Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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桜花の誓い 師匠との約束は断じて果たす!

2009.4.8 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

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1   わが弟子に
    広布を叫びし
      師匠かな
    師弟は不二と
      勝ちに勝ちたり
 ある日ある時、戸田城聖先生は、私に言われた。
 「『一切の法は皆是れ仏法』である。
 ゆえに、世界のいかなる大学者、大指導者とも、いかなる問題であれ、自由自在に論じられる力を鍛えておくからな」
 一対一の個人教授「戸田大学」の一コマである。
 この春、世界の大学・学術機関から拝受した英知の宝冠は二百五十を超えた。すべては戸田大学の薫陶の賜物だ。
 師に捧げ、世界の友と分かち合う栄誉である。
 恩師逝いて五十一年──創価の旗は、人類の希望の光風に翻る時代となった。
2  師が今世の大使命を果たされ、おごそかな笑みを湛えて霊山へ帰られたのは、一九五八8年(昭和三十三年)、桜花の四月であった。
 戸田先生は、「広布」即「平和」の総帥であられた。
 戦火で荒廃しきった敗戦の日本に一人立たれ、民衆の間から不幸と悲惨を絶滅させゆく、崇高な戦いに死身弘法された。
 生命の絶対的尊厳性の次元から、核兵器の魔性を喝破する大音声を残された。
 七十五万世帯の弘教をはじめ、一切の願業を成就し、日本の広宣流布の基盤を築き上げ、人類に地球民族主義のビジョンを示された。
 恩師は、私に言われた。
 「さあ、これで、私の仕事は全部、終わった。あとは、お前だ。頼むぞ!」
 広布の大英雄の亡き後、「学会は空中分解する」等と、世間は堰を切ったように騒ぎ立てた。
 その悪口中傷のなか、四月八日の師の告別式には十二万人、四月二十日の学会葬には二十五万人の同志が、全国から参列された。師を慕う方々の慟哭に、私の心は燃え盛った。
 この尊き同志を、断じて護り抜かねばならない! 仏意仏勅の創価学会には、瞬時の停滞も許されぬ!
 広宣流布を、断固として前進させゆくのだ!
 競い起こる障魔も三類の強敵も、必ず打ち破ってみせる!
 夜を日に継ぐ思索と祈りで、師亡き後、最初の5月3日を迎えた。
 総会で壇上に立った私は、「七つの鐘」の未来構想を発表した。創立から7年ごとに発展の節を刻んできた、学会の前進と勝利のリズムである。
 私は、悲嘆に沈む同志を、希望の松明で照らしたかった。新たな太陽が昇りゆく姿を示したかったのだ。
3  大文豪ゲーテは言った。
 「他の人が動揺しようとも、君は、物事を正確な眼で見極め給え! 他の人が嘆こうとも、君は、物事を快活に聡明に進め給え!
 栄光と正義の道を貫き、すべてにおいて、まっすぐに生き給え!」(GOETHES WERKE, Aufbau Verlag Berlin und Weimar)
 私は、恩師の百箇日を目指し、わが同志と共に、師弟の第二幕を開きゆく″百日闘争″に突入していったのである。
4   君もまた
    巌窟王と
      仇をうて
    同志のために
      恩師のためにと
 私は本陣・東京を死守しながら、関西へ、九州へ、東海道へ、北海道へ飛んだ。
 九州健児には、「全青年部の先駆を!」と訴えた。
 北海道の札幌では、夕張から来ていた女子部を見つけて、私は声をかけた。
 「必ず夕張に行くよ!」
 生前の戸田先生から、2月1日に、激励された女子部だったのである。
 ──その日、恩師は衰弱された体で、大勢の青年を激励されながら、3人の女子部に声をかけられた。
 「どこだい?」
