくるしまなければならない。
 私達は、久遠の一念に淵源を発しながら、あたかも名機関士を得た大船のごとく、人生の大海を航行し、また妙法という自己の生命の糸に結ばれて、裕然と大空を舞うがごとき人生となっていくことを誇りとしていきたいものであります。

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