 師のお側で、影の如く支えていた私は、即座に「夕張の女子部です」と紹介申し上げた。
 すると先生は、夕張炭労事件を想起されて、激しい口調で語られた。
 「学会員をいじめる権力は、許さない! 戸田が、夕張に行ってあげる。夕張は青年が立ちなさい。青年が立て! 青年が立て!」
 私が師の心を抱いて夕張に降り立ったのは、その翌年、厳冬の1月であった。
 「戸田先生のお約束を果たすために、ここ夕張へ、まいりました!」
 私は、戸田先生が同志と結ばれた、どんな小さな約束も実現し抜いていく決心であった。
 とともに、この″百日闘争″で、私は時間の許す限り、個人指導に力を注いだ。
 一切は一人から始まる。一人の友を、真心込めて、温かく親切に激励することだ。そこに喜びが生まれる。誇りと自信が広がる。その波動のなかでこそ、一人また一人と、広宣流布の闘士が誕生していくのだ。
5   強くなれ
    幸せなれよと
      いついつも
    励ます恩師の
      あの声 忘るな
 思えば、戸田先生ほど、戦争の最大の犠牲者であった母たちを励まし、そして女性の偉大な力を鼓舞された指導者はいない。
 ある母は、先生の「必ず幸福になれるよ」との大確信に触れて、悲哀の涙を拭った。
 ある疲れ果てた婦人は、恩師の「絶対に宿命転換できる」との師子吼に、頭《こうべ》を上げて、不幸の鉄鎖を断ち切っていった。
 自分の悩みで精いっぱいだった女性たちが、先生の指導で、仏法の真髄を知り、胸を張って立ち上がった。
 そして、人びとの幸福のため、より良き社会のため、欣喜雀躍と行動するように生まれ変わっていったのだ。
 戸田先生が『大白蓮華』に発表された最後の巻頭言は、一九五八年(昭和三十三年)の四月一日の日付──つまりご逝去の前日であった。
 その中で、先生は「知識」と「智慧」の混同等を鋭く指摘し、こう結論された。
 「要するに、根本は強き生命力と、たくましき智慧とによって、わが人生を支配していかなくては、ほんとうの幸福は得られないことを知らねばならぬ」(『戸田城聖全集』1)
 この遺言の通り、「強き生命力」と「たくましき智慧」によって、ありとあらゆる苦難を切り開き、乗り越え、勝ち越えてきた大賢者こそ、わが婦人部の皆様方にほかならない。
 恩師は宣言なされた。
 「広宣流布は女性の力で成し遂げられる!」
 恩師の逝去を機に、「猶多怨嫉」「悪口罵詈」の経文に違わず、聞くに耐えない下劣な罵詈雑言が多々、浴びせられたことは、御存じの通りだ。
 そのなかで、私は深く決意していた。
 ──今こそ、これまでの百倍千倍と師の偉大さを語り抜くのだ。声も惜しまず、師の正義を叫び切るのだ。
 婦人部は、その私と心を合わせて戦ってくれた。
 「我らの師匠・戸田先生の偉大さを知れ!」
 「恩師が教えてくれた信心の偉大さを見よ!」
 私が突き進んだ「報恩の弟子の道」に、婦人部が勇敢に続いてくれたのだ。
 その誠実にして清らかな声は、全国津々浦々に凛々と響き渡っていった。
 世間が「学会は壊滅」等と、ほくそ笑んでいた、その4月も、学会の勢いは止《とど》まることを知らなかった。
 三月の弘教より、さらに五千世帯も多い二万九千八世帯を推進したのである。
 そして五月の月間折伏は、実に三万三千三十五世帯に達した。
 続く六月も、三万二千世帯を超えて、学会は総世帯九十万へと、大いなる拡大を遂げたのである。
 悪意の世評など、堂々とはね返して、圧倒的な大勝利と大躍進で、社会を驚嘆させた。その原動力もまた、わが婦人部の勇気と行動であったのだ。
6  ″百日闘争最終盤の一九五八年(昭和三十三年)の七月六日、私は日記に綴った。
 「私の一生は、戸田先生の遺言ともいうべき構想を、叫び、戦い、達成することだ。これだけが、私のこの世の使命だ」
 「師匠の精神の拡大」をもって、戸田先生の百箇日の法要を厳粛に終えたのは、7月10日であった。
 一つの戦いの決着は、常に次の戦闘の開幕である。勝利は、さらに次の勝利だ。
 ″常在戦場″こそ、若き革命児の誉れでる。
 七月の十二日。私は横浜駅から、縁も深き関西へ向かった。翌日、大阪で、関西青年部総会が控えていた。
 男子は七千六百人、女子は六千八百人の意気軒昂な関西の若人が勇み集った。
 私は力を込めて叫んだ。
 「日本の勇気の源泉は、創価学会である。この学会の源泉は青年部である!」
 わが最愛の青年部と共に″百日闘争″を飾り、私は
 青春の故郷・関西の天地で新たな常勝の鐘を打ち鳴らしたのである。
7   三類の
    強敵倒して
      勝ちにけり
    恩師と共に
      笑顔の創価よ
 先日、豊島区の同志が、桜花に包まれた豊島公会堂の写真を届けてくださり、懐かしく拝見した。
 戸田先生のご逝去の翌日(四月三日)も、豊島公会堂で本部幹部会が行われた。恩師が生前、開催を厳命されていたのであった。
 私は、恩師が亡くなる数日前に叫ばれた師子吼を、全同志に伝えた。
 「追撃の手を緩めるな!」
 「破邪顕正」の闘魂を失えば、嫉妬や忘恩の輩に、和合の世界は破壊される。「月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらは魔たよりをうべし」(御書1190㌻)と戒められている通りである。
 だからこそ、我らは師の遺訓を永遠に忘れず、邪悪への追撃を続けるのだ。
8   偉大なる
    恩師の形見を
      胸に秘め
    世界を旅せる
      師弟は不二かな
 「可延定業書」に曰く、「一代の聖教は皆如来の金言・無量劫より已来不妄語の言なり、就中《なかんずく》此の法華経は仏の正直捨方便と申して真実が中の真実なり」(同985㌻)と。
 師の真実の教えを留めることは、弟子の責任である。
 先生が永眠なされた後、ご指導や講義を、一言一句漏らすまいと、私は整理を重ねていった。
 師弟不二の「如是我聞」に徹し、学会の″水遠の指針″たる遺訓を、残さず結集していったのである。
 恩師の御書講義をレコードにも収めた。その第一巻となったのが、「可延定業書」である。同抄には、 「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(同986㌻)と仰せである。
 今日という「一日」が、どれほど大切であるか。
 少年時代から肺病に苦しみ、医者からも「三十歳まで生きられない」と言われた私である。
 その三十歳にして恩師を失い、実質的に戸田先生の後を継いだ。以来、わが命は、先生から頂戴したものと感謝し、広宣流布のため、一日に一カ月分、また一年分の仕事をと戦ってきた。
 恩師は、不世出の英知の軍師・諸葛孔明がお好きであられた。
 正史『三国志』に詳細な注釈を加えた歴史家・裴松之はいしょうしは、諸葛孔明を中心とする人間の結合を「生死をともにという間柄」と讃えた。
 いわんや、仏法では「生死不二」と説かれる。
 師の生命は、生死を超えて、弟子の生命と一体である。この一点を自覚すれば、無量の力が漲るのだ。
 これは、家族においても同じ方程式であろう。
 御聖訓には「父母の遺体は子の色心なり」(同1434㌻)と説かれる。ゆえに、子の成仏が、そのまま父母の成仏となる。
 三世永遠の絆で結ばれた妙法の世界である。亡くなられた故人にとって、家族は″遺族″というよりも ″後継者″なのである。
 寿命も、福運も、受け継いで、不二の生命で偉大な使命を果たしていくのだ。
 後ろを振り向く必要はない。妙法を朗々と唱えながら、前へ前へ、わが命を燃やし、今日一日、宇宙に輝きわたるような価値を創造していくのだ。そこに、真の報恩の道、孝養の道がある。
9  この四月二日、私は、名門・韓国海洋大学から碩座教授の称号を拝受した。
 式典に来日してくださったのは、閣僚等を歴任してこられた、高名な呉巨敦オコドン総長ご夫妻一行である。
 ──4月2日は、アジアの平和のため、軍国主義と戦い抜いた戸田第2代会長の祥月命日である。この日に、戸田会長が最も苦しい時、一切を拠って護り抜いた直弟子を顕彰したい──
 呉総長は、あまりにも深い御心を、この最高の栄誉に託してくださっていた。
 韓国海洋大学の雄大なキャンパスは、東洋を代表する国際港湾都市・釜山広城市に広がる。
 釜山といえば、あの一九六一年(昭和二十六年)の婦人部結成の折の劇的な出会いが思い起こされる。
 当時は朝鮮戦争(韓国戦争)の渦中であった。会合の席上、釜山生まれの健気な婦人部の方が毅然と立った。愛する祖国の平和と繁栄のため、広宣流布に邁進する決意を、戸田先生に涙ながらに語ったのである。
 嬉しいことに、今回の式典には、目覚ましい大発展を遂げる釜山をはじめ、韓国SGIの同志も、晴れ晴れと出席してくださった。
 また韓国から、創価大学へ留学してくれた幾多の英才とも、大韓民国の荘厳な国歌が流れるなか、共に太極旗《テグツキ》(国旗)を仰いだ。
 敬愛してやまぬ韓国の友と一緒に、わが師へ報恩の栄冠を捧げることができ、私は感謝に堪えない。
10  このほど、「世界第一の婦人部」が新体制に発展して、躍動の春さながらに、新たなスタートを朗らかに切った。
 私も、そして妻も、わが大切な婦人部に幸福あれ! 健康あれ! と、真剣に題目を送り続けている。
 今回、「実践の五指針」が発表された。
 ◎祈りからすべては始まる
 ◎わが家は和楽の前進
 ◎後継の人材を伸ばす
 ◎地域と社会を大切に
 ◎生き生きと体験を語る
 根本は祈りだ。
 大聖人は「法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず」(同1352㌻)と御断言である。
 祈りは淡い夢ではない。漠然とした願望でもない。「必ずこうしてみせる!」「絶対に勝つ!」という誓いである。
 その深き誓願の祈りは、因果倶時なるゆえに、磁石に鉄が吸い寄せられる如く、明確に結果が出るのだ。
 御聖訓には、「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福《さいわい》や有るべき」(同497㌻)とも記されている。
 わが婦人部は、絶対勝利の「法華経の兵法」を持《たも》った究極の幸福博士である。
 ともあれ、北アイルラド紛争の解決へ不朽の功績を残された、ベティ・ウィリアムズさん(ノーベル平和賞受賞者)は、しみじみと語ってくださった。
 「創価学会は、女性のパワーを知っています。
 創価の女性たちは、平和のために献身する世界の女性たちとも、精神的な連帯で結ばれています。それは、生命を育む『母』であるがゆえに、わかり合える連帯であるといえましょう!
 私は女性が世界を変えると、心の底から信じています。その動きは、すでに始まっているのです」
 師弟一体で、広宣流布という平和と幸福の建設に生き抜く、尊き女性のスクラムは、全世界に広がった。
11  日本列島を南から北へ、創価の会館が「桜の城」と光り輝く季節である。
 師の故郷である北海道・厚田の戸田記念墓地公園では、5月3日の「創価学会の日」を飾った頃から、丹精込められた8000本もの桜が万朶と咲き誇る。地元の名所として親しまれ、多くの名士も、友人も集われる。
 戸田先生が、眼鏡の奥に笑みを湛えられ、どんなにお喜びであろうか。
 今も水滸会で受けた師の声が蘇ってくる。
 「覇道ではなく、王道の人たれ!」
 「200年後を見つめて進みゆけ!」
 「同志が全世界に打って出て、全人類を結べ! 青年を連帯させよ!」
 師の師子吼のままに、弟子の私は行動し、一年また一年、勝利の証をもって、恩師の命日を荘厳してきた。
 「4・2」から「5・3」へ──それは、弟子の勝利を師に捧げる時である。
 そして、新たな大勝利を、師に誓って出発する時なのである。
  この人生
    共に攻めゆけ
      勝ちゆけと
    恩師の叫びを
      愉快に歩まむ

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